※今回のパートには、一部に不快感を催す可能性のある表現が含まれています。このパートを飛ばしても、本筋には影響はございません。
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週も後半に差し掛かった、木曜日の早朝。今日は雨こそ降っていないが、昨日から変わらずの曇天で、陽の光が差し込む兆しは見えない。太陽は雲隠れしたまま、その姿を現さない。
今日もまたいつもと同じように、朝子が並んで学校に向かう。朝子が何か話をしてるけど、正直今の俺の耳には何も入ってこない。頭の中はいなくなった佳織のことでいっぱいになっていて、他のことを考える余裕なんてない。佳織の抜けた穴を埋められる気がしない。俺じゃ、佳織の代わりにはなれない。
そんなことばっかり考えてたせいだろう、気付いたら、俺はこんな言葉を口に出していた。
「なあ、朝子。佳織のこと、何か知らないか」
朝子は怪訝な顔をしていた。話をしていたらいきなりまったく関係ない佳織の話題が出てきたんだから、まあ無理もない反応だろう。それでも俺は、朝子が佳織のことを何か知っていないか訊いてみたかった。
「なんでこっちに訊くのよ。部活同じだったんだし、むしろ啓太の方がよく知ってんじゃないの?」
「そっか、知らないか」
この様子だと、朝子は佳織のことで何か俺の知らないことを知ってるってわけでもなさそうだ。面倒なことになる前に、もう話を打ち切ってしまおう、俺がそう考えていた時だった。
「あんまりさぁ、こういうこと言いたくないけど、佳織とはもう関わらない方がいいって」
「……関わらない方がいいって、それ……どういうことだ?」
「どうだっていいじゃない。とにかく、啓太はヘンに佳織と関わらない方がいいって言ってるの」
「なんでだよ、佳織が何かしたって言うのかよ」
「そのうちみんな分かるよ。同類に見られたくなかったら、もう話にも出さない方がいいよ」
関わらない方がいいって、そのうち分かるって、同類に見られるって、どういうことだよ。問い詰めても問い詰めても答えをはぐらかすばかりで、新しい疑問ばかりが湧いてくる。朝子は明らかに何か知っているように見えたけど、俺にその答えを言うつもりはないみたいだった。
朝子は一体何が言いたいんだ。あいつの口ぶりじゃ、まるで佳織が何か悪いことでもしでかしたみたいじゃないか。それと佳織がポケモン部を辞めたことと何か関係があるとでも言うのか。何がなんだか、さっぱり分かりゃしねえ。
「あたし、言うことは言ったから」
そう言ったきり、朝子はもう何も答えようとしなかった。
空虚だった。終わったあとはいつもこんな気持ちになる。
「俺くらいの歳のやつなら、みんなやってることだろうけどさ……」
丸めたちり紙を屑かごへ捨てて、そのまま床へ座り込む。さっきまで高鳴っていた心臓の鼓動が、波が引くようにサーっと落ち着いていく。後に残されたのは、もやもやした気持ちと脱力感だけ。
床には、縁が濡れてふやけた写真集が広がっていて。
「……ラルトス見て抜いてるやつなんて、俺くらいしかいないだろうな……」
そこには、あどけない姿のラルトスが、悩ましげな構図で横たわっていた。
小六の頃だった。家から少し離れたゴミ捨て場に、エロ本がまとめて捨ててあるのが見えた。俺は……なんとなく気になって仕方なくなって、辺りに誰もいないのを確認してから、どんな本があるかを確かめてみた。普通の人間が写ってる本もあったけど、それは正直どうでもよかったし、欲しいとも思わなかった。
けど、これだけは違った。これだけは、どうしても俺の手元に置いておきたかった。
目にした瞬間に心臓がドキドキして、体がかあっと熱くなるのを感じた。なんて言ったらいいのか、とにかく興奮した。ランドセルを開けて、理科の教科書と社会の資料集の間に挟んだ。まったく迷わなかった。持って帰らなかったら一生後悔するって思った。まっすぐ家に帰った。家には誰もいなかった。親は遅くまで帰らないって分かってた。
その後どうしたのかなんて、わざわざ言うまでもない。
俺がポケモンに興奮するってことを知ったのはその時だった。昔から愛嬌のあるポケモン――このラルトスとか、シャワーズとか、ツタージャとかユキメノコとか、挙げればマジでキリがない。そういうのを見ると体がうずうずするのを感じてて、一体何なのか分からなくてもやもやしてたけど、俺はポケモンが「そういう意味で」好きなんだって理解したら、すとんと胸に落ちた。
ラルトスの写真を見て、俺は自分の性癖を理解した。理解はしたけど、いろいろ引っかかることもあって。
(けど……俺、やっぱ変なのかな)
クラスのやつらと話をして、あいつらに話を合わせながら聞いていたら、俺は自分が他のやつらと何か違っていて、もしかしたらおかしいんじゃないかってことに気が付いた。
はっきり言う。俺は人間で興奮した経験がない。クラスのやつはみんな、アイドルの誰それだとか好きな女子を想像してやってるって言ってるけど、俺にはまるでピンと来ない。可愛いと思う同級生だってほとんどいない。同級生の裸を見たいとも思わないし、ましてやそんな想像をすることもない。想像したって、ただつまらないだけだ。それなら俺は、可愛いポケモンを眺めていたいと思った。
(ポケモンでこんなことしてるって、俺やっぱりどうかしてんじゃないのか)
こういう写真集があるってことは、少なくとも俺みたいなやつは他にもいるってことだと思う。ラルトスに水着を着せたりポーズを取らせたりした写真を見て興奮するやつは、きっと俺だけじゃない。だけど、周りには俺みたいなやつは誰もいない。ポケモンに興奮するなんてやつは見たことも聞いたこともない。
俺、やっぱりどうかしてんじゃないか。普通じゃないんじゃないか。
「……はぁ」
空気が淀んでいるのを感じた。窓を閉め切ってやってたんだから当たり前のことだ。息をするのも億劫になる。重い腰を上げて立ち上がると、窓を開けて外から風を取り込む。
すると――薄い雲に被われた月が、ぼんやり光っているのが見えた。
(月、か……)
ふと思う。月は太陽の光を浴びて輝いているという。夜の月は空を明るくしているが、それは太陽の光を反射しているにすぎない。太陽がなければ、月は光を失う。月は太陽に依存して、その輝きを自分のものにしている。
佳織とポケモン部の関係と、よく似ていると思った。
今になって思う。佳織はポケモン部の太陽で、俺を含めた他のやつらはみんな月でしかなかった。佳織が強く輝いていたからこそ、俺たちも光ることができた。それは決して自分たちで成し遂げたことじゃない。みんな佳織に頼っていたことだ。佳織がいなくなれば瞬く間に輝きを失うのは、当たり前のことだった。
(どうすりゃいいんだよ)
(康一だって、赤塚だって、久保だって、俺だって、佳織みたいになるのは無理だ、できるわけがない)
(じゃあ、俺たちはこれからどうしていきゃいいんだよ)
やるせない思いだけが募っていって、自分の無力さを思い知らされる。
それでも明日はやってきて――俺は部活に行かなきゃいけない。
翌日。今日は金曜日。だからといって何が変わるわけでもないし、気分がいいわけでもない。
隣には朝子の姿もあった。これもまたいつも通りだ。
「昨日ね、麻婆豆腐作ったの。自分で作り方調べて。材料も買ってきて。パパも美味しいって言ってくれたし」
隣であれこれ喋ってるけど、正直まるで興味を持てない。
「こないださ、まどかが須藤君と哉澄まで服買いに行ったって言ってたよ。今度行こうよ、時間あるときにさぁ」
「ああ……うん」
上の空でそれっぽく相槌を打っていたら、案の定朝子には見抜かれていて。
「……どうしたのよ、啓太。なんか朝から浮かない顔してるじゃない。夜更かしでもしてたわけ?」
確かに夜更かしはしてた。してたけど、朝子に言えるようなことじゃないし、寝坊の多い朝子に言われたくない。とは言えなんか言わなきゃダメだ。じゃあ何を言おうか。ぐるぐる迷って、けどうまいごまかしも見つからなくて、頭に浮かんだことをそのまま喋ってしまった。
「あのさ、佳織ポケモン部辞めただろ。そのことずっと考えてた」
「は? 佳織のこと考えてたわけ? なんで佳織なんかのこと考えてんのよ」
朝子が立ち止まって食ってかかって来たのを見て、俺は思わず驚いた。つられて立ち止まると、朝子がそこからさらに一歩踏み込んできた。
「関わらないでって言ったじゃない。うちの話聞いてなかったわけ?」
「なんだよ、カッカして。別に俺の勝手だろ」
「信じらんない。なんであんなののこと考えてるの? ちょっとさ啓太、ふざけてるの?」
「別にふざけてなんかねえよ、お前こそどうしたんだよ」
「あんなクズのこと、考えてるってだけでもムカついてくんのよ」
あんまり朝子が佳織のことを悪く言うもんだから、俺の方も頭に来た。
「クズってなんだよそれ、お前に佳織の何が分かるってんだよ」
「じゃあ、啓太が佳織の何を知ってるわけ?」
朝子に真顔で言い返されて、俺は言葉を失う。何か言おうとしても何も言葉が出てこなくて、ただ声にならない声しか漏れてこない。
確かに――俺は、佳織のことをほとんど知らない。
「何って……そりゃ、お前……」
「ほら、やっぱり何も知らないんじゃない。何も知らないのに、よく言えたもんだわ」
フンと鼻で笑って、朝子が再び前を向いた。
「佳織佳織って、うるさいのよ」
「ま、啓太もそのうち分かるって。もう半分くらいの子が知ってるはずだし」
「もう言わないから。それでも佳織がーって言うなら、勝手にして」
「あんなのと一緒にいるなんて、信じらんないってだけだから」
朝子は明らかに何か知ってる。学校に来なくなった佳織のことを知ってるはずだ。けどこんな有様じゃ、それがなんだって聞き出すことなんかできっこない。一体朝子は佳織の何を知ってるんだ。何を知ってたら、佳織をここまで貶せるってんだ。
お互い黙り込んでむすっとしたまま、結局学校まで一言も喋らずに歩き続けた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。