金曜日になった。
ノイローゼっていうのは病気だって聞いた。今の自分がその状態にあるのかは分からない。分からないけど、体のあちこちが悲鳴をあげてて苦しいってのは事実だ。夜はよく眠れなくて、何か食べる気はちっともしない。ほっとくといつでも吐きそうになる。吐けるようなものなんかどこにも無いのに。
教室の固い椅子に座っていると、腰が痛くなってくる。運動不足だって言われた記憶がある。今運動なんてしたら、貧血でぶっ倒れそうだ。いっそのことぶっ倒れて意識不明にでもなった方が、一時的とは言えぐっすり眠れていいかも知れないけど。こうなってくると、もう生きてること自体が面倒くさい。この先ずっとこんな痛さ辛さ苦しさを抱えて生きろって言うなら、屋上から紐無しバンジーでもした方が楽そうだ。
内面はタバコの吸い過ぎで取り返しが付かなくなった肺みたいに真っ黒でボロボロ。それでもかろうじて、外面だけは普通を装えているらしい。お決まりの面子が、朝子と深雪が、相も変わらずしょうもない噂話に花を咲かせている。
「思ってたんだよね、あたし。絶対なんかしでかすんじゃないかって」
「やっぱりホントなのかな、書いてあったこと。そうだとしたらすごいよ、すごすぎ」
もう真面目に聞く気も起きない。ただ、佳織はどうも何か事件を起こしたとか、あるいは事件に巻き込まれたっぽいって話をしている。二人の話のトーンからして、佳織が何かしでかしたみたいな言い方だ。佳織が嫌いな二人にしてみれば、雑談のネタにしないわけがない。で、表向き二人と同じで佳織を嫌ってるように見せてる自分の前なら、気兼ねなくその話ができるってわけで。
嫌だ、嫌だ、聞きたくない。聞きたくなんかない。佳織が何か悪いことをしたとか、そんな話は聞きたくない。自分の中で佳織は絶対で、完璧な存在なんだ。間違ってるなんて言われたくない。
「これからどうすんだろうね、佳織。あんなこと起きちゃったら、もうおしまいだよね。おしまい」
「まだ決まったわけじゃないけど、でも学校休んじゃってるってことは、やっぱり……そういうことだよね」
これ以上聞きたくない。止めさせてやる。
「そんなのさ、どうだっていいじゃん。どうだって。うちらには関係ないことじゃん」
そうだ、自分たちには関係のないことだ。
どれだけ喚いたって、手を伸ばしたって、佳織には届かないんだ。どうやっても、どうあがいても。
「あ……、ごめん、早紀ちゃん……」
「分かった分かった、深雪さ、この話もうやめよ? 話してもどうしようもないし、佳織のことなんてさ」
「そうだね、あっちゃん。どうしようもないよ、もう。あんな風に書かれちゃったらさ」
空気を読む能力にだけは長けている、朝子も、深雪も。それを使わない手は無い、それだけのこと。
「そうだそうだ。昨日さ、大木くんと話せたんだ! 大木くんと!」
「ホントに? よかったじゃん、前から言ってたもんね、大木くん大木くんって」
「話せただけでうれしいよー、今まで声も掛けられなかったからね」
あとはただ、時間が過ぎていく自然の摂理に身を任せるだけだ。どうせ今日もまた、無為で空虚な一日になることくらい、ハナから分かっていた。
そう、分かっていた――つもりだった。
昨日までと同じ、けれどとてもつらい鬱々とした気持ちのまま放課後になって、例によってそのまま家へ帰ろうとした。廊下を抜けて外履きの靴に履き替える、ここまではいつも通りだった。
ブレイクスルーが起きたのは、ドアを開けて二、三歩歩くか歩かないか、それくらいのところで。
「……天野先輩が!? 学校に来たの!?」
天野――アマノ――あまの。
(佳織が……!?)
死んでいた感覚が一気に蘇った。背筋がピンと伸びる、頬が熱を帯びる、意識が明瞭になる。誰だ、佳織が学校に来たって話をしたのは誰だ。ギンギンに感覚を研ぎ澄ませると、声の出所が瞬時に分かった。自分の斜め後ろ、水飲み場近くだ。すぐさま振り向く、耳を傾ける。
話しているのは誰かは分からない。制服の女子とジャージの女子、背格好からしてどっちも後輩か。片方は運動系の部活のどれかだろうけど、細かいことは分からないしどうでもいい。もう片方は……持ち物からして剣道部か。とにかく佳織だ、佳織の話を聞かせてくれ。
「部活行く準備してたら、佳織ちゃんが通りがかって。それで、屋上へ行く、って」
「玲ちゃん……それ、本当? 本当のこと? そうだよね……?」
「うん。大分顔つき変わってたけど、あの子は間違いなく佳織ちゃんだった」
佳織が、屋上にいる。
これだけ分かれば、十分だった。
今にも走り出す――間違いなくそうすると信じていたのに、信じられないことが起きた。
(なんで?)
(なんで……足が竦んでるの? 自分、どうして……?)
足が竦んで動かない。屋上に佳織がいる、その事実を認識した自分が示した反応に、自分で驚いてしまう。前へ進もうとしても進めない、足が言うことを聞かなくなって、今いる場所から動けなくなってしまった。
どうして? 佳織が屋上にいるんだよ? 今から死に物狂いで走ってけば、佳織に会えるかも知れないんだよ? 自分の中の自分が繰り返し煽ってくる。自分だって走り出したいのは山々だった。走って走って、佳織のところまで辿り着きたかった。すべて自分の思っていること、今までずっと願ってきたこと。
なのに、体が動かない。一歩も前に出られない。
屋上へ行きたい、けれど身体が動かない。心の中で起きるせめぎ合い。自分の感情を理解するのにこんなに時間が掛かったことはなかった。働かない頭で懸命に考えて、そしてやっと、答えらしきものを見つけ出す。
(この期に及んで――拒絶されるのを怖がってる? そういうこと?)
とても単純な理由だった。臆病な自分が心のどこかで、佳織に会いに行っても佳織に拒絶されるだけだと思っている。それを怖がって、身体の動きを止めている、この場に自分を縛り付けている、佳織の元へ行ってはダメだと告げている。たったそれだけのことだった。
こんなにも自分を歯がゆく思ったことなんて無い。せっかくの機会を、自らフイにしようとしている。臆病な自分が足をつかんで、どこへも行かせまいと邪魔をしている。もしここで佳織に会いに行かなかったら、もう二度と会えないかも知れないっていうのに。
腰抜けな自分が、全力で前へ進むことを妨害している。けれど、ずっと抑え込まれ続けてきた思いは、もう限界点をとうに突破していて、理性という名のフタを内側から吹き飛ばしかねないくらいに膨張していて。
(佳織に会いたい……佳織に会いたい、佳織に会いたい!)
身体がふっと軽くなる感覚を覚えた。
あれほど頑なだった足が、自由に動くようになった。
固く結んでいた口が、大きく開かれた。
ぷつん、と何かが切れる音がした。
「――佳織ぃ!」
何もかも吹き飛んだ。理性も、仮面も、怯懦も、何もかも。
叫ぶような声を上げて、前のめりになりながら走り始めた。屋上だ、屋上に佳織がいる。屋上まで行くんだ、屋上まで走るんだ、屋上に行けば佳織が待ってる、佳織がそこにいる! 佳織がいるんだ! 佳織が! 佳織が!
靴を履き替えることも忘れて校舎へ突撃する。階段を一段飛ばしで登りながら、踊り場で体を乱暴に折り返す。一階から二階へ上がる階段、その踊り場、残りの階段、二階の廊下、二階から三階へ上がる階段、その踊り場、残りの階段、三階の廊下、三階から四階へ上がる階段! 胸が焼け付くように熱くなっても足は止まらない、吸って吐ける呼吸の量が減っても進む速さは変わらない。今はもう、前にしか進まない体になった。
(自分はずっと、屋上から佳織を見てた)
(その佳織が今――屋上にいる!)
もう何がどうなってもいい、全部壊れたっていい、これが終わったら死んでも構わない、ただ佳織に会いたい、それしか考えられない。ずっと隠して溜め込みに溜め込んだ思いが勢いよく噴き出して止まらなくて、気が違ったように走りつづけた。
後ろから誰かが追いかけてくる。そんなことどうだっていい、佳織だ、佳織だ、佳織が先だ。もうすぐ扉が見えてくるはず、それをぶっ飛ばせば佳織が待ってる。佳織がそこにいるんだ!
閉ざされた鉄の扉を押し開けて屋上へ飛び出す。夕焼けになりかけの日差しが眩しくて、目が潰れそうになる。周りが見えないまま、ただ佳織の名前を叫ぶ。
「佳織ぃ! どこにいるのよ、出てきて! 佳織ったら!」
限界まで強く声を張り上げたけれど、佳織からの返事は無い。何の応答もない。ただ、風の吹き荒ぶ音が聞こえてくるだけ。
放心状態のまま立っていると、後ろからぞろぞろと誰かがやってきて。
「はぁ、はぁ……か、佳織は……!?」
同じクラスの大木、隣のクラスの武内、他数名。顔ぶれを見る限り、こいつらはポケモン部の連中みたいだ。同じように噂を聞きつけて来やがったのか、邪魔なやつらめ。
佳織の姿を探して周囲を見回していると、さらに追加で誰かがやってきて。
「佳織っ! 佳織ったら! そこにいるんでしょ!? 返事しなよ!」
「はっ、はっ……だ、ダメっぽいよ裕香、ここにいないよ、佳織……」
乃絵美、それから小松。ポケモン部だってことに変わりは無い。なんだこいつらは、佳織にテッポウオみたいにずらずらくっついてるだけの無能どもの分際で。見ているだけでイライラしてくる。
佳織を探しつづける、血走った目を皿のようにして。けれどどこにもその姿はなくて、屋上に佳織の姿は無くて。
代わりに。
「杉本……お前、どうしてここに」
代わりに屋上にいたのは、いつも佳織にくっついていた、いつも佳織の影に隠れていた、あの憎たらしい杉本、ただ一人で。
「佳織は? 佳織はどこ? それに、なんであんたがここにいるの? 佳織はどこ!? どこにいるのよ!」
思わず声が出た。杉本は佳織のことを何か知ってるはず、だったら聞き出さなきゃいけない。チビるまで締め上げてでも、歯が折れるまでぶん殴ってでも。
「なあ、杉本……ここに、佳織来なかったか? 俺も康一も、あいつのこと探してんだ」
「ねえ、佳織どこ? あたし佳織に言いたいこと山ほどあんだけど、どこ行ったの? ねえホントどこ行っちゃったの?」
武内と小松が続く。理由は違っていようが、こいつから佳織のことを聞き出したいって目的は同じだった。
黙りこくったままの杉本と自分、それからポケモン部の連中とで、しばらく睨み合いが続いた。緊張で満たされたこの膠着状態を破ったのは、すぐ近くで立っていた大木だった。
「お前の足元にあるやつ……モンスターボール、だよな」
「こ、壊れてる……みたい、ですけど」
大木が指差した先。そこには、赤い部分と白い部分が分離して、赤い部分が粉々に粉砕されたモンスターボールが、あたかも死体のように杉本の側で横たわっていた。
(何よ、あれ……)
一体誰のモンスターボールで、中に何が入っていたのか。分からない。分からないことがいくつもでてきた。一体、何がどうなってる。嫌な予感がして、首筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
声を震わせながら、大木が杉本に声を掛けるのが見える。
「なあ杉本、それは……」
大木から訊ねられた杉本は、小さな体を小さく震わせながら、掠れた声で返事をして。
「……佳織ちゃん、の」
「佳織ちゃんの、オオスバメの……ツイスターが入ってた、ボールだよ」
確かに――確かに、そう口にした。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。