佳織ちゃんがいなくなって、明日で一週間になる。けれど、私のクラスでは未だに噂話が収まらない。月曜から学校へ来ていないことも分かって、どこへ行ったのか、何をしているのかとあちこちで話の種にされている。
がやがやとざわつく教室を一瞥してから、私は深くため息をついた。
(今日もまた、面倒くさい人間関係をうまくさばかなきゃいけない)
理奈、静恵、つぐみ。教室や剣道部で顔を合わせることになる三人の顔が、浮かんでは消え、消えては浮かんでを繰り返す。私を含めて四人とも、表向き仲良くしているようで、実際にはみんなそれぞれ思うところがある。私がどう見られているかは分からないけれど、私から見れば、理奈も静恵もつぐみも揃って一筋縄では行かない。
静恵は理奈を避けていて仲が良くないし、つぐみは静恵が彼氏持ちだと知ったらいい気分はしないだろう。静恵はつぐみの家庭環境を察しているように見えて、理奈とつぐみも相性がいいとは言えない。私がいなければ、グループとしては成り立たないんじゃないか、そう思わずにはいられない。三人は三人で、自分がうまくグループのバランスを取っていると考えているかも知れない。今の妙な均衡は、互いの微妙な緊張感の上で成り立っているように思う。
私たちが繋がりを保っているのは、比奈子の秘密を共有している事と、ポケモン嫌いであることが共通している事。この二つが理由だと私は思う。特に嫌いなものが同じだというのは、思っている以上に互いの繋がりを強くする効果があるようだ。不思議な事に、ここだけは揺るがなかった。
ポケモンが嫌いになった理由に、各々の家族が関わっているところも似通っていた。理奈は両親からポケモンコーディネーターになることを強要されて、つぐみはポケモンに両親を殺されて、静恵は従姉妹がポケモンと駆け落ちをした。私は私で、ポケモントレーナーとして旅立ったまま戻ってこない姉のせいで、ずっと家に縛り付けられている。ポケモンに嫌悪感を抱くには、どれもこれも十分過ぎる理由だった。
理奈も静恵もつぐみも私も、揃いも揃ってポケモンが嫌いだ。だからみんなポケモンから距離を置いている。ポケモンに関わらないようにしている。
(佳織ちゃんも、ポケモンが嫌になった――?)
ポケモンから離れたという意味では、佳織ちゃんの行動はまさしくそれだった。ポケモンやポケモン部に何か嫌気が差して辞めてしまったのか、そんな風に考えてしまう。けれど……もう二年近く話をしていないとは言え、佳織ちゃんが急に責任を放棄して部活を辞めてしまうということ自体が考え辛い。それに毎週休日も練習に出るほどの熱心さだ、嫌いになったなら必ず何か予兆があるはず。この間の土曜日も、私たちが帰る頃になっても声を上げて練習を続けていたのだから、熱が冷めてしまったとも思えない。
どうしてだろう、どうして辞めてしまったのだろう。佳織ちゃんが退部した理由を考えていた最中に、ふと、佳織ちゃんの側にいた子の存在を思い出した。
(杉本さん、だったっけ)
私が佳織ちゃんと遊ぶとき、しょっちゅう隣にいた女の子。それが杉本さんだった。佳織ちゃんと同い年で、私の一つ上だと聞かされたけれど、外見だけではとてもそうとは思えなかった。前髪を長く伸ばして、あたかもラルトスのように目元を隠していたのを覚えている。それが一層雰囲気を幼く見せていたように思う。いつも佳織ちゃんが手を引いてあげて、おどおどしながら付いていくという感じだった。
見た目通りおとなしい……というか引っ込み思案なタイプで、印象の薄い静かな子だった。私とはほとんど話さなかったように思う。佳織ちゃんとは時折話していたけれど、蚊の鳴くような声でほとんど聞き取ることができなかった。佳織ちゃんが「私の一番の友達」と言っていたけれど、率直に言って二人の相性がいいようには思えなかった。
杉本さんにも姉がいた。私や佳織ちゃんと同じだ。ただ、細かな違いはあるけれど全体的な雰囲気は似ている私や佳織ちゃんの姉とは違って、杉本さんと姉は明らかに違っていた。顔立ちも背格好も、姉妹とは到底思えない違いがあった。お姉さんは背が高くて快活そうなイメージがあったけれど、杉本さんはまるで正反対だ。小動物のように縮こまって、低い背丈が一層ちまっこく見えたものだ。
何か事情があるな、と察した。察せざるを得なかったと言うべきか。杉本さんとお姉さんは、明らかに血の繋がりのある姉妹ではなかった。一度だけ杉本さんの母親を目にしたことがあるけれど、お姉さんと顔立ちが瓜二つだった。だから、恐らくは――想像だけれども、杉本さんは、どこかから「もらわれてきた」子なんじゃないか、私はそう思った。
(それに、それだけじゃない。違和感があった)
(杉本さん自体に、猛烈な違和感を覚えた)
言い知れぬ、言葉にできない違和感。杉本さんは人であって人でない、人の形をした別の何かのように思えた。なぜかは説明できない。外見的にはっきりした特徴があるわけではなかったし、傍から見ればただの引っ込み思案な女の子のはずだ。にも関わらず、私は杉本さんと一緒にいるとき、なぜか緊張してしまったのをよく覚えている。それが伝わってしまったのか、杉本さんも私とはあまり目を合わせないようにしていたように思う。
引っ込み思案で目立たないキャラクターの割に、はっきりと彼氏がいた時期があるのも不思議だった。あれは去年の夏頃で、相手は確か、テニス部の先輩だったはず。一緒にいるところを見かけて、東原先輩にその話をした記憶がある。東原先輩の口ぶりから、男子の方は古田先輩という名前らしかった。それからどうなったのかは知らないけれど、まだ付き合ってるんだろうか。中学に入ってからは一度も口を聞いていないから、ハッキリしたことは分からない。
彼女もまた、良く分からない人だった。
(私の周りには、理解しがたい人が多すぎる)
何度目か分からないため息を付く。
私は、どこへ行けばいいのだろうか。何をすればいいのだろうか。
ここに――榁にいると、自分が腐っていってしまう。無形の焦燥感が、私の中で燻り始めていた。
静恵・理奈・つぐみ。それぞれ理由があって、学校で解散になった。稽古で熱のこもった体を、潮風がゆるく冷やしていく。心地よい疲労感が全身を包んでいた。滲んだ汗をハンカチで拭って、ポケットへしまいこむ。
帰ったらいつものように洗濯をして、宿題を済ませて……と、帰ってからすることを整理していた最中のこと。
「おかあさま。もうお帰りになられますか?」
「ええ。今日はもう十分でしょう。アルファ、蓄積したデータをエスディへ入力しておいてくださいね」
「わかりました」
手をつないだ小柄な少女と、まだ若さの残る白衣の女性が、私の横を通りすぎていく。そのどちらにも見覚えがあった。少女は「トライポッド」と呼ばれていたロボットで、女性はその開発者――確か、「朱鷺宮博士」だったはずだ。
先週の土曜日に稽古を見学しにきていたのを思い出す。初めのうちは隅で見ていて、途中から顧問の先生から軽く指導を受けて足さばきの練習をしたり、短めの竹刀を貸し出されて素振りをしたりしていた。思いのほか熱心に取り組んでいて、それ自体は微笑ましく思ったけれど、ロボットだというのに汗をかいていたり、ポカリを飲んで口から水分を取ったりしていたのは少し驚いた。ロボットだとはっきり言われなければどう見ても人間としか思えないほど、その振る舞いは自然だった。
(『アルファ』っていうのは、愛称か何かなのかな)
トライポッド、というのは型式で、アルファ、というのは名前の類だと思う。ピカチュウに「ピカ」って名前を付けたりするのと同じことだろう。
私と反対方向に向かって歩いていくアルファと朱鷺宮博士。その二人の背中を立ち止まって見つめながら、必然的に湧き起こる疑問を心の中でこねくり回す。
(どうしてあんな精巧なロボットを開発した理由は? 開発できた理由は?)
(それも……榁のような辺鄙な場所で)
あのロボットのことを、アルファのことを冷静に考え直してみると、ここにいる理由がまったく分からなかった。開発された理由も分からなかったし、開発できた理由も分からなかった。徳実市のような先端技術を研究している都市なら理解できる。そこでなら、アルファのようなロボットが開発されていてもおかしくないだろう。けれどここは榁だ。豊縁最果ての地、豊縁地方にありながら縁の薄い地方と揶揄され、名所も資源もない榁のような田舎で、なぜアルファが開発されたのだろう。
謎だらけのアルファのことを思いながら海岸沿いを歩く。古めかしい喫茶店「ペリドット」を横切ったあたりで、大きめのポケギアのような機械を持った女の人を見かけた。フィールドワークに向いた緑色の服には、見覚えがあった。
(案件管理局の人だ)
小学校に上がりたての頃、生活の時間を使って教えられたことがある。事件事故は110番、消防救急は119番、それ以外は122番。122番は案件管理局につながる緊急通報用番号だ。私たちは常識の一環として、よく分からないものを見かけたらすぐに122番へ連絡するよう教えられている。
昔一度、この番号に電話をかけたことがある。海で遊んでいたとき、波打ち際に死体が打ち上げられていた。それだけでも吐き気のするような気味の悪さだったけれど、始末の悪いことにあれはただの死体じゃなかった。青いヒレ・刺々しい毛並み・水を吸って重くなった毛玉のような尻尾。普通では共存しているとは思えない体の部位が、一つの死体にすべてくっ付いていた。後で図鑑を見て、それが「シャワーズ」「サンダース」「ブースター」というポケモンの一部分であることを知った。管理局の人から聞いた話だと、三匹のポケモンを何らかの方法で掛け合わせた可能性があるらしかった。
この世界には関わってはいけないものがある――三匹の獣がいびつに融合したあの亡骸を見たとき、私は生々しく実感した。私の理解の範疇を越えたものがある、私ではどうすることもできない存在がいる。それも思いのほか近くに、想像している以上に身近に。海水で全身が膨張したあの死体を、私は今でも夢に見ることがある。言うまでもなくひどい悪夢で、目覚めたときは全身が汗で濡れているのが常だった。
(決して行ってはいけない場所、それも入るのかもしれない)
――「やぶれたせかい」、という場所が存在するという話を、違う場所で、異なる時期に、幾度か聞いたことがある。私たちのいる世界の反対側にある、無秩序な世界。あるいは裏側に位置する、混沌とした危険な世界。言い回しは人それぞれだけれど、大筋ではほぼ同じ意味になる言葉で、その場所は表現されていたはずだ。
榁には行方不明になる人や、気が違ったと言われる人が、他の地域に比べて多いらしい。根拠の無い噂話、あるいは迷信の類だけれど、比奈子は前者に当てはまるし、静恵の従姉妹――「ミサキ」は後者に当てはまる。彼ら・彼女らが、ふとした理由で「やぶれたせかい」に迷い込んでしまった。だから戻ってこなかったり、戻ってきても以前とは違った振る舞いを見せたりする。そんなことがまことしやかに語られている。他にも何かがおかしいと思う人も、決して見ないわけではない。
(そう言う私も、他人から見れば、何かがおかしな人なのかも知れないけれど)
くだらない人間関係に神経をすり減らして、今から一番星を獲れるとも思えない剣道に精を出す。見る人が見れば、私も十分おかしな人間だろう。筋が通っているとはとても思えない。
(まあ、それでもいいんじゃないかな)
私は、そう考えている。
どこもおかしくない人間など、それ自体がおかしいのだから。
家に戻ると、母はまだ帰っていなかった。
いつものように制服のまま洗濯機を回して、冷蔵庫で冷えている麦茶をコップに注いで飲み干す。空になったコップを流しですすいでいる内に、英語の宿題が出ていたことを思い出した。部屋へ戻ろう、そう考えて廊下を歩くと、先日とは違ってしっかりと閉じられた姉の部屋へつながるドアが目に止まった。
ドアには、「凛の部屋」という札が掛かっている。
凛。仲村渠凛。それが私の姉の名だ。三年前の一九九三年四月、よく晴れた日の朝に榁を旅立って以来、ここには一度も戻ってきていない。この部屋にも、この家にも、榁にも、一度も。
元々は、どれだけ長くとも二年で帰ってくる。その予定だった。私がポケモントレーナーとして旅に出ることを強く希望していて、姉が先に旅立って私が留守番をせざるを得ない現実に憤懣やるかたない思いを抱いていたことを、姉も理解していたはずだった。少なくとも言葉の上では、必ず戻ってくると約束を交わしていた。姉が戻ってきて手続きをすれば、私も旅に出られる。そう信じていた。
姉はポケモンを扱う免許を取って早々に、一度はここへ留まる選択をした。自分にはトレーナーとしての適性は無い、そう言って私に道を譲ったはずだった。私はそれを喜んだ。私は外へ出て行きたいという思いがあって、姉がそれを理解してくれたと感じたからだ。ところが六年生へ上がる直前になって、やっぱり自分も旅に出たいなんて言い出した。何が理由かなんて分からないし、私にとっては興味のないことだ。あるのは、私が留守番をすることになったということ、トレーナーの免許を取得できなくなったこと。この二つの冷たい事実だけだ。
挙句、私との約束は反故にされ、姉は今も戻ってきていない。私は姉が帰ってくることを信じて、神経質な母親を宥める役割をこなしていた。いつかは免許を取って旅に出られる、それだけが私の支えだった。けれどその支えはもう折れてしまって、私の心は地の底へ転がり落ちた。今はただ、わずかな時間を除いて、潤いを得られる少しの時間を除いて、無味乾燥な日々を送っている。
あんなポケモンを見てみたい、自ら戦って仲間にしてみたい、たくさんのトレーナーたちと切磋琢磨したい――そんな願望を抱いていた頃がある。願望に身を焼き焦がされて燃え尽きてしまいそうなほどに、強く願っていたこともある。今は違う。ポケモンにもトレーナーにも情熱は持てない。冷えた石のように凝り固まった思いだけが、心の中にいつまでも居座っている。
(一緒に出て行ったのは、確か三人いた)
私の姉、佳織ちゃんの姉の佐織さん、そして杉本さんの姉だ。出て行く姉と残される妹、それが三組。笑ってしまうほど綺麗なコントラストだ。私たちは今も榁にいて、姉たちは帰ってきていない。みんな同じだ。
姉のせいで私はトレーナーになれなかった。旅に出られなかった。私はこのことを決して許さない。今はどこで何をしているのか知らないけれど、もう二度と私の前に現れないで欲しい。顔を見せないで欲しい。今更帰ってきたところで貴女の居場所なんて存在しない。はっきりとそう言ってやりたい。
ここには何もない。ただ束縛しかない。もっとたくさんのお金を持てるようになったら、すぐにでも出て行ってやりたい。どこか遠くの街へ、ここではないどこかへ、海を越えたもっともっと広い世界へ!
(もうこれ以上、こんなところにいるのはまっぴらだ)
嘘いつわりのない、私の本心だった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。