誰もいない図書室で形だけ図書委員の仕事をして、最終下校時刻を告げるチャイムを聞く。時刻は五時半。今からフツーに家へ帰れば……まあ、三十分くらい待てばお母さんが帰って来るはず。もう他に行くところも無いし、諦めてそろそろ学校を出よう。ドアの前で待ってるのマヌケだし面倒くさいけど、しょうがない。どうしようもないし。
カバンを持って立ち上がりながら、今日はプールあって疲れたなー、なんて思う。ぼんやりしててそのまま図書室の鍵を掛けたけど、ここでハタと気付いて立ち止まる。
(……水着、教室に忘れてるし)
プールの授業で使った水着を、ものの見事に教室に忘れていたことを思い出した。家の鍵といい水着といい、週末になったせいか忘れ物がやたら多い。はぁー……と大きなため息を付いて、教室へ戻ることにした。
放課後も放課後、普通の生徒が帰る時間をとっくに過ぎてるからか、廊下にも教室にも人っ子一人見当たらない。どこもかしこもがらんとしていて、不気味なくらい静かだ。学校を舞台にした怪談とかウワサが量産されるのも理解できるって感じ。自分の教室へ行く途中で職員室へ寄って図書室の鍵を返したけど、職員室にもまるで人影がなかった。いつもの場所に引っ掛けておいて、そそくさとドアを閉める。
結局図書室を出てから自分の教室に辿り着くまで、文字通り誰にも出会わなかった。先生にも生徒にも。夏だからまだ外は明るかったけど、こうも人がいないと却って不気味だ。小二だったかの頃に地元の管理局の人が学校へ来て、「一人の時は怪しいものに出会うことが多いから特に気をつけて」なんて注意喚起してたのを思い出す。今のところはまだ、管理局に通報するような気色悪いものとは遭遇してないけど。
「水着は持って帰らないとカビ生えちゃうからなー……」
誰もいないが故の嫌な静けさを打ち消したくて、大したことないただの愚痴を声に出して言う。なんだかんだで、あたしは怖がりなんだと思う。
最近は、形のない幽霊とか怪奇現象より、どうしようもない現実の方が怖いんじゃないかと思うことも、しばしばあるけど。
「あったあった」
教室にはもちろん誰もいない。ただただがらんとした空間が広がっているだけだ。後ろの扉から中へ入って前へ突き進むと、あたしの机のフックにプールバッグが引っ掛かってるのが見えた。迷わず取り外す。これでもうここに用は無くなった。長居せずにさっさと帰ろう、さっさと――。
「……あれは」
目を向けた先にあったものを目の当たりにして、さっさと帰ろう、というあたしの気持ちは直ちに雲散霧消した。あたしの視線をなぞって行くと、教室の真ん中付近にある机が見える。机には小さな手提げ袋が引っ掛かっていて、紐がピンと伸びている。中に何か入ってる証拠に他ならない。
その机は、城ヶ崎さんの机。
気が付くと、あたしは吸い寄せられるかのようにその方向へ、城ヶ崎さんの机がある方向へ歩いていた。自分が何をしようとしているのか、自分でも分からない。心のどこかで誰かが「それ以上先へ進んじゃいけない」と訴えているような気もしたけれど、それに耳を傾ける余裕はもう無くなっていて。
城ヶ崎さんの机に引っ掛けられていた手提げ袋を取る。これには見覚えがあった――いや、見覚えがあるなんてレベルじゃ済まされない。毎日見ていた、見せられていたもの。何が入っているかはよく知っている。あたしは手提げ袋の口を大きく開いて、中に入っているものが自分の考えているものと同じかどうか、この目で確かめた。
(――思ったとおりだ)
(モンスターボール。モンスターボールが入ってる……)
中には――小さなモンスターボールがただひとつ、ぽつんと転がっていた。
あたしは知っている。城ヶ崎さんは、モンスターボールをいつもこの手提げ袋へ入れて持ってきてるってことを。普段はちゃんと持って帰ってるみたいだけど、どういうわけか――どういうわけか、今日に限って教室に忘れてしまったらしい。確か今日部活あったはずだけど、掃除当番と重なってて時間がなかったから、ちょっと急いでたような気がする。たぶん、その時に手提げ袋をカバンへ入れ忘れたんだと思う。家の鍵を忘れたあたしと同じように。
もう一度周囲を見回して、この教室にいるのが間違いなくあたし独りだってことを確かめる。人影は無い、誰かがこっちへ来る気配も感じられない。今教室にいるのはあたしだけだ。疑う予知もない。ここで起きたこと、そしてこれからここで起きることは、ただあたししか知らない。あたしが口を滑らせない限り、決して明るみになることなんてない。
(城ヶ崎さんは持ってる)
(なんだって持ってる、なんでも持ってる)
庭付きの家だって持ってる、勉強のできる頭だって持ってる、運動神経だって持ってる、幼馴染の彼氏だって持ってる。
ニャスパーだって――持ってる。
(……いいじゃん、ニャスパーくらい)
(他にもたくさん、いろんなもの持ってるんだから)
おまえはひとりだ、おまえはすすむことができる、おまえはあたらしくなれる。
誰かの――いや、あたしの心の声に導かれるまま、あたしは、手提げ袋の中へ手を差し伸べて、
(大切にしてるって言うなら)
(こうやって、忘れる方が悪いんだ)
ニャスパーの入ったモンスターボールを、手にした。
ボールをつかんだ手に目一杯力を込めて、そっと手提げ袋の中から取り出す。確かに自分のしていることなのに、まるで映画か何かのワンシーンを見ているかのような、ふわふわした現実感の無さがあたしを包み込む。ともすると力が抜けてしまいそうになるのは、たぶんこの瞬間目にしている光景を信じきれずにいるから。
(モンスターボールが……)
(ニャスパーの入ったモンスターボールが、あたしの手の中にある)
ここにはあたし以外誰もいない、誰もあたしがここにいるなんて知らない。みんなもうとっくに家へ帰ったあとだ。何が起きようと何をしようと、それはあたしにしか分からないことだ。そう、あたしにしか。
取り出したモンスターボールをしげしげと見つめる。少しずつ生まれてくる現実感、徐々に高まっていく高揚感。ボール越しに見えるニャスパーはすやすや眠っていて、かわいい寝顔を見せている。ずっと遠巻きに見ているしかなかったそれに、あたしは今世界中の誰よりも近い場所にいる。すべてはあたしの手の中、手のひらの中なんだ!
あたしは自分のカバンのチャックを開けて、モンスターボールを中へ突っ込んだ。これでもうニャスパーはあたしのものだ、他の誰のものでもないあたしのもの。そう思っただけで気持ちが高ぶってきて、さっきとは違う理由で声を上げて走り回りたくなる。一日のうちにこんなに気分がサガったりアガったりしたのは初めてだ。
ニャスパーが手に入った。今はただそれだけがうれしかった。他には何もいらない、このニャスパーがあれば、あたしは幸せな気持ちになれる。抱きしめるのだって散歩するのだって、いっしょに眠るのだって全部あたしのやりたい放題だ。全部あたしが好きにできる! あたしの思うままなんだ!
やっと手に入れられたんだ、あたしが欲しかったものを。
高ぶる気分を何とか落ち着かせて、手提げ袋を元の場所へ戻す。あたしが欲しいのはニャスパーだけで、手提げ袋は別にいらない。後はこのまま、何食わぬ顔をして帰るだけでいい。どうせ帰り際に会う人なんてそうそういないし、学校を出てしまえば理由なんていくらでも付けられる。どうにでもできるんだ。
通学カバンとプールバッグを忘れずに持って、教室の扉をくぐって外へ出る。さっさと学校を出て、お母さんが帰ってくるまで待ってよう。廊下を抜けて階段を下りれば下足室はすぐ、靴を履き替えれば目の前は校門だ。
「サチコ、なにしてるの」
「えっ」
目の前に、ネネが、ネネが立っていた。
ジャージ姿のネネが、通学用のカバンを持って、教室の外に立っていた。いつものぼーっとした顔をあたしに向けて、これといって何にも動じていない感じで、ただただあたしの目をまじまじと見つめていた。
あたしは一瞬、何が起きたのか分からなくなった。どうしてネネがここにいるんだ、なんでこんな時間にネネが教室に戻ってくるんだ。理解できないことがありすぎて、あたしはその場でガチガチに固まるほかなかった。ネネはぼんやりした顔つきのまま、時々瞬きしてあたしを見つめるばかりだ。
「えっ、ね、ネネ……なんで、こんな時間に」
「うーんと、水着わすれたから、取りにきた。今日プールはいったから、お洗濯しなきゃ」
「ネネも……忘れ物したってことね。いつからここに?」
「バレー部の練習おわってから来たから、さっき来たばっかり」
状況が整理できてきた。ネネは今までバレー部で練習してて、それが終わってから忘れ物を取りにきたってことだ。ジャージのままなのは、単純に着替えるのが面倒くさかったからだと思う。とりあえず「さっき来たばっかり」だっていうネネの言葉は信じていいはずだ。ネネは嘘を付かない、嘘を付けないはずだから。
だから、教室であたしが何をしてたか、ネネは知ってるはずがない。
「サチコー。サチコはなんでここにいるの?」
「あたし……? ああ、あたしも同じ、ほら、これ忘れちゃって。図書委員してたんだけど、帰るときに気付いて、それで」
「本当に?」
「ホントホント。嘘なんかじゃないって」
「そっか、サチコもか。水着、よくわすれちゃうよね。図書委員おつかれさま」
「ああ、うん、まあ、大したことないし」
とは言えこのままネネと一緒にいたら、どっかでボロを出してしまいそうだ。適当に何か理由を付けて、一秒でも早くここから離れなきゃ。面倒くさいのは御免だ。
「あ……あのさ、ネネ。さっきお母さんから電話あって、買い物してきてって頼まれたの。牛乳とか卵とか、そういうの。だから、今日は、ちょっと先に帰らなきゃいけないんだわ。ごめんねネネ」
「サチコ、いっしょにかえれないんだ。ちょっとざんねん」
「えーっと、また今度帰れるし、あれだったら日曜遊びに来てもいいから」
「わかった。お買い物気をつけてね。じゃあねー」
ネネを言いくるめると、あたしは足早にその場を後にする。学校からさっさとしまわないと、いつまで経っても気持ちが落ち着かない。ネネには悪いけど、今は独りになりたい気分なんだ。
校門を出るまで誰にも出会わなくて、そのまま百メートルくらい歩いていくと、やっと落ち着きを取り戻せてきた。周りには誰もいない。もちろんネネの姿だってない。あの時間、学校にいたことを知ってるのはネネだけだ。ネネだけならもし何かあってもどうにでもなる。だから心配はいらない。
(……忘れてない、よね?)
カバンの中へ手を突っ込んで、感触があるかを確かめる。
丸みを帯びた固い感触。手のひらへギリギリ収まるくらいのサイズ。中央部にある細い隙間――紛れもない、紛れもないモンスターボールの感触。
あたしのカバンの中には、確かにモンスターボールが入っていた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。