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Stage 5-2

土日は特に何事もなく過ぎて行って、今日もまた新しい一週間が始まる。さて、月曜日だ。さあやるぞ……なんて気持ちにはなれなくて、教室の席でどんどん出てくる欠伸をかみ殺すばかりで。

僕が座っているのは入口側の端で、それも一番後ろの席だ。文字通り隅っこと言っていい。この場所からだと、教室全体がよく見える。誰がどこに座っているか、誰が来ていて誰が来ていないかもすぐに分かる。それと――中学校生活も三年目に入って、今僕のいる場所の良さというか意味というか、そういうものも実感できるようになってきた。

クラスの中にはいくつかグループができている。言わば腐れ縁といったところの、同じ小学校出身の人たちのグループ。テストの点数で上位を取っている人たちのグループ。先生も手を焼くような、やんちゃで騒がしい人たちのグループ。僕らのような運動部に入っている人たちのグループ。それから、どこか浮いた感じがする元ポケモントレーナーの人たちのグループ。他にもいくつかの組に分かれて、お互い付かず離れずの関係を保っている。もちろん、いくつかの集まりにまたがっている人も少なくない。

その中でも、ポケモン部のグループは異質だった。僕のクラスにも所属者が八人くらいいて(これはクラス全体の四分の一だ!)、男子だと日野くんと久保くん、女子だと小松さんを中心にしたグループが作られている。ポケモン部はここ二年ちょっとで一気に実力をつけて全国レベルにまでなったせいか、後輩の間でもよく知られていた。その部長である天野さん――一組の天野佳織さんのことだ。彼女の名前も同じくらい有名だ。学年の壁を跨いで有名な人というのは、そうそういるもんじゃあないと僕は思う。

部としても全国大会に出て、そして天野さんという絶対的なカリスマも抱えたポケモン部は、いろんな人から羨望の眼差しを向けられていた。言うまでもなく、そんなポケモン部に入りたいって子も多い。去年の春は前年の大躍進を受けて、新入生も在校生も大挙してポケモン部に入部した。中には他の部から転向した子も少なくない。今はポケモン部の敏腕マネージャーって感じの小松さんも、実は元々バレー部に所属していた。そのことを知ってる人は、今となっては少なくなった。

日野くんと小松さんは社交的……というかお喋りなタイプで、クラスの中心的存在だ。どっちも二年生の時から同じクラスだったけど、社会見学とかの行事でも目立つことが多い。特に小松さんは仕切りたがり屋で押しが強い。あんまりいい言葉じゃないけど、クラス内で女子のヒエラルキーの頂点にいるっていうか。あの天野さんと親しいっていうのは、それだけでかなりのステータスになったってことだ。

ポケモン部の人たちはクラスでとても目立っている。それは分かった。じゃあ一方でポケモン部以外の部活に入ってる人たちはどうかって言うと、まあぼんぐりの背比べっていうかなんというか。全体的にマイナーな感じは否めなくて、所属者はばらけている。運動部と文化部の比較なら、まだ運動部の方が多い。文化部は本当に少なくて、全員合わせて二人か三人くらいってところだろうか。友達の一人は技術部に入ってるけど、何をやってるのかは全然知らない。パソコンをいじってるらしい、とだけ聞いたことがある。

かく言う僕がテニス部に入った理由は、そんな大したことじゃない。中学校に入る前、文化系の部活だとなんか馬鹿にされるとかそんな話を聞いた記憶があった。実態はともかくそれはちょっと嫌だったから、とりあえず運動部に入ろうとは思っていた。いくつか比べてみてテニス部が楽しいと思ったから、僕はテニス部を選んだ。たぶん、僕がポケモン部を選ばなかったのはどうしてだ、と思っているだろう。人気があるんだから、入ればいいじゃないか。もっともな意見だ。けれど、僕がポケモン部を選ばなかったのは、はっきりした理由がある。

僕は、ポケモンが怖かった。

小三の頃だっただろうか。僕が道を歩いていると、プラスルとマイナンが合わせて四匹ほど集まって、小さなポケモンを袋叩きにしているところに出くわした。プラスルもマイナンも無邪気に笑いながら、血だらけになって動かないポケモンを叩いたり、蹴ったり、小石を投げつけたりして、好き放題に玩んでいるところを間近で見てしまった。なぶり殺しにされていたポケモンがなんだったかは思い出せない。思い出そうとすると、死んでいるようにしか見えなかった姿が蘇ってきて、胸がギリギリと締め付けられる思いがした。だから、思い出すことができない。

プラスルもマイナンもかわいい・愛らしいポケモンってイメージがあると思う。以前は僕もそんなイメージを持っていた一人だった。けれど今は違う。彼らがおもちゃで遊ぶように他のポケモンを暴行しているのを見てしまって、僕は以前のようにプラスルやマイナンを見られなくなってしまった。一時は夢に出てきたくらいで、寝付きの悪い日が何日も続いた。

(あんまり様子がおかしかったから、親に色々聞かれたんだよね……)

ついには体の具合を悪くしてしまって、心配した親からあれこれ事情を聞かれた。僕は見たものをありのまま話して、とても怖いものを見てしまったと正直に言った。そういうこともあって、僕はどんな形であれポケモンと関わることを徹底的に避けるようになった。小学校の生活の時間にあった「ふれあい」の授業もポケモンに触らずに切り抜けたし、みんなが休憩所代わりに使ってるポケモンセンターにも行ったことがない。言うまでもなく、家でもポケモンを飼うようなことはしてない。そしてもちろん、ポケモントレーナーになるなんて選択肢はあり得なかった。迷わず中学校へ上がって、そして今教室の席に座っている。

だから、ポケモン部に入るってことは考えられなかった。せっかくポケモンと関わらずに生活できる環境ができたのに、わざわざ自分から飛び込んでいく理由はないじゃないか。いくらポケモン部が目立ってようが、校内で有名だろうが関係ない。僕にとってポケモンは今でも怖い存在で、どこまで行っても苦手なことに変わりなかった。

「おいーっす」

「あっ。おはよう真吾」

カバンを肩に引っ掛けた真吾がやってきた。自分の座席に置いて、僕の隣までやって来る。もう少ししたら洋平も来るはずだった。それから僕達三人でああだこうだと話すのが、朝の日課だった。

「今日も六時間授業かぁー。適当にやるかぁ?」

「いやいや、真面目にやろうよ。ほどよく真面目にさ」

「それ、結局手ぇ抜いてないか?」

「あんまり肩肘張っても疲れちゃうからね」

こうやってまた、いつも通りの今日が始まる。授業を受けて、お弁当を食べて、部活で壁打ちをして、それから家に帰る。帰ったあとはゲームでもして、あとはお風呂に入って寝るだけ。代わり映えもしないけど、それなりに充実してるし楽しい。ずっとこの繰り返しなら、別に悪いことなんて無いじゃないか。

先週までと何も変わってない――と僕は思っていたけれど、何気なく前を見たとき、一つ明らかに普段と違う光景が広がっていることに気が付いた。

「あれ? 今日小松さん席いるね」

「あー、そう言えば、朝来るときもコート誰も使ってなかったな」

「ホントに? ポケモン部朝練休みだったのかな、今までほとんど毎日やってたのに」

ポケモン部は扱いとしては運動部で、みんなジャージや体操着に着替えて活動してた。だから朝練もあったし、聞くところによると合宿もやってたそうだ。テニス部はそこまで気合い入れて活動してなかったから、そこは見習った方がいいのかな、と思ったりもして。

そのポケモン部の朝練と言えば、僕にはどうしても外せないものが一つある。

(朝からコートに立ってて……なんていうか、強そうだったなあ、天野さん)

天野さん。いつも誰よりも先に来て練習を始めて、他の部員が集まってくると監視に回る。シャキッと背筋を伸ばして立っている姿が、言い方は悪いけど女の子とは思えないくらい力強くて、部長の風格にあふれてるなあ、と勝手に思ったりしていた。きっと自分にも他人にも厳しい人だから、何かとゆるゆるの僕なんかじゃとても付き合えないのは目に見えてる。だから異性として「好き」ってわけじゃなかったけど、同い年なのに立派なんだな、って思ったりはしていた。

そんな天野さんと話したことなんて、もちろんあるわけもなく。

(小学校は一緒だったけど、話す機会が一度もなかったんだよな。前に見たときも、大人しい感じの子だったっけ)

僕と天野さんは同じ小学校から小山中学校へ進学してきた。だけれど、つながりらしいつながりなんて一つもなかった。お互い話しかけたことも話しかけられたこともない。もしかすると朝の挨拶くらいはしたことあったかも知れないけど、ずいぶん前のことだからもう分からない。今となっては、天野さんは学校で一番のスーパースターだ。僕にしてみれば完全な「高嶺の花」ってやつだった。

にしても、先週の金曜日も休みだったし、今日の朝練も無いなんて。

(何かあったのかな、ポケモン部)

けど、いくらなんでも今日の部活はあるはずだ。朝練が無かったのは、きっと土日に練習した分休んだとか、そんなしょうもない理由に違いない。深く考えるのはよそう。

そろそろ先生が来る。カバンから教科書とノートを出しておかなくちゃね。

 

僕らはいつも通り旧校舎の壁の前に並んで、ぽんぽん音を立てながら壁打ちを始める。

「おかしいね、今日もポケモン部が休みなんてさ」

「何やってんだろうな、あいつら。これから春の大会もあんだろ? なのに練習してねえってさ」

「朝練もやってなかったみたいだし、ちょっと早めの夏休みかな」

「まだ春だろう、どう考えても」

何があったのかは分からない。事実として、ポケモン部の姿は今日も見当たらない。金曜の放課後からずっとだ。こうなってくると、さすがにちょっと気にもなってくる。小松さんも日野くんも、あと久保くんも学校には来ていた。だから、部員が誰もいなくて練習できないってわけじゃないはずだった。

「あれじゃねえの? 佳織がビシバシやりすぎて、みんな一斉に辞めちまったとか」

「そう言えば、以前男子の部員が一人、天野と対立して部活を辞めさせられたって聞いたな」

「えっ、そんなことあったんだ。それは知らなかったなあ」

「あまり知られてねえみたいだけど、本当だぞ。佳織が無理やり辞めさせたらしいから、ひでえ話だよな」

やっぱりあれだけの人数を率いていくには、時には厳しい決断も必要になるのかな。それにしては、やり口がちょっと強引過ぎるんじゃないか、とも思ったわけだけど。

「物静かに見えて、結構キツい性格してんだな、佳織ってさ」

「今のポケモン部自体が天野のワンマン部だからな。もし天野がいなくなるようなことがあれば、すぐにでもダメになるんじゃないか」

「天野さんが強すぎるからね。全国行ったのも結局天野さんが勝ちまくったからでしょ? 抜けたら大変だよ、ホントにさ」

ポケモン部は全国大会にも出たりして実力派だって思われてるけど、その実態は天野さんに何から何まで依存しているっていうのは、ちょっとでもポケモン部について知ってる人の間では周知の事実だった。メンバーをまとめてるのも天野さん、作戦を練ってるのも天野さん、そして大将を務めているのも天野さんだ。冬の大会でも、天野さんが相手校のメンバーを三人抜きして逆転勝ちしたって学級通信に書かれてた。いろいろ意見はあるだろうけど、無茶苦茶な強さなのは間違いない。

こんな感じで話題にされてる天野さんの姿も、今日のコートには見当たらない。僕が見た限りでは、学校にも来ている様子が無かった。今まで風邪を引いたところも見たことないくらいだったから、これはかなり珍しいことと言えた。

「あっ、いたいた。みんなみんなー!」

「あれ? 沢島だ。なんかあったのか?」

不意に、女子部員の沢島さんがこちらに駆けてくるのが見えた。なんだろう、そう思いつつ、跳ね返ってきたボールをキャッチして壁打ちを止める。間もなく沢島さんが僕らの目の前までやってきて、そのまま近くで立ち止まった。

「聞いて聞いて、なんかね、今日からテニス部コート使えるって!」

「えっ!? それ本当!?」

「本当だよ、本当! なんかね、ポケモン部が押さえてなかったんだって」

「珍しいこともあるもんだな……普段なら小松が必ず押さえているはずなんだが」

僕と真吾が顔を見合わせて、それから一緒に首を傾げた。あの小松さんがコートを押さえ忘れたってことに、僕は驚きを隠せなかった。なんだかんだでマネージャーとしての仕事はしっかりしていて、今まで一度もこんなミスをしたことは無かったはずだ。けど、沢島さんはつまらない嘘や冗談を言うキャラじゃない。事実をありのまま話してるだけだろう。だったら尚更、今の状況は不思議と言うしかなかった。

先週の金曜日から誰もコートへ来ていないこと、部長の天野さんが登校していないこと、そして練習場所のコートが確保されていないこと。ここまで重なると、さすがに僕も「ポケモン部に何か起きているな」と考えてしまう。何かが起きていて、そしてそれはあまり良くないこと。よその部のこととは言え、ポケモン部は今この小山中の中心的な存在だ。気にならないと言えば嘘になってしまう。

(日野くんや久保くんと普段からもっと喋ってたら、直接話を聞けたんだけどなあ)

中でも久保くんは二年の頃から同じクラスだったんだけども、なんとなく距離を感じてほとんど話し掛けずにここまで来てしまった。ちょっとでもつながりを作っておけば良かったと、今更ながら少し後悔した。

「そうか……じゃあ、俺はコートへ行って練習してくる」

「あっ、洋平」

コートが空いていると聞いた途端、洋平が荷物をまとめてその場を離れていった。洋平が普段からコートを使いたがっていたのは知っていたけど、それにしてもずいぶん早い移動だ。僕も真吾も目をまん丸くしたまま、スタスタ歩いていく洋平の後ろ姿を見送る。

とりあえず、今日のところはいつものように自主トレをすることにして、そのまま終わりのベルが鳴るまで壁打ちを続けた。

 

ジャージ姿のまま、荷物を地べたにおいて校門の近くで待つ。十分ぐらいのんびり立ってると、大きな荷物を提げた人影が体育館の方から歩いてくるのが見えた。あれだ、間違いない。僕が手を振って合図を送ると、夕闇に紛れた影が大きく手を振り返してきた。置いていた荷物を持ち上げて、ゆっくり前へ進む。

「お疲れさま、東原さん」

「なおちゃんもおつかれー。ミーティングあったから、ちょっと遅くなっちゃった」

「いやいや、僕も今来たところだよ。じゃ、帰ろっか」

早歩きでやってきた東原さんを出迎える。この時間になると、今日も学校終わりなんだなあ、って改めて感じる。

東原さん。東原まどかさん。隣のクラスの女子で、剣道部に所属している。剣道部ってこう、僕のイメージだとどこかきりっとした、真面目な人が多いって感じだったんだけど、東原さんはちょっと違う。のんびりおっとりしていて、ちょっとしたことでよく笑う朗らかな子だ。ちょくちょく軽い冗談を飛ばして、僕もつられて笑ったりしている。

これは後から知ったことだけど、東原さんの家は榁に代々伝わるかなりの旧家で、神事の類を取り仕切っている名の知れた家系とのことだった。実家からそう遠くないところに神社があって、そこで祭事を執り行うこともあるという。東原さんも小袖と緋袴に身を包んで、しきたりに沿った儀式をしたことがあると聞いた。見てみたいな、そう言ったら、恥ずかしいよ、と照れくさそうに笑っていたのを覚えている。

神社の名前は「星宮神社」という。東原さんの簡単な解説によると、神社には三体の神様が祭られていて、それぞれ海と、森と、星を司っているらしい。中でも海の神様は「縁結びの神様」としてよく知られていて(これは僕も知っていた)、誰かと結ばれたいと願う人がしばしば参拝に訪れているそうだ。ちなみに、お賽銭の額も一番多いとか。

ちょっと話がそれちゃった。僕がそんな彼女と知り合ったのは小学生の頃で、こうやって一緒に家へ帰るようになったのもそれぐらいからだ。部活が先に終わった方から校門辺りへ行って、待ち合わせをしてから帰るのがお決まりのパターンだった。だいたいは僕の方が先に終わるから、いつもここで東原さんが出てくるのを待つ形になる。校門の前で彼女を待っている時間は、じれったさとそわそわ感を同時に味わえる。

だから、僕はその時間が好きだった。

「もうちょっとしたらさ、連休あるよね。どこか遊びに行かない?」

「いいねいいねー。もうちょっとしたら稽古の予定分かるから、空いてるところ狙ってどっか行こっか」

休日も二人でよく一緒に遊んでいる。とは言っても、東原さんは土曜も部活の稽古でいないことが多かったから、まだまだその回数は少なかったけれど。友達と言うには距離が近くて、恋人と言うにはちょっと遠い。僕らはそんな関係にある。なんだかいかにも初々しいって感じで、たまに自分で自分をポカリと叩きたくなるような面はゆさを感じてしまう。東原さんを見てても、同じような気分なんだな、って思うことが多い。

けど、それも悪くない。悪くないって、僕には思えた。

「最近は嫌なこととかない? 何かあったら僕が相談に乗るし、何でも言ってよ」

「ありがとね、なおちゃん。大丈夫大丈夫。あれで、さすがにお父さんも懲りたみたいだから」

僕が東原さんにこんな言葉をかけたのには、訳がある。

以前、東原さんのお父さんがおかしくなった時期があった。まるで何かに取り付かれたようにたくさんのポケモンを捕まえ始めて、お金も湯水のように注ぎ込んだらしい。「夢でお告げがあったんだ、たくさんのポケモンを捕まえろって」、お父さんはそう繰り返していたらしい。家ではいつも東原さんのお母さんやおばあちゃんと喧嘩してばかりで、暴力を振るうことも少なくなかった。その矛先があろうことか東原さんにも向けられて、彼女はほとほと参っていた。

彼女と僕が知り合ったのは、ちょうどその問題が起きていた、小学校の五年生の頃だった。小学校で席が隣同士になったのがきっかけだったと思う。その頃の東原さんは今の明るい様子からは想像できないくらい沈んだ顔をしていることが多くて、友達もほとんどいなかった。あんまりやつれた様子を見せていたから、僕は隣で見ていて心配で仕方なかったのを覚えている。

今にして思えばそんなことまで気にしてる余裕が無かったんだと思うけど、東原さんが筆記用具を忘れて、僕が鉛筆や消しゴムを貸すことがちょくちょくあった。それが縁でお互い挨拶くらいはするようになったわけだけど、まだまだ向こうから話し掛けてくれるってレベルには程遠かった。それは僕が信頼されていなかったのも理由だと思うし、家庭内のことを話すのが怖かったり辛かったりしたのも一因だと思う。

(算数の時間だったっけ、確か。東原さんが倒れたのって)

そんな折、授業中に東原さんがいきなり倒れる事件が起きた。寝不足とストレスで、体がついに悲鳴を上げたのだ。隣の席にいた僕が彼女に付き添って保健室まで連れて行ったんだけれども、生憎保健医が不在で東原さんを診られる人が誰もいなかった。仕方ないからベッドへ寝かせて、目を覚ますまで僕が付き添うことにした。横で東原さんがいきなり倒れて、僕自身ショックだったっていうのもある。このまま東原さんが起きないような気がして怖かったことを、いまでもよく覚えている。

幸い僕の不安は綺麗に外れて、東原さんは十分ほどで目を覚ました。僕が「大丈夫?」と問いかけると、東原さんが「大丈夫じゃない」って答えて、それからわあっと堰を切ったように泣き出した。家のことを何もかも話してくれたのはその時だった。僕は東原さんの境遇にまたショックを受けてしまって(僕がへなちょこだってことがよく分かる)、なんとかして彼女の力になりたいと思った。

「えっと……東原さん。よかったら、うちに来ない?」

今になってみると、大胆というか鈍感な提案をしてしまったなあ、としか思えない。何の前置きもなくいきなり自分の家に誘うって、今なら張り飛ばされても文句は言えないだろう。けど、その時は純粋に彼女を父親から遠ざけてあげたくて、だったらうちに来るのが一番手っ取り早いと思った。東原さんも少しでも落ち着ける場所が欲しかったみたいで、僕の家へ来ることになった。

お母さんに事情を説明すると一も二もなくOKしてくれて、状況が良くなるまで「家出」するといい、という頼もしい言葉を聞かせてくれた。あえて「家出」という言葉を使ったのは、そうでもしないと東原さんの父親は自分のしでかしたことの意味を理解できないだろうと思ったからだと、後になって聞かされた。帰ってきたお父さんにも訳を話すと、問題を解決するために動こう、と請け負ってくれた。

この家出がてき面に効いたみたいで、東原さんの父親は一気に正気に戻った。ポケモンを捕まえるのをきっぱり止めて、今までのことを家族に謝罪した。東原さんも父親を許してあげて――ただし、二度と同じ過ちを繰り返さないことを前提に――、家へ帰ることになった。いろいろあったけど、すべて丸く収まったわけだ。

「なおちゃん、あの時ね、本当に助かったよ。私嬉しかった」

「だってさ、家に帰ったらお父さんに叩かれたりするなんて言われたら、絶対に行かせたくないじゃない」

「あの時のお父さん、絶対変だったから。なおちゃんのお父さんと管理局に行ってからは、全然ポケモンに関わらなくなって、そしたらすっかり元通りになったもん。今じゃお母さんに頭上がらないし。でもね、もうポケモンなんてこりごりだよ」

僕と東原さんには、ある共通点がある。それが「ポケモンが嫌い」ってことだ。

元々そんなにポケモンが好きってわけじゃなかった東原さんだけど、お父さんがポケモンに目が眩んであんなことをやらかしたと知ってからは、ますます毛嫌いするようになった。いきさつは違っているけれど、ポケモンが嫌いなのは僕も同じこと。好きなものが一緒だっていうより、嫌いなものが一緒だった方が関係は長続きするって聞く。そういう意味でも、僕らの考え方が似通っていることは好ましいことだった。

それと、もう一つ。

「ポケモンかぁ……この間もさ、災難だったね」

「もう最悪。何十人で押しかけてきて、『ポケモンを虐待するなー』、だもん。ほんと、参っちゃうよ」

少し前のことだ。東原さんの家が管理している星宮神社に、ポケモンの保護を訴える市民団体が大勢で訪れて、境内で延々シュプレヒコールをあげるという出来事があった。ちょうどふたりで出かけた帰りに出くわしたものだから、ずいぶんばつの悪い思いをさせられたのを覚えている。

「なんだっけ、あの人たち。ポケモンを保護しろとか言ってるみたいだけど」

「あれだよ。ポケモンの住みやすい世界を作るとかって、張り切ってる人たちだよ」

「めんどくさい人たちだよね。ポケモンが頼んだわけでもないだろうにさ」

「ほんとほんと。それで、ポケモンのために海を広げる必要があるとか言って、藍ちゃんも海に還してやれって言ってたっけ。確かに藍ちゃんは海神さまの子だけど、無茶苦茶だよ」

「藍ちゃんだって、優しくしてくれる東原さんの側にいる方が断然いいだろうにね」

「そう思ってくれてるなら、わたしも嬉しいな。藍ちゃんだけは、好きなポケモンだって言えるから」

ポケモン、という言葉で何か思い出したのか、東原さんがぽんと手を打った。

「あ、そうだ。ちょっとね、ポケモンつながりで思い出したことがあるんだけどね」

「ポケモンのこと? 何の話?」

「ほら、天野さんって知ってる? 一組にいる女の子なんだけど、ポケモン部の部長さんで」

「知ってるも何も、学校で一番の有名人じゃない。天野さんがどうかしたの?」

「後輩の玲ちゃんから聞いたんだけど……先週の金曜に辞めたんだって、ポケモン部」

「えっ、それ本当なの?」

思わず自分の耳を疑った。天野さんがポケモン部を辞めた、そんなことがあり得るのかと、僕は驚くしかなかった。天野さんと言えば泣く子も黙るポケモン部の重鎮、押しも押されもせぬポケモン部の大黒柱。それが先週の金曜日にいきなり退部したなんて、聞いただけじゃとても事実とは思えない。

「うん、本当だって。玲ちゃん、天野さんの幼馴染だからよく知ってるし、真面目で嘘とか言わない子だから」

「だとすると、冗談を言ってる訳じゃあなさそうだね……でも、どうして急に辞めちゃったんだろう」

「そこはね、玲ちゃんも分かんないって。どうしてだろうね? けどさ、私ショックだよー、ポケモンは嫌いだったけど、天野さんはすごいって思ってたのになぁ」

東原さんの言葉に頷いて応じながら、僕は天野さんが辞めたということをどう受け入れるべきか迷っていた。

ポケモン部が先週の金曜日から練習をしていなかった理由は分かった。部長の天野さんが抜けてしまって、みんな混乱しているからに違いなかった。たぶん後任のリーダー自体は選ばれただろうけど、その人がいきなり天野さんのように活躍するなんてことは難しい相談だろう。彼女の存在の大きさからして、他の人に代役が勤まるとも思えない。

(……それにしても)

あれだけ熱心に、それこそ僕なんかとは比較にならないくらい部活に打ち込んでいたはずの天野さんに、一体何があったんだろうか。急にポケモンバトルの熱が冷めた? いや、そんなことは考えられない。先週の木曜だって他の部員と模擬戦をやって、オオスバメが獅子奮迅の活躍を見せるところを目の前で見せつけられたばっかりだ。一日かそこらで冷めるような熱じゃない、ポケモンにもバトルにも詳しくない僕だけど、それだけは断言していい。

だとすると――何か別の理由があったんだろうか。

小山中のポケモン部を一人で全国区にまで押し上げた天野さんが、ポケモン部を辞めざるを得ないほどの理由が。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。