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1-3 帰る場所

「さ、シラセ。お店も閉めたし、家に帰るよ」

時刻は18時過ぎ。カフェ・ペリドットの入り口がきちんと施錠されたことを確認して、瑞穂が歩き始めた。帰るよ、と言われたシラセが、瑞穂の後を歩いてついていく。ペリドットから瑞穂の暮らす家までは、歩いて20分ほどのところにある。近くは無いが遠くもない。気持ちを切り替えるにはちょうどいい距離、かつて瑞穂はそんなことを口にしていた。

シラセは瑞穂と沙絵の家で寝泊まりしている。傍目から見ると、シラセは瑞穂か沙絵の飼っているポケモンに映ることだろう。しかしながら、厳密にはシラセは瑞穂のポケモンでも沙絵のポケモンでもない。どちらにも紐付いておらず、シラセは誰のポケモンでもなかった。だから今の状況は、野生のアブソルであるシラセが、人間である瑞穂と沙絵の家で暮らしている、というのが正しい。

けれど当のシラセ自身は、瑞穂と沙絵をほとんど家族のようなものだと思っている。瑞穂と沙絵もまた同じだった。アブソルには人の心をおぼろげながら読み取る力が生まれつき備わっているが、二人から伝わってくる感情はいつもポジティブなものだった。これといって役に立つことをしていないにも関わらず家に居させてくれる瑞穂と沙絵に、シラセは言葉にこそできなかったが感謝していた。

「ただいま、っと」

家にたどり着いた瑞穂が引き戸を開ける。途端、誰かが廊下をパタパタと駆けてくる音が響く。

「おっかえりー。お姉ちゃん、お疲れさま」

沙絵だ。大きく跳ねた二つ結びを揺らしながら走ってくる様を、瑞穂が微笑みながら出迎えた。沙絵が瑞穂の持っていたカバンを受けとると、二人並んで茶の間へ歩いていく。

「沙絵、お腹空いたね。今日はお刺身を作るよ」

「いいねお刺身。私も手伝うよ」

瑞穂が冷蔵庫から大きな魚を取り出す。昨日瑞穂が買ってきたものだ。まるまる一匹買ってきて自分で捌くのが瑞穂のやり方だった。瑞穂曰く「パック入りの切れてる方が楽だけど、ちょっと苦労した方がおいしく感じるから」らしい。瑞穂の言いたいことは、昔ならいざ知らず、今のシラセなら分かる気がした。

二人が夕飯の支度をしている間、シラセは茶の間でのんびりしていた。特に手伝えることもなかったし、二人の様子を遠巻きに見守っているのが好きだった。瑞穂と沙絵、二人が暮らしている様子を眺めているのが好きだった。

仲のいい姉妹というのは珍しくなかろうが、瑞穂と沙絵のそれは、シラセが知っている中では抜群の仲睦まじさであった。単に仲がいいというだけではなくて、お互い割と遠慮なしにものを言い合っているのに、そこから喧嘩に発展するようなことは一度もなかった。

沙絵は瑞穂を、瑞穂は沙絵を信頼しているから。言葉にしてしまうと単純だったけれど、それが一番納得のいく理由だった。

「よし、準備ができたところで」

「いただきまーす」

茶の間で隣り合って夕飯を囲む。大根のツマと紫蘇の葉を敷いた赤魚のお刺身、若布と油揚げのお味噌汁、小芋の煮っころがし、炊きたての白いご飯。今日の献立は以上だ。おすそ分けという意味なのか、シラセの前にも大ぶりな切り身が五枚ほど置かれている。一枚ずつゆっくり食べつつ、シラセは瑞穂と沙絵を見守る。

沙絵は今日起きた出来事を瑞穂に話している。瑞穂は沙絵の話にひとつひとつ頷いて、ちゃんと話を聞いている、というリアクションを返している。二人は幸せそうだ、シラセはそう考えている。幸せそうな二人の側に、壁を隔てることなく一緒にいられる自分もまた幸せだ、シラセは重ねて考えた。

瑞穂と沙絵はいつも二人で一緒に夕飯を食べていて、瑞穂だけということも、沙絵だけということもない。いつも家にいる人間は瑞穂と沙絵だけで、他は時折外からやってくる者を受け入れるくらいだ。瑞穂にとっては沙絵が、沙絵にとっては瑞穂が唯一の血縁者になる。

「ごちそうさま、お姉ちゃん」

「ありゃま、綺麗に食べたね。作った甲斐があったよ」

「お腹ぺこぺこだったしね。あ、今日は私が片付けするよ」

「うん。ありがとね、沙絵」

食事を終える。沙絵がてきぱきと食器を集めて流しへ持っていくと、カチャカチャと音を立てながら皿洗いを始めた。沙絵の様子を見守りながら、瑞穂は外から流れてくるほどほどに涼しい風を浴びている。隣にいるシラセの背中を、何とはなしに撫でながら。

洗い物を済ませた沙絵が茶の間に戻ってきて、瑞穂の側に寄り添った。シラセもすぐ側にいる。家にいる全員が一所に固まって、何をするわけでもない、ぜいたくな時間の使い方をしていた。沙絵がちらりと瑞穂の顔を覗き込むと、瑞穂がそれに反応して沙絵に目を向ける。すかさずと言うか、沙絵は瑞穂にこんな頼みごとをした。

「ねーお姉ちゃん、月琴聴かせて」

「やっぱりね、そうじゃないかって思ってたんだ」

「晩ご飯食べてゆっくりしてる時は、音楽がほしくなるもん」

「沙絵もそういう風情のあること言う歳になっちゃったかぁ。いいよ、待ってて」

タンスの上へ手を伸ばして、瑞穂が月琴を取ってくる。十分に手入れされていて、埃を被っているようなこともない。普段からよく弾いているのが傍目から見ても分かる。いつも演奏を聴いているシラセにすれば尚更だ。縁側に腰掛ける瑞穂の左に沙絵が、右にシラセが陣取る。定位置、と言えば定位置。お決まりの場所ができるほど繰り返された事柄、とも言えるだろう。

「うーん。そろそろね、私もアルファさんみたいに弾けたらいいんだけどね」

「喫茶店やってるし、月琴弾けるし、後はカメラを趣味にすれば完璧じゃない?」

「だめだめ。ここにはホンモノのロボットがいるんだから、かないっこないよ」

冗談めかして言いながら、瑞穂は月琴に手をかけた。

瑞穂が奏でる淡い色の音を耳で感じ取って、沙絵とシラセが心地よい面持ちを見せる。目を閉じて意識を音に集中させる、どちらかというと、音をしっかりと聞き取りたくて、他の情報を取り入れないようにしている、そちらの方が正しそうだった。

心が安らぐ音色だ、シラセは瑞穂の隣でそう考えていた。屋根のある家で、暖かい寝床があり、食べる物もあって、安らぎを得る時間もある。これ以上何を望むというのか。何もあるまい。シラセは瑞穂に身を寄せて、しっかりと身体を預ける。しばらくもしないうちにまどろみが訪れて、なだらかな坂を知らず知らずのうちに降りるかのように、シラセは深い眠りに就いたのだった。

こんな穏やかな日々が、差し当たりずっと続いていく――夢の中で、シラセはそのように考えていた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。