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Stage 6-6

一週間が経った。佳織ちゃんがポケモン部を辞めてからのことだ。

別にどこかから公式発表があったわけじゃないし、そもそも特段公にすることでもない。それでも佳織ちゃんが、天野先輩がポケモン部を辞めてしまったことは公然の事実になっていて、みんなの知るところになっている。それはイコールとして、噂話の種にされるということでもある。

聞いた話は、明らかに嘘と分かるものや、やっかみから来ているようにしか思えないものばかりだった。根も葉もない噂、根拠の無い妄想。佳織ちゃんを「天野先輩」としか思っていない人たちの戯れ言。けれどその中には、少し気になる話も混じっていて。

(佐織さんが……何か事件を起こしたから。確か、庄司先輩がそう言っていた)

朝練の後、三年生の庄司先輩と高橋部長が話していたことだ。週刊誌に記事が書かれていて、そこで「天野佐織」という名前が書かれていたらしい。天野佐織、佳織ちゃんのお姉さんの名前と完全に一致する。庄司先輩が語った記事の内容によると――その天野佐織なる人物が、何か大きな事件を起こして逮捕された。年齢が若かったので、大手マスコミ各社は名前を伏せている。けれど、件の週刊誌がそれをすっぱ抜いたことで話題になっている、らしい。

これが理由で佳織ちゃんがポケモン部を辞めさせられたのだとしたら、ハッキリ言って筋が通っていない。佳織ちゃんは何一つ悪いことをしていないわけで、家族の問題に連座して責任を取らされるなんてどうかしている。話題になっているっていう事件がどんな事件かは、テレビを観ないから詳しくは分からないけれど、いずれにせよ佳織ちゃんには何ら関係の無いことじゃないか。それが原因で退部を強要されたのだとしたら、不当としか言いようがない。

それに――ポケモントレーナーになることを選んだ時点で、その人はもう「子供」ではないはずだ。私や佳織ちゃんは今も免許を取れずにいる代わりに、身分上は「子供」という扱いになっている。ポケモントレーナーと違っていろいろなサービスを受けられないけれど、法的な保護を受けることができる。保護の中の一つに、犯罪加害者となった場合に実名での報道を差し止められる、というものがある。仮に私や佳織ちゃんが罪を犯しても、形だけでも法を守る気のあるメディアなら名前を出さないってことだ。

佐織さんは違う。ポケモントレーナーになったのだから、佐織さんは子供ではない。「大人」だ。さまざまな権利を得られる代わりに、それに付随するすべての責任を負うことになる。何か事件を起こせば、実名を報道されても法的には何ら問題は無い。ポケモントレーナーになるということはそういうことだ。テレビや新聞が佐織さんの名前を出さないのは、単に「配慮」しているに過ぎない。

(もし、佳織ちゃんが、お姉さんのせいでポケモン部を辞めざるを得なくなったのだとしたら)

(だとしたら、佳織ちゃんは……自分の夢を、二回もお姉さんに壊されたことになる)

考えたくもないことだ。トレーナーになる夢を潰されただけでなく、ポケモン部でさらに活躍するという夢を潰された。これが事実だとしたら、佳織ちゃんの心境はどんなものだろう。私ならどうするだろう。とても姉を許す気にはなれないし、姉と呼ぶことさえ憚るだろう。今でさえ、姉には憎悪の感情しか抱いていないというのに。

佳織ちゃんは今どこにいて、何を思っているのだろう。聞いてみたいという気持ちと、そっとしておくべきだという考えが、水に垂らした灯油のように、互いに交わることなく渦を巻いている。私は佳織ちゃんのことを知らない。どんな想いを抱いているのか、何を願っていたのか。

(……ううん。他人の気持ちなんて、誰も分からない)

(佳織ちゃんだけじゃない。静恵も理奈もつぐみも、何を考えているかなんて、私には分からない)

知らないのは佳織ちゃんの気持ちだけじゃない。私はそう思い至った。考えや気持ちが分からないのは、いつも一緒にいる友達、静恵や理奈やつぐみだって、同じことじゃないか。

静恵も、理奈も、つぐみも、表向き仲良くしているように見える。お互い角を立てずに、それなりにうまくやっているように見える。けれどそれは、あくまで表向きに過ぎない。皆なにがしか思うところがあって、相手が傷つくようなことを考えていたりする。でも決して口に出すことはせず、自分の心の中で押しとどめている。みんな揃って仮面を被って、剣を手にして、互いに牽制しあっている。

それこそ、まるで剣道でもやっているみたいに。

(もっと強くなりたい。一人で生きていけるようになりたい)

抱いていた思いが急激に膨れ上がって、私を中から苛んでくる。強い自分が欲しい、一人孤独に生きていける力が欲しい。誰の手も借りずに生きていける人間になりたい。これ以上しがらみに捕らわれたくなかった。

ここには、榁にはこれ以上いたくない。一年でも一日でも一秒でも早く出ていきたい。大きくなれば少しはこの空気に慣れると思っていたけれど、それは誤りだった。十三になった今でも、慣れることなんてない。周りのために自分を押し殺し続けるのは、もうまっぴらだ。私を抑圧する大人を見ているとさらにうんざりする。私はああはなりたくない。

(けれど、今はどうしようもない)

今この瞬間教室を飛び出して船に乗って榁を出たところで、子供でしかない私は野垂れ死ぬしかない。自分を押し殺して、力を蓄える必要がある。私は昂る気持ちを理性で宥めながら、そっと胸に手を当てる。理性は私を冷静にしてくれる、生きるための力を与えてくれる。まだ仮面を外すわけにはいかない。仮面を被って、剣を手にして、耐え忍ばなければならない。

自由を手に入れるために――私は、仮面の剣士でありつづけよう。

 

迎えた放課後。竹刀と防具を持って、いつものように武道場へ向かう。掃除時間の終わりきっていない早めのタイミングで教室を出てきたから、まだ人影はほとんどない。他のメンバーはみんな遅れてくると言っていた。先に向かって準備運動を済ませておこう――。

そんな大したことのない考えは、突然目の前に現れた人物によって、跡形もなく吹き飛ばされてしまった。

「……佳織……ちゃん!?」

佳織ちゃん。佳織ちゃん。私は自分の口から出た言葉に、思わず我が耳を疑う。瞬きして視界をクリアにする。そこにいたのは紛れもなく佳織ちゃんだった。髪が伸びていて、顔は少しやつれていて、生気の抜けた表情をしていたけれど、それでも私の前に立っている制服姿の女子が佳織ちゃんだということは明らかだった。

私の呼びかけが耳に入ったのか、佳織ちゃんが顔を上げてこちらに視線を投げかけた。目から光が消えている――最初に抱いた感想はそれだった。こんな佳織ちゃんの姿は今まで見たことがなかった。瞳に強い意志を宿していた頃とはまるで比較にならない、死人のような様相だった。

「佳織ちゃん……その、ポケモン部辞めたって聞いたけど、本当なの? 本当なら、どうして……?」

それでも私は怯まずに、一歩前へ踏み出した。私はどうしても訊ねたかった。あれだけ情熱を燃やしていたはずのポケモン部を辞めた理由を、好きだったはずのポケモンから離れてしまったわけを、訊かずにはいられなかった。

佳織ちゃんは私の質問に答えようとはせず、ただ遠くの空を、雲に被われた空を見上げるばかりだった。右手にオオスバメのツイスターが入ったモンスターボールを握り締めて、一言も言葉を発することなく、虚空を見つめることに終始している。次を促すことなんてできなかった。漂っている空気が張り詰めすぎていて、それ以上何も言えなかった。

「――ごめんなさい、玲ちゃん」

「えっ」

ふっと目線を地面へ落とした後、佳織ちゃんの口から出た言葉は、謝罪の言葉だった。私は意図が理解できずに思わず声を上げる。佳織ちゃんが私に何か謝るようなことがあるだろうか? いや、何も思い浮かばない。なら、どうして「ごめんなさい」なんて言ったのだろう。私はただ戸惑うばかりで、けれど佳織ちゃんの切実な口調は、疑問を差し挟ませる余地を残していなくて。

「行かなきゃ」

「屋上へ、行かなきゃ」

うわ言のような口ぶりで、佳織ちゃんが「屋上へ行かなきゃ」と呟く。もうその視界に私の姿は映っていない。言葉をかけても届くことはないと確信させる目をしていた。佳織ちゃんは私の横を通り過ぎて、旧校舎へ歩みを進めてゆく。先ほど口にした言葉どおり、屋上へ行くつもりなのだろう。

小さくなっていく佳織ちゃんの背中を目で追いながらも、私はもう、佳織ちゃんの後を追いかける気にはならなかった。佳織ちゃんは変わってしまった。悪い意味で言っているんじゃない。事実として「変わってしまった」。それだけのことだ。私の知っている静かに情熱を温めていた佳織ちゃんは戻ってこない。二度と私の前に姿を見せることはない。

変わってしまったんだ。佳織ちゃんを変えてしまうほどの大きな出来事が起きたんだ。変わってしまったんだ。佳織ちゃんが変わらざるを得なくなるような重い出来事があったんだ。

私の知っている佳織ちゃんはもう消えてしまった。比奈子のように、姉のように――どこか遠くへ、消えてしまったんだ。

(だから、か)

(私に『ごめんなさい』って言ったのは)

自分がかつてと大きく変わってしまったことを、佳織ちゃんも悔いていた。かつての自分を知っている私を前にして、それを言葉に表した。その結果が「ごめんなさい」だったんじゃないか。私には、そう考えることしかできなかった。

佳織ちゃんのことを思いながら、体育館の前でぼんやり立ち尽くしていた最中、背中から声をかけられて。

「玲ちゃん。こんなところで何やってるの?」

「千穂」

声の主は千穂だった。更衣室で体操着に着替えてきたらしい。これから部活へ行くってところで、私の姿を見かけた、というところだろう。

私の見たありのままを伝えよう。無意識のうちに選択は固まっていた。嘘を言う必要なんてない。千穂を初めポケモン部の人たちは、きっとこの報せをずっと待っていたはずだから。私の話を受けて彼らがどうするか、どんな結末を迎えるかは、彼ら次第だ。私の関わるべきことではない。

「さっき、佳織ちゃんとすれ違って、少しだけど話してた」

「……天野先輩が!? 学校に来たの!?」

千穂の目の色が変わる。声が大きくなったのが明らかに分かる。ああ、佳織ちゃんを欲していたんだな、ずっと探してたんだな。予想通りの反応だった。肯定も否定もしない。

予想通りだった、ただそれだけのことだ。

「部活行く準備してたら、佳織ちゃんが通りがかって。それで、屋上へ行く、って」

「玲ちゃん……それ、本当? 本当のこと? そうだよね……?」

「うん。大分顔つき変わってたけど、あの子は――間違いなく佳織ちゃんだった」

そこまで言ったところで、千穂はもう走り出していた。走っていった先にはポケモン部の部室がある。他の部員にも伝えて、みんなで佳織ちゃんを探しに行くのだろう。何もかも手に取るように分かる。千穂も、ほかの部員たちも、何も変わっていない。

佳織ちゃんが「天野先輩」だった頃から、何一つ変化していない。

(私は変わるんだ。変わってみせるんだ)

変わらなければ先へは進めない。変わらなければ、明日はやってこない。

「私も行かなきゃ」

私の行く場所は決まっている。

自分を変えられる、自分が変わることのできる、ただ一つの場所へ。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。