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Level 6: エンジンがかかるように

今日は水曜日。国語の塾がある日です。いつもと同じようにすみっこの席にすわって、おとなりに一博くんが来るのを今か今かと待ちわびます。すると、これまたいつもと同じように、カバンを提げた一博くんが教室に入ってきました。かよ子がこっちこっちと合図を送ると、一博くんはすぐさまかよ子の近くまでやってきます。

「こんばんは、一博くん」

「かよ子ちゃん……」

けれど、ちょっと様子が変です。いつもよりずっと元気がなくて、今にもしおれてしまいそうな顔をしています。かよ子は一博くんのことが心配になって、大丈夫かどうか訊ねてみました。

「どうしたの? なんだか、元気がないみたいだけど……」

「あのね、かよ子ちゃん。僕……」

次に一博くんの口から飛び出したのは、かよ子がこれっぽっちも想像していなかった言葉でした。

「来月に、延寿市に引っ越すことになったんだ」

「……えっ?」

「父さんの仕事の都合で、急に転勤することになって、それで……」

一博くんは来月にも、わかば市から遠く離れた延寿市へ引っ越すのだと、かよ子に言いました。

いきさつはこうでした。一博くんのお父さんは大きな銀行で働いていて、こんな風に突然転勤が決まることがしばしばあります。延寿市にある支店へ移ることが決まって、すぐにでも引っ越さないといけなくなりました。会社の都合で単身赴任もできなくて、一家総出でのお引越しになるそうです。

引っ越すと聞いたかよ子は、目の前が真っ暗になりそうでした。

「うそ……一博くん、引っ越しちゃうの……?」

「僕もね、昨日の夜に聞いて、びっくりしたんだ」

「それじゃあ、塾にも来れなくなっちゃう……?」

「うん……。今週でおしまいになって、来月の中頃には引っ越すんだって」

あまりのできごとに、かよ子は今にも泣き出しそうな顔になりました。やさしくて、おだやかで、でもちゃんときりっとしていて、側にいるだけで楽しい気持ちになれた一博くん。大好きな一博くんがいたから、かよ子はつらい塾にもがんばって通っていました。それが、急に引っ越して遠くへ行ってしまう、お別れになってしまうと聞いて、言葉が出なくなるくらいのショックを受けたのです。

半べそになっているかよ子を見て、一博くんもとてもつらそうな顔をしています。一博くんだって、かよ子といっしょにいる時はいつもとても楽しい気持ちになったのです。内気だけどやさしいかよ子をすてきだと思っていて、一博くんもかよ子のことが大好きでした。そんなかよ子と別れ別れになるのは、胸がはりさけそうになるようなことだったのです。

ふたりで寂しさを分かちあうように、かよ子と一博くんが机の下でそっと手をつなぎました。おたがいに涙をためた目で見合って、何も言わずに、ただじいっと見つめあいます。

ぼう然としたまま国語の授業を形だけ受けて、ふらふら運転の自転車で何度も転びそうになりながら、かよ子はどうにか家まで帰りました。靴を脱ぎちらかしながら玄関を抜けて中へ上がりましたが、お母さんからの「おかえりなさい」は聞こえて来ません。代わりに、誰かと電話をしているような声が聞こえてきます。

「ええ、はい……そうなんですか。本当に、あの子が……」

なんだか大変そう、かよ子は一瞬だけそう思いましたけど、中身はちっとも耳に入ってきませんでした。それよりも一博くんのことでもう頭がいっぱいで、他には何も考えられませんでした。この時ばかりは、あのアチャモのこともカヤの外です。大好きな一博くんが引っ越してしまうという悲しいできごとを、かよ子はまだちゃんと受け止められていなかったのです。

子ども部屋に入ってドアを閉めると、学習机の椅子にすわってそのままうなだれてしまいます。目を伏せたまま、少しの間ぼんやりしていましたけど、やがてまぶたの裏から涙がいっぱいあふれてきて、止められなくなってしまいました。

「一博くん、引っ越しちゃうんだ……」

かよ子はかすれた声でそう呟いて、とうとう泣き出してしまいました。

長い長い電話が終わったお母さんから、早くお風呂に入りなさいと言われるまで、何べんも何べんもしゃくり上げて、ずっとずっと、泣いていました。

 

 

木曜日は塾のない日で、家に帰ってからゆっくりできます。ですから、普段なら楽しみな曜日なのですが、今のかよ子にとっては少しも楽しみじゃありませんでした。

「それでさー、この前の日曜日に小金市の自然公園行ってきたんだけど、そこで日和田市のジムリーダーが来ててねー」

「うん……」

「あたしに話しかけてくれて、アレルギーでポケモンに触れないんですって言ったら、いろいろ相談に乗ってくれたんだー」

「そうなんだ……」

「なんかこう、どこにでもいそうなお姉ちゃんだったけど、やさしくていい人だったなー」

となりをいっしょに歩いているひろ美ちゃんの話もどこか上の空で、聞いているのか聞いていないのかもはっきりしません。ひろ美ちゃんは楽しそうに話していて、かよ子がすっかり落ちこんでいることにはぜんぜん気づいていません。

歩いているうちに一戸建ての家がならぶ住宅街に入って、ここでひろ美ちゃんとはお別れになります。ひとりになったかよ子は肩を落として、とぼとぼと家へ向かいます。チラシがいっぱい入った郵便受けがお出迎えして、日に当たって色あせた紙の貼られた掲示板を横目に見て、コンクリートの階段を二階三階と登ると、ようやく家までたどり着きました。

「ただいまぁー」

ため息まじりに鍵を開けてドアを引くと、かよ子はしずんだ声でただいまの挨拶をしました。

「ああ、お帰りなさい、かよ子。ちょうどよかったわ」

「お母さん……どうかしたの?」

きょとんとした表情で、かよ子が今にも出かけようとしているお母さんを目にしました。いつもならこの時間はお仕事に出ていて、帰ってくるのはいつも七時を回ってからになるのに、今日に限ってはもう家に帰ってきていて、そうかと思ったらこれからどこかへ出ようとしているのです。

「これからね、急に浅葱市まで行かなくちゃいけなくなったの」

「えっ? 浅葱市? そんな遠くまで?」

「そう。仕事で忙しいのに、手間ばっかり掛かっちゃうわ」

鏡の前で慌ただしくお化粧をしているお母さんは、どことなく不機嫌そうで、かよ子の目から見てもイライラしている感じがしました。こういう時のお母さんには、あまり下手なことは言わない方がいいのですが、どうしてこれから浅葱市なんかへ行かなきゃいけないのか、それだけはとても気になりました。

遠慮しいしい、言葉を選び選び、恐る恐るのおっかなびっくりで、かよ子はお母さんに訊ねてみました。

「あのね……お母さん。どうして、今から浅葱市に行かなきゃいけないの?」

「どうしてって? お兄ちゃんのせいよ」

「お兄ちゃん?」

お母さんはぶぜんとした表情をしながら、かよ子に浅葱市へ行く理由を簡単に説明しました。

「お兄ちゃんがね、旅をしてる途中で浅葱市の近くまで来たんだけど、そこで……少し大変なことになったの」

「旅をしている間にいろいろあって、相手の子の親とも一度話をしなきゃいけなくて……」

「……はあ。まったく、こんなところまであの人そっくり。本当にどうしようもないわ」

説明は悪い意味で簡単で、何が起きたのか詳しく分かるものではありませんでした。けれどお母さんの様子と、ぽつぽつ出てきた言葉をつなぎあわせてみると、ポケモントレーナーとして旅をしていたお兄ちゃんの身に何かよくない事が起きたみたいでした。お兄ちゃんに何かあったんだ、かよ子は急に強い胸騒ぎをおぼえて、落ち着いていられませんでした。

「お母さん、かよ子も……」

「きっとどうにかなると思うから、かよ子は心配しないで。お留守番をしててちょうだい」

かよ子もいっしょに行く、そう言おうとしたのを知っていたのかは分かりませんが、お母さんはかよ子の言葉を途中でさえぎる形で「お留守番をしてて」と言いつけました。お母さんがとても強い調子で言うので、かよ子はそれ以上言えなくなって、だまったままうつむいてしまいます。

テーブルの上にのせられてラップをかけられた大きなお皿を指さして、お母さんがこれが今日のかよ子の晩ごはんよ、と言いました。続いてキッチンへ行って冷蔵庫を開けると、明日の朝ごはんの冷凍焼きおにぎりだから、レンジでチンして食べて、とかよ子に教えます。多分明日の晩ごはんまでには帰って来られないから、塾が終わったらコンビニでお弁当を買って食べなさい、最後にそう伝えて、かよ子にお小遣いとして千円札を一枚渡しました。もやもやした気持ちのまま、かよ子は受け取った千円札を折りたたんで手の中にしまいこみます。

「きっと明後日のお昼くらいまでは家に帰って来られないと思うけど、お母さんが帰ってくるまでいい子にしてて」

「勝手に遠くへ遊びに行ったり、夜更かしをしたりしちゃダメよ。お金はごはんを買うためのものだから、無駄遣いもダメ」

「ちゃんとお留守番をして、しっかり宿題もするのよ。明日も学校だから、遅刻しないようにしなさい。いいわね?」

あれこれかよ子に言付けて、お母さんはかよ子に家でお留守番をしているように繰り返し言いつけます。かよ子はお兄ちゃんの事が心配で心配で仕方ありませんでしたが、お母さんがこんな様子では、とても教えてくれそうにありません。不安な気持ちで胸をいっぱいにしながら、かよ子は張り子のトラみたいにかくんかくんとうなづくばかりなのでした。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。