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10-3 ターポンのいない空

翌朝。

さわやかな朝の空気がハルとシラセを包み込む。初めは戸惑った磯の香りにもすっかり慣れて、ハルはシラセを連れて朝の散歩をしていた。日和田で朝早く起きる習慣がついていて、榁に来てからもそれは変わることが無かった。同じく早起きのシラセと共に、瑞穂と沙絵が目覚めるまでの間散歩をするのが日課になっていた。

海沿いをぽてぽてと歩くハルが、時折シラセの顔をそっと覗き込んでくる。シラセはそれに気付くこともあったし、気付かないこともあった。幾度か繰り返されたのち、ハルがぽつりと小さな声で呟く。

「何か考えとるみたいやな、シラセ」

シラセが顔を上げる。そう語り掛けてきたハルの表情は、あくまで穏やかだった。シラセが考え事をしているようだったから、見たままのことを口にしただけ。そう解釈するのが一番正しいように感じられた。そして実際のところ、シラセはハルと共に散歩をしながら、頭の中ではずっと考え事をし続けていた。

沙絵さんと瑞穂さんから、うちのことなんか聞いたんかな。ハルがそっと付け加える。昨日瑞穂がハルを先に帰宅させてシラセと共にいたこと、沙絵がシラセを自室へ連れていったこと。そのどちらも、ハルはちゃんと知っていた。二人が何もせずシラセと一緒にいたとは思えない、何か話をしたのだろう。そして彼女たちがシラセに話したことは、たぶん、自分にも関わりがあることだろう。ハルはそこまでしっかり理解していた。こういう思慮深いところは、瑞穂や沙絵によく似ている。

やはり、彼女たちは姉妹なのだ。シラセはそう思わずにはいられなかった。

海を飛んでいくキャモメの姿を眺めたハルが、誰に言うでもなく、独り言のように言葉をこぼす。

「この間の沙絵さんとパオ、めっちゃ楽しそうやったな」

ジムで忍とバトルをした時のことを思い返している、シラセは即座に理解した。沙絵が「ハルにかっこいい所を見せる」と啖呵を切り、そして見事勝利した試合。その時の沙絵の様子が、ハルの脳裏へ鮮明に焼き付いていた。ポケモンバトルに挑む沙絵の様子は、凛としていてまっすぐで、そして純粋に楽しそうだった。

「うちは――」

そこで言葉が途切れる。ハルもつい先月までジムに籍を置いていて、ヘラクロスのソラと共に毎日のように鍛錬とバトルに明け暮れていた。それを楽しいと感じていたことにも疑いの余地はない。沙絵とパオが戦う様子を見せられて、ジムトレーナーとしての血が騒がないはずがなかった。以前なら沙絵に勝負を申し込んで、パオとソラの一騎打ちと相成っただろう。

今、ハルの側にソラの姿はない。榁を訪れるにあたってトレーナーを辞めることを考え、ジムリーダーの一人であるスズに預けてきたからだ。けれど、とハルが反撥する。ソラを野生に返すのではなくスズに預けたのは、心のどこかに未練があったからではないのか。今まで触れないようにしてきたけれど、自分自身を偽り続けることはできない。ハルはソラと共にバトルをするのが好きで、それを楽しいと感じていた。

「……うちも沙絵さんみたいに、フィールドに立ってええんかな」

ハルの心は揺らいでいる――いや、揺らいでいると言うよりも、素直になりつつある、そう例える方が適切だった。ずっと押し殺してきた気持ちが、今にも外へ飛び出しそうになっている。何か一つきっかけがあれば、自分の想いをハッキリ言葉にできる。ハルはそう感じていた。

そんなハルの隣で、シラセもまた考えを巡らせていた。ハルと沙絵と瑞穂、シラセは三者から話をそれぞれ聞かされた。誰も相手のことを悪く思っていない、それがシラセの抱いた感情だった。お互いのことを深く想っていて、大切にしたいと考えている。驚くほど一致していて、少しのずれもなかった。全員が、もうあと一歩踏み出せれば、シラセはそう考えずにはいられなかった。

どちらも考え事をしてすっかり頭が冴えたところで、ハルがふと前方にふたつの人影を見つける。おっ、と声を上げて目を細めると、それが面識のある人物の姿であることに気づいたようだった。

「ヒロとマキ、やな」

よし、とハルが前へ歩き出す。声を掛けるつもりのようだ。シラセも横にくっついて歩いていく。

砂浜で遊んでいたヒロとマキに声が届くくらいの距離まで近づいたハルが、おもむろに声を上げた。

「マキちゃん、おはようさん」

「はえ?」

ハルが声を掛けたのは、意外なことにヒロではなくマキの方だった。いきなり呼びかけられたマキはどんぐり眼を真ん丸にして、気さくに挨拶してきたハルをまじまじと見つめている。マキの様子が可笑しいのか、ハルの口元がゆるんでいる。

「えっ? お前……ハルじゃん」

「よっす」

驚いたのはマキだけではない。一緒に遊んでいたヒロも同じだった。

「えっと、この間のお姉ちゃん?」

「せや。覚えとってくれたんやな。マキちゃん、元気にしとる?」

「う、うん。元気だよ。元気元気」

ずいぶん気さくに話しかけるハルのペースに呑まれて、マキがハルと会話をする。元来ハルはお喋りなタイプで、今までは口数が少なかっただけに過ぎない。地が出ると、こんな風に会話のペースを握ってしまえるのだろう、とシラセは考えた。

マキの目を見ながら、ハルがすっと手を差し出す。一瞬マキが驚いてのけぞるものの、ハルに害意が見られないことを確かめると、また元の位置まで戻ってきた。ハルはそのまま手をマキの頭に添えて、ふわりとした優しい手つきでなではじめた。マキが緊張していたのはほんのわずかな間だけで、しばらくもしないうちにうっとりした表情をして目を細めた。年下の子供の扱いには慣れている、以前そんな話をしていた記憶があるが、あれは伊達でも何でもなかったようだ。

「髪の毛さらさらで綺麗やな、マキちゃん」

「えへへ。ありがと、お姉ちゃん」

「へぇ、やるじゃんハル。マキがこんな顔するなんて滅多にないぜ」

「前住んでた所、弟とか妹みたいな子いっぱいおったから」

マキを手懐けてしまったハルに、ヒロがすっかり感心していた。

「今日は何しとったん?」

「えっとね、お兄ちゃんと一緒に、お母さん捜してた」

「お母さん……?」

砂浜で何をしていたのかというハルの問いに、マキは「お母さんを捜していた」と答えた。その意味するところがうまく飲み込めなくて、ハルが首をかしげる。するとヒロが一歩前に出てきて、マキの言葉に注釈を付けくわえた。

「おれ達の母さん、どっちもここで消えたんだ」

「消えた?」

「ああ。消えた。本当に、『ふっ』って感じでさ。もう四年くらい前になるっけな。それからずっと捜してるんだ」

「行方不明になった、そういうことなんやな」

ヒロとマキの母親たちは、この砂浜で突然いなくなってしまい、以来一度も顔を見せていないという。どこか遠くへ行くような理由もなく、ただ忽然と姿を消した。ヒロとマキは唐突に消えてしまった母親の面影を捜して、こうして砂浜を歩いている。ヒロの言いたいことは、つまるところそういうことだった。

「なんかさ、榁って時々こういうことがあるらしいんだ」

「えらい物騒な話やな。人が急におらんようになるなんて。まあ……うちも人のこと言われへんけど」

「だよな。どこへ行ったのかとか、何してるのかとか、全然分からないけど、とにかく急にいなくなるんだよ」

「ヒロとマキちゃんのおかん以外にも、そういうことあったりするんや」

「あるぞ。神社の姉ちゃんだってそうだって言ってたし。けど、おれもマキも母さんが死んだって思ってねーから、こうやって二人で捜してるんだ」

ああ、とハルが頷く。姿を消しただけで、死んだと決まったわけではない。ヒロの言葉には頷けるものがあった。ヒロもそう考えていただろうし、より幼いマキにしてみればもっとそう考えたに違いなかった。ヒロはマキの気持ちに寄り添って、一緒に母親を捜している。二人の関係を理解できたハルが、穏やかな顔つきをして見せた。

「ヒロはええお兄ちゃんやな、マキちゃん」

「そうだよ。マキの大好きなお兄ちゃん」

ヒロの腕にぎゅっとしがみつきながら、マキが嬉しそうな顔を見せた。それからハルの方へ移ると、ハルの腕にも同じくしがみつく。すっかり自分に懐いたマキを見て、ハルは思わず頬をほころばせる。

「これからもマキちゃんのええ『お兄ちゃん』でおったってや、ヒロ」

「へへっ、言われるまでもねーよ」

二人と仲良くなったハルを見て、シラセもまた、温かいものが胸にこみ上げてくるのを感じるのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。