「厳島さーんっ!」
「なんだ、中原か」
ともえがあさひに追いつくまでには、少しばかり時間を要した。後ろから声をかけられたあさひが、背後に向き直る。
「厳島さん、すごく速いね。わたし、ついてくのがやっとだよ」
「これくらい普通だろ? お前がすっとろいだけだぜ」
そう言いつつも、あさひは得意げな様子を隠さない。魔法では後れを取ったものの、空を飛ぶことにかけてはともえよりも優れている――あさひは、そういった構図を作りたくてたまらないようだった。
「あう~……わたしも、もっと速く飛べるようになれたらいいのになぁ……」
飛ぶことさえできなかった以前と比べれば、ともえは自由自在に飛ぶことができている。それだけでも確実かつ大きな進歩なのだが、あさひはともえよりも遥かに速く飛ぶことができている。ともえはあさひの実力に感嘆しつつ、自分自身もそのようにありたいと望むのだった。
「ふぅ~……追いかけてきたら、疲れちゃったよ~……」
「まったく、だらしねえな。そんなんじゃ、魔女にはなれねえぜ」
ともえとは対照的に、あさひの自信は少しも揺らぐことが無い。空を飛ぶことにかけては、現段階のあさひはともえよりも一歩抜きん出ていた。それは事実だったが、些か自信が勝ちすぎているようにも見えた。
「まあ見てな! 俺がすげえってことを分からせてやるからよ!」
「わ、厳島さんっ!」
一息付こうとするともえをほっぽり出して、あさひは再び風となって飛び始めた。ともえはどんどん遠ざかってゆくあさひをやっとのことで視界に残しつつ、遅れること十秒ほど、彼女を追って飛行を再開した。
「どうしたどうした! そんなんじゃ、俺には追いつけねえぜ!」
あさひがスピードを上げてゆく。初めは雲の如く穏やかに飛んでいたのが、やがて鳥の如く、見る間に飛行機の如く、瞬く間に弾丸の如く、加速を加速させる。
「すごいスピード……憧れちゃうよっ」
マイペースなともえは、あさひのスピードに純粋に感嘆していた。普通はここで慌てるなり呆れるなり怒るなりするべきが正しい反応かと思われるのだが、ともえは普通に感嘆していた。純粋というべきか、はたまた別の言い方が何かあるのか。ともえがあさひにマイナスの感情を抱いていないことだけは、間違いのないことだった。
「……………………」
遠くへ飛んでゆくあさひの様子をしばし見つめた後、ともえは自分のいる状況を確認した。
「わたし、空飛んでる……」
ともえは空を飛んでいる。あさひに追いつくまでは、ごく普通のことだと思っていた。それは、ともえが魔女見習いであり、リアンから空の飛び方の手ほどきを受けて、空を飛ぶことができるようになったからだ。
(胸が、どきどきする……)
当然のことだと思っていた。にもかかわらず、ともえの全身が快い驚きに包まれる。自分は空を飛んでいる、その事実を当たり前のように受け止めている。何故なら、自分は魔女見習いだから。けれどもともえはほんの少し前まで、いずれに対してもまったく縁の無いところにいた。
「わたしがリアンさんに話しかけなかったら、わたしがここにいることは、無かったんだよね……」
リアンのくれた魔法。まだまだ発展途上で、未熟なものに過ぎなかったけれども、ともえ自身を大きく変えるものだったのは事実だ。ともえの考え方を、ともえの生活を、ともえの人生を、あの出会いが変えたのだった。
「日和田って、空から見るとこんな風になってたんだ……」
ともえが空から下界を見下ろす。薄くもやが掛かったような日和田の町並みは、ともえの目にひどく新鮮に映った。萌葱小学校も、海沿いの街道も、そしてともえの家も、微かではあるが確かに見ることができる。ともえは自分が空にいる、空を飛んでいるのだということを、強く自覚した。
(これだけでも……わたし、魔女見習いになってよかったよ)
胸に手を当てて、ともえが静かに感慨にふける。この目に映った光景を焼付け、大切な思い出のアルバムにしまっておきたい――ともえの表情からは、そんな思いが見て取れた。
「……いけない、厳島さんを追いかけなきゃっ」
じっくり考え事をしていたともえだったが、リアンからあさひをきちんと見ておくように言われたことをすっかり失念していた。ともえは手早く体勢を整え、あさひが飛んでいった方角へ針路を取る。
「こっちの方へ飛んでったはずだけど……」
ともえがあさひを探し、きょろきょろと視線を動かす。それほど時間は経っていなかったから、さほど遠くへは行っていないはずだった。
「……あっ。あれかな……?」
口調は疑問系だったが、表情は既に確信した様子だった。ともえがあさひらしき影を見つけ、対象のいるほうへ向かってゆく。
……その途中。
「すごいスピードで飛んでる……」
ともえは感嘆し、
「急ブレーキもできるんだ……」
続いて感心し、
「わ、宙返りした?!」
そして驚嘆した。
(厳島さん、今日初めて空を飛んだのに……すごすぎるよ)
あさひは空を飛びまわること自体が面白くなったのだろう。アクロバティックでスピード感溢れる動きを連発していた。ともえに己の力を誇示するかのごとく、休むことなく動き続けている。
「厳島さんっ!」
「ははっ! どうした中原! 付いて来れなくなったか?!」
ともえが声をかけると、あさひは勝ち誇ったかのように応える。受け答えをしている間にも、あさひは宙返りやらUターンやら何やらを続けざまに繰り出し、ともえを圧倒して見せていた。
「すごいよ! もうそんなに飛べるようになったんだね!」
「これで分かったろ! 俺の方がお前よりすげえってことがよ!」
声を張り上げるあさひ。彼女の目には、自分に尊敬の眼差しを向けるともえの姿しか映っていない。
「……………………」
ともえは、あさひの姿を捉えて離さない。その表情は、まったく変わっていないように見えた。
「……?」
否。ともえの表情は、尊敬の色を浮かべてはいない。彼女の顔から、微かに不穏な気配が感じられる。あさひはともえの顔つきの変化に、微塵も気付いていなかった。
「どうだ中原! 俺とお前の違いが、これで――」
あさひが、何度目か分からない勝ち誇りを見せようとした時だった。
「……! 厳島さんっ! 危ないっ!!」
「なっ……?!」
ともえが声を上げた瞬間。
(どんっ)
――あさひの躰が、不自然に宙を舞った。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。