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#21 はなびらのまい

とてもいい目覚めだった。目覚まし時計に起こされるでもなく、お母さんに起こされるでもなく。寝たいだけ寝て、それでいて寝すぎること無く目覚めた。上体を起こして、窓から差し込む朝の日差しを浴びる。

「はー。久しぶりにぐっすり眠れたって感じ」

昨日はいつもより早く布団に入ったから、そのおかげかも知れない。まあそれ以上に、とってもいい気分で眠れたってのが大きいだろう。多分それが一番の理由だ。昨日は今年のうちで……いや、ここ数年で一番いい気持ちだった。なんたって、欲しかったものを手に入れられたのだから。

首を回して凝りを解してから、枕の隣に目を向ける。

「ああ、おはよ。ニャスパー」

ニャスパーが枕元に立って、あたしの方をじっと見つめていた。その瞳はもちろん、透き通った紫色だ。どんな宝石よりも綺麗で、何にも代えがたい宝物。見ているだけで、うっとりするような幸せな気持ちになれる。

「そうよね、そうよね。あなたは昨日から、あたしのところへ来たんだったわね」

「今日も一日一緒よ、ニャスパー」

あたしは「今日も」と言った。それは「今日」だけじゃない。明日も、明後日も、明々後日も、ずっとだ。今日という日は、いつまでも続いていく日々のうちのただ一日に過ぎない。これから先もあたしは、今日のような日を繰り返していくんだ。

そう思うと、あたしは胸の高鳴りを抑えられなかった。

「さーて。今日は家に誰もいないのよね、確か」

お父さんは今日会社の人とゴルフに行くって言ってて、その言葉通り家の中に姿は見当たらない。もう出かけて行ったんだろう。ゴルフの時は大体朝早いし。で、お母さんは休日出勤だ。水曜休みだった代わりに、土曜日に仕事へ行くって寸法だ。休みの日も仕事なんて大変だ。あたしはちゃんと土日は休める仕事がいいなって思う。

というわけで、家にいるのはあたしだけだ。だから、あたしの思うように好きなことができる。昨日に引き続いて気分がいい。自由なのは何より素敵なことだってつくづく思う。

ぐっすり寝て結構お腹も空いたし、朝ご飯を食べよう。お母さんが何か作ってるはずだ。

「じゃ、ちょっと中に入っててね」

ニャスパーをモンスターボールへしまうと、リビングに向かった。

あったあった。予想通り、テーブルの上にラップを掛けられた目玉焼きトーストと、千円札にセロテープで貼り付けられた書き置きが一枚置かれていた。読んでみると、冷蔵庫にサラダもあるらしい。きっと昨日カレーの付け合わせで作って残った分だ。一緒に食べよう。冷蔵庫から同じくラップを掛けられたサラダと、それから紙パック入りの豆乳を取り出す。朝ご飯はこれで揃った。

サラダとトーストをさくっと食べて、豆乳を飲んでお腹の奥へ流し込む。ま、こんなところだろう。書き置きと一緒にお小遣いももらったし、お昼はどっか適当なところで食べればいい。

「にしても、今日はいい天気ね」

窓の外を見ると、時期的に夏の入り口ってこともあってか、すごくいい天気だった。風もそこそこあって、日差しのわりに涼しそうな感じがする。普段はあんまり外に出たいなんて思わないけど、今日はちょっと違う。外に出て日差しや風を浴びたいなって思った。

それ以上に、ニャスパーを外に連れ出して一緒に歩きたかった。「ニャスパーと一緒に歩いてるあたし」を、外に見せたくてたまらなかった。

(せっかくいい天気なんだから、外に出て一緒に遊ぶのがいいわ)

(隣に連れて散歩でもしよっかな。うん、それがいい)

今はニャスパーを外に連れ出したい気分でいっぱいだけど、さすがに知ってる人に見られるといろいろ面倒くさい。あんまり知ってる人のいない……そうだ、希望ヶ丘くらいまで行けばいいだろう。あの辺りは校区違うから、あたしのこと知ってる人はまずいないはずだ。そこへ行くまでは、モンスターボールに入れたままにしとけばいい。

気分がいい内に動くに限る。あたしは食器を片付けると、部屋へ戻って適当な服に着替えて、ニャスパーの入ったモンスターボールをポケットに入れて外へと繰り出した。

 

適当に三十分くらいぶらぶら歩いて、少し汗ばんできたかなってところで、とりあえず来ようと思っていた希望ヶ丘の辺りまで辿り着いた。人通りはそんなに多くない。代わりに、車が結構走ってる。この辺は車がないと買い物もろくにできないような場所だから、当然といえば当然かも知れない。

ここまで来たら人の目を気にする必要は無い。ポケットからモンスターボールを取り出して、前と同じようにロックを解除する。地面へ置いてしばらく待つと、ニャスパーが姿を表した。これも前と同じだ。何も変わらない。

「さ、ニャスパー。あたしと一緒に――」

あたしがニャスパーを横に連れて、ゆっくり歩き出そうとした、時だった。

「!」

「――えっ」

ニャスパーが、いきなり走り出した。

唐突で突然過ぎて、何が起きたのか分かんなかった。頭が目の前で繰り広げられた光景を理解するのを拒絶した、そんな感じだった。頭がトラブったときのパソコンみたいに完全にフリーズして、大きいことも小さいことも何も考えられなくなった。頭の中も目の前も真っ白になった気分だった。

何秒かしてからやっと我に返って、今この瞬間起きていることが、とんでもなくまずいってことに気が付いて。

「あっ……ちょっと、ニャスパー! 待って! 待ってったら!」

迂闊だった。ニャスパーはきっとこの辺りまで来たことがなくて、全然知らない場所へ連れてこられたって思ったんだ。家の中ではおとなしくしてたから、すっかり油断してた。いきなり走り出したのは、きっと自分の知ってる場所に戻ろうとしてるんだろう。けどもちろん行き先なんて分かんないから、ただ闇雲に走るしかない。どこへ行くかなんて、あたしにも分からない。

ニャスパーがどっか行っちゃう……すぐ捕まえないとヤバい、マジでヤバい、本気でヤバい。

(このまま逃しちゃったりしたら、取り返し付かないじゃん……!)

(なんで急に走り出したりなんかするのよ、側でおとなしくしてるだけでいいのに、なんで、なんで……!)

とにかく追いかけてとっ捕まえないと、もっと悪い状況になる。少しの間借りとくだけだったのに、返せなくなったりしたらどうしようもない。あーもうなんでこんなに落ち着きが無いのよ、ちゃんと落ち着いて主人の側にいるように躾けといてくれたらよかったのに! 城ヶ崎さんのせいだ!

後ろ姿を追って歩道を走る。ニャスパーは思ってたよりずっとすばしっこくて、ちょっとやそっとじゃ捕まえられそうになかった。距離はどんどん離れていって、気を抜くとすぐに姿を見失いそうだ。そうは言っても逃げられたらまずいのはあたしが一番よく知ってるから、とにかく追いかけるしかなかった。普段運動してないせいで、少し走っただけで息が切れそうになる。ちくしょう、なんでこんな目に!

あたしが心の中で毒づいた直後、背筋の凍るような光景が目に飛び込んできた。

「ち……ちょっと! ダメっ、ダメだって! そっち行っちゃダメってば!」

パニックになって周りが見えなくなったニャスパーが、歩道を出て車道に飛び出そうとしていた。あたしが「そっちへ行っちゃダメ」と叫んでも、ニャスパーはまったく言うことを聞こうとしない。そもそも何を言われてるのかさえよく分かってない感じだった。早く、早く捕まえないとやばい、やばいのは分かってるけど、どうすればいいっていうんだ。どうすればいいのかさっぱり分かんない。

とにかくなんとかしなきゃ、そう思っていた矢先のことだった。

(あっ、車――)

ひゅんっ、と風を切る音がして、あたしの横を車が通りすぎていく。車種が分かんないくらいだったから、相当な速度だ。希望ヶ丘は真っ直ぐな道が多いから、自然とスピードを出す車が多くなる――この辺りに住んでて、今は別のところへ引っ越した友達がそんなことを言ってたのを、どういうわけか思い出す。

その友達は、こんなことも言っていた。

「だからここ、希望ヶ丘って名前のわりに、よく事故が起こるんだよ」

あたしが、その言葉を思い出すのと、

 

(ドンッ)

 

目の前で、それが現実になったのは。

まったく――同じタイミングだった。

(……あっ……)

ニャスパーが、宙を舞っていた。

赤い、赤い、赤い血を噴き出して、まき散らしながら、ニャスパーが大きく吹き飛ばされる。時間の流れがひどくゆっくりに感じられて、一秒一秒がとてつもなく濃厚で重たいものに思えた。花びらのような赤い血を辺りに舞わせて、ニャスパーがゆっくりと、とてもゆっくりと、アスファルトの地面へ落ちていく。車はそのまま駆け抜けて行って、あっという間にその姿を消してしまう。

べちゃっ――という鈍く腥い音が、あたしの時間の流れを元に戻した。

「……」

地面に転がるニャスパーは、生きているような動きをしていない。ただ時々、びくびくと躰を震わせるばかりだった。動いてるから死んでない、生きてる。そんな風に考えるほど、あたしは単純じゃない。今のニャスパーがどういう状態かは、あたしにだってよく分かる。嫌ってくらい、よく分かる。

死んだ。ニャスパーは死んだんだ。

その場に立ち尽くすしかなくて、ショックのあまり真っ白になっていた頭に、まったく不意に、小学生の頃に学校で受けた、ポケモントレーナーの免許をもらうための講習の光景が蘇ってきた。

講師の人は、終わり際にこんなことを言っていた。

『ポケモンはケガをしたり毒を受けたりしても、ポケモンセンターで適切な治療を受ければ回復できます』

『けれどもポケモンセンターでも、死んでしまったポケモンを生き返らせることはできません』

『死なせてしまっては、取り返しが付かないんです。ですから皆さん、ポケモンを大切にしてあげてくださいね』

死なせてしまっては、取り返しが付かない。

そう。確かに、そう言っていた。

(ニャスパーが……死んじゃった……)

ニャスパーが死んだ。ニャスパーが死んだ。ニャスパーが死んだ。

この事実を受け入れられなくて、けど間違いなく事実で現実で、あたしは何をどうすればいいのかさっぱり分からなくなった。何も分からないまま、ニャスパーを道路に放置したままとぼとぼと歩き出して、当て所もなくただ辺りを彷徨いはじめる。

あのニャスパーは……城ヶ崎さんのニャスパーだ。それをあたしが、勝手に盗んで持ってきただけ。本当は城ヶ崎さんのものなのに、取り返しが付かないことをしてしまった。どう言い繕っても、言い訳のしようなんかない。盗んだ挙句死なせたなんて、誰が聞いてもとても納得できる話なんかじゃない。

それに……あのままニャスパーの死体を道路へ放っておいたら、もっと騒ぎになる。コラッタとかポッポとか、この辺でしょっちゅう見かけるポケモンの死体ならまだしも、ニャスパーなんて滅多に見るポケモンじゃないから、なんだなんだってなるのは目に見えてる。せめてどこか人目に付かない場所へ移動させなきゃ。

どうしよう、どうしよう。あのままニャスパーを放っておいたらダメだ、その気持ちはある。だけど、死んだポケモンをどうにかするって言っても、どうしようもない。もう取り返しが付かない。ポケモンセンターに連れてっても生き返らせられないし、他に行けるところなんてありっこない。

誰か、あれをなかったことにしてほしい。誰でもいいから、何とかして欲しい。

 

「サチコ、どうしたの」

 

背中から声を掛けられて、あたしは背筋に冷たいものが走るのを覚えた。反射的に振り向いて、目をカッと見開く。

「ねっ……ネネ」

ネネがいた。後ろにいたのはネネだった。

「ネネ……な、なんでこんなところに」

「うーんと、これからテニスしにいくから。あとから凛さんも来る」

見るとネネは上下ジャージ姿で、ついでにちょっと大きな古びたラケットケースを提げている。確か向こうにテニスコートのある市民体育館があった。ネネと凛さんはそこへ行くつもりなんだろう。

「ねーサチコー」

「な……何?」

「サチコ、なんか顔色わるい。元気ない? 風邪ひいた?」

「い、いや別に、そんなことは……そ、そうだネネ、新聞配達は?」

「おわった」

「あれは? バレー部、バレー部の練習ないの?」

「うーんと、ネネは今日来なくていいって、部長さんにいわれた」

何とかごまかそうとして、とりあえずねねに関係のありそうなことを口に出して言ってみる。ネネはいつもの間延びした口調で応えて、特にあたしを不審に思ってる素振りは見せてない。多分ネネのことだ、怪しいなんてこれっぽっちも思ってないに違いない。

あたしの頭が回りだしたのは、この時になってようやくだった。

(ネネはポケモンのお墓をよく作ってる、あたしだってよく知ってる)

(ニャスパーは死んだ、もうどうしようもない、死んだんだ)

(だったら……あの死んだニャスパーを、ネネになんとかしてもらおう)

ネネにニャスパーをなんとかしてもらう……平たく言えば、ネネに埋めてもらうってことだ。ポケモンが事故に巻き込まれて死んでた、そう言えば、ネネはすぐニャスパーを処分してくれるだろう。

「そ……そうだネネ、聞いてほしいことがあるんだけど」

「なに?」

「あのさ……さ、さっき、道端で……車に轢かれて死んでるポケモン、見たんだ」

「どこで?」

予想通り、ネネはすぐに食いついてきた。前にも同じように死んだポケモンがいるって伝えたことがあるから、今回も同じことだと思ってくれたみたいだ。

「向こうのさ、えっと……ほら、郵便局からちょっと行ったところにある辺り。だからちょっと、気分悪くなってさ」

「本当に?」

「ほ、本当だってば。嘘なんかじゃないって……」

「わかった。ネネ、お墓つくる。サチコは見ててくれる?」

「ご……ごめん。あたしこの後ちょっと用事あるから、今日はちょっと無理。ホントにごめん」

「そっか。サチコ、気をつけてね」

「ごめんね、ネネ。頼んだよ」

さっきまでいた事故現場までどたどた走っていくネネの背中を、あたしは伏し目がちに見送る。ネネがニャスパーを埋めてくれれば……それで何もかも、土に還るはず。

こうするしかなかった、こうするしかなかったんだ。他にできることなんて、一つもありっこない。

あとは――ただ、黙っておくだけ。黙っておけば、バレることはない。あの時のことを、教室でニャスパーを盗んだことを知ってるのは、あたし一人だけだから。

あたし一人、だけだから。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。