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Stage 5-6

週の終わり、金曜日。いつもよりずっと重く感じるカバンを引きずりそうになりながら、どうにかこうにか学校まで辿り着いた。教室に入って席へ付くと、カバンを開ける気力も起きなくてそのままうなだれてしまう。机に寄りかかったことで姿勢は少し楽になったけれど、ここまで歩いてきた疲れが内側からどっと噴き出してきて、また辛さが甦ってきてしまった。

それにしても、昨日はいつもよりずっとハードな練習だった。僕と沢島さん、洋平と関口さんでコンビを作って交代しながら打ち合いを続けたわけだけど、中でも洋平は飛び抜けて長くコートに立っていた。関口さんは後輩の面倒を見ながらホントに時々入ってくるくらいで、事実上、洋平対僕と沢島さんと言った方が正しかった。

洋平は本気でコートを駆け回って、力強くボールを打ち返してきた。僕は付いていくのがやっとで、沢島さんに至っては終始振り回されっぱなしだった。僕も辛うじて短い時間だけなら洋平に付き合えたってレベルでしかなくて、対等だなんてとてもじゃないけど言えなかった。おかげで終わったあとはヘトヘトになってしまって、いつもならそれなりに持てる東原さんの防具入れが異常なまでに重く感じた。

(昨日に比べたらマシになったけど、今日もあんな感じだとツラいなぁ)

筋肉痛が残る腕をほぐしながら、僕は洋平のことを考えた。洋平は――本当にテニスが好きで、本当にテニスが得意で、本当にテニスがやりたかったんだと思う。あの真剣な顔つきを見れば、どれだけ真剣にテニスに打ち込んでいたかなんて、不真面目な僕にも一目瞭然だ。

洋平の家は、東原さんの家から少し行った先にある。僕の家からもそれほど離れた場所ってわけじゃない。だから校区は同じで、必然的に同じ中学校へ進学することになる。洋平は校区の都合でここ小山中に来たわけだけど、それに満足していたとは思えない。隣の校区だと「芹沢中学校」ってところに通うことになってたんだけど、ここは小山中と違ってテニス部が強い上に人数も多い。洋平もあそこのテニス部なら、持てる力を遺憾なく発揮できただろう。

きっと洋平は、生ぬるい環境に満足できなかったんだろう。ポケモン部が占有していたコートが解放されたことで、この二年間で手に入れられなかったものを全力で取り返そうとしている。昨日の激しい練習は、あくまでその一端を見せたに過ぎないはずだ。洋平にはもっとやりたいことがあって、それにはコートが必要だった。

今までだって洋平は部活を変えたくて奮闘していた。練習時間を増やしたり、もっと積極的に大会へ出ようとしたり。けれどそれは結局、テニス部全体を変えるまでには至らなかった。僕にもその責任の一端はある。洋平の気持ちを汲み取って行動するってことができなかった。せめてもの罪滅ぼしに、これからは真面目に練習しなきゃ。少しでも洋平がテニスに打ち込めるように、僕も食らいついて行かなきゃいけない。

けど……サボリ気味だったとはいえ、テニス部の雰囲気は別に悪くなかった。先輩も後輩も、嫌な人は一人もいないしいなかった。だから、僕を含む全員がその気になっていれば、もっと早くシャンとした部活になっていた可能性はある。

(テニス部なんかよりずっと酷いって言われてたポケモン部を一人で立て直したって、天野さんは一体何者なんだ)

洋平にも成し遂げられなかったことを、さらに困難な環境で達成した天野さん。テニスはメンタルが重要なスポーツだから僕もちょっとはその辺をかじってるけど、天野さんは恐ろしいほど強靭なメンタルの持ち主としか思えない。やると決めたら何が何でもやり通すという鋼鉄の意志を感じる。

それだけ強い心を持っていたことを踏まえると、ポケモン部を突然辞めてしまった理由がますます分からない。部内での意見の対立や衝突が理由だろうか、とてもそうとは思えない。天野さんは目的のためなら手段を選ばない。自分のやり方より相手のやり方に理があると分かればすぐに切り替えてしまうことができる。天野さんと衝突しても、為す術なく弾き飛ばされるかそのまま飲み込まれてしまうかのどちらかしかない。僕にはそう思えてならなかった。

僕は行方を眩ました天野さんのことを考えていて、周りがあまり見えていない状態だった。

「……あっ。真吾」

「……よう」

だから、もしかすると割と前からいたのかも知れない真吾の存在に気付くまで、ずいぶん時間が掛かってしまった。

真吾は誰が見ても分かるレベルで気落ちしていた。真吾と一緒にいる僕だから分かる、とかでは全然なくて、見ず知らずの人が今の真吾を目撃したとしても、元気を失くしていると即答できただろう。

昨日のことを思い出せば、仕方ないことだと言えた。あれはきっと堪えただろう、僕だって目の前であんな光景を見せられたら、がっくりしてしまうに違いない。僕は何と言ったらいいのか、真吾にどんな言葉を掛けたらいいのかちっとも頭が働かなくて、ただ気落ちしたままの真吾を見ているばかりだった。

声が漏れ聞こえてきたのは、まさにその時で。

「……佳織、もう戻ってこねえのかな」

「戻ってきてくれねえかな」

蚊の鳴くような声でぼそりぼそりと呟いて――真吾はそれきり、また黙ってしまった。

真吾の言葉に込められた意味。それは、単に天野さんが恋しいって意味じゃない。そういう意味じゃない。

天野さんがいなくなったことで失われてしまったものを取り戻したい。そういう意味だ。

(変わった)

(洋平も、真吾も、天野さんがいなくなって、変わってしまった)

僕はどうすればいいんだろうか、どうするべきなんだろうか。

僕と真吾と洋平。三人でいた時間が長くて、これからどうしていけばいいのか、考えをまとめることができなかった。真吾に寄り添えばいいのか、洋平に付いて行けばいいのか、あるいは僕一人で別の道を歩まなければいけないのか。

周りが変わっていくスピードの速さに、僕は付いていくことができなくなっていた。

 

答えらしい答えを持てないまま、僕は道具一式を持って更衣室へ向かう。単に今までの習慣に沿って動いているだけで、主体的な選択とは言えない。変化に翻弄されて、流れに乗ることも抗うこともできずに、同じ場所に立ち尽くしている。これからのことを思うと、何も手に付きそうになかった。

更衣室で着替えている最中に尿意を覚えて、僕はコートへ向かう前にお手洗いへ入った。沢島さんと洋平は先にコートへ向かった。関口さんの姿は見えない。確か、塾がある日だと言っていたはずだ。僕ももう中学三年生で、進路のことを少しずつ考え始めないといけない時期に差し掛かっている。これもまた、自分で進むべき道を決めなきゃいけないことだ。今までみたいに、真吾や洋平と一緒に――とは行かない。

おかしな話じゃないかと、僕の口から乾いた笑いが漏れる。ダグトリオはディグダが三匹集まって形を成したポケモンだっていうのに、僕らはまとまって動くダグトリオから、単独で行動するディグダへ変わろうとしている。なんだかなあ、ひどく滑稽に思えて仕方がない。

なんて、僕の境遇に思いを巡らせる余裕があったのは、ここまでのことで。

「……あれ、あの人は」

トイレで用事を済ませて手を洗った後、首に巻いていたタオルで手を拭いていた最中のことだった。顔を俯かせた制服姿の女子が、重い足取りで歩いているのが見えた。手にはモンスターボールが握られていて、少し乱雑に結わえられたポニーテールがゆらゆら揺れている――。

その姿には、見覚えがあった。

「――天野さん」

無意識のうちに発していた声は、彼女の耳にも届いていた。彼女は――天野さんは立ち止まって、ゆっくり顔を上げた。

こちらを見ている。僕の目を見ている。ずいぶんやつれた顔をしていて、印象はだいぶ変わっていた。けれど紛れもなく、そこにいたのは天野さんだった。元ポケモン部部長の天野佳織、その人に他ならなかった。

普段の天野さんからは想像も付かない、魂が抜けたかのような顔つきだった。まとっている雰囲気が違いすぎて、安易に声を掛けることは憚られた。なぜこんな表情を、なぜこんな状態で学校に。無数の疑問が瞬く間に浮かんできたけれど、それを眼前の天野さんにぶつけることは到底できなかった。とてもそんな質問に答えられるような有様には見えなかったからだ。

あの天野さんが、なぜここにいる。そうやって、僕が自分の疑問を持て余していると。

「さようなら」

ただそれだけを言い残して、天野さんが踵を返す。立ち去ろうとする先には、今は使われていない旧校舎が見えた。僕は「待って」と言おうとして、なぜ天野さんを呼び止めなきゃいけないのか、その理由を紡ぎ出すことができずに、声にならない声を漏らすしかなかった。

彼女の「さようなら」には絶対的な意志が込められていた。もう二度とここへ戻ることはない、決して戻ってこない。たった一言で圧倒的な別離の感情を齎す、重い、重い、鉛のように重い言葉。僕ごときが彼女の心を動かすことなどできない、言外にそう思い知らされるほどの力があった。

それでも――それでも僕が、訳もなく手を伸ばし掛けたとき。

天野さんはもう、僕の手が届かない場所へ、行ってしまっていた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。