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6-3 面影

「あっ、おっかえりー!」

帰宅して戸を開けるや否や、茶の間から沙絵が飛び出してきた。瑞穂が言った通り、ハルたちの帰宅を首を長くして待っていたのだろう。シラセも中へ入ったところで、瑞穂が戸を閉める。

「瑞穂さん、鍵は掛けへんの?」

「うん、そのままでいいよ。いつもこうしてるからね」

「ハルも一緒だったんだ。おかえりっ」

腕を勢いよくぐるんぐるん回してアピールする沙絵を見て、瑞穂が頬を緩めて笑った。

「お買物してきたんだね。台所まで持ってくよ」

ハルが両手に袋を提げているのを目にした沙絵が手を伸ばしてそう請け負う。ハルは「ごめん」と一言断ってから、持っていた荷物をまとめて沙絵に手渡した。ハルが持っていた荷物は結構な分量で重さも中々のものだったが、沙絵はごく自然に軽々と持ってしまうと、意気揚々と台所まで歩いて行った。

「……マリルリ並の力持ちなんやな、沙絵さん」

「うーん、いい例え。沙絵ね、ああ見えて結構パワータイプなんだよ」

思わずハルの口から漏れた率直な感想を、瑞穂はうんうんと頷きながら肯定するのだった。

ペリドットで働いて、お買い物も手伝ってくれたから、ちょっと休んでていいよ。瑞穂にそう勧められたハルが、靴を脱いで茶の間へ向かう。座布団の上へ座って一息入れよう、ハルがぼんやりそんなことを考えながら茶の間へ入る。ハルの後ろにシラセも続く。

「……あれ」

座布団の上には先客がいた。青い体に、髪のような帽子のような銀色の頭頂部。

アサナンのパオだ、とシラセが気付く。パオは沙絵が連れている相棒で、普段はボールの中に入っている。今日は外に出て沙絵と過ごしていたのだろう。座布団の上に丁寧に正座している。

パオはハルが茶の間に入ってきたことに気づくと、いったん足を崩して立ち上がり、側に転がしていた別の座布団を持ってきて自分のすぐ前へ置いた。準備が済んだところで、再び行儀よく正座してハルをまっすぐ見つめる。目を白黒させるハルに、パオは「どうぞ」とばかりに手を差し出す仕草をして、座るように勧めた。

「ど、どうも」

ポケモンから座布団に座るよう勧められるというのもなかなか珍しい状況で、ハルは戸惑いながらも勧めに従って座布団へ座る。もちろん正座だ。必然的にパオと視線を交錯させ合う形になる。お互いに目を合わせてまったく外そうとしない。見ようによっては微笑ましいこの光景を、シラセは近くに座ってのんびり眺めている。

『ずいぶん丁寧だね、パオ』

『畳の上に直に座るのはよくないと、ボクの師範が仰ってましたから』

種族は違えど同じポケモンであるシラセとパオは互いの言葉を理解していて、さらに言葉を口にせずとも対話することができる。どちらもいわゆるテレパシーの能力を持っているのだ。ゆえに、こうして無言で会話をすることがままある。二人の関係は良好で、パオはシラセが家にいることを半ば当然だと思っている。シラセにしてみれば、沙絵の「正式な」パートナーであるパオと事を構えずにいられることはありがたいことだった。

お見合い状態のハルとパオ、それからシラセ。どこかゆるい空気が流れる茶の間に、荷物を片付けた沙絵がやってきた。

「お。パオとハル、二人でお見合い中? 女の子同士の恋愛、応援しちゃうよ」

「ちょっ、沙絵さん」

パオを見つめていたハルが沙絵に視線を移す。沙絵はニッと歯を見せて笑って、もう一つ座布団を持ってきてペタンと座り込んだ。

「冗談は置いといて、この子はアサナンのパオ。私の相棒だよ」

「沙絵さんのポケモン、なんですか」

「そ。よく付き合ってくれてるんだ。真面目で物静かだけどね、ノリは結構いいんだよ」

はーい、と沙絵が手をパオの前に差し出すと、パオはすぐさまハイタッチをして返して見せた。なるほど沙絵の言う通り、ノリがいいというのは伊達ではないらしい。パオの方もなかなか楽しそうだ。

「パオはねー、すごい力持ちなんだよ。岩とかも粉々にしちゃうくらい!」

「岩砕き……なんかな」

「それそれ! 私も負けてらんないよ!」

「いや、人間が岩砕いてまうんは、ちょっと」

ハルの前でぐっと腕に力を込めて見せる沙絵。隣でパオが深く頷いている。やはり沙絵はパワーキャラのようである。

「それはそれとして、ハルってさ、今ペリドットで働いてるんだっけ?」

「瑞穂さんに紹介してもらって、注文取る仕事さしてもらってます」

「おぉー。今度さ、様子見に行ったりしていい? どんな風なのか見てみたいなーって思って」

「うち、言うてそない大したことしとりませんけど」

「働いてるだけでもすごいよ。私もアルバイトとかした方がいいのかなぁ」

沙絵はシャツから露出した自分の二の腕をしげしげと眺めて、何か思うところがあるのかペタペタ触ってから、座布団ごとずずいと前に身を乗り出してハルに身体を寄せる。ずいぶん近くまで来た沙絵に、ハルが少しばかり戸惑っている。

「ねね、ハル」

「は、はい」

「お世辞とか建前とかじゃなくて、ストレートな意見を聞きたいんだけど」

「ほ、本音ってことですか」

「うん。切実なことなんだけど――」

間を空けた沙絵を、ハルが緊張した面持ちで見つめ返す。すっ、と息を肺に溜めてから、沙絵がハルに問い掛けた。

「――私さ、筋肉付きすぎてない?」

「は?」

腕をぐっと伸ばしてハルに見せながら、沙絵がそのようなことを訊ねてきた。もっとシリアスな問いかけをされると思っていたハルにしてみれば、思わず「は?」と声を出してしまうような内容だった。沙絵の方はあくまで真剣に問い掛けているのがお互いのギャップを加速させている。

『いや、何なのこの質問。ハル、困ってるけど』

『そんな、ボクに訊ねられても』

シラセがジト目でパオに訊ねる。パオにしてみれば、主の場違いな質問の趣旨を問い掛けられても困るばかりで、まあ災難もいい所だろう。割と普段からこういう関係なのが伺えるところである。

「別に、そんなことないと思いますけど。ちょっと、うちよりがっちりしてるくらいで」

「ごめんね、急にこんなこと聞いちゃって。なんかさ、最近ちょっと気になっちゃって」

ハルが無難な回答をしたところで、沙絵がため息をついて返す。本人はあくまで真剣に気にしているようだ。このタイミングで訊ねるのかどうか、という思いはあったものの、曲がりなりにもハルも女の子ゆえ、筋肉が付きすぎていないかを気にする気持ちは分かる気がした。

一連のやり取りが終わったところで、ハルの目を沙絵がじっと見据える。すると先ほどのパオとのやり取りと同じように、ハルもまた沙絵から目を離せなくなる。ややあって、沙絵が不意に口を開く。

「なんかね、こうね」

「別にベタベタしなくてもいいけど、気軽にしょうもないこといえるくらいの間柄になれたらいいなって。私とハルで、お互いにさ」

「いつもしょうもないこと言い過ぎって、忍にはよく言われてるんだけどね」

先にシャワー浴びてくるね、沙絵はそう言い残してハルのもとを立ち去る。

残されたハルは、沙絵から受けた言葉を何度も反芻した。

「……沙絵さんの言いたいことは、うちにも分かる」

「今すぐにっていうのは無理かも知れんけど、でも」

「うちも、もうちょっと肩の凝らへん関係になれたらええな」

ハルの側に居たシラセとパオは、彼女の言葉を耳にしていて。

互いに視線を交錯させて、何も言わずにただ頷くのだった。

 

「今日からここがハルの部屋。自由に使っていいからね」

夕飯の支度をする前にハルに見せたいものがある、と言って瑞穂が案内したのは、二階にある小さな部屋だった。明かりを点けて、ハルに中へ入るように促す。

部屋の中は整然としていて、ごく最近片付けられたことが分かる。瑞穂曰く、一週間前に整理と掃除を済ませたとのことだ。ちょうど、ハルが上月家を訪れる前日にあたる。

「なんとなく、綺麗にしなきゃって思っただけなんだけどね」

「綺麗にして早速使ってもらえて、部屋も喜んでるよ」

そう語る瑞穂の顔を、ハルは神妙な面持ちで見つめている。

この部屋にはシラセもあまり足を踏み入れたことがなかった。今まで来る機会がなかった、と言うべきかもしれない。だからこの家に住み着いているシラセも、今目の前にある部屋には馴染みが薄い。

少なくとも、自分から来ようという気にはならなかった。

「もし、一人になりたい時があったら、この部屋を使ってね」

「私も沙絵も、なるべくそうならないようにするけどね」

そう言い残して、瑞穂が階段を降りる。ハルとシラセは互いに顔を見合わせてから、ハルが先陣を切って中へ入っていった。

書斎のような場所だ、とハルは感じた。実際に書斎と呼ばれる場所に足を踏み入れたことがあったわけではないが、ハルの抱いている「書斎」のイメージと眼前の光景はぴたりと一致していた。ずらりと並んだ本に、木製の無骨な机。道行く人々に「書斎」のイメージを訊ねて、その平均値をとったかのような様相だった。

「『深奥史』『静都史跡探訪』……歴史の本ばっかりやな」

表題からして歴史にまつわるものであろうことが分かる書籍が、本棚にぎっしり詰め込まれている。分厚いハードカバーのものから、色あせた文庫本まで。様々な伝手を使って書籍を蒐集していたことが手に取るように理解できる。様々な地域や時代に着目した本が並べられているが、中でもここ榁の存在する豊縁に関わる本が多く見受けられた。持ち主は地元の歴史に強く興味があったのかも知れない。ハルはそう考えた。

目に留まった一冊を何げなく手に取る。これも豊縁の歴史を紐解いた本のようだ。おもむろに頁を開くと、モノクロながら鮮やかな色調をした、大きな魚を思わせる生き物の絵画が目に飛び込んできた。

「――『カイオーガ』。大昔のポケモンなんか、これ」

白と黒の二色刷りにもかかわらず、暗海を想起させる蒼が瞬時に脳裏に浮かんでくる姿かたち。ハルが「カイオーガ」と口にしたそれは、彼女が知っているどのポケモンよりも強い圧迫感を彼女に覚えさせていた。このようなポケモンが過去に実在したのかと、ハルがその姿をまじまじと見つめる。

「向こうのホウオウ様みたいに、皆の思う『神様』を描いただけかも知れんけど」

大雨や洪水、或いは日照や旱魃。空の下で生きる人々は、空の気まぐれを甘受することしかできない。そこに「神」の存在を見出すのは自然な在り方と言えた。ゆえに日和田のある静都ではホウオウやルギアが生まれ、豊縁ではカイオーガが伝説として語り継がれている。彼らが実在するか否かはさしたる問題ではない。人々は大自然が振るう猛威に理由と理屈を求め、結果として神のごとき力を持つポケモンたちの伝説を生み出すに至った。少なくとも、ハルはそう解釈していた。

一方のシラセは「カイオーガ」という名を耳にして、それが榁の北にある「石の洞窟」に描かれていたことを思い出していた。石の洞窟の奥には大きな部屋があり、その正面にはカイオーガと思しき巨大なポケモンの壁画が存在していた。石の洞窟で暮らしている友人のマーガレットから、壁画にまつわる話を聞かされたことがあった。

「……それにしても、他とはちょっと雰囲気のちゃう部屋やな、ここ」

「おかんの部屋、とはとても思われへん。多分、別の人が使うてた部屋や」

母親は本を蒐集して読むような人間ではなかった。ハルはそう確信している。日和田で共に暮らしていた頃も、読書なんてしていた記憶はどこにもない。ゆえに、この部屋を母親が使っていたとは思えない。

沙絵に案内されて家の中を見て回った折、瑞穂と沙絵にはそれぞれの部屋があることを教えられていた。寝るときに和室に集まっているだけで、それぞれ自分の部屋を持っていたのだ。一階には沙絵の、二階には瑞穂の部屋がある。だからこの部屋は、瑞穂や沙絵の部屋というわけでもなさそうだ。

「沙絵さんの部屋でも、瑞穂さんの部屋でもない。おかんの部屋いうのは、一番ありえへん」

「やとしたら、この部屋は――」

顔を上げたハルが、静かにつぶやく。

「おとんの部屋、やったんかな」

父親の部屋。ハルのたどり着いた結論はそれだった。

上月家にはかつて父親がいた。シラセも承知している事実だった。ただ、シラセは瑞穂と沙絵の父親の姿を見たことがない。少なくとも、動いている姿は一度も目にしたことがない。

シラセが榁を訪れた頃に、二人の父親はいなくなってしまった。

「瑞穂さんと沙絵さんのおとんがここにおったんやろうけど、今はもうおらんのやな」

「うちからしたら、見ず知らずの他人、見たことのないおっちゃんなんやろし、向こうからしたら顔も知らん小娘なんやろうけど」

「……言うて、うちも自分のおとんの顔、全然知らへんねんけどな」

がらんとした部屋に、ハルの声だけが響いて。

シラセは俯いたまま何も言わず、ただ押し黙るばかりだった。

 

瑞穂と沙絵と、それからハル。三人で夕食を囲むのも、もう物珍しい光景ではなくなりつつあった。ハルはまだ口数こそ少ないながらもしっかりものを食べているし、瑞穂と沙絵もハルに何か気兼ねする様子は見られない。ハルがいることが特別ではなくなった、そんな空気を感じ取ることができた。

今日の献立は鶏唐のマリネと高野豆腐の卵とじ。どちらも瑞穂が手早く作ってしまった。三人で食べきれるだけの量をきっちり計って作るのは、瑞穂が炊事に長けていることの証左と言えた。

「こういうお料理は、お店じゃ作る機会がないからね」

「高野豆腐を出す喫茶店って、他には無くていいと思うけどなぁ」

「喫茶店って言うより、定食屋さんだね。定食屋ペリドット。うーん、前後が繋がってない感じがすごいね」

瑞穂がペリドットの名前を出したのをきっかけにして、沙絵が食いついてきた。

「ねぇお姉ちゃん。今度さ、ペリドットに遊びに行ってもいい?」

「お、珍しい。沙絵がペリドットに来たいなんて」

「ほら、ハルが働いてるところ、ちょっと見てみたいから」

「言うてうち、そないてきぱきしとらんから、見てておもろいもんでもないと思うけど」

「大丈夫大丈夫。ハルがお姉ちゃんと一緒に働いてるところが見たいだけだから」

「いつでも来ていいよ。アップルソーダくらいならおごっちゃうから」

シラセは例によってごはん皿に夕飯のおすそ分けを盛ってもらってもしゃもしゃと食べながら、三人の会話に耳を傾けている。

沙絵はペリドットでは働いていない。そればかりか、顔を出すことさえ滅多にない。ペリドットの運営・経営にはまったくタッチしていなかった。瑞穂はそこをきちんと分けているようだった。あるいは、沙絵のしたいようにさせていると言うべきか。何にせよ、沙絵がペリドットを訪れるというのは珍しいことだったのだ。

「せっかくだから、忍ちゃんも連れてきたら?」

「うーん、どーしよっかなぁ。誘ったら来てくれると思うけど」

「いいじゃない、連れてきたら。人が多い方が、賑わってる感じがするし」

瑞穂と沙絵の様子を、ハルが間に入る形で見ている。二人が仲良く話す様子を目にして、まだ少しばかり距離を感じているようではある。共に過ごした時間が違いすぎるから、それは無理からぬことだ。

「沙絵さん、麦茶のボトル取ってくれへん?」

「おー、おっけおっけ。はいっと」

けれど、その距離は確実に詰まりつつある。今はまだ時間が必要だけれど、裏を返せば時間が解決してくれることでもある。榁で暮らす彼女たちには時間はたっぷりある。歩くような速さで、少しずつ前へ進んでいけばいい。

誰も言葉にしなかったけれど、瑞穂も沙絵も、それからハルも、よく似た思いを抱えていた。

夕飯を済ませてしばらくしてから、ハルが湯浴みをすることになった。今日はシラセも一緒に並んでいる。シラセは週に一度体を洗うことになっていて、その役目をハルが買って出たという寸法だ。

「シラセ、ちょっと大人しくしとってな」

そう断ってから、ハルがシラセにシャワーを浴びせてやる。お湯を吸ったシラセの体毛がみるみるうちに縮んで、ほっそりした体つきが露わになる。湯気で曇った鏡にシャワーを当てて綺麗にすると、いつもとはだいぶん雰囲気の違う、ちょっと貧相なシラセの姿が映っていた。その様子がなんだか可笑しくて、シラセが鏡を見てちょっと笑っている。その様子に、ハルもつられて吹き出してしまった。

シラセの体を軽く洗ってやってから、ハルもシャワーを浴びる。シラセの前でも特段気兼ねするようなことはなく、汗をかいた部位にお湯をかけ、温まったところで石鹸をタオルに擦り付けて泡立てる。体の汚れをすっかり落としたところで泡を洗い流して、ぷふぅ、と小さく息をついた。

「お風呂入るから、そこで待っとって」

ハルが浴槽の蓋を開けて湯船に浸かる。足を折りたたんでシラセがくつろぐ。天を仰いだハルが大きく息をついて、ゆっくり体の力を抜いた。張っていた気が緩んだのか、ハルがぼんやりした声でシラセに語り掛ける。

「……なんかなあ、実感湧かへんのやわ」

「うちが日和田におらんで、今こうやって榁におるいうことが」

「今もまだ、夢でも見とるみたいや」

故郷を離れて一週間。ハルの言葉は、彼女の率直な気持ちを言い表していると言ってよかっただろう。

さながら榁そのもののごとく、ハルは未だ海の上をゆらゆら漂っていて、打ち寄せる波に翻弄されている。

彼女が安寧を、平穏を得るまでには――もう少し、時間が必要だろう。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。