トップページ 本棚 メモ帳 告知板 道具箱 サイトの表示設定 リンク集 Twitter

Stage 6-2

※これ以後作中に登場する「案件管理局」は、自著の別作品にて登場する架空の組織ですが、本作をお読みいただく分には「超常現象を調査している、警察・消防とは別の公的組織」と認識していただければ差し支えございません。

------------------------------

日曜日の朝。

「海辺を散歩してくる。すぐに戻るから」

母親に断ってから家を出て、海辺を一人散歩する。

昨日は大島先生から指導を受けて、何度も面を打たせてもらった。わずかに残る腕の筋肉痛、今はそれさえ心地よく感じる。自分がよく身体を動かして、剣道を少しずつ身に付けていっている。昨日の自分とは違う自分になっていく、私が変わっていく、その感覚が嬉しかった。

磯の匂いが鼻をくすぐる。小さい頃からかぎ慣れた匂い。そのせいかも知れないけれど、海辺を歩いていると気持ちが落ち着いた。楽しい気持ちになるわけではないけれど、心がざわつくときは無性にここを歩きたくなる。

そう。今は少し、心がざわついていた。

(昨日も、佳織ちゃんはいなかった)

部活終わりにポケモン部が使っているコートを見たけれど、そこに佳織ちゃんの姿はなかった。佳織ちゃんがいなかったということは、佳織ちゃんを「天野先輩」として頼っている他のメンバーもいなかったということになる。ポケモン部がすべてを佳織ちゃんに依存しているのは、多くの子が知っていることだった。

佳織ちゃん……いや、天野先輩の存在は、この小山中学校の中で途方もなく大きい。下級生にも広く名の知れた先輩なんて、はっきり言ってそうそういるようなものじゃない。漫画か小説かって有様だ。

(疎遠になったのは、それもあった)

有名人になった、有名になりすぎたって言ってもいい。どこか佳織ちゃんに近付き辛くなって、無意識のうちに距離を取るようになっていった。「天野先輩」になるにつれてそれは加速して、最後に言葉を交わしてからもう二年近く経っている。弱小に過ぎなかったポケモン部をいきなり全国大会まで出場させたことで、佳織ちゃんは校内でも飛び抜けた有名人になった。

ポケモン。たった四文字のこの言葉を思い浮かべる度に、胃に錆びた針をゆっくり刺されるような鈍い痛みを覚える。言うまでもなく不快な感触で、自分から味わいたいなんて人はいないだろうと思う。

嫌いになった。ポケモンも、ポケモンに関わるすべての人も。

(嫌いだって気持ちは続いてる。今も変わらずに)

(でも、佳織ちゃんのことは……どうなんだろう)

私はポケモンが嫌いだ。ポケモンを連れている人は輪を掛けて嫌いだ。人前に出て目立っているポケモントレーナーは、一際嫌いだ。その気持ちはずっと持ちつづけている。揺らいだことなんてない。佳織ちゃんがポケモン部に入ったって聞いた時も、どうしてだって感情がいつまでも付いて回った。裏切られたって気持ちにもなった。

けれど今は――それとは別の、まったく別の意味で、どうしてだろう、と思い続けている。

嫌いなものといえば、私にはもう一つ、嫌いなものがある。

嫌いなものと言うより、嫌いな人、と言うべきかも知れないけれど。

(佳織ちゃんとは、あの人のことで何度か話したっけ)

そんな記憶もあった。佳織ちゃんは私の気持ちを受け止めてくれて、何も言わずにただ同意してくれたことを覚えている。佳織ちゃんが私の気持ちに寄り添ってくれた理由も、私にはよく分かる。

今はどこで何をしているのか、私にはさっぱり分からない。最近はもう、そのことへの興味も尽きてきた。こちらから連絡を取る術はなくて、向こうから手紙や電話をよこしてくるわけでもないから、どうしようもない。お葬式をしたわけじゃないけれど、あの人は私の中でもう死んでいて、手の届かないところへ行ってしまった、そんな風に考えている。

死んだとでも思った方が、まだ優しくなれる気がした。

家を出てどれくらい歩いただろう、そう思って顔を上げると、今はもうシャッターを下ろしたたばこ屋が見えた。このお店ではタバコを売っていたんだ、そう認識できる歳になった頃には、既にお店としての機能は失われていて、そしてそれが最近のことではないとも知った。

ここには、榁には、こんな風にかつて生活の一部に組み込まれていて、今は朽ち果てて寂れたお店があちこちにある。店じまいをするのはお金が回らないから、お金が回らないのは人が来ないから、人が来ないのは人の数が少ないから。榁には人が少ない。なのにどこか息苦しくて、閉塞感を覚えることが少なくない。

閉じ込められているように感じるのは、榁が四方を海に囲まれた孤島だからかも知れない。船なしではどこへも行けなくて、島の中でじっとしている他ない。海はとても高くて分厚い壁で、私一人の力では乗り越えることができない。出ていきたいと思っても叶わない。私は海では生きられなくて、ただ溺れ死ぬほかない。

どこまで行っても碧い海。私の向かうべきゴールの見つからないその様をぼんやり眺めていると、浜辺から少し行った沖合いで誰かが泳いでいるのが見えた。日に焼けた素肌を太陽の下に晒して、力強くクロールをしている。長い黒髪に海水を纏わり付かせながら、海を自由に泳ぎ回っていた。

あの姿には、見覚えがある。

(……「ミサキ」、だったっけ。名前っていうか、そんな風に呼ばれてる)

ミサキ、何人かがそう呼んでいた。外見は女の人っぽいし、人の名前だと思っていたけれど、最近そうじゃないって知った。榁には古くから「ミサキ」って名前の悪い何か、もっというと、悪さをする神様がいると信じられていて、取り憑かれると海でしか生きていけなくなるって言われているらしい。カビくさい昔話、そう言いきれればよかったけれど、あいにくそれを知ったのは「ミサキ」を目の当たりにしてからのこと。だから、事実の部分もあるんだと認めざるを得なかった。

あまり近付いちゃいけない、近くで見ていたときにそう注意された記憶がある。気が触れている、そんな風にも言われたはずだ。ミサキはああして時折現れて、海で延々と泳ぎ回る。いつまで泳いでいるんだろうと思っていると、不意にざばんと海へ潜って、そのまま現れなくなる。これが何度も繰り返されている。

ミサキと関わり合いになろうとする人は少ない。得体が知れないから、気持ちが悪いから、何をするか分からないから……理由はいくつもあるけれど、どれも代わり映えはしない。みんな、触らぬ神に祟り無し、有名な言葉どおりの対応をしているだけのことだ。

ほんの少しの間考え事をしていて、目から入ってくる情報から注意が逸れていた。

(いなくなった)

時間にしてわずか一分足らず。その短い間に、ミサキは姿を消していた。後に残ったのは、寄せては返す波の音だけ。

軽く頭を振って、私は再び散歩へ戻った。あまり長く外を出歩いていると、また母親から小言を言われかねない。

(本人は、心配してるからって言うだろうけれど)

脳裏に浮かび上がってきた母の顔を振り払う。今は考えたくない。自分の時間を大切にしたい。

私だって、一人になりたいときもあるんだ。

 

月曜日。

普段通り朝練を済ませて、身体にこもった熱で火照る頬を軽くあおぎながら教室へ向かう。途中で静恵とつぐみとは別れた。静恵は二組に、つぐみは三組にいて、私と理奈は一組にいる。同じクラスなのは私と理奈だけだ。理奈は例によって少し遅れるみたいだ。着替えてる最中にカバンの中から着信音が聞こえてきたから、話をしていて時間を食っているに違いない。

防具袋を後ろのロッカーの上へ載せて自分の席へ向かう。

「玲ちゃん……おはよ」

「千穂?」

そこへ声を掛けてきたのは、斜め前に座っている千穂だった。ポケモン部に所属していて、たまにエネコロロを連れ歩いているのを見かけることがある。入部したのは、去年の二学期からだって聞いた。ポケモン部の女子の中では、これでも早く入部した方に入るらしい。

「朝練はどうしたの? いつもならもっと遅くまでやってるはずなのに」

ポケモン部は運動部の一つに数えられている。トレーナーがポケモンと並んで走ったり、一緒に筋トレに精を出すこともある。これは、試合で使う戦闘スタイルによっては、バトルフィールド内を目まぐるしく動く必要があったりするかららしい。実際に戦うポケモンだけではなく、トレーナーにもまた体力が求められる。

小学校最後の夏休みの時、偶然再会した佳織ちゃんが、確かそんなことを言っていた。

「あ、えっとさ、今日も部活無くって、それで、そのことで」

「部活って、ポケモン部のこと?」

「うん。あのね……その、天野先輩が、天野部長が」

天野先輩に、天野部長。私が今しがた思い出していた人と、千穂が口にした人が同じ人物だと認識するまでに、少しだけギャップがあった。古びて隅が削れたギアル同士が連結して回り始めるような、理解した感触とぎこちなさ。

小さな違和感を持て余す私に、千穂から短い言葉が飛ぶ。

「部活、辞めたんだ。ポケモン部」

思わず目が見開かれるのを感じて、千穂に大きく顔を寄せた。こんな言葉を予想していたかと言われたら、していなかったと正直に答えるしかない。

佳織ちゃんが部活を辞めた。たったそれだけの言葉が、私を大きく揺さぶった。金曜日からポケモン部の練習が行われていないことは知っていたし、佳織ちゃんの姿もしばらく見ていなかった。予兆があったと言えばあった。けれど、あの佳織ちゃんが――校内トップスターの「天野先輩」が、なぜ突然ポケモン部を辞めてしまったのだろう。佳織ちゃんは理由もなくわけの分からないことをする子じゃない、それは私もよく知っていた。

他のみんなが知らない「佳織ちゃん」を知っている私だからこそ、一層驚いてしまったのかも知れない。

「かお――天野先輩がポケモン部を辞めた? どうして?」

「分からない。分からないから、みんな困ってるよ。天野部長がいなくなって、どうすればいいんだろう、って」

つい「佳織ちゃん」と言いそうになってしまって、とっさに「天野先輩」と言い直した。学校で私が佳織ちゃんを「佳織ちゃん」と呼ぶのは少しためらわれる。幼い頃一緒に遊んで、お互い名前で呼びあった仲とは言え、だ。私のようなみそっかすが、あまつさえ有名人の「天野先輩」を名前で呼ぶなんてちゃんちゃらおかしい。

千穂が深くため息をついた。幸い私が口を滑らせかけたことには気付いていないようだったけれど、傍から見ても心底困っている様子が伺える。ポケモン部のメンバーたちがどれだけ佳織ちゃんを頼りにしていたか、言い方を変えれば依存していたかが分かる。

剣道部は三年生の高橋先輩が部長を務めてる。高橋先輩は気さくで頼りになる人だけど、例えばの話今日いきなりいなくなったとしても、剣道部がにっちもさっちも行かなくなるなんてことはない。女子の東原先輩も同じくらいしっかりしてるし、なんだったら私がまとめ役をやってもいい。だから、剣道部は簡単なことじゃダメにならない。ポケモン部より部員は少ないけど、屋台骨はしっかりしてるって言っていい。

ポケモン部は脆弱だった。「天野先輩」という大きな大きな大黒柱に何もかも依存していて、その存在が前提になっている。なくなってしまえば、ただ混乱するしかなかった。拠り所を失った以上、空中分解は避けられない。高いところを飛んでいた飛行機のエンジンが止まってしまえば、あとは真っ逆さまに地上へ堕ちていくだけ。

そう、ただ堕ちていくだけ。

「代わりの部長は? それくらい誰かいるでしょ」

「ええっと、大木先輩だよ」

「大木先輩って……天野先輩と付き合ってた人だっけ」

「そうだよ。副部長だったから、その流れで部長になって」

千穂と話していると、横から誰かが割り込んできた。

「おはよー千穂。何の話?」

「あ、里村さん」

理奈だ。電話は終わったらしい。横から自分の椅子を引っ張ると、私と千穂の会話に混ざってきた。

「里村さんは知ってる? 天野先輩がポケモン部辞めたって話」

「えっ、えっ、それホントに? 初めて聞いたし。玲ちゃんそれホントなの?」

「私も今聞いたばっかりだよ。でも、それでポケモン部の練習休みになってるって言うし」

「そっかー、だから土曜も静かだったんだ、外のコート」

理奈が私に目線を投げかけてきた。何か訊ねたいことがあるみたいだ。

「えっとさ玲ちゃん、玲ちゃん前言ってたよね。天野先輩って、副部長の男子と付き合ってるって」

「さっきその話も出たよ。今はその副部長が部長をしてるって話も」

「なんとなくだけどさ、天野先輩と副部長の関係がこじれちゃったとかじゃない?」

「ううん、別にそんな風じゃなかったけど……」

「絶対そうだって。男女間の関係のモツレってヤツ。そうだよね、玲ちゃん」

意見を求めてくる理奈に、私はうまい返事を思い付けなかった。理奈はそれでも良かったのか、一人で納得した様子だ。千穂の顔を見る限り、佳織ちゃんと大木先輩の恋愛関係がこじれたとか、そういった気配は無さそうだったけれど。

理奈は私たち四人――あとの二人は、静恵とつぐみだ――の中で、一番「進んでそう」というか、もっというと「遊んでそう」な感じの雰囲気の子だ。同じ組だから、クラス内でどれくらいの地位にいるかとかも大体分かる。仕切りたがり屋ってほどでもないけど、それなりに目立つポジションにはいる。学校行事とかでも他の子をリードするような場面が多い。相手の上に立ってないと気が済まない、そう言い換えることもできる。

そんな理奈が一番嫌がるのが、両親の話をされることだ。他人が自分の両親の話をする分には黙って聞いていられるけど、理奈の両親に話題が及んだ途端機嫌が悪くなる。私も静恵もつぐみもそれを知っているから、理奈の前では極力親の話をしないよう意識している。

「は? 親がコーディネーターだからって、あたしまで同じことしなきゃいけない理由なんてどこにもないじゃない」

だいぶ前、まだ理奈のことをあまり知らなかったつぐみが、会話の中で理奈の地雷を踏んづけたときに、むすっとした表情で吐き捨てたのをよく覚えている。

理奈の両親は二人ともポケモンコーディネーターで、どちらもコンテストで何度も優勝しているほどの実力者だった。豊縁でもそれなりに名の知れた存在で、テレビの中で姿を見せることもしばしばあった。いわゆる、有名人ってことだ。小山中でもほとんど子が名前も顔も知っているし、理奈がその娘だって知ってる子も多い。必然的に、親のことを話題にされることも多かった。

それが、理奈の癪に障って仕方がないらしい。

「あたしに親のことなんか聞かないで。テレビに出てる姿と家でいるときの姿が同じだなんて思わないで」

親が理奈を邪険に扱っているとか、暴力を振るっているとか、そういうことは無い。家ではごくまっとうな親として振る舞っているようだ。理奈にしょっちゅう連絡を入れているのも、普段接する機会が少ない分、声だけでも聞かせてやりたいという思いからに違いない。

ただ、かつては理奈もポケモンコーディネーターになってほしいと考えていたみたいで、そのためのスクールに通わせたりとか、自ら手ほどきをしようとしたこともあると聞いた。その過程でいろいろと厳しいことをされたり言われたりすることもあったそうだ。けれど残念ながら、理奈にはその方面の適性があまり無かったらしい。私と出会って少し経った、小学校中学年ぐらいのタイミングですべてやめてしまっている。

この時にいろいろ思うところがあったに違いない。自分は親のようにはできないとか、自分には才能が無いとか、親と比較されて見られるのが嫌とか、ネガティブな感情を抱くには十分な理由だった。後は親の仕事柄、テレビには映らない芸能人や有名人たちの醜聞を目の当たりにすることも多かったらしい。さっき、佳織ちゃんが部活を辞めたのは大木先輩との男女関係のもつれが理由に違いないと言い切ったのも、これが原因だ。

「コーディネーターなんて単に着飾ってすましてるだけじゃない。あんなのにだけはならないって決めてるの」

やがて理奈はコーディネーターも親のことも一緒くたに嫌いになって、ついでにポケモン自体も嫌いになった。だから必然的に、ポケモン部のことも好きじゃない。校内一の有名人で、コーディネーターとは一味違う形でポケモンを使いこなしていた佳織ちゃんに、理奈がいい感情を抱くはずもなかった。

ともかく、佳織ちゃんがポケモン部を退部してしまったのは、どうやら動かざる事実みたいだ。こんな話が広がらないはずがない。今に学校中が佳織ちゃんのことで持ち切りになるだろう。今週いっぱいは騒がしくなるに違いない。

(面倒くさいことになったな)

小さくため息を漏らして、私はそっと目を伏せた。

 

「今日も休みか、つぐみは」

だんだん遠ざかっていく背中を見つめながら、私が誰に言うでもなくぼそりと呟く。やってきたのはつぐみで、要件は「今日の部活は欠席するから、それを顧問に伝えてほしい」とのこと。これが初めてのことじゃなかったから、私は取り立ててつぐみに何か言うでもなく、ただ「いいよ」とだけ返した。

こんな風にして、つぐみは時々部活を休んでいる。普段真面目に稽古してるから、顧問の先生は特に気に掛けていないようだった。欠席する細かい理由は分からない。だけど一年生の秋頃、さっきみたいに私に欠席連絡を頼んだ折に「叔父さんが」と言いかけて止める、というシーンを目にしたことがあった。つぐみが部活に来ないのは、叔父さんが何か絡んでいるんじゃないかと思う。

けれど、それ以上は深追いしない。つぐみにはつぐみの理由がある。それを知ったところで何になるんだ。私は「今日はつぐみが来ない」という事実だけを認識する。あとは顧問に伝えれば終わりだ。剣道具一式と学校カバンを持って、体育館にある更衣室へ向かう。

「あっ、玲ちゃん」

その道すがら、ジャージにハーパン姿の千穂と出くわした。これから部活――ポケモン部の練習へ向かうところらしい。

「千穂。今から練習?」

「一応……でも、誰も始めようとしてなくてさ」

「天野先輩がいないから?」

「うん。どうしたらいいのかな、って……」

千穂は困った顔をして、私にすがるような声で訊ねてきて。

「玲ちゃんさ、天野先輩のこと何か知らない?」

「何も聞いてない。こっちが詳しいこと知りたいくらい。そう言う千穂はどうなの?」

「分かんないから訊いてるんだよー。他の先輩も困ってるし、どうしたらいいのか……」

私が佳織ちゃんと幼馴染だってことは、千穂も知っていることだ。だから私が佳織ちゃんのことを何か知らないかと期待するのも無理はない。けれど千穂にとっては残念なことに、佳織ちゃんに何があったのかは私も知らない。手がかりすら掴めていないのは、お互いさまだった。

あまつさえ、私が佳織ちゃんと最後に口をきいてから、もう二年かそこらの長い間が開いてしまっているのだから、分かるはずもない。

「玲ちゃん、もし何か分かったら教えてよ。みんな天野先輩のこと心配してるから」

「そんなに心配なら、直接家へ会いに行ってみたら?」

「日曜日に何人かで行ってみたよ。でも、天野先輩のお母さんが出てきて『今はそっとしておいて』って言うだけで」

そっとしておいて、っていうのも妙な表現だ。何か佳織ちゃんの心をかき乱すような出来事があったのか、それがポケモン部からの退部に直接つながってしまうような事件が起きたのか。今の私たちでは、佳織ちゃんの気持ちを推し量ることもできない。できるのは、ただ無責任な想像をすることくらいだ。

「一応気にはしておくけど、期待はしないで」

「分かったよ。玲ちゃん、ありがとう」

千穂はポケモン部の部室へ、私は更衣室に向かって歩いていく。道半ばまで一緒に歩いて行って、途中で二手に別れた。

湿気の多い更衣室で、制服を脱いで剣道着に着替える。必要な道具を携えて武道場の入り口で一礼すると、一足先に着替えを済ませて竹刀を点検していた静恵の隣へ付く。

「ねねっ、玲ちゃん玲ちゃん、うちのクラスの子が言ってたんだけど、天野先輩って部活やめたの?」

「そうみたい。まだ詳しいことは分からないけど、ポケモン部の子がそう言ってた」

「ふぅーん、そうなんだぁ。天野先輩、やめちゃったんだねぇ」

静恵はそこまで言い終えると、竹刀のささくれを取る作業へ戻ってしまった。

口数こそ少なかったけれど、静恵がまだ何か言いたげにしているのは明らかだった。静恵にもいろいろ思うところがあるだろうけれど、口に出さないということは静恵なりの考えがあるに違いなかった。だから、静恵が自分から話そうとするまでは黙っておこうと思う。世の中、言わない方がいいことがたくさんあること、むしろそっちの方が多いことくらい、私だって知っている。

部員の姿はまばらで、まだ全員は揃っていない。準備を整えた上で、床にあぐらをかいて座っていると、着装を整えた東原先輩が歩いてくるのが見えた。さっと立ち上がって一礼すると、座ったままでいいよ、と先輩は笑って応じた。ちょっといいかな、そう前置きしてから、先輩は蕾のような唇をそっと開いた。

「ねえねえ玲ちゃん。さっきの話、本当なの?」

「さっきの話……あの、天野先輩のことですか」

「うん。佳織ちゃんが部活を辞めちゃうなんて、ちょっと信じられなくて」

「私もポケモン部の友達から聞いただけですから、本当かは……でも、その友達、嘘とか言いませんから、きっと本当だと思います」

「そういうことなんだね。何かあったのかな、佳織ちゃん」

佳織ちゃんが――「天野先輩」がポケモン部を辞めたことは、ポケモン部と関係の無い人たちの間にも徐々に広まりつつあった。水を張った洗面器の上にインクを垂らせば、インクは瞬く間に広がっていく。少しずつ色が薄まって、元の形を失っていくのも同じ。この流れを止めることはできないだろう。

他のメンバーを待つ間に、東原先輩と一緒に軽く身体をほぐしていると、奥で高橋先輩が立ち上がるのが見えた。

「円陣になってーっ!」

先輩の掛け声を受けて、私たちは位置に付いた。

準備体操に筋トレとストレッチ、足さばきと素振りを一通りこなす。体育館の隅にずらりと並んだ、各々の名前が入った前垂れの元へ息を整えながら戻っていく。一年と少し使い込んで、真新しく鮮明だった藍色が、わずかずつだけれど色褪せてきているのが分かる。色が薄くなっていくほどに、私の色に染め上げられていく感じがする。鍛錬の証拠の一つだった。

自分が変わることを実感できる場所。それが私にとっての剣道部だった。

「面付けーっ!」

数分間の休憩を挟んだのち、高橋先輩から再び声が飛んだ。一呼吸置いてから、手拭いで髪を被って面を被る。面紐をきつく縛って、小手を両手に嵌めて、袴の裾を踏まないようにしながらすっと立ち上がる。今日はつぐみが休みだから、二年生は三人しかいない。相方を探していると、すぐ隣に東原先輩が立っているのが見えた。いいですか、と訊ねると、いいよ、やろっか、と返してくれた。東原先輩に元立ちをしてもらって、正面から向かい合う。

普段通りの流れで切り返しを三本こなしたあと、基本打ちに入る。私が一歩前へ進むと、東原先輩がそれを見てうまい具合に間合いを調整してくれる。先輩はどの人も上手で丁寧だったけれど、東原先輩は特に気持ちよく稽古をさせてくれた。真面目で稽古中はほとんど無駄口をきかないところも、私には快く思えた。ぐっと前へ歩み出ると、強い踏み足とともに東原先輩の面を打つ。右足が板張りの床を踏み鳴らす音と、竹刀が面を打ち据える音が、ほとんど重なって聞こえてきた。

交代して東原先輩が面を打った後、今度は私が小手を打つ。慣れていないことを自覚していたから、少し速度を落として正確さを重視しながら打ち込んだ。面の中が少しずつ熱気に満たされていくのを感じつつ、真っ直ぐ立っている東原先輩の姿を見やった。

東原先輩は女子の主将を担当していて、部長兼男子の主将である高橋先輩と共に副部長として剣道部を取りまとめている。後輩にも先輩風を吹かすことなく等距離に接してくれるということ、主将に恥じない実力の持ち主だということから、人間関係がガタガタになりやすい女子の群れにあって誰からも好かれる稀有な存在だった。私も東原先輩のことが好きだ。真面目で練習熱心なところは、自分で言うのもなんだけれど、通じるところがあると思っている。

胴・小手面・小手胴・突き。流れるように基本打ちを済ませたところで、基本打ちに対する返し技の練習に入る。面を狙ってくる東原先輩の動きを見てから、返し技として小手を打つ。これを二回繰り返した。

一年生の冬にあった錬成会。その休憩時間中に、東原先輩と話をする時間があった。先輩はいつから剣道をやってるんですか、私の質問に、先輩は「中学に上がってからだよ」と答えた。そうとは思えないほど強かったから、正直に言って驚いたことを覚えている。私と同じなんですね、思ったことをそのまま口に出した私に、東原先輩は朗らかに笑いながら「一緒だね。なんだか親近感あるよ」と言ってくれた。この先輩は本当の意味でいい人だ、私はそう確信した。

練習もだいぶ佳境に入ってきた。今度は引き技だ。鍔迫り合いの状態から、一歩引いて相手を打つ。引き面・引き小手・引き胴、それぞれ違う形で膠着状態を打開してから、隙のできた相手を打つ。東原先輩と強く竹刀を押し合って、試合さながらの状態を作る。先輩と一瞬視線が交錯する。まじり気のない澄んだ瞳をしていた。私は先輩の竹刀を大きく左へ払って、身体を後ろへ退きつつ面を打つ。

面打ちから引き胴までをもう一セットこなして、締め括りに地稽古を五本済ませてから、今日の稽古はお開きとなった。

 

「部活終わった後汗くさくなるの、なんとかならない?」

「無理だよ、剣道って汗いっぱいかくし」

「わたしも汗びっしょりだよー、帰ってシャワー浴びなきゃ」

制服に着替えてから、荷物を持って下校する。私を真ん中に置いて、左手に理奈、右手に静恵が付く。理奈の言った通り、今の私たちはちょっと汗くさい。制汗剤とか、使った方がいいのかもしれないけど、この時間に通りすがるような人もいないし、私たちだけなら別にいいや、って思ってしまう。汗だくになったのは身体だけじゃない。剣道着もだ。帰って洗濯して干しておこう。

剣道着を洗うのは、自分の仕事だって決めている。この部活を選んだのは過去の私自身だし、続けることを選んでいるのは今の私自身だ。道具一式も、自分が今まで貯めたお金を使って買った。何もかも自分の意志でやりたいと思っていた。思い通りにならないことばかりの現実の中で、剣道だけは自分のものにしておきたいという思いがあった。

どうにもならないこと、それが私の周りには溢れていたから。

「理奈さー、私が言うのもどうかと思うけど、もうちょっと真面目にやった方がいいよ」

「えー、やってるって。あれは、顧問の先生が因縁付けてきただけだから。なんであたしだけ厳しいんだろ」

理奈は相変わらずで、自分ばかり稽古が厳しいと愚痴をこぼしている。正確には、本腰を入れていないように見える理奈に顧問の先生が注意を入れた形なんだけれども、理奈にはそれが届いていないみたいだ。まあ、理奈のことは理奈にしかどうしようもないから、私が気にしたところで仕方ないけれど。

稽古がきついと愚痴ばかり言っている理奈が、そもそもどうして向いてなさそうな剣道部に入ったのか。有り体に言えば、私が入りたいと言ったから、それに付いてきただけに過ぎないんだと思う。理奈は昔からこういうところ――誰かに付いていけば何とかなると思っているところがあった。剣道部に入部したのも、私が剣道をやりたいと口にしたことに迎合したに過ぎない。

私は自分を強く鍛えたかったから、静恵は親が経験者で以前から興味があったから、つぐみは体力を付けたかったから、と各々入部する理由がある。私が知っている限り、理奈にはそれが見当たらない。自分が在るようで無い、それが理奈のキャラクターだった。この先私と理奈が別々の道へ進むことになっても、理奈は誰かに従うのをやめることはないだろう。

以前は、別の人間に調子を合わせていたのだから。

「玲ちゃんさぁ、土曜のお稽古の時に、体育館に知らない子いたの、知ってる? 背の低いさぁ」

誰もいない夕暮れの道を三人並んで歩き続けていると、不意に静恵が話し掛けてきた。静恵が話題に上げたのは、土曜日の練習中に見学に来ていた、小学校中学年くらいの背丈の子のことだった。

「あー、あれでしょあれ、黒い髪のちっちゃい子。あれさー、ロボットだって」

「えーっ、ロボットぉ?」

「静恵静恵。静恵が言ってるのって、頭に赤い耳みたいなのを付けてた子のこと?」

「それそれ! 何しに来てるんだろ? って思ってたんだ」

ロボット。理奈が発したその言葉を、私は思いのほか冷静に受け止めていた。

「榁のどこかに人型ロボットを作ってる研究所とかいうのがあって、そこでできたんだって」

「確か……付き添ってた博士みたいな女の人、『トライポッド』って呼んでたっけ、あの子のこと」

あの、ロボットだという女の子は、保護者らしき女性から「トライポッド」と呼ばれていた。言葉の響きが気になって、帰ってから辞書を引いて意味を調べてみた。トライポッド、Tripod。この言葉は、私たちが普段使う言語では「三脚」という訳になることが多いらしい。意味は分かったけれど、意味が分からない。トライポッドは二本足で立っていて、三本目の足がどこかから生えているということもなかった。頭に付いた赤い耳のようなものを除けば、どこから見ても人間にしか見えない。

さっきから何度か言っている「赤い耳」にも、どうやら訳があるらしく。

「練習中に顧問の先生と話してるの聞いたけど、そのトライポッドってロボット、ラルトスをイメージしてるんだって」

「あぁー、だから髪の毛で目が隠れてたんだぁ」

「ロボットがなんで剣道の練習なんて見にきてたんだろ。なんかまた、テレビとかが寄ってきそうでやだ」

「ちょっと気になったんだけど、ロボットってもっとこう、メカメカした感じじゃない? ほら、あの、エヴァみたいな。あの子みたいなのって、ロボットじゃなくてアンドロイドって言わない?」

「静恵ったら、ずいぶん詳しいっていうか、細かいじゃない」

「えーっと、お父さんがよくSFの本読んでて、わたしも読んだりしてたから」

「けど、見学してるときもはっきり『ロボット』だって言ってたし。だから、ロボットなんじゃないの?」

ロボットとアンドロイドの違いはよく分からない。それを言ってしまうと、トライポッド自体がそもそもよく分からない存在ではあるけれど。

得体が知れないという意味で、トライポッドは「ミサキ」に似ている気がした。榁はこういう「よく分からない」人や物がしばしば日々の生活の中に現れる。何か奇妙なものを見かけたら、122番で管理局に通報しなさいと、小さい頃から繰り返し教えられていた。決して軽い気持ちで手を出してはいけない、とも。いつ何時、自分が常識の通用しない存在に相対するとも分からない。だからこそ、自分の身は自分で守れるよう、強くなっておきたいと思った。

強くなりたい、それは剣道を始めた動機の一つだった。可能ならばポケモンに依存しない強さが欲しかった。それだけじゃない。何か心から打ち込めるものが欲しくて、自分一人でできることがよかった。それでいて、体力も気力も削り取られるような厳しいものが理想だった。そのすべてを満たしていて、かつ私の琴線に触れるところがあったのが、他ならぬ剣道だった。

(剣道のことを知ったのは……前に佳織ちゃんたちと遊んでたときに声をかけてきた人がやってたからだっけ)

いつだったか、私と佳織ちゃんともう一人で、一緒に外で遊んでいた日だった。遠くからやってきたという、高校生くらいのお姉さんに道を尋ねられるということがあった。

お姉さんは竹刀袋と防具袋を肩に提げて、傍らに見たこともない真っ赤なポケモンを引き連れていたのをはっきりと覚えている。ポケモンは、海辺を歩いているクラブのような、けれどそれよりずっと重々しいハサミを携えて、護衛役として主であるお姉さんに危害を加える者がいないか目を光らせていた。お姉さんは私たちに気さくに話しかけてきて、宿泊場所だという民宿の所在を教えてほしいと言ってきた。幸い佳織ちゃんがその場所を知っていたからすぐに案内をして、事なきを得ることができた。

その道中で剣道の話になって、確か私が「素振りするところを見せてほしい」と頼んだはずだ。お姉さんは快くOKしてくれて、素振りする様子を私に見せてくれた。あの頃は気づかなかったけれど、今思うとあのお姉さんが相当綺麗なフォームをしていたことが分かる。部活で一人だけの女子で、男子に混じって一緒にやっている、なんてことを楽しげに話していた。そんな環境を楽しむことができるだけのタフな精神を持ち合わせていたということでもある。かつての佳織ちゃんにも通じるところがあるだろう。会ったのはあの一度きりだけど、今はどうしているだろうかと、時々思うことがある。

榁で剣道を学んでいる人はさほど多くない。小山中はまだ恵まれた方で、一年生二年生三年生、それぞれの男女を合わせて十五人が所属している。これはかなりの人数だった。私のように中学へ上がってから始める人も多くて、一緒に上達していくことができたのも大きい。今は二年生と一年生の女子の取りまとめを任されている。上達が早いと、先輩に褒めてもらえたこともある。去年の秋には試合にも出させてもらえて、勝つこともできた。

練習は苦しいと思うこともよくある。覚悟してはいたけれど、夏場は地獄のようだった。頭から滴る汗で視界が滲んで、口に入ってひどく塩辛い味がした。目はずきずき沁みて前を見ていることさえ辛かった。それでも最後までやり抜くと、自分が一回り大きくなったように感じられたものだ。三時間の練習を終えて面を外したときの、あの清々しさは忘れられない。私は生きているんだ――そんな濃厚な実感が得られた。

つらいこともある、けれどそれも含めて楽しいと思える。もし仮に私に子供ができたら、もっと小さな頃から取り組ませてあげたいと考えるほどに。ポケモントレーナーなんかを目指すより、よほど健康的で建設的じゃないか。私にはそう思えて仕方なかった。

こんなことを考えていると、また竹刀を手にしたいという欲求が頭をもたげてくる。二時間みっちり稽古をしたばかりだけど、身体はまだ動く。もっともっと力を付けたい。

(洗濯が終わったら、庭で素振りでもしようかな)

肩に掛けた竹刀袋を直しながら、そんなことを考えた。

 

洗った剣道着と袴を干してから、庭で三十分くらい素振りで汗を流して、シャワーを浴びて身体を綺麗にした。バスタオルで水気を拭って、ドライヤーで髪を乾かす。剣道を始めてから髪をバッサリ短くしたから、乾かす手間がずいぶん軽くなった。やっぱり剣道は私の人生にいい影響を与えている。

小さなことだけど、プラスはプラスだ。

「上がったよ、お風呂。お母さんも続けて入って」

「あら、玲ちゃんもう上がったの? もっとゆっくり入ればいいのに」

「いいよ。あんまり長湯したら、また汗かいちゃうから」

母はいつもこういう口のきき方をする。「何々すればいいのに」「何々した方がいい」「何々はやめておきなさい」――枚挙に暇が無い。母はいつも自分が正しいと確信していて、自分の思った通りにすることが娘である私にとっても理想だと考えている節がある。私よりも物事を的確に判断できると信じていて、私にアドバイスをしていると思っている。

剣道を始める時もそうだった。怪我をするから止めておいた方がいい、厳しいから止めておいた方がいい、危ないから止めておいた方がいい。背中を押す言葉は一つもなくて、足止めをする言葉ばかりをかけられた。私はそれでも自分の意志を貫き通した。旅に出ずに家に残るという選択を強いられた以上、他の事は自分の気持ちに正直でありたかった。私は旅に出るために新聞配達をして貯めておいたお金を使って、竹刀と防具と道着をすべて揃えた。母の財布は一切頼りにしなかった。何もかも自分の力だけでやり遂げたかったからだ。

「おやすみ、お母さん」

「部屋へ行くの? もう少しゆっくりしていったら?」

「稽古で疲れたから、早く寝たいの。じゃあね」

最後までこの調子だ。

今日は特に宿題もない。後はもう寝るだけだけれど、部屋へ戻って机の上に置いたポケギアを見ると、着信があることを示す赤いピカピカした光が見える。あまり夜更かししないようにしなきゃ、そう思いつつ、ポケギアを手に取った。

少し大きめの腕時計にリモコンのキーパッド部分が取り付けられた機械、ポケギアの外観を一言で言い表すと、こんなところだろうか。中学へ上がった折に、母親が「連絡を取るために」という理由で買ってきたものだ。普段はデジタル時計として使えて、ボタンを押すと電話を掛けられるようになる。カードを挿せば、他にもラジオを聞けるようになるといった機能が増えるらしいけど、正直そこまで興味はない。

母親は「これで玲ちゃんがどこにいても連絡を取れる」と喜んでいたけれど、率直に言って私はさほど嬉しいとは思わなかった。母親に監視されているような気がしたし、何よりプレゼントの動機が、本当のところは私のためではなく自分のためだというのが見え透いていた。学校へ持っていったり、部活の練習中にも付けてくれることを期待していたようだけど、学校へは校則を盾にして決して持ち込まなかったし、休日でも練習中は腕時計の類をそもそも付けられない剣道部を選んだ。だから、普段は部屋に置きっぱなしにしている。

主な用途といえば、家の電話回線を使わずに会話ができることを使った、友達とのおしゃべりだ。

「静恵からか」

着信履歴を見る。静恵の番号があった。向こうも大方やることが全部終わって、おしゃべりの続きをしたくなったというところだと思う。掛け直さないわけにはいかないので、リダイヤルして静恵に連絡を取る。

「もしもーし」

「おー、玲ちゃーん。今大丈夫ー?」

「いいよ。シャワーも浴びたし、あともう寝るだけだから」

電話越しに聞こえる声の調子は、いつもと特に変わらない。急ぎの連絡があって電話を掛けてきたわけではなさそうだ。

大したことのないやりとりをいくらか交わしてから、静恵が話題を変えてきた。

「玲ちゃん玲ちゃん。帰る途中に話してた、えーっと……あの、ロボットの、ト、トラ? トー……」

「トライポッド?」

「あ、それそれ、トライポッド。あんな子が榁にいたんだねぇ、知らなかったよ」

「最近完成したって言ってた気がする。それであちこち見て回ってるんじゃないかな」

「ロボットが剣道やるのかなぁ? 面思いっきり打たれたら、止まっちゃいそうな気がするけどね」

ロボットそのものは、他の地域や地方でも研究が進んでて、取り立てて珍しいものでもない。徳実では、宇宙開発に使われるっていう、トライポッドに近い人型ロボットが一般に公開されたりもした。だから、トライポッドはドラえもんのようなオーバーテクノロジーの存在ってわけではない。大勢はいないだろうけど、まあいてもおかしくはない、そんなところだ。田舎町の榁にいるという点では、些かの奇妙さを覚えるところもあるけれど。

静恵はトライポッドのことを話題に挙げたけれど、本題はそこではなかったようで。

「あのさー、理奈はテレビとかが来て嫌って言ってたじゃない」

「言ってたね、確かに」

「あんな風に言ってるけど、わたしはテレビに映るっていいことだと思うな。こういうところ、理奈と合わないって思う」

理奈が言っていたことに、静恵は納得がいっていない。ということだ。

いつも私とつぐみを挟んで反対同士の位置に付いて歩くこと、今日みたいに他に相手がいないような場合を除いては進んで組を作ろうとしないこと。こういうことが毎日のように起きている。はっきり言うと、理奈と静恵は相性が悪い。正確には、理奈は静恵を避けているし、静恵は理奈とできるだけ関わらないようにしている。それでも一緒にいるのは、私とつぐみを含めた四人でいた時間が長かったからに他ならない。

今からもう五年ぐらい前だろうか。小三の頃に、理奈が静恵を苛めていた時期があった。苛めると言っても、叩いたり蹴ったりするわけじゃなくて、悪口を言ったり仲間外れにしたりと、証拠が残りにくいタイプの苛めだ。静恵はその時のことを覚えていて、理奈にいい感情を持っていない。理奈の方も、今は反省して止めているとは言えやってしまったことは覆しようがなくて、静恵に引け目を感じている。互いに距離があるのはこれが理由だ。

ただ――実際のところ理奈は主体的に静恵を苛めていたわけではなくて、静恵を気に入らない子が率先して悪意を向けて、理奈は例によってそれに従っていたに過ぎない。理奈を引っ張っていたのは私でも、つぐみでもない。

つぐみ、静恵、理奈、そして私。今は四人で一緒だけれど、私たちは「五人」で一緒だった頃があった。つまり、今はここにいない子がもう一人いたということになる。

(この話はしちゃいけない、そんな空気が出来上がった)

四人グループになってからは、いなくなった一人の話をしないことが暗黙のルールになっている。取り決めがされたわけじゃないし、誰かが「この話はしないで」と言ったわけでもない。けれど皆どこか空気を読んで、かつて一緒だったあの子の話は決してしないという雰囲気が出来上がっている。私も率先して話すつもりはなかったし、理奈も静恵もつぐみも、恐らくは同じ考えだろう。

それからまたいくらか言葉を交わして、静恵が電話を切った。ポケギアを机の上に戻して、ベッドへ座り込む。

「……はぁ」

少し大きなため息が漏れて、強張っていた肩からふっと力が抜けるのを感じた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。