トップページ 本棚 メモ帳 告知板 道具箱 サイトの表示設定 リンク集 Twitter

Stage 6-1

先輩に挨拶をしつつ、一礼して武道場へ入る。

全員集合しての準備運動が始まるまでの、短いようで長い時間。道着に袖を通した私は、二本持っている竹刀のうちの一本を手にして、ゆっくりゆっくり、上下素振りを繰り返す。まだ温まっていない体に熱を通して、これから先の稽古に備える。まだ体が固い。解しておかないと。

素振りの回数がおよそ三十回を数えたところで、つぐみと静恵が入ってくるのが見えた。

「やっぱり英語難しい……つーちゃん小テストどうだったー?」

「今日は結構できたよ。勉強してたところが出たからね。けど、まぐれだよ」

背が高くてスラッとしてる方がつぐみ、対照的に、背が低くて丸っこいのが静恵だ。どちらも私と同じ時期に剣道部に入部して、これといって都合が悪いことがなければ、組を作って一緒に練習をしている。クラスは違っているけれど、部活で毎日顔を合わせているから、必然的に話をすることも多くなる。二人がすぐ側まで来ると、私は素振りをする手を止めた。

「あっ、レイちゃん。もう着替えてたんだ」

「玲ちゃんちわーっす。いっつも早いねー」

「だって、遅れるより早く来てる方がいいでしょ」

「うんうん。そういうところ、玲ちゃんらしいよ」

玲ちゃん、ほとんどの人からはそう呼ばれている。名前がそのまま「玲」だから、特に不思議なことでもなんでもない。「玲子」と勘違いする人もいるけど、私の名前はあくまで「玲」だ。名字が一般的じゃないもので読み辛いし覚え辛いから、尚更名前で呼ばれることが多い。

あともう一人、同じ二年生で一緒に練習をしている子がいるのだけれど、彼女の姿が見当たらない。

「つぐみー、理奈は?」

「まだ着替えてたよ。親から電話掛かってきて遅れたみたい」

「あっ、来た来た」

ワンテンポ遅れて武道場に入ってきた理奈を出迎える。ごめん遅れたー、そう言いながら理奈が側まで近付いてきた。

つぐみと静恵と理奈と、それから私。稽古のときはいつもこうして四人で固まっている。お互いよく知っているからやりやすかったし、そもそも二年生の女子が私たち四人しかいないということもあった。一年生は一年生で、三年生は三年生で、男子は男子で、女子は女子で。同じ属性の人で寄り集まるのは、自然なことだと思う。

「じゃあやる? 練習」

「まだ先生来てないからいいんじゃない?」

「どうせそのうち来るよ。じゃあ理奈、こっち来て」

私が理奈を呼ぶと、理奈はしぶしぶ、といった感じで私の側までやって来る。理奈は先生が武道場に来るまでぼーっとしていたかったみたいだけど、私はどちらかというと少しでも早く練習がしたかった。私たちの隣では隣では静恵とつぐみが同じように組を作っている。

跳躍、屈伸、伸脚、深い伸脚、アキレス腱、肩回し、首の運動――いつもの流れ準備運動を済ませてから、理奈を座らせて背中を押す。柔軟運動だ。

「玲、玲、ちょっと押しすぎ、痛いって」

「理奈体硬いよー。もっと柔らかくしなきゃ」

「えー、そんなこと言ったって、運動したら柔らかくなるわけじゃないし」

「いいよ、もっと押すから」

背中を押して、その後は私が押してもらって。準備運動のメニューをすべてこなす頃には、先輩も後輩も、それから顧問の古川先生も全員武道場に揃っていた。ここからが、稽古の本番だ。

次は足さばきだ。三年生の東原先輩が音頭をとって、男子2列、女子1列になって武道場を横断する。初めに引き付けを2セット、続けて踏み足を2セット。右足が武道場の床を掴む感覚がよみがえってきたところで、小休止も兼ねて右・左・右からの引き付け。その応用で、右・左・右の踏み足。東原先輩の「横ーっ」という掛け声に合わせて横を向いて、横の踏み足。最後に前・左・右の踏み足で武道場を横断して、足さばきは終わりだ。

「それ本当? 初めて聞いたー」

「麻里ちゃんが言ってたよ。飼ってたポチエナが逃げちゃったって」

今度は理奈とつぐみが話をしている。この時間はまだどこか弛緩した空気が残っていて、特に女子はおしゃべりをしている子が多い。私は一人で黙々と練習をしながら、周囲の様子をそれとなく眺めている。

武道場の隅に置いていた竹刀を取りにいく。円陣になって、竹刀を大きく振れるだけの距離を取る。構えて数歩前に入って蹲踞の姿勢を取ってから、再び後ろへ下がる。

「面っ!」

「面ッ!」

普通の前後素振りに始まって、向きを変えて左右への横素振り、足を使っての早素振り、少し間を置いてからの股割り、最後に止まったままの股割り。これを全部、百本ずつ。竹刀が空を切る音を聞いているうちに、体が熱を帯びてきて、額にうっすら汗が滲んでくる。やっと本調子になってきた。

最後に深呼吸を三回。いつもより少しだけ早くなった鼓動を、軽く息を止めて落ち着かせる。浮かんだ汗を道着の袖で拭ってから、胴と自分の名前が入った帯を置いてある場所まで戻る。

「三分間休憩ー!」

東原先輩の声を聞いてから、ロッカーへ入れていたスポドリを取りに行った。ここから暫く休憩がない。私は人より少し汗っかきだから、きちんと水分を補給しておかないと。ペットボトルの口が歯に当たる固い感触のあと、甘さのある冷たい液体が喉を滑り降りていく。再び体に活力が戻ってきた。

着装っ、と東原先輩が呼び掛ける声が聞こえた。座ったまま一礼してから、胴に寄せていた帯を手にした。背中を一周させてから、前垂れの下で蝶蝶結びを作る。余った部分が出ないように、前垂れの下へきちんと隠しておく。結び目が解けないことを確かめて、今一度しっかりと締め直す。

胴を引っ張ってくる。上側の紐を背中を通して反対側へ持っていって、結び目を作ってきつく縛る。左右の高さを合わせて、胸と胴の間に必要以上に隙間ができていないことをちゃんと見てから、下側の紐を背中へ回す。後ろ手に紐を結んでから、これもまた長さを合わせる。立ってみて、形が崩れていないかを鏡を見てチェックする。大丈夫そうだ。

「面付けーっ」

それが終わると、今度は手拭いを掴んだ。短く切り揃えた髪の毛を全部包み込むようにして、頭に白い布を巻きつける。それが済んだところで、いよいよ面を付ける段になった。きちんと洗っていても、汗の匂いが微かに残っている。それに軽く鼻をくすぐられながら、面を深く被る。面紐を後頭部で固く結んで、また蝶蝶結びを作る。面の重さを支えるために、首の筋肉が張っているのが分かる。自然に気が引き締まった。

小手を装着して準備が終わる。竹刀を手にして立ち上がると、同じく立ち上がった静恵と目があった。

「静恵、一緒にやるよ」

「はーい」

短く声を掛けて組を作った。隣では同じようにつぐみと理奈が向かい合っている。つぐみは理奈の面紐が揃っていないのを見つけて、ポンポンと自分の頭を叩いて理奈に知らせている。理奈は私たちに比べてまだ少しだけ着装に慣れていなくて、こうやって時折面の付け方が甘かったり、途中で胴紐が解けてしまったりすることがある。運動神経は悪くないから、練習には付いて行けているけれど。

私が掛り手の、静恵が元立ちの位置に付いたところで、例によって東原先輩から指示があった。

「面を打つ切り返しーっ」

すっと竹刀を構えて、正面に静恵を見据える。左の方――先輩達の立っている方から気勢が上がった。私も続かなきゃ、そう思ったか、あるいは思うよりも先に体が動いたか。私はすっと息を肺に溜めて、腹の底から声を上げた。

「――ぃやぁーっ!」

ぐっと踏み込んだ右足が床を強く叩いたと同時に、竹刀で面を打ち据える音が面越しにもはっきりと聞こえてきた。

前へ歩み寄りながら四本、後ろへ下がりながら五本。左右に振り分けながら静恵を正面から打って、最後に面を打って前へ突き抜ける。位置が入れ替わった。すぐさま向き直って、静恵に切り返しを促す。一拍置いて、静恵が同じく声を上げて打ち掛かって来た。固い面を通して、竹刀の当たるくぐもった音が響いてくる。打点が変わらないよう、無意識のうちに首の筋肉を緊張させた。

「やぁーっ!」

面を打つ切り返しの後は左右の切り返しだ。竹刀を左右へ繰って、静恵が立てている竹刀に横から打ち付ける。これは竹刀に当てることが目的じゃない、相手の面を左右から打てるようにするのが目的だ。今は高校で剣道をしている先輩から聞かされた言葉を思い出して、静恵の面にしっかり打ち込んでいく。ずっと目線を合わせ続けることも忘れない。

「面! 面! 面! 面……!」

最後にするのは一息での切り返し。初めから終わりまで決して息継ぎをしては行けない。去年の今頃は息が続かなくて、最後の面打ちでどうしても声が途切れてしまっていた。今もまだ余裕とは言えないけれど、最後まで気合を保ったまま終わらせることはできるようになった。

少しずつ成長している――ごく小さなことだけれど、確かなものとして自分の手に掴めている。この感覚を得たくて、私は稽古に明け暮れているところがあった。

(……変わってみせる)

変わりたい。渇望にも似た激しい欲求が、私を強く衝き動かしていた。

 

五時半。顧問の先生を前にした最後の挨拶を済ませて、後片付けの時間になった。

外したばかりの面はじっとりと湿っていて、藍色が普段以上に濃く見えている。その下で私の流した汗を吸っていた手拭いは尚更だった。風に晒されて冷たくなったそれは、力を入れればビシャビシャと汗が滴り落ちてきそうだ。首筋にそっと手を触れると、少し驚くほど冷たくなっている。母が私に「玲は新陳代謝が活発だ」と言っていたけれど、その通りだと思わずにはいられない。

残っていたスポドリを一息で飲み干す。身体が潤いを求めていた。道着と袴、それに胴と面と小手を付けた重装備で、軽いとは言えない竹刀を構えて武道場を縦横無尽に動き回る。決して楽なスポーツじゃない。夏場は熱射病にならないように、秋や冬より多く休憩を取らなければならないほどだ。厳しい、暑苦しい、汗くさい……そういうイメージがまとわり付いているせいか、剣道部の部員は多くない。

でも、私にはそれが望ましかった。夢中で打ち込めるものを探していて、できるだけ過酷な環境に身を置いていたかった。安穏としているのが嫌で、どうせならぶっ倒れるくらい辛いことをしてみたいと思っていた。幸い、まだ倒れたことはないし、先輩も顧問も、そこまでのことは要求してこなかったけれど。

稽古で使った道具一式をあるべき場所へ片付けて、汗を吸って心なしか重くなった防具袋を右手に提げる。私の後に静恵とつぐみが続いた。武道場を出る時に一礼することも忘れない。かつてはこうした礼儀も何も知らなかった。今は自然と体が動くようになっている。昔の自分が見たらどう感じるだろう、そう思わずにはいられなかった。

更衣室へ入って、いつも使っている場所のロッカーを開ける。他の運動部員が使ったあとだからだろうか、部屋の空気は湿気を帯びていて、得も言われぬ匂いが残っていた。袴、道着の順に脱いで、上半身にびっしり浮かんだ汗をタオルで拭っていると、隣から静恵に声を掛けられた。

「玲ちゃん、今日も汗いっぱいかいてるねー」

「前にも言ったじゃない、私小さい時から汗っかきだって」

「それは学童の時から知ってるけど、ほらね、自分さー、全っ然汗かかないから」

静恵は額に手を当ててさらさらさせながら、自慢でもなく自嘲でもないただの事実として「汗かかないから」と呟く。私とは対照的だった。ぷふう、と頬を膨らませてから息をついて、静恵が道着の胸元を開いてぱたぱたと手で風を送る。汗をかかない分、身体に熱が篭もりがちだと言っていた。

「はー……もう疲れちゃった。地稽古の時間長すぎだって」

ジャージのパンツを履いたくらいのところで、私たちから少し遅れて理奈がやってくる。顧問の先生に呼び止められていたのを見たから、何か話をされていたのだと思う。理奈は気だるげにかばんを下ろして、ロッカーから上下ジャージを引きずり出した。理奈が着替えるのを見ながら、道着を折りたたんで袋へ入れる。これも汗で濡れてしまったから、持って帰って洗濯しておかなきゃいけない。

とりとめもない会話を交わしながら全員が着替えを終えて、学校カバンと防具袋、それから竹刀袋を携えた私たちが並んで校門を出る。辺りはすっかり暗くなっている。四月も下旬になってずいぶん暖かくなったとは言え、この時間になると少しばかり寒さを感じることもある。

「つーちゃんさー、日曜日って何か予定ある?」

「うーんと、ちょっと都合悪いから、また今度にして」

「じゃ、しょうがないね」

「こないだ借りた本、あと少しで読み終わるから、月曜には返すね」

静恵はつぐみの左隣、私たちの列の一番外側について、つぐみとしきりにお喋りをしている。静恵は私とつぐみと話すことが多い。それと比べると、理奈と話すことは幾分か少なくなる。

その理奈は私の隣にいて、静恵とは反対側の列の外側を歩いている。

「玲さー、月曜に国語の小テストあるでしょ、あれ勉強する?」

「一応やるよ、少しは。理奈もやっといた方がいいんじゃない」

「んー、そっかぁ、玲勉強するんだ。じゃあ、うちもやっとこうかなぁ。明日一日親いないし」

「それと理奈ー、明日は午後から大島先生来るから、遅れてきちゃ駄目だよ。また面倒なことになるから」

「あー……今週も大島先生来るんだ、やだなぁもう」

明日は第三土曜日だから授業があって、その後に部活の練習がある。土曜は外部から先生が来ることになっていて、明日は大島先生が指導をしてくれることになっていた。大島先生は女の先生で、六段の段位を持っている。これは他の先生――男の先生も入れた中でも、一番高い段位だった。練習熱心で厳しい指導も多いから、ちょうど理奈みたいに大島先生を煙たがってる子も何人かいる。

先週の土曜日は、理奈が寝坊した上に連絡をいれなかったせいで怒ってしまって、どこか気まずい空気の中での稽古になってしまった。時間通りに出てきた私たちには普通に指導してくれたけれど、理奈とはろくに顔を合わせることもしない。居たたまれないところがあった。とは言え、理奈が遅刻してくるのはそれが初めてってわけでもなかった。どちらかと言うと、遅刻の常習犯って言った方がいいかも知れない。大島先生が怒るのは理不尽でも何でもなく、当然のことだった。

理奈がげんなりした顔をしているのを眺めていたところに、横から声が飛んできた。

「ねえ、レイちゃん」

「どうかした?」

「さっき静ちゃんが言ってたんだけど、今日ポケモン部の子いなくなかった?」

つぐみの言葉を受けて、今しがた抜けてきたばかりの校門近くの風景を思い返す。言われてみると確かに、普段ならほとんど同じ時間帯にぞろぞろ歩いているはずのポケモン部員の姿が見当たらなかった。単に早く帰っただけかも知れないけれど、今までにそんなことは一度もなかった。

それに――。

(佳織ちゃんが手を抜くなんて、考えられない)

春の学生ポケモンリーグが間近に迫っている。そのことは私だってよく知っていた。それなのに練習を早く切り上げて帰るなんて、あの佳織ちゃんに限ってあり得ない。そんな風にも思った。

私に訊いてくるってことは、つまり佳織ちゃんのことで何か知ってないか、と言っているに等しい。私は空気を読んで、つぐみが求めていそうな答えを返す。

「……天野先輩に何かあったとか、そういうことは聞いてないよ」

「そうなんだ、もしかしたら、レイちゃんだったら何か知ってるかもって思ったんだけど」

「中学に上がってからもう全然会ってないから、分からないよ」

私の言う「佳織ちゃん」、すなわち「天野先輩」。二人は紛れもなく同一人物で、この二つの言葉は間違いなく一人の人物を指し示している。だけど私にはそうは思えなかった。私の知っている「佳織ちゃん」は、「天野先輩」ではない。けれど私以外の子は、「佳織ちゃん」を「天野先輩」としか認識していない。

だから私は仮面を被る。皆と同じように「佳織ちゃん」を「天野先輩」と呼んで、うまく話を合わせる。

仮面の下に、本心を隠したまま。

「何かあったのかな、ポケモン部」

「さあ……ポケモン部のことは、ポケモン部にいる人しか分からないよ」

表向き、そう受け答えをしつつも、私は内心で別のことを気にしていた。

(佳織ちゃん……何かあったのかな)

もうかれこれ二年以上面と向かって話をしていない、かつての友達のことを。

今はこの学校で一番のスターになった、あの先輩のことを。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。