警察へ話を聞きに行ったり手続きをしたりするのは私がやっておくから、貴方はいつも通りでいいわ――母は私にそう言付けて、学校へと送り出した。気持ちの整理は少しも付いていなかったけれど、家に閉じこもっているよりはまだ気が紛れるかも知れない。母なりにわたしの気持ちを慮ってくれたのだと思う。
どこか浮ついた足取りで、それでも普段どおり、自分の教室に入る。
(佳織ちゃん)
先に来ていた佳織ちゃんと一瞬目があった。ほんの少しの間だけ、けれど確かに、わたしと佳織ちゃんの視線が交錯する。沈んでいた感情が、少しだけ明るくなった気がして。
でも、佳織ちゃんは違った。悲しげに目を伏せて、わたしをそれ以上見ようとしなかった。机の上へ両腕を置いて、思いつめた表情でただ俯いている。わたしはふくらみかけていた佳織ちゃんへの想いがしぼんでいくのを感じて、いっそうの悲しさを味わうほかなかった。
(変わってしまった)
(変わってしまったんだ)
わたしと佳織ちゃんの関係は、変わってしまった。昨日までの関係が変わってしまって、それまでのつながりは失われてしまった。こんなことを、わたしも佳織ちゃんも決して望んでなんかいない。わたしたちが変わらずにありつづけることができるなら、それが何よりもいいことだと思っていた。
けれど、もうそれを望むことはできない。わたしと佳織ちゃんは、はっきりと分かたれてしまった。
被害者の妹と、加害者の妹という形に。
(お姉ちゃんだけじゃなくて、佳織ちゃんまで、わたしから離れていく)
支えを失った家は簡単に倒れて、跡形もなく壊れてしまう。
お姉ちゃんと佳織ちゃんという二本の大きな支えをなくしてしまって、わたしは今にもぽきんと折れてしまいそうなほど、か弱い存在になっていることを自覚して。
席について、ただ息を潜めて時が流れるに任せるほかなかった。
放課後のこと。人気のない公園のベンチで、ぼうっと空を眺める。晴れた空の向こうに、ほかの人は何を見るのだろう。わたしには何も見えなかった。目に見えるのは、ただ何もない空間ばかりで。ぽっかり空いた隙間は、わたしの心を暗示しているようで。
学校からの帰り際に見た光景、期せずして見てしまった光景。
(佳織ちゃんが、顧問の先生と話をしていた)
ポケモン部の顧問の先生。名前は忘れてしまったけれど、ときどきポケモン部の練習を見ていたから、顔を知っていた。二人が何の会話を交わすのか、聞く前からある程度予想はついていた。覚悟ができていた、と言うべきかもしれない。佳織ちゃんの身に起きたことを考えれば、どんな話になるのかはおのずと分かった。
分かっては、いたけれど。
「週刊誌に出ていた、あの事件のことだが」
「あれは、天野のお姉さんじゃないのか」
「お姉さんが友達を殺したというのは、本当なのか」
実際に耳にすると、心が有刺鉄線で締め上げられるように血を流して、キリキリとした痛みを覚えた。
「そうです。間違いありません」
「天野佐織は、私の姉です」
「私の姉が、杉本さんの姉にグラエナを襲わせて、死なせました」
感情を殺した機械のような声。まるで抑揚というものが感じられない佳織ちゃんの言葉の裏には、荒れ狂う感情がいっぱいに込められている――わたしには分かった。分かってしまった。分かってしまったんだ。
次に口を開いたのは、顧問の先生だった。
「だとすると……いろいろと、都合が悪いな」
「ポケモンを人にけしかけるというのは、あってはならないことだ」
「そして、天野とお姉さんは顔つきがよく似ている……間もなく殆どの人が知るところになるだろう」
「ましてや、ポケモン部の関係者となると、なおさらだ」
ああ、やっぱり。これは、そんな。
佳織ちゃんに、ポケモン部をやめてもらうための、そういう、話し合いだったんだ。
「分かりました」
わたしが思いを巡らせるよりも先に、佳織ちゃんが言葉を発していた。「分かりました」と。すべてを受け入れて、望むようにする、と。
「今日付けで、私はポケモン部を退部します」
「部長は、副部長の大木君に引き継いでください」
「副部長の任命は、大木君に任せます」
淡々と、ただ淡々と必要なことだけを口にする。わたしの前では見せない佳織ちゃんの顔。すべての感情を押し殺して、抑え込んで、自分に求められてる言葉だけを紡いでいく。佳織ちゃんの一言一句が、焼き焦がすように脳裏に刻まれていく。全身が鋭利な刃物で切り裂かれてゆく。
全身を八つ裂きにされるような思いっていうのは、こんな感じなのかな。痛みのあまり麻痺した心が、意識しないうちにそんなことを考えていた。
「もうすぐ春の大会もある。ポケモン部もずいぶん大きくなったし、後のことは大木たちに任せよう」
「これでいいんだな、天野」
佳織ちゃんが唇をキュッと結ぶのが見えた。言葉にできない感情のうねりが、見ているだけのわたしにも恐ろしい勢いで押し寄せてくる。心臓がドクドクと脈打って、背中に冷たい汗がじっとり浮かぶ。わたしはもう、今にもその場で倒れてしまいそうだった。
そして、佳織ちゃんが顔を上げて。
「……いいんです、これで」
「決まったこと、ですから」
わたしが佳織ちゃんの言葉を聞いていられたのは、そこまでだった。
これ以上耐えられなくて、佳織ちゃんの様子を見ていることができなくて、顧問の先生の身勝手さに感情が昂って、わたしは学校から逃げ出した。
走って、走って、走って。走るのが苦手なはずなのにただただ走りつづけて、わけも分からないままただ走って、気がつくと私は海辺の公園に駆け込んでいた。よろめく体をベンチに預けて、がっくりと肩を落とす。
なんとか呼吸を落ち着かせて、額に浮かんだ汗をハンカチで拭って、もう一度空を見上げた。
(どうしてこんなことになっちゃったんだろう)
(どうして佳織ちゃんがポケモン部を辞めなきゃいけないんだろう)
わたしと佳織ちゃんが、何をしたというのだろう。
ただ、この榁の島で、精いっぱい生きていただけなのに。
(わたしも)
(佳織ちゃんも)
(悪いこと、ひとつもしてないのに)
見上げた空がぼやけて滲んで、雲が形を失う。
目から涙がこぼれていると気付いたのは、それから少し後のことだった。
明日は忙しくなるから、今日はゆっくり眠っておいた方がいいわ、母にそう言われて、わたしはシャワーを浴びて髪を乾かしてから、間を空けずにすぐにベッドへ横になった。電気を消した部屋で、ただぼんやりと天井を眺めている。
人は目でものを見ているんじゃなくて、脳でものを見ているんだ、そんな話をどこかで聞いた気がする。わたしにも当てはまることなのかな、疑問を覚えながら、けれど今確かに違うものを見ている感触があった。さまざまな顔が浮かんでは消え、消えては浮かんでを繰り返している。
佳織ちゃん。わたしが見ているのは、佳織ちゃんだった。
(今でも思い出せる。佳織ちゃんと友達になった日のことを)
あの頃わたしは、錦薛(きんせつ)市の施設を出て、船に乗って榁へやってきたばかりだった。初めて来た榁は右も左も分からなくて、わたしはどこへ行けばいいのか、他の子とどうやって知り合えばいいのか、ただ戸惑うばかりで。
ひとり海辺の道路で立ち尽くしていたわたしは、後ろからやってきた人影に気が付かなかった。
「ねえ、ひとり?」
「えっ」
あわてて後ろを振り向いたわたしを、女の子がじいっと見つめていた。
急に声をかけられて、びっくりしすぎて声が出なくなって、でも、女の子はわたしに優しい目を向けてくれていたから、悪い子じゃないって思って。わたしは榁へ来たばかりで独りぼっちだったことを思い出して、こわごわ、恐る恐る、首を縦に振って頷いた。ひとりだよ、そう声なき声を重ねて。
「やっぱり。初めて見る子だから、そうじゃないかなって思ってたんだ」
そう言うと、女の子はおもむろにわたしの手を取って、ぎゅっと柔らかく力を込めた。また驚いたわたしに、女の子はこともなげに言った。
「じゃあ、これでふたり」
あっという間だった。光が瞬くような早さで、女の子はわたしとつながりを持ってくれた。
「私、佳織っていうの。あなたは?」
佳織ちゃん。それが女の子の名前。
「――愛佳、愛佳だよ」
わたしの人生で、初めてできた、初めての友達だった。
(友達)
(わたしと佳織ちゃんは、友達になったんだ)
佳織ちゃんは、よそから来たわたしに少しも壁を作らなかった。引っ込んでしまいがちなわたしの手を優しく引いて、榁のいろいろな場所へ連れていってくれた。綺麗な砂浜にも、たくさんの人が集まる集会所にも、北にある大きな洞窟にも。佳織ちゃんといることがただ楽しくて、嬉しくて。わたしが笑うと、佳織ちゃんもいっしょになって笑った。
錦薛の施設にいた頃、誰かに自分を見られるとき、わたしはそこにいつも「観察されている」「疑われている」という意図を感じていた。どうしてかは分からない、けれどその視線に居心地の悪さを感じて、誰かに見られることが辛くてたまらなかった。佳織ちゃんは、わたしに優しい目を向けてくれた初めての人だった。観察するような目でも、疑惑を向けるような目でもない、ただ、ありのままのわたしを見てくれる目。それが、わたしには、とても心地よかった。
友達になってから結構時間が経った頃、わたしは佳織ちゃんに訊ねたことがある。
「どうしてわたしと友達になってくれたの?」
と。
「さあ、忘れちゃった」
佳織ちゃんはあっけらかんと言った後、さらにこう続けて。
「きっと、愛佳と友達になりたいって思ったからだよ」
わたしと友達になりたかったから、わたしと友達になった。ただ、それだけのこと。
小難しい理由なんてひとつも必要なかった。佳織ちゃんがわたしと共にありたいと思うなら、わたしが佳織ちゃんといっしょにいたいと思うなら、それでよかったんだ。
そう、信じていた。
そう、信じていたのに。
お通夜と、お葬式と、告別式。
土曜日の朝から、日曜日の午後まで、わたしはお姉ちゃんとの別れの儀式の中にいた。目の前で起きていることの意味が分からずに、ただ言われたことを言われた通りにして、前の人がしたことをなぞるように同じことをして、ただ流れるに任せている。どんな感情も沸いてこなくて、何を口にしても砂のような味しかしなかった。涙があふれて止まらなくなってもおかしくないはずなのに、わたしの目は陽に当てられた砂浜のように乾ききって、ただ一滴のしずくさえこぼれてこなかった。
遺体はとても酷い状態だった、お母さんからそう聞かされた。お母さんは「愛佳は見ない方がよかった」と言っていたから、相当惨たらしかったんだと思う。だから死に顔を見ることはできなくて、榁へ帰ってきた時には既に小さな壷の中に入っていた。事件が起きた静都の浅葱市、そこで火葬を済ませてきたらしい。
「真帆は、たくさんの人に好かれていたのね」
告別式には、旅に出るまで同じ小学校に通っていたお姉ちゃんの友達がたくさん参列していた。男の子も女の子もいた。学校の先生らしき人もいた。誰かのすすり泣く声が聞こえた。はっきりと声を上げて泣いている子もいた。泣けない私は、心をどこに置いたらいいのか分からなくて、ただ、空虚な目で式典を見ていることしかできなかった。
長い長いセレモニーを滞りなく終えて、参列した人が家路につく。わたしはお姉ちゃんの入った小さな箱を抱えて、お父さんの運転する車の後部座席へ乗り込んだ。
席に座って、ひざの上に真っ白な布に包まれた箱を置いたとき、不意に心がざわざわするのを感じて。
(――あっ)
(この中に、お姉ちゃんがいるんだ)
止まっていた時間が、不意に動き出して。
(お姉ちゃん)
(お姉ちゃん、お姉ちゃん)
ずっとずっとせき止められていたものが、ひと息に動き始めて。止め処なく留め処なく、引きも切らずあふれてきて。
(おかえり、おかえり、おねえちゃん)
(もうすぐ、うちへかえれるよ)
(おとうさんも、おかあさんもいるよ)
(また、みんな、いっしょに、いられる、から)
わたしに優しく手をつないでくれたお姉ちゃんを、いつもわたしを守ってくれたお姉ちゃんを、怖い夢を見るとぐずるわたしといっしょに眠ってくれたお姉ちゃんを、ひざに載せたお姉ちゃんを、箱に入れられたお姉ちゃんを、すっかり小さくなったお姉ちゃんを。
精いっぱい、力いっぱい、抱きしめつづけた。
昨日からずっと気が張り詰めていたのを、お母さんも見ていたみたいだった。少し気を紛らわした方がいいわ、とわたしに言ってくれた。わたしはお母さんの薦めに従って、家から少し離れた海沿いの道を散歩することにした。
麻痺していたいろいろな感覚が少しずつ取り戻されてきて、真っ先にそれを実感できたもの。
それは、磯の香りだった。
(何の匂いか分からなくて、戸惑ってたっけ)
榁の地へ初めて足を踏み入れたとき、わたしを出迎えたのは、強い潮の匂いだった。施設にいたほとんどの時間を室内で過ごしていたから、初めて嗅ぐその匂いに違和感を覚えた。
「あっ、来た来た! おかあさーん!」
「あらあら、真帆ったら、出迎えにきてくれたのね」
お母さんに連れられた船から降りたわたしを次に出迎えたのが、他ならぬお姉ちゃんだった。
真帆、杉本真帆。船に乗っている最中に、お母さんが名前を教えてくれた。わたしがこれから暮らすことになる家で、「お姉ちゃん」になってくれる人だと言われた。
正直な本音を言うと、わたしは少し怯えていた。自分の家に知らない子が入り込んできて、元から住んでいた「真帆さん」が気を悪くしないかとびくびくしていた。わたしと真帆さんに血のつながりはなくて、真帆さんから見れば赤の他人だ。それが妹だって言われて、真帆さんはどう思うだろうか。
身を縮こまらせるわたしの目の前に、すっと真帆さんが立った。
「ねえねえお母さん、この子がお母さんの言ってたあたしの妹?」
「ええ、そうよ。愛佳ちゃんっていうの。仲良くしてあげてね」
妹、という言葉を耳にして、わたしが顔を上げる。
「初めまして! あたし真帆、よく来てくれたわ」
「真帆……さん」
「あははっ、緊張しちゃってるのね。無理もないか」
真帆さんがわたしの手を取る。ぎゅっと握られた掌のぬくもりを、柔らかさを、わたしは確かに感じていて。
「でも、妹に名前で呼ばれるのってなんかくすぐったいし、できれば……」
「できれば……?」
まっすぐに、まっすぐに、ただわたしだけを見つめて。
「――『お姉ちゃん』って。そう呼んでくれると、嬉しいわ」
お姉ちゃん、そう呼んでほしい。わたしに、真帆さん……いや、お姉ちゃんは、はっきりとそう言った。姉と妹、その関係になりたいと、お姉ちゃんはわたしに言ってくれたのだ。
わたしの手を掴んだまま、お姉ちゃんが続けざまに口を開く。
「ほら。ここに来たばっかりで、家の場所も分かんないでしょ」
「あたしが、お姉ちゃんが案内したげるわ」
そう言うや否や、わたしの手を強く引いて、お姉ちゃんが早足で歩き出した。わたしは軽くよろめいて、転ばないようにあわてて歩調を合わせる。ちょっと強引なところがある、そんな風に感じた。でもそれはちっとも嫌な気持ちじゃなくて、わたしの手を引いてくれる力の強さは、そのままわたしへの思いの強さなんだ、そんな風に思うことができて。わたしをこれから「家」と呼ぶべき場所へぐいぐい引っ張ってくれることが、拠るところの無かったわたしには、ただただ嬉しかった。
これが、お姉ちゃんとの出会いだった。
砂浜を歩く。打ち上げられるさまざまなもの――空き瓶、貝殻、海草、木片、ポケモンの死骸、そういったものに次々と視線を移しながら、ただ砂浜を歩いて行く。こうやって、海からやってくるものを眺めて歩き回るのが好きだった。一日経てば、また海へと還っていくだけの儚いものたち。海は普段穏やかで静かだけれど、そこに安寧はなくて。
安寧なんて、どこにもないのかも知れないけれど。
(ちょっと意地っ張りで、強情なところもあったと思う)
なんでも自分でやりたがって、一度やると決めたら絶対に諦めない。お姉ちゃんにはそういうところがあった。
わたしが榁へ来て三ヶ月ほどが経ったころ、お姉ちゃんが「石の洞窟にいるポケモンを探しに行く」と言い出したことがあった。榁の北にある大きな洞窟で、家からは自転車で一時間ほど走らなきゃいけないほど遠くにある。以前佳織ちゃんと二人で入り口近くまで行ったことはあったけれど、佳織ちゃんが「中は危ないから」と言って、入り口から奥へは進まなかった。お姉ちゃんは、中へ潜り込んでポケモンを捕まえたいと言い出したのだ。
お姉ちゃんもわたしも、ポケモントレーナーの免許はまだ持っていない。けれど、榁では慣習的に、一匹だけならポケモンを捕まえたり育てたりしていいってことになっていた。本当はダメらしいけれど、大人の人たちも昔からやっていたことだとか。そこからポケモンと仲良くなって、トレーナーへの道を志す人が多いとも聞いた。
「お、お姉ちゃん……石の洞窟は危ないって、お母さんも佳織ちゃんも言ってたし……」
「危なくたって関係ないわ! どーしても会いたいポケモンがいるの! あたし、見たんだから!」
「それって、どんなポケモン?」
「名前はわかんないわ。でもね、すっごくかわいいの! 女の子っぽい見た目してて、長ーい髪が生えてるの。ほら、ちょうど佳織ちゃんみたいな髪型してて」
「うーんと、ポニーテール?」
「ああ! それそれ、ポニテポニテ! この間集会所で連れてる人を見かけて、どこで見つけたの? って聞いたら、石の洞窟にいるって教えてくれたのよね。こりゃもう探しにいくっきゃないでしょ!」
「で、でも、やっぱり危ないって……」
「やるって言ったらやるの! 愛佳だって、かわいいポケモン見てみたいでしょ?」
「お姉ちゃん……」
「あたしに任せときなさいって! ぱぱっと連れてくるから、愛佳は留守番頼んだわよ!」
「ちょっと、お姉ちゃんっ!」
わたしはお姉ちゃんを止めたけれど、お姉ちゃんは振り切って走り出してしまった。不安な思いを抱えたまま、わたしは言われた通り留守番をして帰りを待った。
ぱぱっと連れてくる、そう言った割には待てども待てども戻ってこなくて。お姉ちゃんに何かあったらどうしよう、帰って来なかったらどうしよう、心配するあまりそんなことを考えてしまったわたしは怖くなって、部屋の隅で一人声を殺して泣いていた。泣き続けているうちに疲れてしまって、いつの間にかわたしは眠りこけていた。
目が覚めたときにはすっかり日も暮れていて、空が一面橙色に染まっているのが見えた。なのにお姉ちゃんはまだ帰ってきていない。いてもたってもいられずに、わたしはサンダル履きで家を飛び出した。
ところが。
「あっ! おーい、愛佳ー!」
「お姉ちゃん!」
間がいいのか悪いのか、家から出て十歩も歩かないうちに、お姉ちゃんが悠々と歩いてくるのが見えた。パタパタ駆けていって側まで寄ると、お姉ちゃんは顔中泥だらけで、あちこちに擦り傷や切り傷を作っていた。石の洞窟で相当「冒険」してきたのは、傍目から見ても明らかだった。
「お出迎えしてくれたのね。気が利くじゃない」
「大丈夫? いっぱいケガしてるけど……」
「ん? 平気平気、こんなの怪我のうちに入らないわ。それより見て! 友達になってきたのよ!」
お姉ちゃんが得意気に胸を反らすと、背中からひょっこり現れる小さな影。小さな身体に、大きな大きなポニーテール。それは紛れもなく、お姉ちゃんが言っていたポケモンだ。
「お姉ちゃん、この子……!」
「ふふん。あたしの言った通り、キュートで素敵なポケモンでしょ?」
「ちぃ!」
小さな口を目いっぱい広げて、ポケモンが「でしょでしょ!」と言わんばかりにアピールする。お姉ちゃんが屈んで体を撫でてあげると、とても嬉しそうに笑って見せた。友達になってきたというのは、本当のことみたいだ。無理やり捕まえるんじゃない、仲良しの友達になるんだ――お姉ちゃんの言葉には、そんな意味も込められている気がした。
帰ってくる途中に、榁の外から訪れたトレーナーとすれ違って、ポケモンが「クチート」って呼ばれている種族だってことを教えてもらったそうだ。お姉ちゃんは「クチート」という名前を耳にして、即決で「クーちゃん」という名前を付けた。クチート、もといクーちゃんもその名前を気に入ったようで、クーちゃんと呼ばれるとしっかり反応して見せていた。
「洞窟の奥まで入って、いないかなーって探してたんだけど、そしたらこの子が隅っこで座り込んでたのよ」
「どうしたの? ケガでもしてたのかな?」
「あははっ、愛佳は心配性ね。そうじゃなくて、ただお腹が空いて力が出なくなっちゃっただけよ。こんなこともあろうかと、近くでモモンの実を取ってきた甲斐があったってものよ」
お姉ちゃんはモモンの実をあげて、クーちゃんに食べさせてあげた。クーちゃんはそれですっかりお姉ちゃんのことを信用したみたいで、家までいっしょに付いてきてくれたというわけだ。
「ちぃちぃ!」
「あ、そうだそうだ。まだ足りないみたいなのよね、見た目よりよく食べる子なのよ。元気でいいわ」
「ふぅん。お口、小さいのにね」
「ところがね……ふふっ、ちょうどいいわ。愛佳に面白いもの見せたげる!」
ちょうど家の木に生っていたキーの実をひとつ千切ってくると、お姉ちゃんはクーちゃんの前に立った。お姉ちゃんが合図をすると、クーちゃんはこくこくと頷いて、なぜか後ろへ振り返った。どうしてだろう、わたしが不思議に思っていると、お姉ちゃんがそっとキーの実をクーちゃんの前に置いた。
「置いたわよ、クーちゃん。さ、遠慮しないで食べちゃって!」
クーちゃんがお姉ちゃんの言葉を聞き終えるや否や、わたしの目の前でとんでもないことが起きた。
(くわっ)
髪の毛だと思っていたものが、大きく大きくがばっと開いて、キーの実を一口で丸飲みにしてしまった。
「ひ、ひえぇ……ひゃんっ!?」
「わ、わ、ちょっと愛佳、大丈夫? ビックリしすぎて腰が抜けちゃったのね」
ほんの少しも想像していなかった出来事に、わたしは思わず腰を抜かしてしまって、その場にへたり込んでしまった。口には牙が見事に生え揃っていて、音を立ててキーの実を噛み砕いているのが分かる。なんというか、見るからにものすごいパワーがありそうだった。
「い……今の、お口……?」
「そうよ! クチートは後ろにでっかい口があって、どんな固いものでも噛み砕いちゃうんだって! 小さいからって油断した相手にがぶっと痛い一撃を食らわす! かっこいいでしょ!」
自慢げに言うお姉ちゃんに、クーちゃんも後ろの口でキーの実をむしゃむしゃしながらこくこくと頷く。実も皮も種も全部まとめて咀嚼して飲み込むと、クーちゃんは満足げにこちらへ向き直った。
「ちょ、ちょっと怖いかも……」
「大丈夫よ! イタズラしたりしなきゃ、クーちゃんだって噛みついたりしないわ。ね、クーちゃん」
「ちぃぃ!」
あんなに大きな口を見せたあとなのに、お姉ちゃんはクーちゃんに変わらず優しく接している。クーちゃんもそれが嬉しいみたいで、しきりにお姉ちゃんに撫でられにいっている。ビックリしたけど、でも、お姉ちゃんとクーちゃんはきっといい関係でいられる、間違いない。わたしはそう感じた。
これが、お姉ちゃんの一番の相棒になる、クーちゃんとの出会いだった。
(旅に出るときももちろん一緒で、ずっと側にいつづけた)
(『大変なこともあるけど、クーちゃんといっしょに大口開けて笑ってたら、なんとかなるって思えるわ』……電話で、そんなことも言ってたっけ)
お姉ちゃんはクーちゃんと一緒に旅をした。いっぱい歩いて、いろいろなものを見て、たくさんのポケモンと戦って。なんでも自分でやりたがるお姉ちゃんにとっては、トレーナーとして一人旅をする苦労も、きっと楽しいものだったに違いない。豊縁のジムをほとんど全部制覇して、あとはもうひとつだけだって、そう言っていた。
その最後のひとつが、榁のジムだった。
(『お楽しみは最後に取っておくものよ』、そう言ってた)
(わたしたちの前で晴れ姿を見せたい、一回り大きくなったところを見せたいって、そう言って)
もっとたくさんのものを見てみたいから。榁へ戻る前に、静都へ向かうと言っていたお姉ちゃんの弾んだ声が、今も脳裏に焼き付いて離れない。クーちゃんの他にも頼れる友達を仲間にして、他のトレーナーとも仲良くなって、抱えきれないほどのお土産話を作って。お姉ちゃんの旅は、お姉ちゃんが満足するまで続いて、それから榁へ凱旋して綺麗に終わる。わたしはそう信じていた。
お姉ちゃんは、榁へ帰ってきた。生まれ育った榁へ、確かに帰ってきた。
(わたしよりずっと小さくなって)
(とても小さな箱に入れられて)
(お骨になって、お姉ちゃんは帰ってきた)
誰がこんなことを望むだろうか。わたしも、お姉ちゃんも、誰も望んでなんかいなかった。
お姉ちゃんはもういない。改めてその現実を突きつけられた気がして、私は目を伏せて泣いた。
泣いても泣いても、感情はいつまでも洗われずに。消えない痛みを訴えて、ただ涙を流すことしかできなかった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。