なんだかんだで夜は明けるし、どうやっても明日はやってくるわけで。
「サチコ、今日もあついね」
「あっついねー。こんなんじゃ夏本番絶対やばいって」
「昨日凛さんが、エアコン買おっかって言ってた」
「えっ、ネネん家エアコン付いてないの?」
「うん。ついてない」
学校へ行く途中にネネと出くわして、いつも通りそのまま並んで一緒に歩いていく。これはまあいつもの光景だし、よくあることだ。日常茶飯事って言うやつだろう、こういうのは。
ただ、今日はいつもと一つだけ違っているところがあって。
「今日はあれか、ちょっと時間無かったとか?」
「うん。いそいで出てきた」
「なんかこう、今日運動会とかだったっけ、とか思っちゃう。ジャージだと」
今日のネネは、学校指定のちょっとダサい感じのする、臙脂色のジャージを着ていた。制服は折りたたんで手提げ袋に入れている。学校に着いてから着替えるためだ。
ふわ……と眠そうに欠伸を一つして、ネネがくしくしと目元をこすっている。ぼんやりした目で辺りをキョロキョロ見回したかと思うと、また大きな欠伸を一つ。こりゃ相当眠そう。隣で見ているこっちまで眠くなってきそうな勢いだ。
「ネネさー、昨日寝るの遅くなったとか?」
「うん。電話してたら、長ばなしになって、寝れなくて、それで、寝るのおそくなった」
「あー、だからか。それでちょっと寝坊して、新聞配達も遅れちゃった感じか。朝早いしね、新聞屋さん」
ネネは新聞配達のバイトをしている。ジャージ姿で登校してきてるのは、配達を済ませてから着替えずにそのまま出てきたから。まあ、そういうわけだ。
他のところだとどうだか分からないけど、少なくとも紫苑だと、十一歳になると法律上大人と同じ扱いになって、できるようになることがいろいろある。バイトもその中の一つだ。この歳になるとポケモントレーナーになって旅立つ子もいるから、お金を稼ぐためにバイトをしてる子も多い。コンビニとかで明らかに年下の子が店員やってるのを見かけることも少なくない。とは言え、ほとんどの学校は校則でバイトを縛っている。学校へ通うからには勉強に集中しなさい、という意味だと思う。
ネネがバイトを始めたのは、確か小学校で六年生に上がった直後か、上がる直前くらいだったはず。ネネもあたしと同じで、ポケモントレーナーにならずにそのまま進級することを選んだわけだけど、「お金がほしいから」ってことで、ちょうど人を募集していた新聞屋さんで採用されたらしい。それからもうかれこれ二年とちょっと、ネネは毎朝欠かさず新聞配達をしている。あたしが知ってる限り、休んだことはなかったはずだ。そもそもネネは風邪ひいたりしたのを見たことがないから、見た目のちまっこさに比べて体は頑丈にできてるのかも知れない。
いつもは新聞配達を全部済ませてから家へ帰って、朝ご飯を食べて着替えてから学校へ行くようにしているらしい。けど、今日みたいにちょっと寝坊してしまって、配達する時に着てるジャージ姿のまま登校してくることも時々ある。そういうときは凛さんが制服を畳んであげておいて、後で着替えられるようにしてるみたいだ。細かいところまでよく気の利く人だ。抜けてるネネにはぴったりだって思う。
「まあけどさ、あれだよね。新聞配達とかってさ、ぶっちゃけ面倒くさくない?」
「うーん。そうでもない。なれたら簡単だよ。くばるだけ」
「ネネは自分とこの団地と、あと近くのアパートとかマンションだっけ」
「うん。ネネ子供だから少なめでいいって、オーナーさん言ってた」
「なるほどねー……てか、よく続けられるよね。嫌になったりしないの?」
「しないよ」
「マジで?」
「うん。でも、朝早いのは、ちょっと大変。毎日三時四十五分に起きてる」
「あー……」
最近玄関まで行かないとダメなところが増えたから、手間が掛かるようになった……みたいなことを言って、ネネがまた大欠伸をひとつ。ネネの言う通り、慣れたらどうってことはないのかも知れないけど、朝の三時だか四時だか――これ、どっちかって言うと朝じゃなくて深夜だと思う。そんな時間に起きて自転車で走り回らなきゃいけないとか、考えただけでげんなりする。正直、ネネはこんなのよく続けられてるなって思う。
朝から駆けずり回って、欠伸を連発して眠そうなネネだけど、「新聞配達が嫌になった」とか、そういう話は一度も聞いたことがない。朝起きるのがちょっと大変とか、眠たくてぼーっとするとかはしょっちゅう言ってるけど、新聞配達自体がどうこうってのは言ってた記憶がない。だから多分、仕事自体は嫌いじゃないんだろう。あたしなら面倒くさくて続けてらんない、ってなりそうなもんだけど。
「あ」
「どうしたのよ急に」
「見て見て。手のひら」
「んー? あっ、これ、新聞の字じゃん」
「うん。まだあっかかったから、手に付いたんだと思う」
ネネが左手を差し出すと、そこには明らかに新聞記事の一部っぽい、文字のような汚れがちょこちょこついていた。新聞配達をしている間に、刷りたての新聞から写り込んで汚れたみたいだった。あたしが新聞を手に取るときは朝お母さんが取ってきたのを読むときで、その頃にはもちろんすっかり冷めてるから、字が手に写るなんてことはない。
朝早くからできたての新聞を配達している、そんなネネだからこそ付いた、汚れだって思う。
「ネネさー、そう言えばさー、配達でもらったお金ってどうしてんの?」
「お金?」
「そう、お金。だってネネ、六年で配達始めた時くらいに、お金欲しいからって言ってたし」
「うん。だから、凛さんにぜんぶあずけてる」
「えっ、全部? マジで?」
「ぜんぶ」
「えっ、じゃあさじゃあさ、凛さんはネネがもらったお金どうしてんの?」
「うーん。わかんない。知らない」
「は? それも分かんないの?」
「うん。凛さんがあずかってる」
「えー……なんかよく分かんないなあ。ネネのお金なんだから、ネネが持っとけばいいのに」
あたしの方は、ネネがお金を全部凛さんに預けていると聞いてただただ呆気に取られるばかりだった。あんなにお金を欲しがってたのに、それを凛さんにまるっと預けて扱いがどうなってるか分かんないとか、こっちがわけ分かんないとしか言いようがない。なんでお金が欲しいなんて言ってたんだろうか。話がかみ合ってなさすぎる。
「サチコ、きいてもいい?」
「えっ、どうしたの」
「えーっと、『サセコ』って、なんていう意味?」
「……はあ!? どこでそんな言葉聞いたの」
「うーんと、クラスの子がいってた」
朝っぱらから一体なんてワードの意味を質問してきているのだろうか、ネネは。こんなに堂々と「サセコ」……「させ子」って何とか訊ねられたのは初めてだ。まあ、密かに訊ねられたこともないし、そもそも誰かから訊ねられた事自体が無いわけだけど。ていうか、訊ねるようなことでもあるまいて。
どう言ったもんかなあ。ネネにエッチとかセックスとか言って伝わるとはとても思えないし、だいたいそういうことを知ってたら「させ子」ってのがどういう意味かも自然と分かるはずだ。なんかこう、噛み砕きつつオブラートに包んで言うしかないか。子供に錠剤を飲ませてる気分だ。
「あー、あれよ。男に頼まれたら、誰とでも……誰とでも……あれだ、あれよあれ、あれすること」
「エッチ?」
「……知ってんじゃん! 知ってて訊いたわけ?」
「ううん。『サセコ』、知らなかった」
「もういいもういい。朝からわけ分かんないこと質問しないでよ、マジで」
「サチコ、ありがとう。ネネ、一個かしこくなった」
ネネはそう言うと、あっ、とその場に立ち止まって、手提げ袋の中をごそごそやり始めた。
ネネの手提げ袋の中から出てきたのは、ビニール袋に入った大きなモモンの実だ。どこかで洗ってきたんだろう、袋の中に飛沫がたくさん飛んでいる。ビニール袋を外すと、ネネが実をかじって食べ始めた。
「それさ、朝ご飯?」
「うん。家で食べれなかった」
「着替える時間も無かったしね。ま、しょうがない」
ネネは朝の支度をする時間が無かったときは、こうやってどっかからもいできたモモンの実を朝ご飯にして食べることが多かった。実は相当大きいし、その割に種は中に小さいのが一つあるだけだから、食べられるところがほとんどだった。よく食べるネネ曰く、甘味も強いし汁気もたっぷりだから、喉が乾いたときにもいいらしい。
「サチコもたべる?」
「いんや、あたしはいい」
「ふーん。じゃあネネ、たべちゃうね」
けどまあ、あたしはあんまり食べたいとは思わないんだけども。
「サチコ。ネネ、トイレできがえてくる」
「ほーい。行ってらっしゃい」
ジャージのままじゃアレだってことで、トイレの前でネネと別れる。たぶん、しばらく時間が掛かるだろう。のんびり着替えるだろうし。待っててもしょうがないから、あたしは先に教室へ行くことにしている。
教室へ入って自分の席に着くと、あたしの後ろの席に座ってるゆみが先に来ていた。
「おー、ゆみじゃん。おはよー」
「おはよ、幸子ちゃん」
ゆみは開いていたテキスト――塾で使ってるっぽい、学校の教科書とはハッキリ違う感じのするテキストを閉じて、顔をあたしの方に向けた。
後ろの席に座ってるゆみは、今年初めて同じクラスになった。割とすぐに気が合って、席替えしてもなんか毎回近くに座ってるから、自然と話す機会が多くなった。静かで騒がしくしないのも、あたしと気が合うところだと思う。
「あれ、ゆみ勉強してるの? まだ授業始まってないのに、熱心じゃん」
「だって、私勉強するの好きだから」
学校の授業も始まってないのに勉強してるって、いくらなんでも勉強熱心すぎだ。ゆみはこんな風に、ちょっと暇な時間ができるとテキストとノートを開いて勉強をしている。さすがに休み時間の間くらいはゆっくりしてるけど、朝の時間とかお昼休みとか、まとまった時間……だいたい20分くらい間が開くと、いつの間にか勉強を始めている。そのおかげかどうかは分かんないけど、ほとんどの教科が得意だった。
「えー、勉強するのが好きとかありえないって、変わってるよ絶対」
「よくそういう風に言われちゃうよ。けど、勉強ってそんなに悪いものじゃないって思うんだけどね、私は」
「マジで? 勉強ってしんどいイメージしかないし。あーあ、あたしもゆみみたいに勉強できる才能が欲しい」
「それだったら、幸子ちゃんも勉強してみたら? やってるうちに楽しくなってくるよ、きっと」
「そーじゃなくてさー、勉強するのがヤだから、ゆみみたいにできたらってなっちゃうわけ」
「じっくりやってみれば、結構面白いと思うんだけどね」
ゆみは勉強が得意だったから、勉強するのが好きになったんだと思う。あたしは、苦手とまではいかないけど得意でもなかったから、好きになれなかったんだと思う。だから今からヒマを見つけて勉強したって、ゆみのようにはなれないって思うわけだ。
「あっ、城ヶ崎さんだ」
「いつも通り、ニャスパーも一緒ってわけね」
ニャスパーを抱いた城ヶ崎さんが教室に入ってきた。ニャスパーは抱っこされたまま、例の紫色の瞳をくりくりさせている。そして、それをじっと見つめるあたしとゆみ。
「いいなあ……ニャスパー、あたしも欲しい」
「うん、いいよね。あんな風に自由に抱っこしたりできるの」
「抱っこできるのいいよね。ホントホント。いつも一緒にいるし」
「あのさ、幸子ちゃん。私の下の妹、みきっていうんだけど」
「えっ、妹? ゆみって妹いたんだ」
「いるよ、小学三年生。それでね、みきなんだけど、ポケモンアレルギーなんだ。ポケモンのアレルギー」
「ポケモンアレルギー……それなんか聞いたことあるかも」
ゆみにはみきっていう小三の妹がいて、みきはポケモンアレルギー持ちらしい。なんか、テレビでそういう人もいるって話は聞いたような気がするけど、身近で実際にアレルギーだって人は見たことも聞いたことも無かったから、いまいち実感が湧かない。とりあえず、ゆみの妹はポケモンアレルギーだそうだ。
「人にもよるけど、大変だよ。アレルギーって。見てるこっちがつらくなっちゃいそう」
「それってさ、実際どんな感じなの?」
「みきは結構敏感で、ポケモンに直接触るとジンマシンが出ちゃうくらい。イーブイみたいな毛の多いポケモンだと、近くに寄っただけでもダメみたい」
「へぇー。けどさ、触ってるうちに慣れたりとかしないわけ?」
「しないしない、しないよ。単純にポケモンが苦手だからとか、そういうのじゃないから」
アレルギーって、なんか単に苦手だとかそんな風に思ってたけど、ゆみ曰く違うらしい。触ってるうちに慣れたりとかもしないらしい。そんなもんなんだ。
「変な話かも知れないけど、ほら、火あるでしょ。あれに触ったら、幸子ちゃんだって火傷するよね?」
「それはする。あたしもする」
「幸子ちゃんだって火に触ったら火傷するよね。アレルギーって、ちょっと違うけど似たようなものだから」
「ふぅーん……そういうことなのかなあ」
「だからね、みきはポケモン触るとダメな体質なんだよ。結構勘違いされちゃうけど、大事な話だよ」
ゆみはあれこれ説明してくれたけど、分かったような、分からないような。なんとも微妙な気分だった。とりあえず、ゆみがいろいろ気を遣ってるのは分かったけど。
「みきのアレルギーが無かったら、うちでもポケモン飼ったりしてみたいんだけどなぁ……ニャスパー、可愛いし」
「可愛いよね。あたしホントに欲しい」
「確か、ここからすごい遠くにある、カロスって地域に棲んでるって聞いたっけ」
「あ、それあたしも知ってる。関東には野生のはいないんだって」
「じゃあ、簡単には飼えそうにないね……もしかしたら、ペットショップに行けばいるかも知れないけど」
机の上で横になって寝ているニャスパーを見つめて、あたしとゆみが交互にああだこうだと口にする。
城ヶ崎さんがニャスパーをモンスターボールへしまったのを見てから、今日は体育が無いから楽だとか、駅の近くに新しいショップができただとか、あんまり記憶に残らないような話をあれこれしていたけれど。
「そうそう。幸子ちゃん、今日仲村渠さんって来てる?」
「来てる来てる。今トイレで制服に着替えてるとこ。ちょっと遅いけど、まあ多分のんびりやってるだけだと思う」
「ジャージで来てるの時々見るけど……朝練とか?」
「あー、ゆみ知らなかったっけ。ネネって新聞配達のバイトしてるの」
「えっ、えっ、それ知らなかった。仲村渠さん、バイトしてるんだ。中学生なのに」
「前に言ってたけど、特別に許可とかもらってるっぽい。で、配達に時間が掛かると、ジャージのまま学校に出てくるわけ」
「ちょっとびっくりしちゃった。全然そんなイメージなかったよ」
ネネが新聞配達をしてるっていうことは、クラスの半分位の子が知ってる。ネネが自分から話すことはまず無いし、他の子も大してネネに興味があるわけでもない。だから、新聞配達をしてることを知らなくても無理はないわけで。
「じゃあ、今は服を着替えてるんだね。できたら、ちょっと話したかったんだけど……」
「珍しいじゃん、ゆみがネネに話したいって。何の話?」
「一昨日くらいだったかなあ、男子の澤村君とかが集まってしゃべってたときに、仲村渠さんがポケモン殺してるとか、死体を持って歩いてたとか、そういう物騒な話を聞いたんだ」
正直、あたしはちょっとどきっとした。確かにネネは、そう取られてもおかしくないようなことをしてる。死んだポケモンを抱えて歩くなんてことは、ネネの中では日常の一部みたいなものだろう。週に一遍は、ああいうことをしてるわけだし。
「それにね、この間、知代ちゃんからLINQで回ってきたんだけど、オタチの死体を持って歩いてる仲村渠さんを見たって」
「そしたら別の友達も、ぐったりしたピカチュウを抱いてたの見たって言い出しちゃってさ」
「話してるうちに、結構いろんな子が死体を持って歩いてる仲村渠さんを見かけたって分かったんだよ」
「知代ちゃんは仲村渠さんがポケモンを殺してるって言ってるけど、なんか、そんな風には見えないし」
「幸子ちゃん学校でよく仲村渠さんと一緒にいるけど、何か知らない?」
答えに詰まる。どう答えるのが一番いいんだろ、なんかどう答えてもしっくり来なさそうな状況だし。
ひとつ言っておくと、確かにネネはよくポケモンのお墓を作ってはいるけど、別に生きてるポケモンを殺したりしてるわけじゃない。そこんところは間違いない。だから言われてることの半分は間違ってるわけだけど、残りのもう半分、ポケモンの死体を持って歩いてることが多いってのは合ってる。間違ってない。
ここは正直に「お墓を作ってるから」って言うべきなのかな、けどそうなると今度は、なんでお墓なんか作ってるのって話になって、ますます面倒なことになりそうだ。実際あたしも、ネネがお墓を作る理由をきっちり知ってるわけじゃないし。
ああもう面倒だ。とにかくそれっぽいことを言って、ここは適当にやり過ごしとこう。
「んー、いや、あたしは知らないけど。そんなことあったんだ」
「そっか……仲村渠さん、そういうことする子には見えないし、人違いだといいけどね」
人違いじゃなくて、ホントなんだけども――とは、この場では言い出せなかった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。