しとしとと降り続く雨を見ていると、陰鬱な気持ちになる。
(雨の日には、いい思い出がない)
雨の日は嫌いだった。今も嫌いと言うべきか。傘を差したりレインコートを着込んだりして歩き続けていても、大きな木の下や店の軒下で雨宿りをしていても、気分が晴れることは無かった。前へ進まなければいけない、その焦燥感に駆られていて、足取りを鈍らせる雨はただただ苛立ちを募らせるだけのものだった。
こうして屋根の下で机に座っている方が、俺にはお似合いだって事だ。
(佳織なら……雨の下でも前へ突き進んで行ったろうな)
雨の日でもお構いなしに練習している姿を、窓からよく眺めていた。オオスバメのツイスターは翼が濡れようとも力強く空を飛んで、雨粒を風ではじき飛ばしているのが遠くからでも観察できた。佳織はレインコートを着てツイスターと共に走り回って、晴れているときと何ら変わりない動きをしていた。俺にとって雨は煩わしいものであったとしても、佳織にとっては歯牙にも掛けない存在だったに違いない。
今はもうその姿はない。佳織もツイスターも、いくら探しても見当たらない。
それでもなお、見えない何かにすがるように窓の外に目を向け続けていると、不意に見覚えのある顔が雨に濡れながら登校してくるのが見えた。
(あれは、瀬戸か)
瀬戸、瀬戸真吾。同じクラスの須藤や古田とテニス部に所属している男子生徒だ。お互い絡んだ記憶はないが、それでも名前は知っている。校舎裏で三人揃って壁打ちをしているのをよく見かけていた。ポケモン部がいつもコートを使っていて、練習場所が確保できなかったからだと聞いた。
真吾はポケモンとトレーナーをひどく嫌っている。それは「元トレーナー」も例外ではない。だから真吾が俺に話しかけてくるようなことは無かったし、俺から真吾に関わりにいくことも無かった。ポケモンやトレーナーを嫌う人間は想像していた以上に多いということ、それは以前散々思い知らされたが、真吾もまたその一人だった。真吾がなぜそれらを嫌っているのか、理由を親づてに聞く機会があった。
(兄貴がいたんだっけな、確か)
名前は忘れたが、真吾には兄がいた。二つ年上だったらしい。今テニス部に所属している真吾と同じでテニスが好きで、実力も高かったと聞いた。将来はそれで身を立てることを真剣に考えるほどのレベルだったそうだ。
けれど、ある日のことだ。真吾とその兄の父親が、会社を解雇されてしまった。
(その理由が……ポケモンを雇い入れることに決めたから、だったか)
会社の出した方針。それは折からの不況を受けて、人間よりも安い人件費で雇うことができるポケモンを要職に配し、人員削減を推し進めることだった。真吾の父親も会社に残ることができず、退職金を受け取って辞職する以外の手立ては残されていなかった。
真吾の兄はこの窮状を鑑みて、家計の負担を減らすためにテニスを辞めてトレーナーへ転身した。今は榁を離れて、どこか遠くの地で賭け試合をして食いつないでいる、そんな話を耳にした記憶がある。
(兄貴は自ら進んで「口減らし」をした、ってわけだ)
そんな父や兄の姿を目の前で見ていた真吾が、ポケモンやトレーナーにポジティブな感情を抱けるはずもなく。今は兄がやろうとしていたテニスをして、それらとは距離を置いている。
(――元トレーナーの、俺からも)
真吾が距離を置いているのは、俺もまた同じだった。
静まり返った自室。窓の外は闇に包まれていて、外の様子を伺うことはできない。
学習机の椅子に腰掛けて背を丸めながら、手の中にあるくたびれた一枚の証明書を眺めていた。
「……免許を取ってから、もう丸三年が経ったのか」
手にしているのはポケモントレーナーの免許。発行年月日は1993年3月23日。免許を手にして一週間ほどで、俺は榁を飛び出して旅を始めた。初めての相棒は近くで捕まえたキャモメだった。旅立った目的はただ一つ、豊縁のポケモンリーグの頂点に立つこと。すなわちチャンピオンになること。文字通り、一番星の夢だった。
(俺は、佳織と約束してたんだ)
(一緒に榁を旅立とう、強いトレーナーになろうって)
(それで……いつか、チャンピオンの座を賭けて戦おうって)
俺と佳織は物心付いてからの幼馴染で、小さい頃からよく一緒に遊んでいた。あの頃の佳織は、今と比べれば少し大人しかった記憶が残っている。そんな佳織の手を引いて、俺は榁のあちこちを駆け回ったものだった。懐かしい、とても懐かしい、けれどもう決して戻ってこない日々を、俺たちは過ごしていた。
佳織に変化が訪れたのは、傷付いたスバメを保護した頃だった。確か、小三の頃だったろうか。大怪我をして死に瀕していたスバメを見つけて、傷が癒えるまで側に寄り添いつづけた。その甲斐あってスバメは全快、命を救ってくれた佳織に絶対的な忠誠を誓うようになった。この頃から佳織は活発になって、やがてトレーナーとして外へ出て行くことを夢見るようになった。羽ばたき一つでつむじ風を起こす剛力ぶりから思いついたのか、佳織はスバメを「ツイスター」と呼ぶようになっていた。
ツイスターは強かった。いや、強くなったと言うべきか。佳織という主を得たツイスターは、忠を尽くすことに喜びを感じているように見えてならなかった。榁を訪れたトレーナーに次々に勝負を挑んで、強大な敵にもまるで臆することなく立ち向かって行った。もちろんいつも勝てたわけじゃない、手酷く負けることも多かった。だけど佳織とツイスターは、敗北から多くを学ぶことができる素質を身に付けていた。外へ出られることを夢見て、ひたすら自分を鍛えていた。
(俺と約束を交わしたのは、ツイスターと出会って一年ほどが経ってからで)
(約束を守れないと泣いたのは、その、ちょうど一年後だった)
兄弟のいない俺と違って、佳織には双子の姉がいた。法律の都合で姉が先に旅立つことになって、佳織は留守番をせざるを得なかった。実力は明らかに佳織の方が上で、トレーナーとしての適性も高かったにも関わらず、だ。
血を滲ませるほど唇を噛み締めて、己の境遇を呪って悔しがる佳織の姿が、今でも目に焼き付いて離れない。佳織はそれほどまでにトレーナーになりたかったのだと思うと、今ここに俺がいることが居た堪れなくなってくる。
約束を守れなかった、佳織は咽び泣きながらそう言った。ごめん、ごめん、何度も何度も謝りながら、ここに残らなければならないことを悔い続けていた。
旅立つ俺に、佳織は絞り出すような声で言った。
「私の分まで、夢を叶えて」
俺は、佳織から夢を託された。俺は深く頷いて、必ず約束を守る、そう誓った。
そう、誓ったはずだった。
(現実は甘くない)
(分かっていたつもりだったけど、所詮つもりに過ぎなかった)
トレーナーとして活動していた二年間は、まるで毎日が嵐のようだった。大時化に弄ばれてただ身を任せることしかできなくなった小舟のように、荒んだ毎日を送っていた。
ポケモンは思うように育てられず、賞金を賭けた試合では負けが込んだ。手持ちの金に困って、ポケモンが食べる木の実を口にして飢えを凌いだことも少なくない。強いトレーナーからは見下され、後からトレーナーになった新人にも追い抜かれることが続いた。野生のポケモンに襲われて身の危険を感じたことも一度や二度ではない。俺はどうしてこんなことをしているんだ、自問自答の日々が続いた。荒波に揉まれて疲弊して、死ぬことを考えたのが両手両脚の指で足らなくなった頃。
(俺は、夢を捨ててここへ帰ってきた)
自分にはどうしようもない、高い高い、とても高い壁が立ちはだかっていた。俺よりもずっと強いトレーナーが、上へ上がれなくてもがき苦しんでいるのを幾度となく見てきた。俺がどうこうできることじゃない、これ以上続けたら、俺が俺じゃなくなってしまう。そんな恐怖を感じて、意識が残っている内に榁ヘ逃げてきた。いつしか月日が経つのも忘れていて、戻ってきた頃には二年が経っていた。それだけの時間を、丸々無駄にしたってことだ。
(それで、佳織と再会した)
俺が夢に破れて榁ヘ戻ってきたときに見せた佳織の寂しげな目を、今でもずっと忘れられずにいる。佳織は何も言わずに、一言の糾弾の言葉も発さずに、ただすべてを察した目をして、俺の目の前から去って行った。佳織は俺に夢を託した、佳織と夢を分かち合った。俺はそれを叶えるつもりで榁を出たはずだった。それがどうだ、何一つ手に入れることができずに、惨めな敗残者としてのうのうと戻ってきている。佳織がどんな思いで俺の姿を見たか、想像するに余りある。俺が佳織に何か言うことなんてできない。できるわけがなかった。
あの時はもう、小山中ポケモン部で絶対的な存在として君臨していたはずだ。佳織は俺より自由の利かない境遇で、それでも夢に向かってひたすら邁進していた。佳織はまだ諦めていなかった。もっと強い相手と戦って、世界を股に掛けて活躍することを夢見ていた。学生ポケモンリーグで頭角を現せば、そこからプロのトレーナーとして活躍できるチャンスが巡ってくる。佳織がそれを目標としていたのは明らかだった。一人でなんでも成し遂げてしまう佳織なら、無謀な夢などではない。むしろ現実的な目標だとすら言えた。
自分の才能をしっかり見極めて、才能を活かすためにあらゆる手を尽くす。それができるのが、天野佳織という人間だった。
(康一と付き合い始めたのは、俺が帰ってきたすぐ後ぐらいだった)
佳織は俺を振り切るように、同じポケモン部の康一と付き合い始めた。それを俺がどうこう言える立場じゃない。ひょっとすると、佳織は本当に康一が好きだったのかもしれない。俺のことを忘れて新しい道を歩んでくれるなら、俺はもう、それでも構わないと思っていた。
けれど、金曜日に起きた出来事は、佳織の本心が別のところにあったことを如実に表わしていて。
佳織が今いかなる感情を抱いているか、どんな日々を過ごしているか。少し思いを巡らせただけで、胸が刺すように痛む。エアームドから抜け落ちた羽で作られた刃物で直接古傷を抉られるような、ぞっとするほどの痛みが走る。金曜日に佳織が俺に電話を掛けてきた理由、俺はそれを、あまりにもよく分かっている。分かりすぎている。
(それは)
それは、佳織もまた――夢を捨てざるを得なくなったから。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。