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#22 The Midnight Carnival

夜の十時を回ろうかという頃だった。夕飯を済ませた僕は、いつもより少し長めに湯船に浸かって十分体を温めてから、父さんに挨拶をして自分の部屋へ戻った。ほんの数日前まで父さんに見つからないようにと息を殺し、気配を消しながら歩いていたことが、今の僕には信じられなかった。もっと遠い昔の、懐かしい出来事のようにさえ思えた。穏やかな気持ちと落ち着いた足取りで部屋へ向かうと、僕は静かに扉を閉めた。

僕がベッドへ腰を下ろすと、少し離れて歩いていたカラカラが僕の足元まで近づいてきた。すぐ側まで歩み寄ってきた僕のポケモンの姿を、今一度目を凝らして確かめる。カラカラからは、もう少しも怯えている様子は伝わってこなかった。しゃんと背筋を伸ばして、堂々とした様子で立っている姿があるだけだった。

「カラカラ、さっきはありがとう。おかげで、僕は父さんと話をすることができたよ」

僕がそう言うと、カラカラは静かに首を横に振って、骨を持っていない方の手で僕を指した。僕が変われたから、カラカラも変わることができた。そう言いたいのかと僕が訊ねると、カラカラは今度は首を縦に振った。

カラカラは僕の心の隙間(ポケット)から生まれた存在(モンスター)だ。だから、僕の心と密接にリンクしていると言える。僕の心そのものと言ってもいい。だからカラカラは、僕が変わることができたからこそ、自分自身も変われたんだと言っている。カラカラの言いたいことも、僕にはよく分かった。けれど、僕が先かカラカラが先か、それはどっちでもいいし、僕は気にしていない。父さんの前に立つ数刻前、折れそうになった僕の心を支えてくれたのは、紛れも無くカラカラだったからだ。

「僕が先か、キミが先か。それは、今はもう分からない」

「でも、これだけは間違いないよ。あの時キミが僕を勇気付けてくれたから、今の僕がここにいるんだ」

僕の気持ちを察してくれたようで、カラカラは深く頷いて返した。その仕草を見た僕はカラカラのことが急に愛しくなって、ぐっと前へ腕を伸ばした。

「おいで、カラカラ」

小さな躰を目いっぱい使って大きく飛び上がったカラカラを、僕が胸の中へ抱き込む。形を持ったイマジナリー・フレンド。ポケモンはどこまで行ってもあくまで空想の産物だと、僕は知識として知っている。理解もしている。だけど今僕の胸の中にいる小さな生き物は、紛れもなく存在していて、確かな重みと質量を感じることができる。ぐっと強く抱きしめると、カラカラも僕にしがみ付いてきた。

もっと早く向き合ってやればよかった。もっと早く受け入れてあげればよかった。初めて側に現れてから相当経つのに、こうしてちゃんと抱きしめてやったことは一度として無かった。腕にそっと力を入れると、カラカラが小さく身を捩る。骨の固い感触さえ、今の僕にとっては心地よかった。

今までカラカラが部屋の隅でじっと僕を見つめていたことを、僕はカラカラが僕のことを責め苛んでいるものだとばかり思い込んでいた。でも、本当はそうじゃなかった。”自分”と向き合って欲しい、”自分”を受け入れて欲しい。カラカラはそのメッセージを僕に送りたくて、ずっと辛抱強く待ち続けていてくれたんだ。それは父さんも同じだ。僕が自分自身と向き合うまで、ずっと待っていてくれた。

カラカラも、父さんも、僕が前へ進むことを願い続けていてくれたんだ。

しばらくカラカラを抱きしめ続けて、気持ちが落ち着いたところで僕は腕の力を緩めた。カラカラは僕に身を預けて、骨の向こう側にある瞳を僕に向け続けている。かつての僕なら、責められていると感じて拒絶しただろう。今は違う。カラカラが何を訴えたかったのか、僕にはちゃんと理解できていた。カラカラの目からも悲愴さは微塵も窺えない。僕とカラカラは、今に至ってようやく同じ気持ちを共有することができるようになっていた。

このまま、しばらく穏やかな時間を過ごしていたい――僕がそう考えていた最中のことだった。

(ピピピピピピピ!)

部屋に響き渡る無機質な音にハッとして顔を上げる。携帯電話の着信。僕はそれを耳にした途端、全身が強張るのを感じた。僕が携帯の番号を教えている人間はごく少数だ。着信は滅多に無く、あるとしても平時にこんな夜中に電話を掛けてくるようなことはまず無かった。

けれど、僕の番号を知っている人間で、平時とはとても言えない状況に置かれていることが分かっている人が、一人だけ存在していた。

学習机の上に放り出していた携帯電話を取る。折りたたまれたそれを開いてディスプレイを見ると、本来番号が表示されるべきところに「公衆電話」という表示がなされていた。文字通り公衆電話からの着信だろう。本来は着信拒否に設定されているはずなのに着信できているのは、以前災害対策の一つとして公衆電話からの着信を許可するように言われたために設定を変更していて、今になっても設定を元に戻すのを忘れていたからだ。

手の中で電話が鳴り続けている。逸る心を懸命に抑えながら、僕は受電ボタンを押した。

「……もしもし」

恐る恐る相手に呼び掛けると、相手から応答が帰ってきた。

「秀明……くん……?」

電話を掛けてきた相手は、僕の予想通りだった。けれどその予想は、例え綺麗に当たっていたとしても、僕に驚きを与えるには十分に過ぎた。

「中原さん……」

受話器の向こう側にいたのは、中原さんだった。

「こんな時間に、一体どこから電話を……」

「待ってる……」

「中原さん?」

「わたし、待ってる……待ってるから……」

僕の問い掛けをするりとすり抜けて、中原さんは「待ってる」という言葉を繰り返し呟いた。尋常な状態じゃない。手首の傷だってまだ完全には塞がってないはずだ。それなのに公衆電話から僕に連絡してるって事は、外を出歩いているということに事に他ならない。明らかに普通じゃなかった。

「待ってるって、どこで……」

「あの、場所で……」

「あの場所……? まさか、中原さん」

「わたし、秀明くんのこと、待ってる、よ……」

ただ一つ「あの場所で待ってる」とだけ告げて、中原さんは電話を切った。ぶつっ、というノイズが聞こえて、後はもう電話が切られたことを示すプッシュ音が繰り返し鳴らされるばかりだった。僕は携帯電話のディスプレイを見つめながら、中原さんの言葉を反芻した。

あの場所で待ってる。場所の見当はすぐに付いた。あそこならすべての辻褄が合う。近くに公衆電話もある、歩いて行くことの距離でもある。何より――僕と中原さんの間で「あの場所」という言葉で通じるのは、文字通り「あの場所」しかない。中原さんはほぼ間違いなく、「あの場所」で待っているはずだ。

どうすればいい。僕は一気に焦燥感が高まるのを感じていた。僕はすぐにでもそこへ行きたいし、行かなきゃいけない。だけど、本当にそれだけでいいのか。僕が中原さんの待つ場所へそのまま駆けつけて、それだけで本当に問題が解決するのか。中原さんを本当の意味で助け出すことはできるのか。いろいろな可能性が浮かんできて、僕が取るべき行動がどれなのか判断が付かなくなり始めていた。

そんな僕が自分を取り戻すことができたのは、またしても。

「カラカラ……」

凛とした眼差しで僕を見つめる、カラカラの姿があったからだった。

「ごめん、カラカラ。大丈夫だよ。きっと中原さんを救う手立てがあるはずだから」

「……(こくり)」

「うん。ありがとう、カラカラ。落ち着いてきたよ。僕はこれからまず、どうすべきだと思う?」

僕がカラカラに率直に訊ねると、カラカラはすぐに行動を起こした。手にした骨の棍棒を、頭蓋骨の「耳」に該当する部分に当てる仕草を見せたのだ。カラカラの仕草が何を示しているかは即座に分かった。僕がついさっきまで使っていた携帯電話をイメージさせる動きに他ならない。カラカラは携帯電話を使って、誰かに連絡を取れと言いたいようだった。

携帯電話を使う、か。公衆電話に対してリダイヤルを試みることができないのは分かっている。だから、中原さんに対して連絡を取れという意味じゃないのは明らかだ。カラカラが言いたいのは、そんな的外れなことじゃない。

僕はしばし思考を巡らせて、やがて一つの結論に至った。

(……そういうことか)

その結論は、常識的に考えてみても極めて妥当なものだったし、この状況においてはさらに強い意味を持つものだった。そしてそれは確かに、中原さんを苦しめ、縛り続けているものと、真正面から向き合う形になる。本当の意味で中原さんを解放するには、こうするしかないという選択肢だった。

僕は電話帳キーを叩いて、すぐにダイヤルを回した。

 

必要な連絡を済ませると、僕は外行きの服に手早く着替えて、厚手のジャンパーを羽織った。必要な準備は済ませた。次は僕が駆け出す番だ。カラカラと共に部屋を飛び出して、階段を一気に駆け下りる。

「秀明、こんな時間にどうしたんだ?」

「父さん」

玄関に置いた仕事鞄の整理をしていた父さんと顔を合わせた。明らかに外行きの服装をした僕が飛び出してきて、父さんは明らかに面食らっているようだった。僕は一度姿勢を正して、立ち上がった父さんと視線を合わせた。

「父さん、遅くにごめん。僕、これから外へ行かなくちゃいけないんだ」

「何か、大事な用事があるのか」

「うん……僕が、父さんと、それに自分と、ちゃんと向き合うきっかけをくれた人がいるんだ」

「秀明が自分と向き合う切っ掛けをくれた人、か……」

「今度は、その人が僕の助けを待ってる。だから、僕は今からその人の場所まで行きたいんだ」

僕はしっかりと父さんの目を見て、ありのままの目的を告げた。中原さんがいなければ、僕はまだ父さんと自分から逃げ続けていただろう。中原さんがいたから、僕は向き合うべき相手と向き合うことができた。

だから、今度は僕が中原さんを助ける番だ。

「――分かった。行ってきなさい、秀明」

「ありがとう、父さん。行ってくるよ」

父さんは深く詮索することなく――そして、それは父さんにとって不必要なことだというのは、僕にも理解できた――、僕を快く送り出してくれた。僕は靴を履いてドアを開け放つと、暗闇の広がる外へ飛び出していった。

走っていく僕の傍らには、もちろんカラカラも一緒にいる。いつもと何ら変わりない姿。少し前までは、間違いなくそう見えていたはずだった。

「カラカラ、どうしたの……?」

だけどその時僕は、カラカラにある重大な変化が起き始めていることに気が付いた。

「身体が……消えかかってる……!?」

地面を走るカラカラの小さな身体を通して、向こう側がうっすらと透けて見えていた。僕の目にはしっかりと見えていたはずのカラカラが、既に幻覚のようなあやふやな状態になりつつあったのだ。カラカラそのものの様子に変化は無い。いくら走っても息が切れることはなさそうだったし、地に足もしっかりつけている。それは普段と何ら変わりなかった。存在が消え掛かっているという、重大な一点を除いては。

僕は心が締め付けられる思いがした。この時が、カラカラと別れる時が来たのだと、僕は本能的に理解した。元々僕と中原さんにしか見ることのできない曖昧な存在に過ぎないカラカラが、いよいよ僕の世界からも消えようとしている。それはつまり、カラカラの完全な消滅を意味する。例えこの世界に存在していても、存在を認識できる他人がいなくなれば、それは存在しないことに等しい。

(僕が、僕と向き合ったから……カラカラは、僕の側に居る必要がなくなったのか)

カラカラが消え掛かっている理由は明白だった。カラカラは元々僕の「受け入れ難い自分」が具象化したような存在だ。僕が僕と向き合うために、カラカラは僕の前に現れた。言い換えると、僕が僕を受け入れてしまえば、僕の心がカタチになったカラカラは、存在している意味を失うのだ。カラカラがここに居られる時間はもう長くない。次の瞬間には消えてしまっていてもおかしくはなかった。

それでもカラカラは、まだ僕の側に居続けてくれている。消え入りそうになりながら尚もここに存在しているのは、カラカラが僕と中原さんの行く末を見届けようとしてくれているからだと僕は考えた。僕は走りながらカラカラに目を向ける。呼応するかのようにこちらを見つめたカラカラが、僕を安心させるように大きく頷いた。今にも消えそうになっているというのに、カラカラは僕と共に在ろうとしている。僕が強く在れるように支えようとしている。

僕はやっと分かった。やっと、理解することができた。

(消えそうになってから、キミが居たことの意味に気付くなんて)

カラカラは――僕が強く在れるように、今までずっと見守り続けていてくれたんだということを。

「分かったよ、カラカラ。僕はもう逃げない。最後まで真っ直ぐ進むよ」

僕はカラカラに見られまい、心配を掛けまいと目を背けて、浮かんだ涙をごしごしと強く拭った。

「だから、僕が逃げずに立ち向かう姿を、どうか最後まで見ていて欲しい」

「僕が変わることができたということを、キミに見せてあげたいんだ」

別離の時は、もう間近に迫っていた。

 

家を飛び出してから一度も止まることなく走り続けて、僕は間もなく「あの場所」に辿り付いた。

そこには長い横断歩道があった、錆の付いた白いガードレールがあった。歩行者用の信号機があった。今はほとんど使われなくなった公衆電話があった。そして――

「……やっぱり、ここにいたんだね」

そこは、僕がかつて、彼女に声を掛けた場所で。

「やっぱり、ここだって分かったんだね……」

彼女がかつて、僕を助けた場所でもあった。

寝巻きの上からジャンパーを羽織っただけのアンバランスな格好で、中原さんは立っていた。その面持ちや容貌は、文字通り満身創痍と言わざるを得ないものだった。血の気の失せた真っ白な顔からは、生気という生気が徹頭徹尾抜け切っているかのようだった。色の無い表情の中にあって、ただ一つ、泣き腫らした目だけは真っ赤に充血しているのが見えた。

涙を浮かべる彼女の姿が、あの時の彼女の姿とオーバーラップした。

僕は意を決して前に歩み出る。互いの声が十分聞こえる位置まで来ると、僕は一度そこで立ち止まった。

「……秀明くんは、お父さんとお母さんから、わたしのお姉ちゃんの話を聞いたの?」

「聞いた。全部、聞かせてもらったよ」

「そう……そうなんだ。何もかも、全部聞いたんだね」

「全部聞いた。中原さんにお姉さんがいて、二人が生まれて来る時に、お姉さんの方が死んだって話を、僕は聞いた」

「ああ……分かっちゃったんだ。分かっちゃったんだね。わたしが今まで、何をして生きてきたか」

知られちゃったんだね。中原さんはそう呟いて、ガードレールに両手を乗せた。一昨日屋上で見せたあの仕草を、僕はすぐに想起した。すべてに絶望した表情で、中原さんが長いため息をつく。自分の一番知られたくない秘密を、一番知られたくない人間に知られてしまった。中原さんのジェスチャーからは、彼女の抱える陰鬱な思いがストレートに伝わってくるようだった。

力なく頭を振る。中原さんが視線を下に向けるのに合わせて僕も目を足元へ向けると、そこには悲哀に満ちた表情をした中原さんの分身・チェリンボの姿があった。

「チェリンボのカタチの意味も……もう、秀明くんにも分かるよね」

「後ろにある小さな果実は、お姉さんだったんだね」

「そうだよ。その通り。あの小さな実は、わたしのお姉ちゃん。ともみお姉ちゃんだよ」

中原さんの口から、ついに、ともみちゃんの名前が出た。中原さんがその名前を口にしたのは、今が初めてのことだった。

「チェリンボの不思議なカタチ。足の付いた大きなサクランボ、それにくっ付いた小さな果実」

「片方だけ大きくなって、もう片方はずっと小さいまま」

「わたしね、チェリンボから教えてもらったんだよ。チェリンボの躰の仕組みを、小さい顔の秘密を」

小さな果実には秘密がある。中原さんはそう僕に告げた。カラカラの骨がただの骨ではなく母親の遺骨だったように、チェリンボの小さな実にも、ともみちゃんのメタファーとしての存在だけに留まらない秘密があるということだろうか。

「あのね、秀明くん。チェリンボの大きい方、つまりわたしは、小さいほうから力をもらってるんだって」

「言わなくても分かるよね。それがどういう意味か。でも、敢えて言うよ」

「簡単な話。お姉ちゃんから力を吸い取って、お姉ちゃんを食い物にして、わたしだけ大きくなってるって事だよ」

据わった目つき。空虚な感情で満たされた面持ち。中原さんの絶望の深さを、如実に顕しているかのような表情だった。

「最初はもう少し大きかった、でも、今はもうこんなに小さくなった」

「ただ小さくなってくだけで、大きくなることなんて絶対無い。萎んでいくだけ、縮んでいくだけ、消えていくだけ」

「それは、もちろん――わたしが、お姉ちゃんを殺して生き残ったから」

けれど、僕は怖気づくようなことはなかった。決して怯むようなことはなかった。

足元で泣きそうな目をしているチェリンボが、中原さんの偽らざる本心だと、僕は分かっていたからだ。

「わたし、聞いたよ。チェリンボから。わたしがベッドで横になってる間に、お母さんとお父さんと、秀明くんが話してたってこと」

「それだけじゃない。秀明くんが話してくれたことも知ってるよ。生まれて来る時にいろいろあったって」

「いろいろ、っていうのは……そう。秀明くんのお母さんが、死んじゃったこととか」

「それで、わたしみたいに、悪いことをしたと思ってる。わたしみたいに、生きてちゃいけないんだって思ってる」

「だから、こうやってわたしの側にチェリンボがいるように、秀明くんの側にはカラカラくんがいる」

「そうだよね? 秀明くん」

僕は黙ったまま答えない。中原さんの言っていることは、すべてがピタリと一致している。僕がわざわざ反応を返さずとも、中原さんはすべて理解していただろう。僕の側にカラカラがいる意味も、何もかもすべてひっくるめてだ。

「わたしと同じ、秀明くんも取り返しの付かないことをしたと思ってる」

「だから、側にポケモンがいる。似たもの同士、似たもの同士なんだよ、わたしと秀明くんは」

「わたしと秀明くんだけがポケモンを見られて、秀明くんとわたしだけがそれを知ってる」

「秀明くんとわたしだけがお互いの秘密を知っていて、わたしと秀明くんだけがお互いを理解しあえる」

「わたしたち二人だけが、同じ世界の、同じものを見ていられるんだよ」

幾重にも言葉を重ねながら、中原さんは僕と彼女が同じ立場にいることを強調して見せた。似た苦しみを抱えていて、似た境遇と立場に置かれている。僕と中原さん、カラカラとチェリンボ。四つの視線が、一つに交錯していた。

「秀明くんと初めて会ったのは、この場所だよね」

「……そうだよ。それで、間違いない」

「泣いてるわたしを慰めてくれて、死のうとするのを手を取って止めてくれた」

「それも、やっと思い出せた」

「それから、わたしが秀明くんを助けたのも、この場所だった」

「信号を無視してきた車から、僕を守ってくれたよね」

「そう。その通り。どっちも車に轢かれようとして、どっちも助けられた」

中原さんは、僕に言った。

(もし、さっきの車に轢かれて、死んじゃったりしたら)

(……わたしは、きっと誰かが悲しんでたと思うよ)

僕は、中原さんに言った。

(きみが死んだら、ぼくが悲しいよ)

そして今も、僕のその気持ちは変わっていない。

「今になって思うと、本当はお互い、そんなことしなきゃよかったのかも知れない」

「わたしは、そう思うよ」

死んでいたほうが楽だった。死なせてあげたほうがよかった。中原さんが囚われている深い絶望は、お互いに繋いだ生さえも、頭から否定しようとするものだった。

「だからね、秀明くん」

大きく一歩前に踏み込んで、中原さんが僕に顔を寄せる。吐息が触れるほどの距離で、彼女は僕に囁いた。

「わたしと一緒に――死んで」

僕を、死へ誘う言葉を。

「この時間は、信号無視の車がぴゅんぴゅん通る時間」

「轢かれようと思えば、簡単にできちゃう。すっごく簡単に」

「ここで、わたしと秀明くんの二人で一緒に死んで、ずっと変わらずに、ずっと一緒に、ずっと同じものを見ていたい」

「チェリンボもカラカラくんも、きっと、そのつもりでわたしたちの側にいたんだよ。うん、きっとそうに違いない」

「こういう結末になるように、こういう終わりを迎えるように、ずっとわたしたちを見張っていたんだよ」

掠れた声で笑って、中原さんが横断歩道の向こう側を見た。長い横断歩道の上を、スピードを上げて走る車が時折過ぎ去っていく。轢かれればひとたまりも無い。死のうと思えば、簡単に死ねるだろう。時機が到来すれば、僕も中原さんも「向こう」へ行ける。目には見えない「向こう」。歩いては行けない「向こう」。中原さんの目は、そちらを向いているようだった。

「ねえ、秀明くん。もう、いいよね?」

「一緒に死んじゃえば、きっと楽になれるよ」

「地獄へ落ちちゃうと思うけど、わたし、秀明くんと一緒なら大丈夫」

「何億回何兆回何京回死んだって、秀明くんと一緒ならへっちゃらだよ。何も怖くなんかないもん」

薄ら笑いを浮かべながら、中原さんが僕に左手を差し出す。幾重にも包帯が巻かれた手首が、丈の短い寝巻きの袖から顔を出した。

「さ、秀明くん」

「わたしを”向こう”へ連れてって」

「あの時みたいに手を取って、今度は止めずに歩いて行ってよ」

伸ばされた左手を前にして、僕は……。

――僕は。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。