(また、あの時の夢だ)
木曜日は、どうにもすっきりしない一日になった。
今朝は汗をびっしょりかいて目覚めた。悪い夢を見た。はっきり覚えている。心臓がバクバク高鳴って、このまま死ぬんじゃないかって気が気じゃなかった。落ち着いたのは目を覚まして五分くらい経ってからで、その間僕は夢の中にいるのか現実の中にいるのか判断が付かなかった。夢がまだ続いていて、僕は夢の中で対峙させられた恐怖と向き合うことを強制させられるんじゃないかって考えで頭がいっぱいになった。
ぼんやりしたまま放課後になって、いつも通り更衣室でジャージに着替えてから、沢島さんと二人でコートへ向かう途中のことだった。
「直也くん、なんかしょんぼりした顔してるけど、大丈夫? しんどくない?」
「大丈夫だよ。ちょっとね、朝に嫌な夢見ちゃってさ」
小さなポケモンを取り囲んで袋叩きにする、プラスルとマイナンの群れ。ポケモンに関わるのが怖くなったあの事件が、夢の中で完全に再現されてしまった。
夢は自分の記憶から作られると言われる。脳が記憶を整理する途中の状態を垣間見て、意味が分かるような分からないような曖昧な映像や音になって伝わってくるらしい。だからあの光景は、間違いなく僕の記憶として存在している。消してしまいたい、忘れてしまいたい、その思いを突っぱねるかのように、怖いほどの鮮明さを伴って幾度となく僕の前に現れる。嫌な気持ちにならないはずがなかった。
「昔……小三の頃だったかな」
「うん」
「ほら、プラスルとマイナンっているでしょ。ぬいぐるみとかも作られてて、可愛いイメージがあるじゃない」
「あ、なんかわかるわかる。クラスでもキーチェーンぶら下げてる子いるし」
「だよね。それがさ、よってたかって四匹か五匹くらい集まって、もっと小さなポケモンを殴ったり蹴ったりしてたのを見ちゃったんだ」
「うわあ、それきっつい。怖いっていうか、なんか生々しいよ、それ。トラウマにもなっちゃうよね」
沢島さんはそう言いながら、うんうんと頷いて見せた。
「実はね……うちも子供の頃、まだ小学校に上がる前だったんだけど、川でキバニアに噛まれちゃってさ」
「あれに!? えっ、それ本当なの……?」
「もちろんだよ。右腕ガブっと噛まれちゃってさ、血まみれになっちゃった。なんかね、痛いっていうのを通り越して火傷したみたいに熱くて、めちゃくちゃ泣いたよ。死んじゃうって思ったもん」
いきなりこんな話をされて驚かないわけが無い。沢島さんはポケモンに殺されかけた経験があるってことだ。ただ嫌なものを見てしまっただけの僕とは、まるで比べ物にならない。
「すぐ入院して縫ってもらったけど、傷跡今もあるよ。直也くん、見てみる?」
「いや、いいよいいよ。なんか申し訳ないしさ」
「そんな気にしなくてもいいよ。もう慣れちゃったから、見られてもいいし」
沢島さんはあっさり言って見せたけど、僕は複雑な気持ちになった。興味本位で見るようなものじゃないし、僕が見たらきっと驚いたり「きつい」って顔をしてしまうに違いない。それは明らかに失礼なことだと僕には思えた。
「大変だったんだね、沢島さん。知らなかったよ」
「もうだいぶ前のことだけどねー。けどね、これでポケモン怖くなっちゃって。なんか、健介のヤミラミにも触れなくてさ」
「その気持ち、よく分かるよ。程度は全然違うけど、僕も怖い目に遭ったからさ」
「直也くん分かってくれるんだ。うちはすごく怖かったけど、みんなね、ポケモンなんて怖くないって言うから、なかなか分かってもらえなかったんだ。なんかね、分かってくれるだけでも嬉しいよ」
普段明るく振る舞っている沢島さんにも、人知れず悩んでいたことがあったんだ。率直に言って僕はそう感じた。いつもの笑顔とは少し違う、穏やかで嬉しそうな顔を見せている沢島さんの姿が印象的で、僕はしばらく、彼女の顔を見つめていた。
練習場所まで辿り着く。コートには洋平と後輩たちの姿があった。先に行っていたはずの真吾の姿は見当たらない。けれど、僕にはあいつがどこにいるのかもう察しが付いていて、そしてそれはほとんど確信に近かった。沢島さんに一言断ってから、僕はいったんコートを離れる。
向かった先は、校舎の横手で。
「真吾……やっぱりここにいたんだ」
そこでは真吾が一人、壁に向かってボールを打ち続けていた。僕が来たことに気付くと、おもむろに手を止めてこちらを見てきた。手招きをして「こっちへ来い」という仕草を見せている。少し躊躇ってから、僕は真吾の近くまで歩いていく。
向こう側にいる洋平を見た。こちらには目もくれずに、後輩たちとコートで練習に明け暮れている。僕も向こうへ言って練習をしなきゃいけない、その思いは確かにある。けれど真吾は壁打ちをしている。僕はそれがどうしても気になって、真吾と少し話をしなきゃいけないと思っていた。
本当のところは、真吾がどうしてここにいるのか、僕には大まかな見当が付いていたけれど。
「ねえ、真吾」
「……なんで、いなくなったんだよ」
「えっ」
「佳織のやつ……どうして学校に来なくなったんだ」
真吾の口から出てきたのは、ここにはいない、学校にいない、天野さんへの呪詛の言葉。
「ずっと壁に向かってボール打ってばっかだったから、感覚が掴めなくなっちまった」
「それは……あいつが……佳織が、ずっとコートを使ってたせいだ」
「だから俺は、ここで壁打ちを続けるしかねえんだ」
責任転嫁じゃないか、僕は口を突いてそう言ってしまいそうになった。確かにポケモン部がずっとコートを使っていて、僕らがみんなそれを不満に思ってたのは間違いない。けど、コートはもう空いている。天野さんがポケモン部を辞めて、練習もままならなくなったから。だったら僕らはコートへ戻って、テニス部本来の練習をすべきだ。
真吾の口ぶりじゃ、まるでここにいることが前提みたいじゃないか。それならどうしてあれだけ文句を言っていたのか、全然つじつまが合わない。気持ちとしては分からないことはないけれど、僕は同意することはできない。
「小松だって言ってたじゃねえか。俺たちはのろまなダグトリオみたいだ、って」
「……そうだよ。その通りだ。ホントにな」
「俺たち三人は表には出られない日陰者。あいつらがそう言ったんだぜ」
僕は思う。確かにそう言われたこともあった。けれど今のポケモン部は天野さんという軸を失って、まともに活動することさえできずにいる。気の毒なことだけど、それは僕らの練習場所が解放された、そういう意味でもある。コートは空いている。もう壁打ちを続ける理由は無くなってしまったんだ。
繰り返すけど、真吾の気持ちは理解できる。僕らは一年生の頃からずっとここで壁打ちをしてきた。習慣みたいなものだ。それが三年の春にいきなりなくなるなんて受け入れがたい、分からないことじゃない。だから僕は真吾を糾弾することなんてできなかったし、かと言って付き添うこともできなかった。
もう行かなきゃ、壁打ちの時間は終わってしまったのだから。
「真吾、僕向こうへ行くよ。待ってるから」
僕はそう告げて、真吾から離れてコートへ向かった。
準備運動を済ませてからコートに入って、洋平と二人で練習を始めることになる。
「いくぞ、直也。本気で来いよ」
「分かってるよ。本気で行かなきゃ、洋平には敵わないからね」
真吾の姿は中からでもしっかり見えていた。対する真吾はこちらを見ずに、延々壁打ちを続けている。僕は洋平と二人でラリーを続けながら、時折ちらりと真吾に目を向けることを繰り返した。
しばらく続けてから、休憩のために沢島さんと交代した直後だった。
(真吾、どうしたんだろう。なんか、呆然としてるけど)
気になった。真吾の目線を追いかけて、今見ているものを僕も見ようとする。追いかけて追いかけて、追いかけた先には、二人の人影があった。
一人はすぐに分かった。ポケモン部で副部長をしている大木君だ。天野さんと付き合ってるらしい、確かそんな話を聞いた。だとすると、天野さんが今どうしているかとか、なんでポケモン部を辞めたのかとかも知ってるんだろうか。最近あんまり姿を見てなかったけれども。
もう一人はちょっとピンと来ない。名前を聞いた記憶はないし、あんまり見覚えの無い顔だ。ただ、一つハッキリ分かってることはある。吹奏楽部の女子だってことだ。持ってるのは何かホルン的な金管楽器、多分あれもちゃんと名前あるんだろうなとは思いつつ、悲しいかな僕にはさっぱり分からない。他の部員の姿は見当たらない。独りで練習していたみたいだ。
大木君が吹奏楽部の女子に接近する。すると女子はすぐに練習を止めて大木君の目を見た。大木君は少し躊躇いがちに女子に話しかける。すぐ近くだったから、声もある程度聞き取ることができた。
「えっとさ、川端さ、いつもこの辺で練習してるよな、一人で」
「うん、そうだよ。見てくれてたんだ。康一くんもコートで練習してるよね、毎日」
「まあ……な」
吹奏楽部の女子――川端さんって言うんだ。川端さんの方はずいぶん嬉しそうだ。大木君と話し始めてから表情が目に見えて変わったから、大木君と話せたことそれ自体が嬉しかったんだと思う。
「あー……えっとさ――」
「聞いたよ、康一くん。ポケモン部の部長さんになったって」
「あ、ああ。まあ、な」
「私もね、副部長さんなんだ。お互い頑張ろうね、康一くん」
大木君は何か言おうとしたけれど、先に川端さんから口火を切られてしまった。それで気勢を削がれてしまったんだろうか、大木君は曖昧な返事をするばかりで、言おうとしたことを言えずにいるみたいだった。
結局そこから会話が広がることはなくて、川端さんがほとんど一人で話してばかりの時間がしばらく続いた。大木君はそれになんとなく付き合った後、少し顔を俯かせてから、川端さんの話が途切れるのを待ってこう言った。
「練習、邪魔して悪かった。それじゃ……」
「ううん、全然邪魔じゃないよ。ありがとう」
去っていく大木君に手を振って、川端さんは最後の最後まで、はちきれんばかりの笑顔を絶やさなかった。大木君と短い時間であっても話ができたことが嬉しくて嬉しくて、自然と顔に出ている――赤の他人の僕から見ていても、はっきりと明らかなことだった。
やりとりが終わったところで、僕は視線を元へ戻す。
(真吾……)
戻した先には――真吾が顔を俯かせて、がっくりとうなだれている姿が見えて。
気落ちしている姿が、残酷なまでにしっかりと見て取れて。
(……そっか。真吾がここにいたのは、そういう理由で)
これは僕の想像に過ぎない。だから、もしかしたら違うかもしれない。けれど今のところ、否定できる材料は何もない。
(真吾は一人で練習する川端さんを見ていた)
(川端さんは一人でここに練習しにきて、コートの中にいる大木君を見ていた)
(つまり、そういうことなんだろうな)
今の真吾に掛けるべき言葉が見つからない。何を言ったところで、慰めにすらならないだろう。
「直也くーん! 交代だよぉー!」
「あ……今行くよ!」
沢島さんが呼ぶ声が聞こえて、僕はラケットを持って立ち上がった。
立ち直れずにいる真吾を、背中に残したまま。
普段通り、東原さんと待ち合わせをして一緒に帰る。今日は僕の方が遅くなって、東原さんを待たせる形になってしまった。疲れて重くなった体を奮い立たせて、校門へ急いだ。
「これ以上待たせちゃいけないな、早く行こう」
ラケットを肩へ掛け直して小走りに駆けると、制服姿の東原さんが立っているのが見えてきた。辺りには他に誰の姿もない、東原さんは空を見つめながら、何やら歌を唄っているようで。
「――いーつつ いつえのかなたからー♪」
「よーっつ よぶかにたなびいてー♪」
「みーっつ みつきのゆめ……あっ、なおちゃん」
ああ、あの数え唄だ。東原さんが前にも歌っていたのを聴いたことがある……なんてことを考えていたら、途中で僕が来たことに気がついて、東原さんが唄うのをやめて僕に手を振った。綺麗な声だったし、最後まで聴いてみたかったな、そう思いつつ、僕は彼女の元へ向かう。急ぎたい気持ちはあったけど、体の疲れはごまかせなくて、ちょっとよろめきながらの合流になってしまった。
「はっ、はぁっ……東原さん、遅れてごめんね」
「わ、なおちゃん大丈夫? なんかぐったりしてるけど……」
「いやあ、今日は練習がきつくってさ。久しぶりにコートが空いたから、洋平が張り切っちゃって」
「古田くんに付き合ってあげてたんだね。お疲れさま」
「ありがとう、東原さん。防具袋、今日は持たなくてもいい?」
「いいよいいよ、こんなにヘトヘトになってるのに持たせるなんて、しちゃダメだもん。わたし今日はそんなに疲れてないから、なおちゃんのラケット持つよ」
「なんだか申し訳ないけど、お言葉に甘えちゃおうかな」
東原さんにラケットを持ってもらう。普段とは逆の光景だ。本当は今日も東原さんの荷物を持ってあげたかったんだけど、さすがに身体が言うことを聞いてくれない。この状態で防具袋なんて持ったら、一歩も歩けなくなりそうだった。身体が重いと感じるのは、久々だった。
どうにかこうにか歩き出したところで、東原さんがぼくの目を見て言った。
「ひょっとして、また悪い夢を見ちゃったのかな?」
「さすが、東原さんの目はごまかせないね。あの、プラスルとマイナンの夢を見ちゃってさ」
「つらいね、何度も見ちゃうの。忘れることができたら、それが一番なんだけど」
僕のことを心配してくれる東原さんの優しさが、今はただありがたかった。彼女と知り合うことができて、本当によかった。心の底からそう思っている。
いくらか雑談を交わしてから、その流れで東原さんがこんな話題を投げかけてきた。
「なおちゃんなおちゃん。古田くんのことで、ちょっと気になることがあるんだけど、いいかな?」
「洋平のこと? いいよ。どうかしたの?」
「えっと……古田君が杉本さんと付き合ってるって聞いたんだけど、ホントの話?」
「そうだよ。けどね、冬休みに別れたんだって」
「えっ!? そうだったの!?」
「本人から直接聞いたよ。結構仲良さそうだったんだけど、急に別れちゃってさ」
ここで、事実関係の整理をしよう。
洋平が一組の杉本さんと付き合っていた、これは本当のことだ。去年の夏休みに杉本さんが洋平に告白して、そこでOKをもらったらしい。それまでまるで接点が無かったし、洋平も声をかけられるとは思ってなくて驚いたみたいだ。けど、真面目でおとなしい子が好きなタイプだと言っていた洋平にしてみれば、杉本さんはまさにそれにぴったり当てはまる女子だった。
「なんか洋平が言ってたけど、テニスをしてる洋平を格好いいって思ったんだって、杉本さん」
「分かるよそれ。真面目に何かに打ち込んでる人って、やっぱり素敵だって思うし」
「うーん。隣で僕もいっしょに汗を流してたはずなんだけどなあ」
「もう! なおちゃんったら、しょうもないこと言ってんじゃないの」
お互いに好みのタイプだったわけだから、二人はまさしく相思相愛だった。静かで騒がしくない性格もよく似ている。ケンカしたって話も全然聞かなかったし、たまに一緒に帰ったりしてるところも見かけた。それこそ、僕と東原さんのように。
だから二人が別れたと聞かされたときは、唐突過ぎてびっくりした記憶がある。どうして別れたのかは分からない。洋平が理由を話してくれなかったからだ。
「ところで東原さんさ、洋平が付き合ってるって話、どこで聞いたのかな?」
「この前も出てきた、後輩の玲ちゃんからだよ。ちょうど冬休みぐらいだったかな。杉本さんと同じで、玲ちゃんも天野さんの幼馴染だから。でももしかしたら、その頃にはもう別れてたのかも知れないね」
「あー、そういうことかぁ。なら、三人が顔見知りでもおかしくないね」
「でしょでしょ? 杉本さん、いっつも天野さんの側にいて、頼りにしてたみたいだし」
なるほど、と僕は膝を打ちたい気分だった。天野さんを軸にして、後輩の玲ちゃんと杉本さんの間に繋がりがあった。そういうことだろう。三人の中で主体になりそうなのは、天野さんくらいしかいないだろうし。
「天野さんってさ、ホントにすごいよね。部活とかで関係ない先輩とか、普通一人も知らなくてもおかしくないのに、後輩の子もみんな知ってるんだもん」
「小山中ポケモン部のすごい女子って感じで、街の広報にも載ったりしてるからね。けど、それを踏まえてもすごいよ」
つくづく思う。天野さんは学校の中心にいたんだな、と。学年を跨いだ有名人なんて彼女だけだろうし、いろいろな人と様々な関わりがあったはずだ。みんなが同じ天野さんを見ていたのか、それとも各々違う天野さんを見ていたのかは分からないけれど、それぞれ天野さんと関係を持っていたはず。
だからさ、と僕は前置きをして、雨を降らせつづける暗い空を眺めながらつぶやく。
「天野さんに何があったのか、誰もハッキリ知らないっていうのが、なんだか不気味でさ」
「……そうだよね。それね、私も思ってた。天野さんが学校に来なくなったってみんな騒いでるけど、じゃあ、何で来なくなったのか、それを知ってる人はいないんだよね。知らないのはさ、私たちも同じだけど」
「うん。けど……ホントに何があったんだろう」
校内であれだけの有名人だった、後輩にも広く顔を知られていた、ポケモン部の天野さん。天野佳織さん。知らない人なんていない、誰も彼もが彼女のことをよく知っている。そんな風に考えていた頃があった。
けれど――今は誰も天野さんの事情を知らない。僕も、東原さんも、他のみんなも。
それが不気味で、ただ不気味で、僕は胃に石を詰められたような違和感を、ただ抱きつづけるほかなかった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。