時刻は大体六時半。予想通り、お母さんはまだ帰って来てない。
「……あー、学校でトイレ行ってきたらよかったかも……結構ヤバい感じ」
そわそわもぞもぞしながら、とりあえずお母さんが早めに帰ってくることだけを祈る。こういうときは、何か気を紛らわせるものがあればいいんだけど。そう思いながらカバンへ手を突っ込むと、隅っこへ収められたモンスターボールの固い感触が手に伝わってきた。
ニャスパーの入ったモンスターボール。それがあたしの手の中にある。そう考えると、お母さんがなかなか帰ってこなくて家に入れないことも、差し迫った尿意でそわそわしていることも、綺麗に忘れられた。細かいことなんて全部どうでもよくなるくらいの嬉しさがあった。欲しかったものが自分のものになった満足感で、身も心も満たされる思いだった。
モンスターボールに触れる。その度に嬉しい気持ちが満ちていく。ずっと欲しかったもの、自分だって手に入れていいって思ってたもの。自分の手の中にそれが間違いなくある。こんなに幸せなことなんてない。
あたしは今、素晴らしい幸せの中にいるんだ。疑う余地なんて、どこにもない。
(まあ……それとは別に、トイレには行きたいんだけどね)
そうして気を紛らわせながらドアの前で待っていると、エレベーターホールから見覚えのある人影が姿を表す。お母さんだ。例によって膨らんだビニール袋を二つぶら下げている。買い物をしてきたんだろう。さすがに今日は買い忘れたものがないことを祈るばかりだ。滅多に無いけど、この間みたいにたまにあるのが困るっていうか。
一分もしないうちにお母さんが家の前まで来て、そこであたしと目が合った。
「あら、サッちゃんじゃない。今帰ってきたの?」
「えーっと、うん。そんな感じ。鍵開けてもらってもいい?」
「分かったわ。すぐ開けるから」
お母さんに鍵を開けてもらって、ようやく家に入れた。靴を脱いでいつもの場所へ並べてから、ひとまずカバンをベッドの上へ置く。
とりあえず、先にトイレ行こう。トイレ。
ほんとに文字通りの意味で用を済ませてスッキリしてから、ちゃんと手を洗って自分の部屋へ戻る。ベッドへ投げ出したカバンのジッパーを開いて、もう一回中にアレがちゃんと入っていることを確認する。
カバンの中には、白と赤のツートンカラーのボールが、無造作に転がっていた。
(今出すといろいろめんどくさいし……夜までこうしとこうかな)
お父さんやお母さんが寝静まった頃まで待ってから、ニャスパーとご対面と行こう。別に今ここで急いで外に出す必要なんか無いし、焦ってもいいことなんて無い。ニャスパーは自分の手の中にあるんだから、のんびりいけばいいんだ。
制服からラクな部屋着に着替えてからリビングへ向かうと、お母さんも制服を脱いで着替えを済ませたばかりだった。サッちゃん、悪いけどお風呂沸かしてきてくれる? と言われて、ほーい、とお風呂場へ向かう。いつも通り栓がされてるのを見てからフタをして、「運転」「自動」とぽちぽち2回ボタンを押す。後はほっとけばお湯でいっぱいになるはず。
もっかいリビングへ戻ると、お母さんが台所で買ってきたものの整理をしていた。たぶんこのままご飯の支度をするはず。
「おかーさーん、今日は晩ご飯どうするのー?」
「今日はね、カレーを作るわ。サッちゃんも手伝ってくれる?」
「はーい」
今日はいいこともあって気分がいいし、お母さんを手伝うことにしよう。あたしが手伝った方が早くご飯作れて食べれるようになるだろうし。
お母さんがカレーを煮込んでいる横に立って、レタスを千切ってザルへ放り込んでいく。適当にたまったところでさっと水で洗って、よく水切りをしてから小鉢へ盛り付けていく。カレーにはサラダが欠かせない。レタスの後はキュウリを切って、あとはプチトマトを置けば完成だ。いつも作ってる組み合わせだから、これくらいならあたしでもなんとかなる。
「今日サッちゃん外で待ってたみたいだけど、もしかしたら、家の鍵忘れちゃったの?」
「んー、まあね。朝入れようと思ったら、ころっと忘れちゃってて」
「まあ、そうだったのね。じゃあ、外でずいぶん待ったんじゃない?」
「そうでもないかな。図書委員やって時間潰してきたから」
「あら。ついこの間当番だったって言ってたのに」
「そうそう、聞いてよー。今日ホントは別の子が当番だったんだけどさー、その子がサボっててさー、あたしが代わりにやってたわけ」
「サッちゃん偉いわねえ。代わりに仕事をしてあげたなんて、立派だわ」
「大したことないって。ちょっと本片付けて、あとはボーッとしてただけ。放課後はほとんど人来ないんだよねー。今日なんて一人も来なかったし」
「誰も見てなくたって、お天道様は全部知ってるわ。サッちゃんが真面目に委員会のお仕事してるって」
「そんなもんかなあ」
洗ったプチトマトを置きながら、あたしは何の気なしに答える。あんまりマジメに委員会の仕事してるって自覚無いし、今日とか置いてあった本を適当に元の場所っぽい位置まで戻しただけなんだけど。マジで誰も来なかったし。
食器を出したりご飯を盛り付けたりして、夕飯は滞り無く完成した。お父さんは仕事で遅くなるみたいだったから、あたしとお母さんで先に食べることにする。これもまたよくあることだ。
「懐かしいわねぇ」
「えっ、何が?」
「昔を思い出しちゃって。トレーナーやってた頃は、こうやってよくカレーを作ったものだったわ」
「ふーん。やっぱりアレ? 外で食べる感じ? えーっとアレ、思い出した、ハンゴウスイサン的な」
「それもあったわ。もっと多かったのが、トレーナー向けの民宿やユースホステルに泊まったときだったかしら」
「何それ。寝る場所はあるけど、ご飯は自分で作るとかそういうやつ?」
「そうそう、サッちゃんの言う通りよ。よく知ってるじゃない。カレーだと簡単に作れるし、みんなで食べられるから」
「トレーナー同士でってこと?」
「ええ。旅行先でたまたま会った子と同じものを食べて、旅の途中で見聞きしたものを語り合ったりするの。生まれも育ちもみんな違うから、いろんな話が聞けてとっても楽しかったわ」
お母さんはこう言ってるけど、知らない子とご飯一緒に食べるのって、なんか息が詰まってつらそうだ。あたしはそんな風に思っちゃう。
「そんな感じだったんだ。なんかポケモントレーナーって野宿してるイメージ強かったんだけど」
「野宿をすることもあったけど、お母さんの時代でもそんなに多くなかったわ。たいていは、トレーナーが泊まるための場所があったから。今だともっと少ないんじゃないかしら」
「へえー。知らなかった」
「また気が向いたら、サッちゃんもちょっと遠くまで旅行とかをしてみるといいと思うわ。ちょうどこれから夏休みだし、いい機会じゃないかしら」
「まあ、そういうのもありかなあ」
曖昧な受け答えをしながら、あたしはカレーを絡めたご飯をスプーンに半分くらい載せて、口へと運んでいく。
「そうそうサッちゃん。今日テレビで『水底の記憶』やるのよ」
「あー……それってもしかしてアレ? お母さんがあたしに貸してくれた小説のやつ?」
「ええ。田舎に遊びに行った男の子が、不思議な女の子と恋に落ちる話」
「あれかー、ラストが結構きつかったんだよねー、覚えてる」
「映画になるって聞いて、すごく観に行きたかったけど、忙しくて行けなかったのよ。この後お風呂に入って観ようと思うの。サッちゃんも一緒に観ない?」
お母さんはこう言ってるけど、部屋じゃニャスパーが待ってるし、そっちを優先したい気分だった。
「んー、ごめん。今日ちょっとやらなきゃいけないことあるから、また今度で」
「そう……じゃあ、気が向いたらリビングに来てちょうだい」
「はーい」
一息ついてからお風呂に入って、それから部屋へ戻ってくる。今日は特に宿題も無いし、明日は土曜日で休み。お父さんも遅くなってまだ帰って来そうにないから、テスト結果のことでお小言を言われる心配もない。このまま放っとけばそのうちうやむやになるだろう。実にいい気分だ。全部いい方向に風が吹いてる。こんなにいい気分になったのは久しぶりかも知れない。何より一番気分がいいのは、欲しいと思っていたものが手に入ったこと。
言うまでもなく、ニャスパーのことだ。
「さて、どうしよっかなー。これから」
「んー。とりあえず、土日の間は貸しといてもらおうかしら。で、とりあえず好きなようにさせてもらうと」
「後のことは……ま、後で考えればいいわ。今は今が重要だし」
「返すのも返さないのも、全部自分の手の中にあるんだから」
そうだ。決める権利は全部あたしにある。あたしがニャスパーを持ってるって知ってるのはあたししかいない。他には誰も知らない。ネネだって、ケイだって、ゆみだって、橙花だって知らない。もちろん城ヶ崎さんだって同じだ。あたしが持ってるだなんて分かりっこない。分かりっこないんだ!
城ヶ崎さんもマヌケな子だ。そんなに大事にしてるなら、ちゃんと持って帰るか家に置いとけばいいのに。他の子が持ってないからって見せびらかすから、こんなヘマをやらかすんだ。自業自得っていうのは、こういうのを言うに違いない。
ざまあみろ、だ。
「細かいことはどうでもいいわ。お待ちかねの、ご対面と行きましょっか」
モンスターボールの使い方は知っている。学校でトレーナーの免許を取る講習を受けて、その時に詳しく教えてもらった。テレビでやってるみたいに投げつけて地面に落とす必要なんか無くて、ロックを解除して床とかの安定した場所へ置けばポケモンは勝手に出てくる。実際に練習したから、やり方はちゃんと覚えてる。
手順に沿ってロック解除、そのまま床へセット。するとすぐにボールが揺れて、中から光が溢れ出した。光が収まったかと思うと、小さなシルエットが徐々に浮かび上がってきて、やがて形を成して色を帯びる。
「やっと……やっとあたしの手に……」
全部終わってそこにあったのは、夢にまで見た、あのニャスパーの姿に他ならなかった。
いつもと違う場所へ連れてこられたせいか、ニャスパーは紫色の瞳を大きく見開いて、キョトンとした表情であちこちを見回している。ま、無理もない。知らない場所なのは間違いないんだから。そのうち慣れるでしょ。
「ようこそ、ニャスパーちゃん」
「今日からは――あたしがご主人様ってやつだから、ね」
あたしが腕を伸ばしてニャスパーを抱き寄せると、ニャスパーはおとなしく抱かれるままになった。いい子だわ。早速言うことを聞いてくれるなんて。
ああ、本当にあたしのものになったんだ。欲しい欲しいと遠くから指をくわえてるしかなかったあのニャスパーが、やっとあたしのものになったんだ。今ほどそれを実感するときはない。この感触、この匂い、このぬくもり。全部あたしのものなんだ。
ニャスパーを抱いて、抱っこして、とりあえず気が済むまで抱きしめたところで。
「さあ、ちょっと早いけど、寝ることにしましょ」
「明日からたくさん、楽しい時間を過ごすためにね」
いっしょにベッドへ入って、いい気分のまま今日を終えることにした。
明日はきっと、今日より素晴らしい一日になるだろう。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。