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Stage 4-5

ここ数日はろくに眠れていない。それは昨日も同じで、昨日は今までに輪を掛けて酷かった。

(夢を見た。えぐい夢を見た。ひどい悪夢だった)

昨日の夜も、佳織が夢の中に現れた。わざわざやってきたっていうのに、相変わらずこっちには一切の興味を示さない。背中を向けたまま、あのオオスバメを隣に置いて、優しい手つきで撫でつづけている。見せるのは背中だけで、顔は向ける素振りさえ見せない。いくら声を掛けても、名前を呼んでも、喉が涸れるまで叫んでも、佳織に声は届かなかった。

声にならない声をあげながら目を覚まして、全部夢だったことを認識するまでずいぶん時間がかかった。寝汗をびっしょりかいていた。全身が汚れているような感覚がいつまで経っても拭えずに気分が悪くなって、火傷しそうなくらい熱くしたシャワーを浴びてから家を出てきた。教室の席に付いてしばらくしてから、ようやく気持ちが落ち着きを取り戻してきた。

何もする気にならなくて、ただ呆けたようにぼんやりしていると、いつものように朝子がやってくるのが見えた。自然と気持ちを切り替わって、朝子と対話するときの自分ができあがる。

「ねえ早紀ちゃん。あの、佳織のことなんだけど」

佳織、という名前にぴくんと眉が動いて、大きく開いた目を朝子に向ける。

「早紀ちゃん知ってる? 佳織が、なんで学校に来てないか」

「知らない。聞いたこともないし」

ぶっきらぼうな声になっていることを自覚する。あからさまに不機嫌な色が出た。少しだけ後悔する。自分の心の内を、朝子に知られまいかと思ったから。けれど幸い、朝子はそれ以上踏み込んでこなかった。朝子が何も知らないと見るべきか、それとも距離の取り方を理解していると考えるべきか。仮面を被っての心理戦は、神経をすり減らす。

「昨日さ、パパが買ってきた『FOCUS』で見たんだけど――」

朝子が何か言いかけた直後に、横から別の声が刺さってくる。

「おはよー」

「深雪ー、おはよう」

声の主は深雪。これもまたいつものこと。朝子と深雪は、いつでも二人セットだ。二人セットで、自分にくっついてくる。生存戦略ってやつだろう、きっと。

適当に挨拶を交わしてから、二人の声に耳を傾ける。耳を傾けるふりをしてるって言う方が正しいけど。どうせ、この二人の話すことなんて決まっている。何度も聞いているし聞かされている。それは自分の役に立たない。役に立つとは思えない。だから、聞いていても聞いていなくても結果は同じ。同じ結果が待ってるなら、より楽な道を選ぶべき。それが自分の信条だった。

きっと、佳織とは合わないだろう。まっすぐでひたむきな、佳織とは。

「……ごめん。ちょっとお手洗い行ってくる」

「あ、分かった」

「行ってらっしゃーい」

また胸がむかついてきた。外の風を浴びにいこう。朝子と深雪に断ってから、のそのそと自分の席から立ち上がる。お手洗いには行くつもりはない。行きたい場所は別にある。

「それでさ、あっちゃん。あの話ってホントなの? お姉ちゃんなのに全然顔つき違ってたけど」

「間違いない、間違いないって。だって小学校一緒だった友達が言ってたから――」

朝子と深雪の会話にはまるで興味が持てなくて、後ろ髪をさらさらなびかせながら、さっさと教室を出て行く。

 

屋上で思いのたけを叫ぶ、そんな型通りの青春には縁がない。自分にとっての屋上は、汁を吸いきってぐつぐつ低い音を立てている雑炊のような気持ちを、もっともっと煮詰めるための場所。行き場のない気持ちを自覚して、己れの気持ちを吐き出さずに済むための言い訳を捏ねくり回すところ。

簡単に叫び始める映画やドラマの主人公たちに、共感することはできない。

「……曇りか、今日は」

雨は昨日のうちに上がっている。しかしながら雲は晴れる兆しさえなく、分厚さを保ったまま空を制圧している。空の支配者たる太陽はその姿を見せない。ただただ憂鬱な曇り空だけが、見渡す限り空を塗りつぶしている。雲が自分を押しつぶしてくるような錯覚を覚えて、息苦しさを感じた。

屋上から下を見つめる。こうやって錆だらけの手すりをつかんで、下の世界を見るのが好きだった。正しく言えば、ポケモン部が練習をしているところを見るのが好きだった。もっともっと正確に言えば、ポケモン部にいる佳織の姿を見ているのが好きだった。とても好きだった。

足跡の残るグラウンドと、水たまりのできたコート。屋上からはそのどちらもよく見える。全貌が一望できるビュースポットだ。こうして自分が屋上に立っているとき、佳織は決まってグラウンドかコートにいて、いつも練習に精を出していた。ジャージを着て練習をしている佳織を見るのが好きだった。いつでも力強く立って、凛とした姿を見るのが好きだった。とても好きだった。

下を見ているとき、いつも不思議な気持ちに包まれたものだった。自分はこうして高いところから下を見下ろしているはずなのに、確かに自分の方が高い場所に立っているはずなのに、まるで――まるで雲の上を見つめているような気持ちになった。

自分が見ているもののせいなのは分かり切っていた。それは雲の上で光り輝いていて、すべてを見下ろしている。ちっぽけな身体でどれだけ手を伸ばしたところで、決して届くことなどない。気が遠くなるほどに、高い、高い、果てしなく高い場所にいる。

佳織。自分にとっての太陽。決して届かない存在。身を焼き焦がす光を纏う星。

今はもう佳織の姿はない。佳織を失ったポケモン部にどんな価値があるっていうのか。待っているのは空中分解だけだ。残った連中にできることなんてありはしない。自分だって同じだ。佳織がいなくなったことで心は千々に乱されて、ただただ虚しい気持ちだけが募っていく。

ああ、だめだ。あれだけ叫ぶことを否定して、叫ばないための小細工をたくさん考えてきたのに。たかだか四日間が空いただけで気持ちの抑えが効かなくなって、今にも大声を張り上げてしまいそうになっている。喉から血が出るまで叫んで、そのまま血を吐いて死んでしまいたい。こんなことを真面目に考えてしまうほどにはおかしくなっていた。

「あーっ……あぁーっ! 畜生が!」

濁流のように渦巻いていた思いの水門を開いて、右手の握りこぶしを手すりに叩き付けた。手すりをぶっ叩いたところで何も得られないことくらい理解している。ただの八つ当たりだって自覚は十分ある。そうじゃない。理解とか自覚とかそういうのじゃ、もう抑えが効かなくなってるってことだ。

痺れるようにじんじん痛む右手を無気力に揺らしながら、救いを求めて空を仰ぐ。

目に映ったのは、一面の曇り空だけ――ただ、それだけだった。

 

屋上へはもう行かない。行ったところで無為なことを学習した。佳織は学校に来ていない。屋上へ行ったところでどうしようもない。何度も繰り返して、やっと気が付いた。

こうやってあからさまに不機嫌な様子を見せていたせいだと思う、朝の時間以外、朝子も深雪も話し掛けてこなかった。代わりに二人だけでひそひそ話をしていた。きっと佳織の話だろう、それも聞きたくないような。二人で話しててくれるならそれでいい、勝手にすればいい。休みでもないのに佳織に会えないんだ、不機嫌にもなるだろう。

道すがら、いつもならポケモン部が使っているコートを通りすがる。最近はポケモン部じゃなくてテニス部が使っている。ポケモン部がコートを押さえ忘れたってところだろう。佳織がいない影響がこんなところにも出ている。本当に何から何まで佳織に頼りきりだったわけだ。自分だって、他人のことは言えないけれど。

そのコートの近くで、見知った姿を見つけた。

(深雪、こんなとこで練習してるんだ)

深雪がいた。椅子に座って――そうだ、あれだ、ユーフォニアムだ。ユーフォニアムを吹いている。以前深雪が名前を教えてくれたことがある。それはともかく、他の部員から少し離れていることが気になった。別に深雪が仲間外れにされてるとかそんな噂は聞いた記憶はない。他の部員とも仲良くしてるのはちょくちょく見かける。じゃあ、深雪はどうして一人でいるんだろうか。

遠巻きにしばらく様子を見ていると、誰かが深雪に近付いていくのが見える。あれは話し掛けようとしているに違いなかった。背格好に見覚えがある、あれは、確か。

(……あいつ、大木じゃん。あんなとこで何やってるわけ?)

深雪にアプローチを仕掛けたのは、これまた同じクラスの大木だった。大木康一。嫌いなやつの一人だ。佳織と付き合ってるって方々でいいふらして、自分が何か特別だと思い込んでいる凡人。一体あいつが佳織の何を知ってるっていうんだ。同じように佳織にくっついている杉本と並んで、顔も見たくないレベルで嫌いなやつだった。

大木だって分かっただけでどうでもよくなった。深雪がユーフォニアムの演奏を止めて何か話してるけど、気にする理由もない。どうせくだらない話をしているに決まっている。深雪も深雪だ、あんなのとよく話す気になるな。一体何がいいんだか、さっぱり分からない。

それにしても、こんなところをふらふらうろついてるってことは、大木も佳織の状況を知らないんだろう。今佳織がどうしているかを把握していないって意味では、自分も大木も大差ない。それがいいのか悪いのかは別として。

北門から学校を出て、海沿いの道をぼちぼち進んでいく。ほとんどの生徒は北門を通って学校へ来て家へ帰る。生温い風が吹いている。鼻につく磯の匂いが漂う。まさしく榁を包む空気そのもの。十四年間生きてきて、ここ榁に生まれ育って良かったと思った記憶はまるで無い。周りの空気を読んで自分の気持ちを抑えつけなきゃいけない。それが求められてるのがありありと分かるからだ。

風に髪を揺らされながら歩いていくと、古びた喫茶店が見えた。「ペリドット」、確か名前はそれだ。いつも横を通りすぎるだけで、中に入ったことはない。人気は感じられないのに不思議と潰れる気配もなくて、自分が物心付いたころからずっと変わらずにここに有りつづけている。

通り過ぎるままぼんやり「ペリドット」を見ていると、店員の手で扉が中から引かれて、ベビーカーを押した女の人が出てくるのが見えた。

(赤ちゃんかな、あれ)

ベビーカーを押してるってことは、赤ちゃんを産んだばかりってことだ。少なくとも一年以内には。通過儀礼とも言える中学に上がる頃の体の変化は自分にも起きた、だから自分も女性だってことは自覚している。あの女の人と同じってこと。同じってことは、自分にも子供ができるってことでもある。

いつかは自分も、誰かの子供を産むってこと?

(……想像できない。ちっとも想像できない)

未来図をまるで頭に思い描けなかった。真面目にまったく想像できない。今はもうただ佳織のことしか考えられなくて、男子なんて心底どうでも良かった。好きな人? 彼氏? そんなのいるわけない。佳織しか見えない、佳織にしか情熱を抱けない。佳織のことを思うと、心臓がドキドキする。もっと言うなら……体が疼く、とでも言えばいいのだろうか。

嫌悪感を覚えずにはいられない。自分の嗜好に、自分の思考に。

三十分ほどかけて家まで辿り着く。鍵を開けて中へ入ると、いつも通りの光景が目に飛び込んでくる。キルリアと向かい合う母親。帰ってきたことにも気付かないほど会話に夢中になっている姿。声を掛ける気にもならなくて、そのまま部屋へ直行する。気怠さを剥ぐように制服を脱ぎ散らかすと、部屋着に着替えて学習机の使い古された椅子へ腰を落とす。

お母さんはキルリアに夢中で、佳織はオオスバメと共にいる。キルリアは自分の知らないお母さんの思いを知っていて、オオスバメは自分の知らない佳織の姿を知っている。

(死ねばいいのに)

ただポケモンが憎たらしい。自分が側に居たい人の側に居座って、人に依存して生きて、のうのうとのさばっている。お母さんと話がしたい、佳織のすぐ側に居たい。自分が願いと現実の間ですりつぶされそうになっているのに、あいつらは。

キルリアも、オオスバメも、まとめて縊り殺してやりたい。

その考えをどうにか抑え込むのに、いつもよりずいぶん時間が掛かった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。