「――断る」
僕は、敢然と拒絶の意思を示した。
「えっ……?」
僕の眼前で、ぴんと伸びた中原さんの左手が、行き場を失ってゆらゆらと揺れている。その先にある中原さんの表情は凍り付いていて、今何が起きたのか、僕から自分にどんな言葉が投げ掛けられたのかを、正しく受け止められていないようだった。
「どうして……」
信じられない。そう言いたげな表情を見せて呆然としていた中原さんが、小さな口から声を漏らした。疑念と失意で満たされた短い言葉。信じていたものが目の前から失われていく。中原さんの気持ちは、容易に察せられた。
「どうして!? どうしてなの!? だって秀明くん、あの時死のうとしてたよ!?」
「車に轢かれて、死ねば幸せになれるって、そんな表情してたよ!?」
「それが、今になって、どうして、できないなんて言うの!? どうして!? ねえ、どうして!」
どうして。中原さんはその言葉を繰り返した。僕はあの時死のうとした、そして今も変わらずその気持ちを持ち続けているはずだ、だからきっと一緒に死んでくれるに違いない。中原さんはそう考えを組み立てていた。だけど、僕にはもう死ぬ気がなかったとすると、その考えは根底から覆されることになる。
取り乱した中原さんが僕の両腕を掴んで、額のぶつかりそうな距離まで詰め寄ってきた。
「どうして……! どうしてわたしを楽にさせてくれないの!? どうして許してくれないの!?」
「わたし、必死に頑張ったよ、精一杯頑張ったよ、もう、頑張りたくないよ……」
「……それなのに、それなのに……」
ジャンパーの袖を掴む中原さんの手に、ぎゅう、と力が篭もる。一度視線を落としたかと思うと、キッと鋭く目を吊り上げて、僕を強く睨みつけた。
「それなのに、まだ苦しめって言うの!?」
「もっともっと悩め、一生あがき続けろって、そう言いたいの!?」
「もうたくさんだよ! もう十分だよ! もううんざりだよ!!」
「このまま生きてたって、どうしようもないよ! ただ辛いだけ、痛いだけ、哀しいだけ、苦しいだけ! どこにも救いなんてありはしないんだよ!!」
「お願いだからもう楽にさせてよ! わたし、もう頑張れないよ!!」
食い下がる中原さんを、僕は目を見開いて見詰め返した。
「違う。中原さんは、間違ってる」
「何が間違ってるって? 死のうとするのが間違ってるって言いたいの?」
「…………」
「どうして今更そんなこと言うの? そんなこと、秀明くんが言えた義理じゃ」
「間違ってるのはそんなことじゃない!!」
僕が声を張り上げると、中原さんは一気に気勢を殺がれて、口を半開きにしたまま動きを止めた。
「中原さんは頑張り方を間違ってる! 中原さんのやってることは、頑張って自分から逃げ続けてるだけだ!」
「逃げて、逃げて、逃げ続けて、そのまま最後まで逃げたまま終わるつもりなのか!」
「こうやって逃げ続けて、中原さんは最後まで自分に向き合わない気でいるのか!」
僕は、僕の思いのたけを打ち明けた。彼女は何かに立ち向かっているんじゃない。目を背けて、耳を塞いで、ただ逃げ続けているだけだ。ありのままの気持ちを、僕は中原さんにぶつけた。
それは――彼女に、かつての僕の姿を見たからだった。
中原さんは言うべき言葉を見つけられず、ただ立っているのがやっと、という状態だった。ジャンパーから手を離すと、陸に打ち上げられて呼吸を絶たれた魚のように、幾度か力なく口を開いたり閉じたりさせてから、彼女はようやく言葉を発した。
「秀明、くん……わたし、どうすれば、いいの……?」
「どうすれば、わたし、楽になれるの……?」
「わたし、どうすれば……秀明くん、みたいに、なれるの……?」
震える声で問いかけた中原さんに、僕は黙ったまま、足元の影を指差した。中原さんの目線がぐっと動いて、僕の指が指し示す先に立つ小さな姿を視界に捉える。そして、その目が瞬時に見開かれたのを、僕は見逃さなかった。
「カラカラくんが……消え掛かってる……?!」
「中原さんにも……やっぱり、同じように見えてるんだね」
カラカラの体が透き通って見えるのは、中原さんも同じようだった。僕に寄り添うカラカラは顔をグッと上げてしっかりと立ち、上から見下ろす中原さんの瞳をぶれることなく捉え続けていた。骨の向こうから覗く瞳には、確かな意志が備わっていることが見て取れる。
今にも消えそうになりながらも、佇まいや仕草が以前と明らかに様変わりしたカラカラを目にして、中原さんは僕とカラカラに何があったのか、何が起きたのか、何をしたのかを、ことごとく理解したようだった。
「そうだったんだ……そうだったんだね……」
「秀明くんは、カラカラくんと向き合ったんだね……」
「カラカラくんと、自分に……立ち向かったんだ……」
大きな骨を揺らしながら、カラカラが深く頷いた。
中原さんが動く。カラカラから外された視線が、自然と自分の足元へ投げ掛けられる。
「チェリンボ……」
「…………」
彼女の側に立つチェリンボは、今まで僕に向けていた泣き出しそうな目を、主である中原さんに向けていた。カラカラと違って、チェリンボは消えそうになっているというようなこともなく、しっかりとここに存在している。中原さんの抱えている苦しみが、未だ晴れずに残っていることの裏返しだった。
中原さんの目に涙が滲む。時を同じくして、心を同じくするチェリンボの瞳からも涙が零れた。中原さんが泣けばチェリンボも泣く。チェリンボは中原さんの心から生まれたポケモンであるから、誰よりも正しく彼女の想いを汲み取ることができた。
「僕は……中原さんに自分と向き合ってほしいんだ」
「だから――」
僕はそこまでで言葉を切って、彼女の向こう側をすっと指差した。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。