青果店でリンゴとヒメリの実を調達したところで、商店街の中ほどまで行くよ、と瑞穂がハルに告げた。
「ちょっとね、マママートに寄ってこうと思って」
「まま……マママート? 何それ、どういうお店なん?」
「お総菜とかお弁当とかを手作りして売ってるんだ。カガミさんっていう女の人がやってるんだよ」
この前食べたコロッケ、実はマママートで買ったものなんだ。瑞穂がそう言うと、ハルがちょっと驚いたように「へぇ」と言う。瑞穂さんが自分で作ったもんやと思っとった、ハルの率直なコメントに、瑞穂が声を上げて笑った。おいしかったでしょ、瑞穂が飄々とした調子で言う。
マママートには歩いて三分ほどで到着した。年季の入った立て看板と、ストックがだいぶ少なくなった惣菜の並ぶショーウィンドウが見える。カガミさん、と瑞穂が声を上げると、店の奥からエプロン姿の人影が姿を現した。
「いらっしゃいませ。瑞穂さん、お買い物みたいですね」
「来ましたよ、カガミさん。これから最後の補充とかですか?」
カガミの手には菜箸が握られたままだ。まあ、とカガミが慌てて菜箸を片付けると、苦笑いしながら瑞穂に向き直った。
「ごめんなさい、そろそろお夕飯の支度をしなきゃ、って思ってて」
「そろそろ修君が帰ってくる時間ですもんね」
雑談が始まった直後、カガミがハルと目を合わせる。この子は誰だろう、と目を丸くしているカガミに、瑞穂がすぐさまフォローに入る。
「紹介しますね。この間うちに来たハルちゃんです」
「えっと、こんにちは」
「まあ、ハルちゃん。お話は聞いていますよ、こんにちは」
どこかで事前にハルについて話をする機会があったらしい。名前を出しただけで、カガミはすっかり事情を飲み込んだようだ。ハルに一礼すると、再び瑞穂の目を見る。
「瑞穂さん、聞きました? 最近この辺りで、ポケモンの保護をしてるって人たちを見かけるようになったって」
「お店で話してるのを聞きました。白い服を着て、あちこちで調査みたいなことをしてるとか」
「ポケモンの保護をしてくれるのはいいですけど、どこから来たんでしょうね?」
顔を合わせると世間話が始まるのが、瑞穂とカガミの関係で。
「西口のスギタ電器さんの軒下に、スバメの巣ができたんですって」
「そうみたいですね。オオスバメが子育てをしてるって聞きましたよ」
「子供がまだ小さいみたいで、しょっちゅうご飯を持ってきてあげてるみたいですよ。近くの人が見守ってるんですって」
「大きく育って、元気に巣立ってくれるといいですよね」
「本当に……子供が元気でいてくれるのが、何より大事ですから」
こうやって話し始めてしまうと、しばらくは終わる気配がない。ハルは欠伸をかみ殺して、ちょっとどこかで時間をつぶして来ようと思い立った。シラセも同じ気持ちだったようで、ハルの横にぴったりくっついている。隣にシラセが付いてくれたことで、ハルは安心して商店街をぶらつけそうだった。背中を撫でてもらったシラセが、心なしか頬を緩める。
「この間新しいメニューを追加したんです。クラボソースのピザなんですけど」
「美味しそうですね! 今度お店に行かせてもらおうと思います」
世間話を続ける瑞穂とカガミを尻目に、ハルとシラセは商店街の奥へ進んでいった。
榁の商店街には初めて訪れる。日和田から来たハルにとっては完全に未知の場所だ。瑞穂が先ほど口にした言葉通り、様々なお店が連なっている。日用品を売る店、トレーナー向けのグッズを売る店、食料品を売る店、家電を売る店。それらに入り混じって、飲食店や薬局もちらほら見える。なるほど、欲しいものは大体ここで揃うというのは伊達ではないらしい。ハルが心の中で一人納得する。
「日和田にも商店街はあったけど、もっと寂しい場所やったからな。ほとんどシャッター降りとったし」
商店街そのものは、ハルにも見覚えがある。生まれ育った日和田にも存在はしていたからだ。けれど、そこから受ける印象と今歩いている榁の商店街の印象は些か異なっている。人の往来が多い商店街というのは、ハルにとって目新しいものだった。ちょっと店先を覗いてみたい気持ちになって、あちこち目移りしてしまう。
その時、あっ、とシラセが目を開く。すぐ前に人影が見えたのだ。気付かずによそ見をしているハルに声を上げて伝えようとしたが、時すでに遅し。
「わっ!?」
「ひゃっ!?」
前から歩いてきた少女と思いきり正面衝突して、ハルが大きくのけぞった。よろめきながらなんとか持ちこたえたハルだったが、相手の方は肩に大きな荷物を下げていたためか、そのまま尻餅をついて派手にすっ転んでしまった。体勢を立て直したハルが、慌てて相手のもとへ駆け寄る。
「すいません、大丈夫ですか」
「いたたたた……ご、ごめんごめん。前方不注意だったよ……」
ハルより二回りほど年長に見える少女が、若干涙目になりつつハルの呼びかけに答えた。見ると手には単語帳がある。読みながら歩いていて、ハルの存在に気づくのが遅れたらしい。かく言うハルもよそ見をしていたので、お互い様といえばお互い様なのだけれど。
少女を助け起こして、ついでに道路へ落っこちた大きなバッグも拾い上げようとしたのだが、これがやたらと重い。中に何が入っているのかは分からないが、簡単に持ち上げられるものではないのは確かだ。あまりに動かなさに、ハルが目を白黒させている。一体これは何やねん、とでも言いたげな顔つきだ。
一方少女は地面に打ってしまったお尻を左手でさすりながら立ち上がって、ハルがまるで動かせなかったバッグをひょいと持ち上げて肩に引っ掛けてしまった。これにはハルも二度びっくりだ。どうやらこの少女、結構な力持ちらしい。ずっこけてもケガ一つしていない辺り、身体も頑丈にできているようだ。
「ぶつかっちゃってごめんね。やっぱり、よそ見してちゃダメだね」
「いえ、うちも向こう見てたりしてたんで……あれ?」
左腕に振動を感じたハルが、反射的に腕を前へ持ってくる。いつも身に着けているポケギアに着信があった。タッチして見てみると、すれちがい通信でトレーナーの情報が送られてきたというメッセージが届いている。メッセージを開封したハルが、目をまん丸くした。
「かえで……あ、ちゃうちゃう。楓子(ふうこ)、さん」
「そう、あたしは楓子だよ。そっちは……うん。ハルちゃん、だね」
「えっと、はい。うちはハルです」
少女、もとい楓子はどこからかスマートフォンを取り出して、ハルの情報をディスプレイに表示させていた。
すれちがい通信はポケギアをはじめとする種々のウェアラブル端末に組み込まれている仕組みの一つで、利用者が公開を許可した情報を「すれ違った」周囲の端末へ自動的に転送するようになっている。ポケモントレーナー同士が互いの情報を円滑に交換できるようにするためのもので、ほとんどのトレーナーが有効にしている。ハルと楓子もその例に漏れていなかった。ゆえに、自己紹介をする前に互いの名前を知るという、奇妙な状況ができあがるに至った。
楓子という名前を、シラセは聞いた記憶があった。「風子」ではなく「楓子」と書く少々風変わりな名前ゆえ、シラセの記憶に留まっていたのだ。ただしこれまでハルと共に出くわした人物たちとは違って、楓子のことは名前とわずかな情報を知っているに過ぎなかった。
シラセが知っていることはただ一つ。楓子という名の少女は、三年ほど前に榁を旅立っていったということだけ。
榁へ帰ってきたのだろうか。シラセはそのように考えるほかなかった。旅の途中で榁に立ち寄ったにしては、風貌がトレーナーのそれらしくない。むしろ地元の学生と言った方が相応しい格好をしていた。旅を切り上げて地元へ帰ってくるトレーナーはそう珍しいものでもないが、しかしそれに至るまでには何がしかの理由があるはず。楓子の様子を観察しているだけでは、それを掴むことはできなさそうだった。
「んー。ポケギアにアブソルかぁ。ハルちゃんって、ひょっとしてトレーナーだったりする?」
ポケギアを身に着けていて、側にさも相方のようなアブソルを連れている。傍目から見れば、今のハルはポケモントレーナーだと思われてもおかしくなかった。面識がないのは楓子も同様で、シラセが榁の街に住み着いている野良アブソルだということも知らないらしい。
「紛らわしいんやけど、違います。元トレーナーって言うたらええんかな」
「あっ、そうだったんだ。ごめんごめん。元トレーナーってことは、あたしと同じなんだね」
「楓子さん、トレーナーやっとったんですか」
「ほんのちょっと前までね。今は辞めて、榁に帰ってきたんだ」
右肩に掛けたバッグを直して、それから左肩に提げている細長い袋も同じく引っ掛け直す。ずいぶんと大荷物だ。ハルは楓子が持っているものの物量に気圧されながらも、それらの一式をかつてどこかで目にしたことがある、ということを思い出していた。そう遠くない以前、ほぼ同じ道具一式を、ハルは自分のよく見知った人物が持っていたような気がしていたのである。
「お稽古にも最近復帰したから、頭も体もフル回転だよ」
「……せや! あれや、シズさんとスズさんが持っとった、剣道の道具と同じやつや」
かつて所属していた日和田のジムリーダーたちが、今楓子が持っているものとほぼ同じ剣道具を一式揃えていることを思い出した次第である。そうそう、それそれ、と楓子も頷いている。間違いなさそうだ。
「トレーナーやってる間はあんまり勉強してなかったから、追いつかなきゃ、って思って」
「せやから、単語帳読んどったんですね」
「どうしても追いつきたいんだ。あたし、だいぶ出遅れちゃったから」
「真面目なんですね、楓子さん」
「えへへ。忍ちゃんにもそう言われるよ。うーん、けど、やっぱりよそ見はダメだね。どんな時も前をしっかり見る、肝に銘じるよ」
「まあでも、楓子さんもうちもよそ見しとってぶつかったから知り合えたわけやし、人間万事塞翁が馬ってやつとちゃいますかね」
「えっ、何それ? 犬も歩けば棒に当たる的なことわざ?」
「いや、それはちょっとちゃうと思います」
すかさずツッコミを入れるハル。この辺りは静都で培われたノリが活かされているのだろう。楓子が明るく笑うと、ハルもつられて一緒に笑った。
「それじゃ、そろそろ行くよ。ありがとね、ハルちゃん」
「はい。楓子さん、気ぃ付けて」
楓子は単語帳をカバンへ仕舞い込むと、今度はよそ見をせずまっすぐ歩いていく。彼女の背中を見送って、ハルが小さく息をつく。
「ほな、行こか」
隣で座っていたシラセに声を掛けて、ハルは再び歩き出した。
さすがにそろそろ世間話の種も尽きただろう、そのような算段を胸に抱いて、ハルがマママートの方へ戻っていく。マママートを離れておよそ20分、途中で楓子と出くわしてあれこれ話をしたこともあって、十分な時間が経ったと言える。
「楓子さんか。名前通り、風みたいな先輩さんやったな」
「元気そうな人やな。見てたらちょっとスズさん思い出してしもた」
「スズさん、うちのことよう見とってくれたから」
日和田市はジムリーダーが二人体制となっている、世界的に見ても珍しいジムだった。他ではここ豊縁の徳実市のジムくらいでしか見られない。これはジムリーダーであるシズとスズがが双子の姉妹だったことに起因しているという。このため挑戦者はシングルバトルとダブルバトルのどちらで対戦するかを選ぶことができ、シングルの場合はどちらか一方と、ダブルの場合は二人同時に戦うことになる。各地でスカウトしてきたという虫ポケモンはいずれ劣らぬ強豪揃いで、挑戦者たるトレーナーは知識と胆力、そしてポケモンとの絆を問われることになる。
一般的に弱点が多いとされる虫ポケモンだが、二人とてその事は百も承知。単に得意技で攻めるだけでなく、ウィークポイントを突こうとする相手の裏をかいた戦法を得意としていた。デンチュラが鳥ポケモンを電気技で撃墜する、アリアドスが超能力ポケモンの不意を突いて先手で退ける、アブリボンが力で押し通ろうとしたドラゴンポケモンを封殺する、パラセクトが相手を攪乱している隙にウルガモスが力を蓄えて敵陣を焼き払う――ハルは挑戦者とジムリーダーの戦いを観る機会が数多あったが、劇的な展開を見せた試合が幾つもあった。
「シズさんもスズさんも、元気にしとったらええな」
二人の背中を見ながら育ってきたハルは、彼女たちのような強く優しいポケモントレーナーになることを夢見ていた。
今となっては、あくまで夢に過ぎないものであったけれど。
「向こうや。瑞穂さんがおる」
マママートの近くまで戻ってきたハルが、瑞穂の姿を見つける。さすがにもう雑談は終わっていて、出かけたハルが戻ってくるのを待ってくれていたようだ。ハルが足を速めて駆け寄ると、瑞穂が例のごとくふんわり笑って応じる。
「おかえりハルちゃん。商店街、どうだった?」
「当たり前やけど、お店、いっぱいあるんやな」
「でしょ? 歩いてると自然に足取りもお財布も軽くなっちゃう」
おどける瑞穂を見て笑うカガミを、ハルがそれとなく見ている。
「それと……ついさっき、楓子さんって女の子に会ったわ」
「ありゃま、楓子ちゃんに。じゃあ、やっぱり帰ってきてたんだね」
「知らない間にずいぶん大きくなって、見違えちゃいましたね、楓子ちゃん」
「背も高くなったみたいだし、一回り大きくなって榁に凱旋、ってところかしら」
瑞穂はカガミとごく普通に対話している。それに対して取り立てて何か言うようなことはなかったし、ハルも表立って口に出すことはなかった。
けれど、自分の考えを隠しきれるほどハルは大人ではなかった。どことなくそわそわしていて、時折カガミの様子を窺っては、気付かれないうちに目を逸らすということを断続的に繰り返している。カガミのことが気になるが、真正面から目を合わせて言葉を交わしあうことはできない、ハルの仕草はそれを物語っていた。
カガミはハルを視界に捉えるたびに優しく微笑んでいるが、ハルの方はどうもぎこちない。一方、瑞穂はカガミに対して何ら違和感を覚えていないようだった。
「瑞穂さん。頼まれたコーンクリームコロッケが揚がりそうですから、ちょっと見てきますね」
「うん。お願いします」
二人がハルから目を離した隙に、ハルがシラセの耳元でささやく。
「……どない言うたらええんか分からへんけど、カガミさんって何か妙な感じせえへん?」
カガミに言葉にできない違和感を覚える。このハルの言葉に、シラセは正直なところ同意せざるを得なかった。小さく頭を垂れて、肯定の意を返す。
具体的に何がどうおかしく違和感があるのかは分からないし言葉にすることもできない。しかしながら敢えて口に出すとするなら――カガミはどうにも「普通の人間」ではないように見える。本来人ならざる者が人の姿を借りて生きている、そう表現するのが一番近いように思われた。しかしながら、なぜカガミにそんな感情を抱いてしまうのかの理由が分からない。瑞穂と話していた時の様子は穏やかそのものだったし、誰か乃至は何かに危害を加えようという気配は欠片も感じられない。
ただ、違和感を覚える。それを拭い去ることが、どうしてもできなかった。
「お待ちどうさま。コーンクリームコロッケ、三つです」
「ありがと。それじゃ、そろそろ帰ります」
「はい。またよろしくお願いします!」
惣菜を受け取って家路につく瑞穂の背中を追って、ハルが歩き出す。
「やっぱり、変わり者の多い街なんやなって」
ハルは傍らにいるシラセにだけ聞こえるように、小さな声でぽつりと呟く。
「ひょっとすると、うちもそのひとりなんかも知れんけど」
変わり者の中には自分も含まれている。ハルの言葉に、シラセもまた同じ思いを抱くのだった。
商店街を抜けて家へ帰る。陽はすっかり傾いて、辺りが薄暗くなりはじめている。もう沙絵も帰ってきている頃だろう。お腹を空かせて瑞穂の帰宅を待っているに違いない。
荷物を提げて歩く瑞穂の隣についたハルが、時折瑞穂の様子をうかがう。切り出すタイミングを窺っているように見えた。逡巡を幾度か重ねていたけれど、商店街を抜けた辺りで顔つきが変わった。腹を括ったようだ。
「瑞穂さん、ちょっとええかな」
ハルが瑞穂に声を掛けた。瑞穂がすぐに反応してハルに目を向ける。
「荷物、うちが持っていくわ」
「結構量あるし、重たいやろ」
ありゃま、と瑞穂が声を上げた。
「いいの? ハルちゃん」
「行くとき言うたやん、荷物持ちくらいできる、って。せっかく隣に居るんやし」
それに、とハルが言葉を挟んで。
「うち、瑞穂さんには、いろいろお世話になっとるし」
瑞穂が頷いて応じる。手を差し出すハルに、提げていた袋を一式すべて預けて。
「重いけど、大丈夫?」
「言う通り重たいけど、いけるよ」
ピンと張ったビニール袋の取っ手を見ながら、ハルが瑞穂の問いに応えた。
「変な言い方かも知れへんけど、なんて言うか」
「今は、この重たさがありがたいって言うたらええんやろか」
「ほっといたら、どっか遠くへふわふわ飛んで行ってしまいそうやから」
「せやから、今はうちに荷物持ちさせてほしい」
「自分がここに、榁におるんやってこと、分かりたいから」
ゆっくり紡がれたハルの言葉を、瑞穂はすべて聞き入れて。
ハルが言い終わって落ち着くのを待ってから、ふっと口を開いた。
「ここはハルちゃんの場所だよ」
「私が保証するから、ね」
瑞穂とハル、ハルと瑞穂。
二人が並んで、夕焼けの照らす道を歩いていく。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。