「ぐはっ!」
「……!」
どさり、という思いのほか軽い音が、空き地に響いた。
「……………………」
「……………………」
少女は空を見上げたまま、呆然と口を開いていた。視界には、夕暮れ時と映りゆく空ばかりが広がっている。動きを止めたかのような雲が、自分を見下ろしている様子が見えた。
(……空……?)
把握できなかった。今の自分の状態も、それまでの出来事も、何一つ。処理すべき情報量の多さに、機能停止した思考回路が無言の悲鳴を上げている。一つ一つの情報に、意味づけを行うことができない。
(……お、俺は……)
自分は今、どうなっているのだろう? 最も根本的なところから、状況の整理が必要だった。ゆるい風が頬を撫でている、いや、これはあまり関係ない。上には空が見える、これは少し関係がありそうだ。どうやら自分は横たわっているようだ、これも関係がありそうに思える。横たわる感触は、思いのほか柔らかい。重要なことな気がする。
(空……そうだ、俺は……)
思考回路が連携を回復し、休眠状態にあった数刻前の記憶から今の瞬間までのリンクが、徐々に活性化されていくのが分かる。空、そう、自分は空の上に居た。今は? 今はどこかに横たわっている。鼓動が聞こえる。思いのほか規則正しい。少なくとも、今のところ死んではいないようだ。では、生きているということができる。よみがえる光景は、地面が競り上がって来る様子。実際にはどうだったのだろうか。地面が競りあがってきたのではなく、己自身が地面に近づいていったのだ。それも尋常ではないスピードで。
(空から……落ちて……)
猛スピードで地面に近づく、つまり――自分は、空から落ちた。かなりの遠回りを経て、少女――もとい、あさひは現況の把握に成功した。
「お、俺は……一体……」
ふらつく体を起こし、恐る恐る、周囲を見回す。視界に、初めて空以外のものが映り込んだ。民家、有刺鉄線、名も知らぬ雑草、電柱。あらかた周囲を見回して、あさひは自分が日和田の中央部から少し離れた、小さな空き地に居ることに気がついた。
「空から……落ちたんだよな……」
僅かばかりの恐怖に躰をきしませつつ、あさひが自分の体を確認する。右手、左足、右足、左手。視界に入るものはすべて見たが、かすり傷一つ負ってはいなかった。意識をはっきりさせても、肉体に痛みは無い。どうやら、怪我を負わずに済んだようだ。
「無傷で、助かったってのか……」
置かれた状況と状態を確保し、あさひがようやく、自分以外のものに気を振り向けることができるようになった。
「このクッションは、一体……」
空き地にクッション。空から無力なまま落下したあさひの命を救ったのは、このクッションに他ならなかった。だが、空き地に都合よくクッションなど置いてあるわけが無い。誰かが意図的に、あさひの落ちてくる場所にクッションを用意したとしか思えない。
「なんなんだ、これ……」
「厳島さん、大丈夫?」
「俺か……? あ、ああ、大丈夫だ……って?!」
声が裏返った。驚きからである。あさひは驚愕のあまり目を真ん丸くした。何せ、クッションがしゃべったからである。
「お、お前、まさか……!」
「よかったぁ~。間に合って、ホントによかったよ~」
「な……中、原……?!」
そしてその声は、あさひが知っている人物と、寸分違わぬ声色をしていた。中原……もとい、ともえである。そして、その直後。
「あぁ……中原……」
クッションが光に包まれて、本来の――ともえの形を取り戻した。とりもなおさず、うつ伏せになったともえの上に、あさひが乗っかる形となった。
「中原、お、お前……」
「無事みたいだね、厳島さん。安心しちゃったら、変身、解けちゃったよ」
少しばかり体をよじって顔を向け、あさひにほっとした表情を見せるともえ。あさひはあまりのことに、言葉が出ない。口ばかりが震えて、一向に言葉にならなかった。
「ど、どうして……どうやって……俺を……?!」
「うーん……よく覚えてないんだけど、厳島さんが落ちていくのが見えて、大変っ、なんとかしなきゃって思って、厳島さんを追いかけたのは覚えてるよ」
曖昧な記憶をかき集め、ともえがあの瞬間の出来事をプレイバックする。
「厳島さんを追いかけてる内に、わたしも落ちてくような形になって……」
「……………………」
「それで、厳島さんもわたしも助かるには、わたしがクッションになればいいや、って思って……それで、今こうなってるはずだよ」
猛スピードであさひを追いかけていたともえは、自分もまたあさひと同じように落下していることを理解していた。あさひに追いついて魔法を使ったとしても、今度は自分の身が危ない。そこでともえは、自分自身をクッションにすることで、安全に着地しつつ、あさひを無傷で助け出したというわけである。クッションになれば自身に伝わる高所からの衝撃もかなり軽減できるし、上から落ちてくるあさひも受け止めることができる。多少強引ではあったが、結果的に正しい選択となった。
「お前が……お前が、俺を……!」
安心した表情を向けるともえに、あさひは声が出なかった。
「あぁ……俺は……!」
いろいろな感情が怒涛の如く押し寄せて、何から手を付ければよいか分からない。叩き付ける感情の嵐の中で、あさひの口から一番最初に出てきたのは――
「……ごめん、本当に、ごめん……」
「厳島さん?」
謝罪。謝罪の言葉だった。あさひの瞳に、小さな珠が浮かび上がる。いつもの覇気は微塵も感じられない、弱弱しい声だった。
「俺が……俺が馬鹿なことをして、無茶な飛び方をしてたから……」
「厳島さん……」
「よく周りを見てれば、こんな、こんなことにはならなかったのに……」
後悔。次に出てきたのは、後悔の感情。あさひの顔色が、悔恨の色に染め上げられる。自分のしでかしたことに、強い後悔の念を抱いているのが分かる態度だった。
「それに……俺は……」
「……………………」
「俺は、お前を出し抜くことばっかり考えてて……馬鹿にしたような態度ばかり取って……」
ともえは真剣な眼差しで、あさひをじっと見つめる。あさひは目に涙を浮かべ、何度も繰り返ししゃくり上げた。
「こんな奴だってなのに……お前は、命がけで……俺をっ……!」
「……………………」
「お、俺は……俺は……俺はっ……!」
涙に咽ぶあさひに、ともえは――。
「……泣かないで、厳島さん」
「中原……」
人差し指をそっと差し出し、あさひの涙を柔らかく拭った。
「わたしは、厳島さんに馬鹿にされたとか、そんなこと、少しも思ってないよ」
「あ、あぁ……」
「わたしは、厳島さんが無事で……ホントに良かったと思ってるからね」
「中原……!」
ともえの微笑みは、あさひの心を一瞬で融かしてしまった。胸が、沸騰したかのように熱くなる。
「中原ぁ、中原ぁっ……!」
「もう、厳島さんったら……そんなに泣いたら、凛々しい顔が台無しだよっ」
屈託の無いともえの様子に、あさひはありとあらゆる負の感情が、一斉に押し流されていくのを感じた。湧き起こってくるのは、ともえへの感謝の気持ちと、尊敬と憧憬とが入り混じった、真っ直ぐな気持ちだった。
「ありがとう……中原、ありがとうっ……!」
落ち着きを取り戻し、あさひがともえにお礼の言葉を述べた。
「なんて言ったらいいのか分からねえけど……この気持ちを、中原、お前に伝えたくて仕方ねえ……!」
感極まったあさひは、矢継ぎ早に感謝の言葉を並べる。それが尽きる様子は、一向に無い。
(うーん……気持ちは、とってもうれしいけど……)
対するともえが少々困り気味に笑っていることに、あさひはこれっぽっちも気付かない。
(あぅ~……どうしよう……)
ともえの困り顔の理由。それは……。
(厳島さんにわたしの上から降りてもらうには、何て言えばいいのかなぁ……)
――なんとなく忘れかけていた、今の二人の状態であった。
「……………………」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。