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10-2 母と姉と妹と

「沙絵さん、瑞穂さん。うち、もう寝るわ」

「お、いいねー。私お布団敷くよ」

沙絵がちゃぶ台を片付けて、居間に布団を並べていく。寝床の準備が整ったところで、ハルが欠伸を一つして、定位置である真ん中の布団へ寝ころぶ。すっかりリラックスして今にも眠りに落ちそうなハルを、沙絵がにこにこしながら見つめている。

「おやすみ、ハル」

「うん。おやすみなさい、沙絵さん」

ぱたり、と瞼を落としてしまうと、ハルは間もなくスヤスヤと寝息を立て始めた。髪を乾かしていた瑞穂も戻ってきて、眠りに就いたハルを優しい眼差しで見つめる。沙絵と瑞穂が顔を見合わせて、お互いに小さく頷く。この家でぐっすり眠れるくらい、ハルは慣れてきてくれている。それは瑞穂も沙絵も望んでいたことだった。うつぶせに眠るハルの上から、瑞穂が夏用の薄布団をそっと掛けてやる。

「お姉ちゃんももう寝る?」

「まだちょっと体がポカポカしてるから、縁側で涼んでからにするよ」

「私も読みたい本があるから、部屋で読んでからにするね」

瑞穂と沙絵は少し夜更かしをしてから寝るつもりのようだ。沙絵がハルを起こさないようにそっと歩き出すと、隅で丸くなっていたシラセに声を掛ける。

「シラセ。ちょっと付いてきてくれる?」

言われたシラセがすっと立ち上がり、自分の部屋へ向かう沙絵の後ろについていく。沙絵は右手にある自分の部屋へ入ると、シラセが続けて入ってきたのを確かめてから、部屋のドアを静かに閉めた。

沙絵が学習机の椅子に座る。椅子を回して普段とは反対に座ると、背もたれに寄り掛かってシラセを見た。

「本を読むって言ったけど、ホントは違うんだ。ちょっとね、シラセに話を聞いてもらいたいなって思って」

あっ、愚痴じゃないから安心してね。愚痴は忍とかに言うから――沙絵が笑って言う。愚痴ではなく、またただの茶飲み話というわけでもなく。シラセは沙絵がどんな話をしたがっているのか、おぼろげながら想像が付いていた。

「ズバリ言うと、ハルとお母さんのことなんだけど」

ハルとその母親のことだろう、と。

「私ね、自分のことを『上月沙絵』だって分かる前に、お母さんがいなくなっちゃったから」

「だから、お母さんのことは顔も覚えてないし、声も耳に残ってない」

「一応写真とかは見たことあるけど、なんだかピンと来なくって」

ゆらゆらと椅子を左右に揺らしながら、沙絵がシラセに独り言のように語り掛ける。

「ハルはお母さんから生まれて、お母さんが死ぬまで一緒に居たんだよね」

「だから、私が知らないお母さんの姿をいっぱい知ってる。それは間違いない」

沙絵が机の上に置かれたモンスターボールの中で眠るパオを一瞥する。それからまたすぐに、シラセへ視線を戻した。

「シラセにだから、私の考えてることが分かるシラセだから、はっきり本音言っちゃうね」

「ちょっとだけ羨ましい。ハルのことが、少しだけど羨ましい。私そう思ってる」

「分かりにくいし、めんどくさいんだけど、ずるいとは思ってないよ。ちっとも思ってない。これはホント」

「ただ、羨ましいなって。ハルが何か悪いわけじゃ全然ないけど、いいなあ、とは思うから」

自分の気持ちに正直になって、沙絵がハルのことを「うらやましい」と言った。自分の知らない母親の姿を知っているハルに対する嫉妬ではなく羨望、口に出しづらい言葉ではあったけれど、沙絵はシラセの前で敢えて正直に言葉にして見せた。シラセはそれが本心からのもので、沙絵はハルに何ら悪意や害意を抱いていないことを痛いほどよく理解していた。自分に正直になりたいけれど、母の記憶を留めている瑞穂やハルに告げるには少し厳しいものがある。だからシラセを相手にした。そういうことだ。

「……でも、ハルの様子見てたら、お母さんと一緒に居て幸せいっぱいだった、って風でもなさそうだね」

そして沙絵は、ハルの仕草や言葉から、彼女が自分の考えていたような楽しい日々を過ごしていたわけではなさそうなことを察していた。ハルと母親がどんな間柄だったか、シラセは直接聞かされてよく知っている。ハルは母親と十一年間共に過ごし、その背中をずっと見つめ続けてきた。よく言えば自由、悪く言えば放任。ハルが沙絵に直接母の人柄を語ったことはなかったけれど、沙絵が理解するには十分な情報が、ハル自身から伝わってきていたのだろう。

「私にとってのお母さんは、お姉ちゃんだったから」

「お姉ちゃんはお姉ちゃんで、でもお母さんでもあった」

「なんて言えばいいのかな。お姉ちゃんが、お姉ちゃんの役とお母さんの役、その両方をやっててくれたんだ」

「だからね、寂しくはなかったよ。お姉ちゃんがいてくれたから」

「ただ、本当のお母さんって、自分にとってどんな存在なんだろうって、そう思っただけ」

「赤ちゃんだった私をほっぽって榁から出てっちゃったのは間違いないけど、でも、私を生んだのも間違いないから」

物心ついたころには既に母親の姿はなく、母の役割は姉である瑞穂が受け持ってくれていた。沙絵はその境遇を辛いとは思わなかったし、瑞穂の優しさは沙絵をまっすぐな少女にしてくれたと言えるだろう。だから、沙絵は寂しいとは思わなかった。母がいないことを嘆くこともなかった。ただ――「母」という存在が、子供である自分にとってどう見えるのか。それを知りたいという思いは、沙絵の心の中にいつもあった。

沙絵にとって母は、生まれたばかりの自分を残して遠くへ行ってしまった人に過ぎない。ゆえに母を恋しいとは思わなかったし、自分から探しに行くようなこともしなかった。けれど、自分をこの世へ招いたのもまた母だ。心のどこかで、一度くらいは会ってみたい、そんな思いがあってもおかしくはなかった。

「もしお母さんに会ったら、デコピン一発くらい入れて、それから一緒に焼きそばでも食べようって思ってた」

「もちろん、お母さんのおごりだよ。お肉とシーフードをいっぱい入れて、ラッキーのタマゴも絡めた、いっちばん高いやつ」

「けど――そんな時に、ハルがここに来たんだよね」

「お母さんの入った、骨壺を持って」

そうして母に対する複雑な思いを抱えて過ごしていた最中、ハルが榁を訪れた。

「あの時はね、ホントはショックだった。結局、生きてる間に一回も話せなかったな、って」

「どうして私たちを置いてここを出てったのかとか、もう一生訊けなくなったんだなあ、って」

「だってさ、知りたいよ。お母さんには赤ちゃんの私よりも大事なものがあったんだよね、それが何かくらい、私だって知りたかったよ」

ハルの来訪は、母の死の報せと共に。何でもない風を装っていた沙絵だったが、内心思う処はやはりあったようだ。

「それはそれで、ショックだったよ。取り繕ってもしょうがないし、ショックだった」

「ハルが来て骨壺を見せられて、正直辛かったよ。自分にウソつきたくないから、これはハッキリ言うね」

「でもやっぱり『それはそれ』で、ハルが来た事自体とか、ハル自体が何か悪かったとか、そういうことはちっとも思ってない。これもホントだよ」

「だって、ハルはしなきゃいけないことをしただけ。辛いこといっぱいあったはずなのに、ちゃんとやりきったんだよ。ハルはすごいよ」

沙絵が繰り返す。ハルの訪れによってもたらされた事実と、ハルがここへ来たこと自体は分けて考えなければならないし、自分はそう考えている、と。

「こっぱずかしい言い方だけど、私、ハルのことは妹だって思ってるよ」

「優しいお姉ちゃんと、きっちりしてて真面目なハルと、それからちゃらんぽらんな私。なんかさ、でこぼこ三姉妹って感じ、しない?」

それとシラセも入れて、四人姉妹かな。おどけた調子で、沙絵がシラセに言って見せる。

「同じお母さんから生まれたから、血のつながりがあるから。そういう外向きの理由もあるけど、それよりね、『楽しい』って思う」

「ハルが私やお姉ちゃんの妹になってくれたら、きっと楽しいと思う」

「たぶんお姉ちゃん、シラセには言ってるんじゃないから。ハルが妹になってくれたらいいな、とかさ」

沙絵はそう言って見せる。この姉妹は本当に互いのことをよくわかっていると、シラセは考えるほかなかった。それはまさに、先ほど瑞穂から聞かされたばかりの言葉だったからだ。

姿勢を改めて、椅子にきちんと座り直してから、ハルが今一度シラセを見やって。

「それにね……これは、シラセにだけ言うよ。お姉ちゃんにも、ハルにも言えないから」

前置きをしてから、沙絵がこれまでになく神妙な面持ちでシラセに告げる。

「私もね、『お姉ちゃん』になりたかった」

「いつまでもお父さんやお姉ちゃんに護られるだけじゃなくて……誰かを護れるようになりたいって、思ってたんだ」

シラセが目の当たりにした沙絵の瞳には、強い力が宿っているのが見えて。

「お姉ちゃんが私を大事にしてくれてること、よく知ってるよ」

「お姉ちゃんは優しいから。全部独りで抱えて、独りでなんとかしちゃう」

「私にもね、愚痴とか弱音とか、全然言わないんだ。本当に、少しも」

「お父さんと一緒に私を護ってくれて……お父さんがいなくなってからは、独りで、ずっと」

父と姉とは違い、沙絵はこの家で、上月家でずっと護られる立場にあった。深く感謝している、決して不満があったわけではない。

ただ、自分にも「役割」が欲しかった。それだけのことだった。

「お姉ちゃんはね、ずっとずっと私を護ってきてくれた。ホントにね、どれだけ『ありがとう』って言っても足りないくらい」

目に涙を浮かべ、声を上擦らせながら、沙絵が瑞穂への想いを打ち明ける。

「でもね、でも……お姉ちゃんだって、私と同じ、女の子だから」

「お姉ちゃんも幸せになっていいよって、私、ずっとずっと思ってる」

「私のためにお姉ちゃんが何か我慢するとか、そんな風にはしたくないって思ってるから」

「例えばね、お姉ちゃんが誰かのことを好きになって……ううん、好きな人がいて、その人と結婚とかしたいって思ったら、応援してあげたい」

「私は大丈夫だよ。お姉ちゃんが別の人と手を取り合っても、ひとりで立って歩けるから」

「病気に負けない元気な体を作ったのだって、そのためだもんね」

「お姉ちゃんもそう、ハルもそう。好きなことをして、幸せになれるのが一番だよ」

パジャマの裾で涙を拭って、沙絵が一度深呼吸をする。少し赤くなった目元をごまかすように、指先でしきりに擦っている。

「ごめんね、シラセ。なんかいろいろ話しちゃった。このこと、私とシラセだけの秘密だよ」

そろそろ寝よっか、そう言ってドアを開ける沙絵の後ろに、シラセがくっついていく。

瑞穂は沙絵の幸せを願い、沙絵は瑞穂の幸福を望む。そして二人は、ハルの心に凪が訪れるのを見守っている。

彼女らを姉妹と呼ばずして、なんと呼べばよいのだろうか。

シラセには他に何一つとして、例える言葉を思い浮かべることができなかった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。