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Stage 8-1: Phase 2

(また、夢を見た)

はっきりと記憶に残る、夢とは思えない夢。さっきまで本当にあの場所へいたような、そんな感触が全身に残っている。額に浮かんだ汗をパジャマの袖で拭うと、途方もない疲労感を覚えて、大きなため息をついた。

昔の風景がそのまま蘇ってきた。まるで、わたしがかつて過ごした時間へ還ったかのよう。けれど目が覚めた今ならはっきりと自覚できる。どこまでいっても夢は夢で、現実にはなり得ない。それは辛い悪夢を和らげてくれるものであると共に、楽しい夢を儚いものにしてしまうものでもあった。

ベッドの側にある時計を見る。時刻はまだ四時を回っていない。外はまだ夜の闇を色濃く残していて、陽が登る気配を見せない。光の見えない闇の中で、ただ暗中模索を繰り返す。あたかもわたしの心を投影しているかのよう。けれど明けない夜は無くて、いつかは必ず朝が来る。曇り空になる日もあるけれど、それも永劫続くわけじゃない。

わたしは、どうなのだろう。わたしの心にも、陽が差すときは来るのだろうか。

身も心も疲れているのに、意識がはっきりして眠ることができない。もどかしい気持ちのまま身体を横たえて、夢で見た光景をもう一度思い出す。あれは昔の光景、今から五年くらい前に見た風景。

(佐織さん、佳織ちゃんのお姉さん)

佳織ちゃんと並んで立つ佐織さん。佳織ちゃんの双子のお姉さんで、背格好も顔つきもそっくりだった。同じ日に生まれて、佐織さんの方が先に取り上げられたって聞いた。ふたりが並んで静かにしていれば、よっぽど親しい人でも無い限り区別が付かなかっただろう。それくらい、佳織ちゃんと佐織さんの見た目はよく似ていた。

ただ、似ていたのは、あくまで見た目だけで。

「どうして私より先に行こうとするの? 佳織は私の後ろにいて」

「いい? 佳織は妹で、私はお姉ちゃんだから。そこのところをよく理解しなさい」

優しくて思いやりのある佳織ちゃんとは正反対で、我侭で自分勝手な性格をしていた。本音を言うと、とてもお姉さんとは思えなかった。いつも佳織ちゃんを抑圧して、自分がお姉ちゃんだから言うことを聞け、と繰り返していた。佳織ちゃんはいつも何も言わず、ただケムッソを噛み潰したような顔をしているばかりだった。

矛先は佳織ちゃんだけじゃなくて、佳織ちゃんといつもいっしょにいるわたしにも向けられて。

「ちょっと、何見てるのよ、あなた。佳織と並んで、しょぼくれた顔して」

「二人して黙りこくってないで、なんとか言ったらどうなの」

自分のやりたいことをやるという意味では、お姉ちゃんもそういうところはあった。でも、お姉ちゃんと佐織さんは違う。全然違う。お姉ちゃんは自分の力で何でもやりたがって、実際にいくつもやり遂げてきた。お姉ちゃんは誰かに束縛されるのが嫌で、誰かを束縛するのも嫌いだった。だからいつもわたしの意志を大切にしてくれたし、いつだって応援してくれた。

お姉ちゃんと佐織さんは違う。絶対に違うと、わたしは何度だって言う。何度でも、何度でもだ。

「知ってるんだから。あなたが他所から来たもらわれっ子だって」

「もらわれっ子だから何? 愛佳はあたしの妹よ、あんたにどうこう言われたくないわ」

その証拠に、お姉ちゃんと佐織さんはとても仲が悪くて、顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた。決まって佐織さんが突っかかって行って、お姉ちゃんが強い言葉で言い返す形だった。佐織さんにとっては、自分で何でもしてしまうお姉ちゃんのことが気に入らなかったのかも知れない。

「ふーん。でも、もらわれっ子ってことは、親に捨てられたってことでしょ、ろくなもんじゃないわ」

「愛佳の親は、あたしのお父さんとお母さんよ! 血がつながってるとかつながってないとか、そんなの関係ない!」

お姉ちゃんが特に感情を露にするのは、わたしのことを悪く言われたときだった。縮こまってしまうわたしの前に立って、キッパリと佐織さんに言い返す。わたしは佐織さんから飛んでくる心ない言葉に胸をチクチクと痛めると共に、力強い言葉でわたしのことを妹だ、家族だって言ってくれることを嬉しく思っていた。

佐織さんはとにかく誰に対しても食ってかかる性格で、誰かとうまくやっている様子を見たことがなかった。それはわたしとお姉ちゃん、佳織ちゃんとだけじゃない。佳織ちゃんの友達だっていう、もう一組の姉妹も同じだった。

(凜さんと、玲ちゃん)

わたしの一つ上の凜さんと、その二つ下の妹の玲ちゃん。佳織ちゃんの家の近くに住んでいるっていう姉妹で、佳織ちゃんやお姉ちゃんとは以前から交流があったらしい。凜さんはわたしに似たところがあって、玲ちゃんは佳織ちゃんと似たところがあった。言うなら、凜さんは引っ込み思案で、玲ちゃんは物静か。そんな感じだろうか。

凜さんは大人しくて、佐織さんの言うことにいつも従ったり同意したりしていた。一方の玲ちゃんはいつも何か言いたげな顔をしていて、佐織さんとは馬が合わなかったみたいだ。わたしたち六人の中で一番年下なのに、誰よりも冷めた目をしている。それが、強く印象に残った。

わたしとお姉ちゃん、佳織ちゃんと佐織さん、凜さんと玲ちゃん。三組の姉妹は、三者三様の貌を見せていた。

かつての記憶を辿りながら、ただ時間が流れるに任せる。やがて朝を迎えて、お父さんとお母さんが起き出してきた。

「いろいろあって、疲れただろう。今日は一日休んでいい、学校にはお父さんから連絡しておくよ」

「愛ちゃん。ゆっくりした方がいいわ。あとのことは、お母さんとお父さんに任せてちょうだい」

お父さんとお母さんに薦められて、わたしは学校を休むことにした。お母さんの作ってくれたお粥を食べて、二人が出かけるまでリビングでぼうっとして、それからまた自分の部屋へ戻る。お休みだけれど、何もする気になれなくて、またベッドへ横になってしまう。

佳織ちゃんのこと、お姉ちゃんのこと。浮かんでは弾けて消えるシャボンのような考えの中に、佳織ちゃんが連れていた相棒の姿もあった。

ツイスターという名を与えられたオオスバメ。それが、佳織ちゃんの唯一無二のパートナーだった。

(いつも佳織ちゃんの側にいて、どんな時でも付き従っていた、♀のオオスバメ)

小山中のポケモン部の強さを支える存在、ひいては「強さ」の象徴とさえ言えた。その強さはしばしば噂話の種にもされていた。すべての敵をなぎ払う守護神、あるいは仕留められない者はいない死神。いろいろな、とても仰々しい言葉で、ツイスターの強さは讃えられていた。

でも、わたしはあえて言う。わたしが知っているツイスターは、そんな怖い子じゃない。佳織ちゃんやわたしによく懐いて、茶目っ気があって、可愛らしい女の子だった。佳織ちゃんから好物のチーゴの実をもらって、嬉しそうについばんでいる様子を、今でもはっきりと思い出せる。

戦いから離れたツイスターは、わたしたちと同じ、多感な年頃の女の子だった。

(ツイスターがどんな敵相手にも必死で戦うのは)

(ただ、佳織ちゃんを守りたい――その一心だった)

ツイスターの強さは、佳織ちゃんを想う心があったから。

佳織ちゃんを想うのは、ツイスターの命を救ったから。

あれは、わたしが榁へ来て間もない頃。三年生の二学期から初めて学校へ通い始めて、少しずつルールを覚えていった時期だった。友達になったばかりの佳織ちゃんと、ふたり並んで下校していた最中のことだった。

「あっ……あぁ……」

歩いている途中、同い年の男の子がその場に立ちすくんでいるのが見えた。どうしたんだろう、わたしがそう思って近づいてみると、そこには。

(ぷ……プラスルと、マイナン……!?)

プラスルとマイナンの群れが、合わせて五体。どっちが多かったか、今はもう思い出せない。そんなことよりもずっと強い印象を残す光景が、目の前に広がっていたから。

路上に横たわる小さなポケモン。この辺でもよく見るとりポケモン・スバメだった。プラスルとマイナンの群れは倒れたスバメを寄って集って甚振って、袋叩きにしていた。殴る、蹴る、踏みつける、引っかく、痺れさせる――小さい体で、していることはリンチそのものだった。スバメは全身を血に染めながら、ただ玩具にされるがままだった。

目を被いたくなる光景に、わたしはパニックになった。すぐにでも暴行を止めてほしくて、無意識のうちに隣にいた男の子の肩を揺さぶっていて。

「お……お願い! あの子を助けてあげて! このままだと死んじゃう、死んじゃうよ!」

わたしは何度も男の子の肩を揺すったけれど、男の子は目の前の惨状に身じろぎ一つできなくて、やがて逃げるように走り去ってしまった。わたしは男の子を呼び止めようとしたけれど、それは叶わなかった。わたしは男の子を責められない。あんな状況を見て、冷静でいる方が難しいと、今は思う。わたしだって、すぐにでも逃げてしまいたかったから。

でも、そこへ立ち向かう子が、ひとりいて。

「やめなさい! すぐにスバメから離れて!」

佳織ちゃんは猛然と走り出すと、プラスルとマイナンの群れへ思いっきり体当たりした。スバメにくっついていたプラスルとマイナンをひっぺがしては草むらへ放り投げ、引き剥がしては追い払い、全身でスバメを守る姿勢を見せた。

「このっ……! ていっ!」

何匹かのプラスルとマイナンが、佳織ちゃんの腕に噛みついたり、髪を引っ張ったりして抵抗する。けれど佳織ちゃんはそれすらも許さずに、ひるむことなくすぐさま振り払った。全力で暴れる佳織ちゃんに、数で勝るとは言え体格の小さなプラスルとマイナンは手が出ない。やがて佳織ちゃんに恐れをなして、散り散りになって逃げていった。

佳織ちゃんはプラスルとマイナンを遠くへ追い払った後、すぐさま血だらけのスバメを抱き上げた。

「目を開けて! しっかりして!」

「死なせたりなんかしない、私が助けるから!」

服が血まみれになるのも厭わずスバメを抱きかかえた佳織ちゃんが、体が固まって動けなくなっていたわたしの前に立つ。遠くへ飛びかけていた意識が瞬時に元の場所へ戻ってきた矢先、佳織ちゃんが叫んだ。

「愛佳! 一緒に来て!」

佳織ちゃんの言葉で、体の慄えが止まる。

わたしは佳織ちゃんの後について、ポケモンセンターまでひた走った。

(佳織ちゃんがすぐにポケモンセンターまで連れていったおかげで、スバメは一命を取り留めた)

スバメは相当深いダメージを負っていた。切り傷や火傷は数えきれないほどあったし、骨だって何本も折れていた。それでもポケモンセンターで集中的に治療を受けて、傷は一週間ほどで完全に治癒した。

けれど、それですべてが元通りになったわけではなく。

「こんなことを言いたくはないのですが……」

「あのスバメは、私たちを含む、すべての生き物に怯えています」

「殺されそうになった記憶が強く残っていて、まだ忘れられないみたいで」

「身体は回復しましたが、生きる気力を失っているようです」

「ポケモンの命を救う立場からすると、この子を外の世界へ戻すことが最善とは思えません」

複数のポケモンに激しい暴行を受けたショックは大きくて、野生に返してもとても生きていけないだろう、人の言葉を話すラッキーの職員さんから、わたしと佳織ちゃんはそう告げられた。

「ただ、センターへ運び込んでくださったお二人には、少し心を許しているように見えます」

「決して無理にとは言いません。あくまで、この子を受け持った私の、個人的なお願いです」

「どちらか……この子を、引き取っていただくことはできないでしょうか」

スバメを引き取ってほしい、職員さんが言った直後に、佳織ちゃんは迷わず手を挙げた。

「私が引き取ります。自分の力で生きられるようになるまで、私が責任を持って育てます」

これが、佳織ちゃんの元へスバメが身を寄せるきっかけになった出来事だった。

傷ついたポケモンを保護する目的であれば、トレーナーの免許を持たずともポケモンを手元に置いておくことができるという法律がある。佳織ちゃんがスバメを引き取ることができたのは、これが根拠だった。ポケモンセンターから保護用のモンスターボールをもらって、スバメをそこへ収容した。

(でも、普段は外に出してあげてたっけ)

佳織ちゃんは家へ帰るとすぐにモンスターボールからスバメを出して、自分で寝床を用意してあげた。外の空気を吸った方がいい、佳織ちゃんはそう考えたみたいだった。お母さんには「元気になるまでだから」と言って説得したらしい。佐織さんはいつものようにグチグチ言っていたけれど、佳織ちゃんは全部聞き流していたみたいだった。

ご飯を食べさせてあげたり、並んで庭を散歩したり、雨の日には自分の部屋で休ませてあげたり。佳織ちゃんが心を尽くしてお世話をしてあげたおかげで、スバメはだんだん佳織ちゃんに心を開いていった。わたしも時々遊びにいって、ちょっとだけ撫でたり触ったりした。それでわたしにも懐いてくれた。

「見て見て! この子、チーゴの実が好きみたい」

「ホントだ。ちょいちょい食べてる、かわいい」

おやつに好きなチーゴの実をあげると、嬉しそうに食べる。そんなスバメの姿を、今もよく覚えている。三カ月もするとスバメはすっかり元気を取り戻して、佳織ちゃんやわたしに人懐っこい笑顔を見せるようになった。

怯えていた気持ちが綺麗さっぱり消えて、自分に自信を取り戻せたおかげで、いつしかスバメは空を悠々と飛べるようになるまでになった。もちろん、佳織ちゃんが側についてサポートしてあげたことも大きい。佳織ちゃんからちゃんとした食べ物をたくさんもらって、しっかり見守られながら自由に飛び回って、幼かったスバメはすくすくと成長していった。

(佳織ちゃんが引き取ってから、一年経つか経たないか、それくらいだったと思う)

佳織ちゃんの目の前で、スバメが強い光を放った。まぶしくて目を開けていられないほどの光の中で、スバメに大きな変化が起きた。光が収まって、わたしと佳織ちゃんが再び目を開くと、そこにスバメの姿はなかった。

「……進化だ」

「スバメが、進化したんだ!」

立っていたのは――スバメが進化を遂げた姿・オオスバメだった。

かつての弱々しい姿はもう見る影もなく、立派な翼と鋭い目を持った、強靭なポケモンへと姿を変えた。声をあげて一鳴きすると、佳織ちゃんの元へと跳ねていった。佳織ちゃんはすぐさま屈み込んで、見事な成長ぶりを見せたオオスバメを強く強く抱きしめる。オオスバメはそれに応えるように、しきりに佳織ちゃんへ頬ずりしていた。

わたしが隣で驚きと喜びを噛み締めていたとき、それは起きた。

「ありがとう」

誰かの声が聞こえた気がして、はっと目を見開く。

「私を育ててくれて、ありがとう。カオリちゃん、マナカちゃん」

佳織ちゃんには、この声は聞こえていないようだった。けれど幻聴とは思えないほどはっきり聞き取れて、そして声の主が誰かもあまりに明白で。

(オオスバメの……声?)

これが、初めての経験。初めての出来事。

わたしが初めて耳にした――「ポケモンのことば」だった。

 

火曜日を迎える。わたしは学校へ行く。教室の席に着く。

学校にはもう、佳織ちゃんの姿も、ツイスターの姿も見当たらない。クラスメートの噂話に少し耳を傾けていると、金曜日から誰の前にも姿を見せていないらしい。昨日も学校を休んだみたいだ。今はどこで何をしているのか、誰にも分からない。わたしにも分からなかった。

けれど、ひとつ言えることがある。佳織ちゃんのいない学校はただ息苦しくて、ただ居心地が悪くて、わたしはじっと息を潜めて身体を小さくするほかなかった。拠るところを失ったわたしはとても不安定で、学校という場に一人でいることの辛さを全身で味わっていた。

佳織ちゃんが、わたしの側にいてくれたら。叶わぬ願いを幾度となく心に浮かべて、わたしはただ時が過ぎるのを待った。

長いのか短いのか、それすらも分からない無味乾燥な時間が流れて、いつしか放課後になっていた。

荷物を置いたまま教室を出て、ひとり屋上へと向かう。途中で同じクラスの西野さんとすれ違う。西野さんとはちょっと合わないことが分かっていて、わたしは下を向いたまま目を合わせること無く歩き続ける。向かってくる西野さんの方は、わたしをじっと見ていた気がした。何か思うところがあるのかも知れないけれど、わたしには分からなかった。

人ごみに紛れて階段を上ってゆく。登り切った先にある大きな鉄扉を目いっぱい押して開くと、がらんとした屋上へ出ることができた。ここには滅多に人が来ないことをよく知っていた。一人になるにはちょうどいい場所。一人になれる数少ない場所。それが屋上だった。

(佳織ちゃんに会えない時は、ここにいることが多かった)

他の子と積極的に話そうという気持ちには、あまりなれなかった。それなら一人でいる方がずっと心穏やかでいられる、自然と屋上へ行くことが増えた。錆びた手すりに手を置いて、ぼんやりと空を見つめる。

空を行くキャモメの姿が二羽・三羽、わたしの視界を掠めてゆく。目を閉じて耳を澄ませると、どこからともなく声が聞こえてくる。

「どこか、遠くへ行きたいね」

「行ってみたいな。海を越えて、見たことない場所まで」

はっきりと聞こえる。彼らは声を上げて、人の耳ではただの鳴き声にしか聞こえない声を上げて、会話をしている。わたしは彼らの声を、明瞭に聞き取ることができた。

(キャモメたちの会話を、言葉を)

彼らが――ポケモンたちが何を言っているのか、何を語っているのか。あるときから、わたしはそれが理解できるようになっていた。知っている限り、どんなポケモンであっても関係なかった。神経を研ぎ澄ませて、彼らの声に耳を傾ける姿勢を持てば、いかなる種のポケモンからも言葉が聞こえてきた。わたしが理解することのできる、人の言葉の形で。

人の言葉を理解できる生き物が、即ち人ではないことはまた、承知していたけれども。

(分かることは、それだけじゃない)

肺に空気を満たして、暫し膨らませたまま息を止める。そうしてから、ゆっくり音を立てず、静かに萎ませる。思い起こされる教室での会話、廊下でのやり取り、通学路でのおしゃべり。できるだけ耳に入れまいとしてきた数々の言葉が、堰を切ったかのように溢れ出てくるのを感じる。

実像を知らない子たちが、佳織ちゃんがポケモン部を辞めた理由を、各々の考えで好きなように思い浮かべている。

(「ストレスで万引きでもしたとか、そんなんでしょ」)

(「あのオオスバメとケンカして、言うこと聞いてくれなくなったんだよ」)

(「厳しそうだし、他の子殴ったりとかしてそう」)

(「彼氏と上手く行かなくなったんでしょ」)

(「自分の思うようにやり過ぎて顧問を怒らせたとかじゃないの」)

(「単純にみんなから嫌われたんだよ」)

(「なんか偉そうな感じしたし、気に食わなかったんだ」)

(「目立ちすぎてたよな。下級生でも知ってるとか普通じゃねえし」)

(「なんていうか――」)

視界が揺らめいて、倒れそうになって、わたしは手すりによろよろと寄り掛かった。しきりに頭を振って、どうにか思考を打ち切る。これ以上思い出してしまったら、頭がおかしくなってしまいそうだ。ただでさえ、すぐにでも身を投げられる屋上なんて危なっかしい場所にいるのに、こんなことをしていてはいけない。

わたしには分かることがもうひとつあった。ポケモンの声のように、わたしだけに聞こえてくるものがあった。

(他の人の感情が、考えていることが)

(全部……伝わってきてしまう)

他人の気持ちが分かる。分かりたくないのに分かってしまう。それも明瞭な言葉になって、曖昧なイメージではない、ハッキリとした「言葉」として。人間が人間たりえる大きな証の一つである「言葉」の形で、わたしは本来決して知り得ないはずの他人の気持ちを知ってしまう能力があった。

とても辛い能力だった。ポケモンの言葉・他人の気持ち。聞きたくもないことを聞いてしまう、知りたくもないことを知ってしまう。

これが、榁へ来てからずっと、途切れることなく続いている。

自分は何かおかしいのではないか、そんな思いを拭えずに、佳織ちゃんにもなかなか話すことができなかった。佳織ちゃんならきっと理解してくれると信じているはずなのに、どこかで怯えが勝ってしまって口を噤ませてしまう。あたかも佳織ちゃんを信じ切れていないような気がして、いつまでも打ち明けられずにいた自分が嫌で嫌で仕方がなかった。

(「愛佳ちゃん、元気なさそう」)

(「今日はたくさん遊べるといいね」)

(「何か辛いことがあるなら、私に話してほしい」)

佳織ちゃんから伝わってくるわたしへの気持ちに、悪いものなんて一つたりとも含まれていなかったのに。

分かっているはずなのに前へ踏み出すことができない自分の弱さを呪うほかなかった。佳織ちゃんの優しさに甘えて隠し事をしている自分が情けなくて、消えてしまいたいと思ったことは一度や二度ではまるで足りない。抜け出せない自己嫌悪のループを繰り返していた。

(あの時から、疑うべきだったんだ)

なぜ声が聞こえるのか、気持ちが伝わるのかを。今にして思えば、答えは恐ろしく単純だった。

わたしは一体何者なのか――それを鑑みれば、答えなんて明らかだった。

 

水曜日は、まるでその曜日に合わせたみたいに、バケツに貯めた水をひっくり返したような天候になった。

雨がしとしとと降り続いている。朝から止む気配がなくて、天気予報でも夜まで降り続くと言っていた。まるで空が泣いているかのよう。涸れることを知らない涙は、傷ついた心の表れのよう。

わたしは教室の窓から外を見やる。学校の中までは雨は降らない。しっかりした屋根が雨粒という雨粒をすべて防いで、わたしたちを濡れないように守ってくれる。外に出ていたら、こうはいかない。

(もし、わたしたちがポケモントレーナーになっていたら、雨はもっと厄介なものだったと思う)

ポケモントレーナーになること、外の世界へ旅立つこと。今となっては叶わぬ願い。カタチになることのない夢。

(佳織ちゃんは、ポケモントレーナーになることが夢だった)

スバメを保護する前から、佳織ちゃんはトレーナーになりたがっていた。よくわたしに「ポケモントレーナーになったら、たくさんのポケモンと出会ってみたい」「自分だけでどこまで行けるか、自分を試してみたい」と口にしていたのを覚えている。佳織ちゃんにとって、ポケモントレーナーになることは、文字通り夢だった。

ただ夢を見ているだけじゃない。佳織ちゃんは夢を叶えるための努力を惜しまなかった。ポケモンのことを自分から進んで勉強して、たくさんの知識を身につけていた。例えば、クラブは横にしか歩けないから襲われても前へ回り込めば怖くない、イシツブテは水が苦手だから水筒の水をかければ追い払える、ズバットは鈴を鳴らせば方向感覚を失う、そういったことを学習して、理解していた。

あちこちで行われる野試合もしょっちゅう観戦していた。榁にはポケモンリーグ認定のジムがあって、海からたくさんのポケモントレーナーが足を運ぶ。彼ら同士や、榁でポケモンを連れている人が野試合をすることがしばしばあった。佳織ちゃんは野試合がよく行われる場所をいくつも知っていて、時間がある時は自転車に乗ってそれらを回っていたと言っていた。試合で戦うポケモンの様子を見て、バトルの勘所やポケモンの得手不得手を理解していったみたいだった。

(正式にポケモントレーナーになれたら、アチャモを渡してもらう約束をしてるんだ、そんなことを言ってたっけ)

わたしが榁へ来るよりも前に、佳織ちゃんは榁で研究をしているという女性の博士から、ポケモントレーナーになった暁には珍しいポケモンをもらうという約束をしていたと聞いた。結局佳織ちゃんはポケモントレーナーになれなくて、その約束が果たされることはなかったのだけれど。

その珍しいポケモンというのが、アチャモだった。

アチャモ。ひよこポケモン。豊縁にしかいないと言われている貴重なポケモンで、その数も少ない。ふわふわな体に、つぶらで優しい瞳をした可愛らしいポケモンだけれど、体の中に「炎袋」という器官を持っていて、口から1000°にもなる強い炎を吐いて敵に立ち向かう、勇敢なポケモンでもあった。佳織ちゃんはこのアチャモに会ってみたい、仲間になりたいといつも言っていて、その名前を出すたびに目を輝かせていたことを今でもよく覚えている。一度でいいからこの手に抱いてみたい、佳織ちゃんの弾んだ声が、まだ忘れられずにいる。

ポケモンセンターからスバメを引き取って保護してからも、佳織ちゃんのアチャモに対する思いは変わらなかった。寝床で座るスバメに、アチャモの話をしばしばしているのを見た。

スバメが進化してオオスバメになった頃、こんなことを言っていたはずだ。

「オオスバメは空を飛び回って、アチャモは地面を走り回るポケモンだよ」

「ふたりでタッグを組めたら、きっと怖いものなし、敵なしだよ」

空中戦のエキスパートであるオオスバメが地上戦に強いアチャモと一緒に戦えば、お互いの弱点をフォローし合える。佳織ちゃんの話を聞いて、オオスバメも声をあげて喜んでいた。

わたしが榁へ来て一年ほど経った頃には、佳織ちゃんはオオスバメを、お姉ちゃんはクーちゃんをそれぞれ連れて、同じくポケモンを連れている子と戦わせたり、よそから来たトレーナーと野試合をするようになった。オオスバメもクーちゃんも親によく懐いていて、相手に対して全力でぶつかっていった。もちろん負けることもあったけど、勝つことも多かった。二人がフィールドに立って戦う姿を見ているうちに、わたしも少しずつ、ポケモントレーナーへの憧れを持ち始めた。

それは、ある日差しの強い夏の日だった。

「お姉ちゃん、佳織ちゃん」

「わたしも……ポケモントレーナーになりたい!」

タッグを組んでダブルバトルを戦い抜いた二人を見たわたしは、思わずそんなことを口に出して言っていた。その言葉を見逃す佳織ちゃんとお姉ちゃんじゃなかった。わたしのすぐ側まで駆け寄ってきて、揃って興奮した様子で口々にまくし立てた。

「佳織ちゃん佳織ちゃん、今の聞いた!? 愛佳がトレーナーになりたいって!」

「もちろん! この間真帆さんが言ってたこと、現実になりましたね!」

「こんなに嬉しいことないわ! 愛佳といっしょに旅ができたら絶対楽しいって、ずっと思ってたし!」

「きっと、クーちゃんのことカッコいいって思ったからですよ!」

「佳織ちゃんのオオスバメだって大活躍してたじゃない! ホント、愛佳はいい友達に出会えたわ!」

佳織ちゃんとお姉ちゃんはすこぶる仲がよくて、とても気が合った。タッグを組むとビックリするくらい強くて、ちょっと格上の相手にも勝ってしまう絶妙なコンビネーションを発揮できた。性格的に近いものがあったし、何より前向きなところがピッタリ一致していた。ふたりが仲良くしているとわたしも嬉しくて、穏やかな気持ちになれたものだった。

わたしもポケモントレーナーになりたい。その気持ちを胸に、わたしは十一歳の誕生日を迎えた。わたしは先に免許を取った姉と共に、ポケモンセンターへ「ポケモンを扱うための免許」と「ポケモントレーナーになるための資格」を取得しにいった。

お姉ちゃんとわたしは、血がつながっていない。時に引け目や負い目を感じることはあったけれど、お姉ちゃんと共にポケモントレーナーとして旅立つ分にはいい方向に働いた。養子として次男や次女となった場合は、長男や長女と同じように制約を受けることなくポケモントレーナーになることができたのだ。だからわたしは、お姉ちゃんといっしょに旅に出ることができると分かっていた。お姉ちゃんが側にいれば、どこへだって行ける。そんな思いがあった。

免許と資格を取るための勉強もした。実技試験が心配だったけど、お姉ちゃんは「実技なんて、あってないようなものよ」と力強く励ましてくれた。わたしは気合いを入れて、胸を張って、ポケモンセンターで行われた試験を受けた。

ちゃんと準備をしておいたおかげで、筆記試験も実技試験も問題なくパスできた。わたしはお姉ちゃんとふたり、飛び上がって喜んだのを覚えている。ここまでくればもう安心よ、お姉ちゃんが太鼓判を押してくれた。

「最後に簡単な検査があるけど、大したことないわ。タダで健康診断してもらえると思えばいいのよ」

ポケモンセンターの職員に連れられて、わたしは奥にある医務室で血液を採取された。針がちょっと痛かったけれど、お姉ちゃんのいう通り、健康診断をしてもらえると思えば、大したことなんてなかった。

大したことなんてない、はずだった。

(結果が出た後、職員の人から、親を呼ぶように言われた)

どうしてお母さんを呼ぶ必要があるんだろう。わたしは首を傾げながら、公衆電話にテレホンカードを挿れて、家にいるお母さんをポケモンセンターへ呼び出した。

わたしと、お姉ちゃんと、お母さん。三人揃って個室で待っていると、ポケモンセンターの支部長だっていう人が入ってきた。支部長さんはわたしたちの前へ立つと、ずいぶん重々しい口調で、おもむろにこう告げた。

「とても大事な話があります」

「杉本愛佳さん」

「あなたには――」

次に続いた言葉を、わたしは生涯忘れることはないだろう。

「――ポケモンを扱うための免許を発行することは、できません」

わたしには、免許を発行できない。確かにそう言われた。

「そ……それ、どういうことよ!? 愛佳は筆記も実技も完璧だったじゃない、それが……どうして!?」

「理由は――」

「待ってください」

支部長さんが「理由」を口にしようとした直前に、お母さんが立ち上がってそれを制した。

「『健康上の問題』……そういうことですね」

「健康……? お母さんっ、愛佳病気なの!? 病気ならすぐ病院行かなきゃ!」

「真帆、話は後でするわ。だから、今は落ち着いて」

「でもお母さん、愛佳が、愛佳が……!」

お姉ちゃんが繰り返しわたしの名前を呼んで、目に涙を浮かべながらお母さんの袖を掴む。免許を発行できないと言われたわたしは放心状態のまま、目の前で展開されるやりとりを、まるで別世界の出来事のような現実感のなさで見つめていて。

そしてわたしは、無意識のうちにこう口にしていて。

「――お母さん、教えて」

「どうして……免許をもらえないの」

「わたしは、いったい何者なの」

沈痛な面持ちの母が、わたしに目を向ける。固く閉ざされた口が、ゆっくりと、ゆっくりと開かれるのを、わたしはこの目で見た。

喉の奥から絞り出すような声で、母がわたしに答える。

「愛佳」

「あなたは――」

わたしが、何者なのか、ということを。

 

「何もこんな雨の日に、大勢で押しかけてこなくたっていいのにね」

いささか疲れた顔をして、お母さんがソファに腰掛けた。わたしがお母さんに顔を向けると、大丈夫よ、心配しないで、と返した。毎日疲れることばかりで、大丈夫なはずがないのは分かっていたけど、これ以上問い掛けることは躊躇われて、ただ曖昧に頷くことしかできなかった。

お姉ちゃんが死んでからほとんど毎日のように、家に新聞やテレビの記者が詰めかけている。お母さんがわたしに散歩をするよう促していたのも、家にいるとわたしの気が滅入ってしまうと分かっていたからだ。お母さんの考え通りで、知りたがりの記者たちに取り囲まれていると、わたしの沈んだ気持ちがいっそう深く埋没してしまいそうだった。

今日もまた、学校から帰ってくるときに、わたしは記者の一人からこう問い掛けられた。

「真帆ちゃんの妹さんですよね?」

「お姉ちゃんが死んだと分かったとき、どう思った?」

「犯人がお姉ちゃんの友達だって聞いて、どんな気持ちだった?」

どうしてそんなことを知りたがるのだろう。どうしてそんなことを訊きたがるのだろう。わたしから何か言葉を引きずり出して、それをテレビで流すのだろうか、新聞に書くのだろうか。わたしが何か話をすれば、お姉ちゃんが死んだあの事件に何か変化が起きるというのか。事件がもたらしたものを拭い去ってくれるというのか。

お姉ちゃんが戻ってくるとでも、いうのか。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

わたしは何か言う代わりに、ただ「ごめんなさい」という言葉で自分の口を噤んだ。「ごめんなさい」と口にしていれば、他のことは話さずに済む。気持ちを表に出さなくてもよくなる。誰に対する謝意でも無い。無形の口枷として、わたしは「ごめんなさい」という言葉を使った。わたしももう十四になる。人はこの言葉に弱いことを、経験的に理解していた。

慕っていた姉を亡くした妹がどんな思いを抱いたか、姉を手に掛けたのがわたしのよく知る人物だったと聞いてどのような心境になったか。それすらも我が事として想像できないほどの貧困な心の持ち主が、いったい何を伝えられるというのだろう。何を理解できるというのだろうか。

わたしは、あなたたちの奴隷ではない。ましてや、打ち出の小槌でもない。

「愛佳、部屋で休むといいわ。お母さんはもう少し、しなきゃいけないことがあるから」

お母さんの言葉に従うことにする。その前に、わたしはキッチンへ向かった。冷たい水をコップに満たして一息に飲み干してから、二階にある自室へ戻る。制服をハンガーへ掛けて部屋着へ着替えてから、ベッドへ横になった。

人はなぜ知りたがるのだろう。なぜ知ることを恐れないのだろう。

(それが分からないから)

(わたしは「人でなし」なのかな)

思い起こされる風景。つい一月ほど前の、とある出来事。

(「人でなし」だから、洋平くんとも)

年明け早々の一月五日。

わたしは、半年ほど付き合っていた彼氏の洋平くんと、別れることになった。

(告白したのは、去年の七月)

(気が付くと、校舎の裏で練習する姿をいつも見ていた)

(見ているうちに胸が熱くなって、でもその理由が分からなくって、戸惑って、佳織ちゃんに訊いてみた)

(「それは、人を好きになったってことだよ」……佳織ちゃんはそう教えてくれた)

ポケモン部の練習が休みになった日に、同じクラスの須藤くんとコートで練習をしているのを見たのが、初めての出会いだったと思う。洋平くん。古田洋平くん。三組の男子生徒で、テニス部に所属している。口数が少なくて滅多に笑わないけれど、真面目で誠実な性格だった。

とびっきりの勇気を出した。放課後に声を掛けて、旧校舎の階段裏まで来てもらった。あんなに急に声を掛けて、しかも人気のない場所へ連れて行くなんて、今のわたしじゃとてもできそうにない。あの時のわたしは、熱に浮かされていたんだと思う。それだけの情熱を、熱情を、洋平くんに抱いていたから。

「……好きです。わたし、古田くんのことが、好きなんです」

「わたしと――付き合ってください」

わたしが振り絞った勇気に、洋平くんは。

「杉本は……俺を、選んでくれたんだな」

「分かった。その想いに応えよう。よろしく頼む」

ハッキリとした言葉で、応えてくれた。

(付き合っているときは、とても楽しかった。楽しいことばっかりだった)

実際に付き合ってみても洋平くんはとても真面目で、わたしはそれが好きだった。洋平くんの誠実さにわたしも応えたくて、洋平くんもわたしの想いをいつも汲み取ってくれて。初恋は実らないと言われているけれど、わたし達はそのジンクスから外れているようだった。

休みの日に公園にある寂れたテニスコートで練習する姿を見るのが好きだった。部活が終わるまで待って、下足室で待ち合わせて帰るのが好きだった。お小遣いで洋平くんに飲み物を買ってあげるのが好きだった。二人でただひとつの喫茶店「ペリドット」へ遊びに行くこともあった。

――"恋人"同士ですることを、ひとつずつしていった。

(佳織ちゃんにも、付き合ってる男の子がいた)

相手はポケモン部の大木くんだった。わたしと同じで佳織ちゃんの方も自分から告白して、OKをもらったと言っていた。だからだろうか、わたしから告白した方がいいってアドバイスをしてくれたのは。

(ただ……佳織ちゃんは、あれで楽しかったのかな)

わたしと同じように、恋人同士ですることを、佳織ちゃんと大木くんもしていたのを見ている。佳織ちゃんと話すことに、恋の話が増えたことは、わたしにとっても嬉しいことだった。

けれど、気になることもあった。佳織ちゃんはいつもどこか淡々としていて、言い方はとても悪いけれど「仕事をこなしている」という印象を強く受けた。大木くんを見ているときも、すぐ近くにいるはずの大木くんではなくて、ずっと遠くにいる、誰かの面影を見ているようだった。大木くんは、そんな佳織ちゃんの様子に気付いていなかったようだけれど。

洋平くんと付き合って、楽しい日々を過ごした。その果てに迎えた、去年のクリスマス。

(好きな人といっしょに過ごしたクリスマスは、とても素敵だった)

(わたしは、お母さんに教えてもらって編んだマフラーを渡して)

(洋平くんはわたしに、ハートのペンダントをプレゼントしてくれた)

ささやかなプレゼントの交換と、ちょっとだけ背伸びをしたレストランでの食事。大人から見れば、子供っぽい、ままごとをしているようなものだと思う。けれどわたしたちにとっては、恋から芽生えて育まれた愛を確かめる、大切な儀式だった。

夜の海岸沿いを歩いて、人気がすっかりなくなったところまで来たとき、わたしは不意に足を止めた。

「洋平くん」

「素敵なペンダントをもらって、おいしい料理を囲ませてくれて、わたし、幸せだよ」

「でもね、わたし……もうひとつ、欲しいものがあるんだ」

洋平くんはすべてを理解した顔をして、わたしの目をじっと見つめる。深い夜の闇の中で、あたかもわたしの瞳がただひとつの光源であるかのように。

わたしが目を閉じる。目で見なくとも、洋平くんが何をしようとしているかは、まるで手に取るように分かった。そっと顔を寄せられる感触がして、心がとくんと高鳴るのを覚えた。

少しだけすぼめた唇に、あたたかなものが触れるのを感じた。

(怖いとは思わなかった。抵抗もなかった)

(わたしは、洋平君のことが好きだった)

(親愛の情を交わすためのものだと、大切な人が教えてくれたから)

口付けが続いたのは、七秒。わたしの世界で一番長い、七秒だった。

これからはずっと、この七秒の間に生まれた感情を、気持ちを、ハートの中に抱えて生きていける――そう、思って。

そう、思っていた。

(洋平くんが苦しみ始めたのは、そのすぐ後だった)

(酷い咳をして、顔が真っ赤になって)

(その様子を見て――わたしは気が付いた)

近くに人影はなかった。人っ子一人いない、いるのは紛れもなく、わたしと洋平くんだけ。

人だけではない。ポケモンの姿も無かった。気配も、声も、少しも感じ取れず、聞き取れなかった。

(わたしたちには、まだお互いに話していないことがあった)

(図らずも、それが同時に露わになった)

洋平くんがわたしに話していなかったこと。それは生まれつきの体質で、決して直すことができないもの。

(手を繋ぐぐらいなら、大丈夫だった。人でなしでも、外面は人間のようだから)

(体液の交換が、引き金になった)

わたしが洋平くんに話していなかったこと。それは生まれつきの血筋で、決して除くことができないもの。

(洋平くんは、重度のポケモンアレルギーで)

決してポケモンを近付けてはいけない、触れると命に関わるほどの反応を引き起こすアレルギー。洋平くんにずっと付いて回る、他の人と違う特徴。

(わたしは)

(わたしは)

そして、わたしは。

(――人間とラルトスの、ハーフだった)

人でもない、ポケモンでもない。

人間まがいの、ポケモンもどき、だった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。