長いような短いような、ふわふわした気持ちのまま日が経っていって、今週もまた金曜日を迎える。けれど今週の金曜日は、先週までの金曜日とはうって変わって、気が重い憂鬱なものだった。
憂鬱な気分なのは、佳織がいないから。それが主な理由なのは間違いなかったけれど、もう一つ気が滅入る出来事があって。
(こんなときに、お父さんの夢なんて見たくなかった)
昨日見た悪い夢。こういう夢に限ってしっかり記憶に残るから、辛いとしか言いようがない。
お父さんは私が小学校へ上がる直前、突然家を飛び出していった。以来一度も家へ戻ってきていないし、連絡をもらった記憶もない。私の中のお父さんの姿はもうずっと変わっていなくて、そしてこれからも変わることなんてないと思ってる。私みたいな子、つまりお母さんしかいないって子は全然珍しくなくて、知ってるだけで六人くらい同じ家庭環境の子がいる。ありふれた光景、ってことだ。
夢の中で、私は舞台の上に立って、発表会のために作った服を着て、来ることのないお父さんをずっと待ちつづけていた。二度と思い出したくもない、辛くて悲しい記憶の精緻な再現だった。
幼稚園に通っていた頃、私はピアノを習っていた。卒園式を間近に控えた三月ごろ、小さな発表会に出る機会があった。練習をしっかりこなして、綺麗な服も着せてもらって、後は本番でお披露目するだけ。けれど待てども待てども、お父さんが姿を見せない。どうしてだろう、もうすぐ私の発表が始まるのに。どうしてお父さんは来ないんだろう。
(お父さんがどこかへ行ったのは、その日だった)
私の発表会の日に、お父さんは家を飛び出していった。
お父さんがいなくなったことで家計が苦しくなって、私はピアノを辞めざるを得なかった。お母さんの顔色を伺いながら、息を潜めるように暮らしている。ポケモントレーナーになって家を出るという選択肢もあったけれど、お父さんが家を飛び出すきっかけになったポケモントレーナーになるくらいなら、辛くても家にいた方がずっとマシだと思った。ポケモンは好き、でも、ポケモントレーナーにはどうしてもなりたくなかった。
(そうして今は、来ることのない佳織を待ってる)
かつて舞台の上でずっとお父さんを待っていたあの頃のように、私は佳織が来てくれるのを待ち続けている。心のどこかで、佳織もお父さんと同じように来ないんじゃないかと思いながら。
「佳織、今日も来なかったし。一体いつになったら学校来るわけ?」
「来週には……来てくれるといいんだけどね、学校」
裕香は相変わらず佳織のことを探し続けている。前に比べてちょっとは落ち着いてきたように見えるけど、朝になると毎日佳織が来ていないか確かめにくるし、部活にもほとんど顔を出していない。裕香はこんな調子だから、側にいてあげないとって思う。こうして裕香と一緒にいる私もまた、同じことだけど。
どこともなく校内を歩き回りながら、裕香が独り言をつぶやくように、私に話しかけてくる。
「……分かんない。佳織、なんで学校に来ないのよ」
「来たらちゃんと事情説明してもらって、遅れた分取り返す計画作ってもらわなきゃ」
「部活あるのに、これから夏の大会だってあるのに、ここまで来て無責任過ぎじゃない」
裕香はまだ、佳織が部活を辞めたと思っていない。もっと言うと、辞めたことを認めていないっていうか。佳織がポケモン部に戻ってくることが前提で、戻ってきてからどうするかっていう話ばかりしている。
絵空事だった。事実、佳織は部活を辞めてしまったのだから。叶うことなんてない絵空事ばかり並べていて、現実を受け入れられずにいる。私は裕香に何度も「諦めなよ」って言おうとしたけど、今の裕香にはとても届くとは思えなくて、その都度言葉を飲み込んでしまう。
「どっちが無責任なのよ」
「あれだけ、『お姉ちゃんは無責任だ』なんて言っておいて」
裕香の言い方が気になって、私がふっと顔を上げる。
佳織にはお姉さんがいた。確か――そう、双子のお姉さんだって聞いた。顔もビックリするくらいそっくりで、二人が並ぶと見分けが付かないとも。けど、私が知ってるのはそれくらいで、他に佳織のお姉さんについて知ってることはほとんど無い。佳織は自分のことはあまり話さずに、人の話を聞いていることの方が多かったからっていうのもある。
「ねえ、乃絵美。乃絵美は知ってるでしょ、あたしに妹いるの」
それはよく知ってる。後ろを振り向いた裕香に応えるように私が無言で頷くと、裕香が再び前を見る。
「佳織ほどじゃないけどさ、バトル強くて、ポケモン育てるのも上手くて、親からもちやほやされてる」
「あたしは比べられんのが絶対嫌だから、バトルなんてしたくない。ポケモンだって本当は好きじゃない」
「けど、じっと黙ってるのも癪だし。ムカついてくるし」
「そしたらさ……佳織がポケモン部で目立っててさ、全国まで行ってさ、これだって思って」
「佳織が勝ってポケモン部が全国行ったら、あたしらだって全国行ったってことになるでしょ」
裕香の言葉に、私は反論もせずに黙って耳を傾ける。
正直なところ本音では、裕香の言い方はどうだろうって思う。確かに全国大会に出たって実績は付くけど、ホントにそんなことでいいのかって。私だって全国大会に出たいとは思ってる、思ってるけど、裕香のそれとは違うって思う。
けれど……佳織の強さに頼っていたのは間違いなくて。最後は必ず佳織が勝つ、だから私たちは負けちゃっても構わない、そんなこと考えたこともないって言ったら、嘘になる。ポケモン部全体が佳織に依存してて、佳織に甘えてた空気があったように思う。それは、私も含めてだ。
だから本音を言うと、私だって佳織に戻ってきてほしいって思ってる。佳織に戻ってきてもらって、また前みたいなポケモン部になってほしい。本当はそう願ってる。結局のところ、裕香と同じだ。
「だからあたしマネージャーになって、いろいろやってきたんだけどさ」
「去年の秋ぐらいに佳織とミーティングしたんだけど」
「その時話聞いたら、佳織お姉ちゃんいて、佳織は妹だって言うから」
「佳織のお姉ちゃんは正直そんなに強くないって、そんな風に言ってた。佳織は嘘言わないから、本当だと思う」
「ポケモンバトルが強い妹と、大して強くないお姉ちゃんってさ、めちゃくちゃ被ってて」
「佳織って、あたしの妹みたいなもんじゃないかって考えたら、もやもやして、イラついてさ」
裕香には妹がいて、妹は裕香よりもバトルが強い。佳織にはお姉さんがいて、佳織はお姉さんよりバトルが強い。
確かに――裕香の言う通りだ。裕香の身になってみたら、気分は良くないかもしれない。
「けどさ、乃絵美だって試合出てるから分かってると思うけど」
「佳織がいなかったら、うちらの部弱いでしょ」
「よその学校に勝てるメンバーなんて、ほとんどいないし」
「うちらの部から佳織がいなくなったらみんな困る。だから何も言わなかった。だから黙ってた」
「……だけどさ。だけどさ、だけどさ」
裕香が不意に立ち止まって、くるりと後ろへ振り返った。全身をこっちに向けて、ぎらぎらした眼差しを私に向けてくる。
「佳織がいなくなったら、うちらの部勝てないんだよ? 勝てなくなっちゃうんだよ?」
「せっかくここまで来たのに、全国常連だって言われるくらいのところまで来たのに、あたしだってここまでやってきたのに」
「なんで、今更こんなことになるわけ?」
「無責任だよ、無責任すぎるよ。だって佳織、部長だよ? キャプテンだよ? 部長が、キャプテンが、無責任じゃどうしようもないでしょ」
叩きつけるように、畳みかけるように、裕香が私に思いをぶつけてくる。
「あたしだけじゃない。みんな佳織のこと当てにしてて、いろんなこと任せてる」
「佳織には、みんないっぱい預けてるものがあるんだよ。みんな佳織に預けて、それでここまで来た」
「預かったままどっか行っちゃうなんて卑怯だよ、泥棒とかそういうのと何も変わらない」
裕香の言葉を、ポケモン部以外の人が聞いたら、どっちが無責任だって思うかも知れない。多分、裕香の方がずっと無責任だって思うに違いない。
けど、私はポケモン部にいたから分かる。裕香の言葉はある意味では正しくて、みんな正面切って否定することなんてできないものなんだって。みんなどこかで佳織に依存して、佳織を頼って、佳織がなんとかしてくれるって思ってた。佳織にいろんなものを預けてたっていう裕香の言葉は、確かにその通りだった。
本当は自分で持たなきゃいけなかったかも知れないものを佳織に預けて、それを佳織が背負うままにしてた。私も裕香も、他のメンバーも、顧問の先生だって例外じゃない。
「乃絵美、分かってるでしょ」
「うちらの部には、佳織がいなきゃダメなんだよ」
「佳織に話を聞かなきゃ。何があったのか知らないけど、とにかく戻ってきてもらわなきゃ」
「今ならまだ間に合う、戻って来れる――佳織に、そう言わなきゃ」
私は俯いたまま、裕香の言葉に返事をできずにいて。
けど、きっと裕香も返事なんて欲しがってなくて、自分の意見が否定されなきゃ、もうそれでよかったに違いない。
そうして、私と裕香が廊下で立っていたときのことだった。
「……あれ、野崎。なんで走ってんの?」
裕香が何かを見つけて奥を指差す。私がハッとして振り返ると、階段の踊り場をよろめきながら駆けていく後輩の男子――野崎の姿が見えた。しばらくすると、下からポケモン部のメンバーがパラパラ階段を上ってくる。
気が付くと、裕香が私を置いて階段の方へと走り出していた。間髪入れず追いかけて、裕香の後ろへ付く。しばらくもしないうちに、私と裕香も階段まで辿り着いて。
「美晴! どうしたの!? なんかあったの!?」
ちょうど下から上がってきた同級生の美晴に声をかけて、なんでみんな走ってるのか訊ねてみた。
「乃絵美! 佳織が、佳織が屋上にいるって、千穂の友達が見たって言ってた!」
「えっ、佳織が……!?」
佳織。佳織。佳織。
それは、ポケモン部のみんなが待ち望んでいた存在で、待ち焦がれていた存在で。
「佳織っ!」
「裕香!」
遮二無二駆けていく裕香のあとを追って、私も屋上へ走って行った。
階段をあっという間に乗り越えて、裕香が扉を押し開けるのに続いて屋上へ躍り出る。
「佳織っ! 佳織ったら! そこにいるんでしょ!? 返事しなよ!」
声を張り上げて佳織の名前を呼ぶ裕香を横目に、私は息を整えながら屋上を見渡す。今ここにいるのは誰なんだ、本当に佳織はいるのか。逸る気持ちを落ち着かせて、しきりに目を凝らした。
屋上にいたのは――康一と啓太、千穂、それから……どういうわけか、クラスメートの早紀の姿もある。あとは美晴、野崎……ポケモン部のメンバーばかりだ。
下から走ってきた集団から明らかに離れて、フェンスのすぐ近くに、同じくクラスメートの愛佳が立っていた。小さな肩をふるわせて、屋上に吹きすさぶ風によろめきそうになっている。
肝心の佳織の姿は……どこにも見当たらなかった。
「はっ、はっ……だ、ダメっぽいよ裕香、ここにいないよ、佳織……」
とても強い失望を込めて、私が呟く。
集団の先頭に立っていた康一が一歩前に出て、愛佳に近づいていく。
「杉本……お前、どうしてここに」
佳織はここにはいなかった。代わりにいたのは愛佳で、その理由は少しも分からない。だから康一が愛佳にどうしてここにいるのか訊くのは、自然な成り行きだった。
「なあ、杉本……ここに、佳織来なかったか? 俺も康一も、あいつのこと探してんだ」
「佳織は? 佳織はどこ? それに、なんであんたがここにいるの? 佳織はどこ!? どこにいるのよ!」
「ねえ、佳織どこ? あたし佳織に言いたいこと山ほどあんだけど、どこ行ったの? ねえホントどこ行っちゃったの?」
啓太、早紀、裕香。みんな口々に愛佳に呼びかけて、そして一様に佳織のことばかり訊ねている。
愛佳から答えは帰ってこない。悲しげな目をこちらに投げかけたまま、一言も言葉を発さない。そうして膠着状態が続いていた最中に、康一が再び声を上げて。
「お前の足元にあるやつ……モンスターボール、だよな」
「こ、壊れてる……みたい、ですけど」
赤い部分と白い部分が分離して、赤い部分が粉々に粉砕されたモンスターボールが、あたかも死体のように愛佳の側で横たわっていた。一体誰のモンスターボールで、中に何が入っていたのか。分からないことがあまりに多すぎて、頭が働かない。
震える声で、康一が愛佳に声をかける。
「なあ杉本、それは……」
愛佳は体を小さく震わせながら、掠れた声で私たちに返事をして。
「……佳織ちゃん、の」
「佳織ちゃんの、オオスバメの……ツイスターが入ってた、ボールだよ」
確かに――確かに、そう口にした。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。