例によってというか、いつも通りというか、あたしが家へ帰って来てからしばらくするとお母さんが帰ってきた。家事のあれこれをするために家の中を歩き回るお母さんを横目に見つつ、お母さんが点けたテレビをソファに座ってぼーっと眺める。今日は先に宿題も片付けたし、本当にやることがない。
夕方のニュース番組でさっきまで流していたのは、ええっと、なんだっけ。そうだ、片目がパッチールの渦巻模様になってる女の子が出てきて、その子の母親が「差別の無い世界を」って訴えてたんだった。訴えてることは「そうですね」って感じだけど、やっぱり片っぽの目だけがパッチールってのはインパクトがありすぎる。ていうかあれ、ちゃんとモノ見えてんのかなって思う。
パッチールも可愛いな、ちょっと欲しい――なんて考えてると、時計が七時を指した。今日ももうこんな時間かぁ、と思っていると、テレビの向こう側で歓声が上がるのが聞こえて。ハッとして目を起こすと、あたしと同年代の男子と女子が左右に分かれて、広々としたバトルフィールドに立っていた。
(あ、ジュニアリーグ……U-15だったっけ、確か)
ジュニアリーグ。ポケモンリーグの一部門で、その名の通りジュニア、具体的には十五歳以下の人が参加できる大会だった。で、今日はそれの夏期大会に向けた、関東地方予選の決勝戦らしい。まだこれから全国大会が残ってるのにもうこんな具合でテレビ中継とかされちゃうんだから、期待のされっぷりが違うって感じ。
さっきも言った通り、男子も女子もあたしと同い年くらいだ。たぶん13か14だと思う。男子の方はバッフロンっていうポケモンを、女子の方はサニーゴを出している。サニーゴは見たことあるけど、バッフロンなんてポケモンは初めてだ。なんかこう、アフロヘアーのケンタロスみたいな感じ。なんでアフロなのかは分かんない。
ナレーターと解説者いわく、どっちも「期待のホープ」「見どころある若手」なんて謳われてるそうだ。なるほど、これからのポケモン界は、あの二人みたいな子が背負って立つらしい。あれだ、なんだか大変そうだ。
「あら、ジュニアリーグをやってるのね。まだ若いのに、どっちも強そうだわ」
ベランダから洗濯物を取り込んできたお母さんが、テレビの画面を見て言った。あたしは何も言わずに、お母さんの方にちらりと目を向ける。
「あの子たちもきっとあちこちを旅して、いろんな人とたくさん戦ってきたのよね」
「なんだか懐かしい気持ちになっちゃうわ。旅は大変だったけれども、とても楽しかったもの」
楽しそうにしゃべるお母さんの姿を見ながら、小さく肩をすくめた。
あれは今から二年と半年くらい前、小六に上がる直前くらいだ。この歳になると、身体はまだ子供だけど扱いとしてはほとんど大人と同じになって、自分で自分のことを決めるようになる。まず最初に決めることになるのが、進級して小学校を卒業するか、ポケモントレーナーになって外の世界へ旅立つか、だ。小学校を卒業したタイミングで進学か旅立ちかを選ばせた方がすっきりしていいんじゃないのって思うし、そういう風に言う人も多いんだけど、年齢との兼ね合いでこんな歪なことになってるらしい。まあ、ありそうな話だって思う。
で、あたしもどっちかを選ぶ時があった。五年生のときに学校の授業でポケモンを扱える免許は取ってたから、一応あたしでもポケモンを持てる資格はあったわけだ。春休みの直前にお母さんと先生で三者面談をして、次の年度はどうするかを話したのを覚えてる。
「もちろん、サッちゃんの好きなようにすればいいわ」
「けどお母さんは、せっかくだから、ちょっとあちこち旅をしてみるのもいいと思うの」
「サッちゃんが旅をするのにも、戻ってきてまた学校へ通うのにも、どっちにも困らないくらいの蓄えはあるのよ」
お母さんは「せっかくだから外へ出てみたら」って言ってたけど、あたしはなんだか気が進まなくて――もっと言うと面倒くさくて、このまま家にいて学校に通ってる方がいいや、って思ってた。お母さんが旅に出た方がいいって言う理由もよく分かんなかったし、あたしも旅をしてなんかいいことあるのかが思いつかなかった。
結局、あたしは進級することにした。勉強してる方が、まだマシで楽だと思ったから。
「そうね……サッちゃんがそうしたいなら、きっとその方がいいわ」
お母さんが、少しだけ残念そうな顔をしてたのを、あたしは未だに覚えている。あれはきっと、できれば旅に出てほしかったんだと思う。どうしてなのかは、まだ分からずにいるけど。
あたしが何も言わずにいると、洗濯物を持ったお母さんが和室へ移動した。お母さんの姿が見えなくなってから、隣にぽつんと置いておいたリモコンを手に取って、ぽちぽち適当にチャンネルを変える。何か見たいものがあったわけじゃない、ただ、今見ているものを見たくないだけ。
(無理。あたしにはできっこない)
テレビの向こうで活躍する子たち。箱を一個隔てただけで、全然別の世界が広がっている。あたしと同じくらいの歳の子が、いろんな人に注目されながら堂々と戦っている。あたしには無理だ。テレビの向こうにいるような、あの二人みたいに活躍することなんて、無理だ。
そうだ――あれは、特別な才能があるからできること。あたしみたいな普通の子とは違う何かを持っているからこそできることなんだ。あたしにできっこないのも道理だ。だって、あたしには生まれつきの才能って言えるようなものなんて何も無い。ただ普通に、そのままこの世に生まれてきただけ。初めから何も持ってなかった。だから差が付くのは、仕方ないことなんだって思う。
(……けど、多分、それだけってことはない)
生まれつきの才能。その言葉を盾にして、安全な場所へ逃げようとする。あたしのクセ、とても悪いクセ。あたしだって自覚してないわけじゃない。今の自分があるのは、今までの自分がいるから。なんにもしてこなかった、何一つそれらしいことをしてこなかった、だから今の自分がいる。未来は過去の結果。今までの自分の結果が、今の自分なんだ。そんなことは百も承知で、どうしようもないくらい正論だ。
あまりに眩しくて、見ているのがつらい。あまりに高いところにあって、見上げるのがつらい。今のあたしは、今までのあたしがしてきたことの結果。そう言われると、返す言葉が見つからなかった。
「……あ、かわいい」
「あれなんだっけ、スボミーだったっけ」
チャンネルを適当に変えていると、別の番組で「かわいいポケモン」の特集をしていた。よくある特集で、三日に一回はどこかのチャンネルで似たような番組を流してる。それだけ観る人が多くて、作るのにも手間が掛からないってことだ。そういう意味でこういう番組は、お母さんが忙しいときに作ることの多いしそパスタに似ている。あたしもお母さんもお父さんも好きで、手間だって掛からない。一言で言うと、お手軽なのだ。
今のあたしの気分にもぴったりだった。こっち観てる方が断然気が楽だ。少なくとも、画面の向こうにいる人と比較されることなんてない。それだけで十分。何も気にすることなんかなくって、ただぼーっと頭を空っぽにして映像を観ていられる。あたしにはその方が向いてるんだって思う。
代わる代わる出てくる「かわいいポケモン」の映像を、ソファに膝を立てて座ってただただ消費していると、あたしにとって一際目を引くポケモンが不意に姿を表して。
「あ……ニャスパー」
出てきたのはニャスパーだった。カロス地方の大きな屋敷で飼われているらしくて、胸元に宝石――あれなんだっけ、アメシストかな、とにかく綺麗な宝石のついたペンダントを提げている。けどその紫色の瞳は、宝石よりももっと綺麗だ。お屋敷の中をちょこまか歩いて、大きなベッドで寝てるところとかが流れている。寝返りをうって転がる、欠伸をしながら大きく伸びをする。
どれをとっても、可愛らしくてしょうがなかった。
「可愛いなぁ、ホントに可愛い」
無意識のうちに呟いていて、後から呟いたことに気が付く。自分が何か言っていることさえも分からなくなるくらい、目と心を画面の向こうのニャスパーに奪われていたんだって自覚する。
ニャスパーが欲しい。前にも抱いたこの思いが、また大きく膨らんでくのを感じた。
「あら、見たことないポケモンね。サッちゃんは知ってるかしら?」
お母さんがひょっこり顔を覗かせる。さっき取り込んだ洗濯物を畳んで、別の部屋を持って行こうとしているところだった。お母さんが興味を持った今がチャンスだ、あたしは大きく身を乗り出してお母さんに迫る。
「あれニャスパーっていうポケモン。かわいいでしょ?」
「へぇ、ニャスパーちゃんっていうの……まあ、ニャスパーちゃん、超能力が使えるんですって。傍にいてくれたら頼もしそうだわ。お母さんの友達にケーシィを連れてる子がいたけど、ずいぶん強かった記憶があるわ」
「うーんと、なんて言うか、そういうことじゃなくてさ。ほら、ニャスパーかわいいでしょ、あたしも欲しい」
ここで「欲しい」、とハッキリ言ってみる。お母さんは、と言うと。
「サッちゃん……ニャスパーちゃんが欲しいの? ニャスパーが?」
「そう、欲しい。すっごく欲しい」
あたしの目をまじまじと見つめている。あたしはもう一押しとばかりに、重ねて「欲しい」って言った。「すっごく欲しい」とも付け加えた。あたしがどれだけニャスパーを欲しがってるかが、お母さんにだって伝わるはずだった。
ニャスパーと言えば城ヶ崎さんだ。城ヶ崎さんはいつも学校にニャスパーを連れてきていて、クラスのみんなに触らせたりしている。ニャスパーを見ているだけで可愛くて、欲しくなって、持っている城ヶ崎さんのことが羨ましくて羨ましくてしょうがなくなる。城ヶ崎さんは他にもたくさんのあたしが持ってないものを持ってるけど、でもその中でも、ニャスパーはとびきり欲しいものだった。あたしにもニャスパーがいれば、好きなように抱っこしたりできる。居ても立ってもいられない気持ちっていうのは、きっとこの事だ。
お母さんはあたしの気持ちを分かってくれただろうか。これだけ言えば、あたしがどれくらいニャスパーを欲しがってるかはちゃんと伝わるはずだと思ってるんだけど。
じーっとあたしの目を見つめてから、お母さんが口を開く。
「……サッちゃん、分かったわ。今度、ニャスパーをサッちゃんのところへ連れてきてあげる」
――今度。
お母さんから出てきたのは、ある意味いつも通りの「今度」という言葉、だった。あたしはなんだかがっくり来てしまって、何も言えずに黙り込んでしまう。ゆっくり肩を落とすと、次いで目線も下へ落とした。
「サッちゃんもポケモンに興味を持つようになったのね。嬉しいわ」
「それに、時期もちょうどいいわ。これしかないわね」
上機嫌で去っていくお母さんの背中をしばし見つめてから、大きな大きな、バカみたいに大きなため息を一つ、ゆっくりと吐き出した。
ああ――また「今度」だ。
なんとなくここに居るのが厭になって、ソファから立ち上がる。自分の部屋まで戻って電気を点けると、そのままベッドに乗って枕に顔を埋めた。枕に巻いたタオルから寝汗の匂いがしたけど、もうだからなんだって感じで、別にどうでも良かった。何もかもどうでもよくなった。
(あたしだってニャスパーが欲しい)
(こんなに欲しいのに、お母さんは分かってくれない)
(あたしの気持ちなんて、ちっとも分かってくれやしない)
気持ちがムカムカしてきて、イライラしてきて、顔を埋めてる枕に握りこぶしを叩きつける。ちょっとだけ気が静まると、虚しさがいっぱいに広がっていって、本格的に何もする気が起きなくなってくる。
あたしだってニャスパーが欲しい。欲しいって気持ちは誰にも負けないのに、お母さんはそれを分かってくれない。城ヶ崎さんがニャスパーを学校に連れてくるのを見るたびに、同じことをずっと思ってる。
これから先、何度同じことを思うことになるんだろう?
(……だるい)
それ以上の言葉なんて、出てくるわけもなかった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。