一時間目が終わって休み時間を迎えると、あたしはトイレへ行くふりをしながらなるべく目立たないように席を立って、さっと静かに教室を出た。他のクラスメートは朝の事件の話題で持ち切りで、方々からネネや城ヶ崎さんの名前が聞こえてくる。あたしはそんな中で居たくなかったっていうこともあった。廊下を抜けて、生徒指導室を目指す。
生徒指導室は一階にある。普段はもぬけの殻で、騒がしくて先生の言うことをまともに聞かないような男子や、髪染めて爪キラキラさせてるような女子がときどき連れてこられて、中島先生と何か話をしているような場所。つまり、普通の生徒にはほとんど関係がない場所だ。
今その場所にいるのは、ネネだった。
他の子に比べてニブいしトロいし、疲れて居眠りすることもちょくちょくある。気になる人は気になると思う。だけど、授業は寝てなきゃちゃんと真面目に受けてるし、先生の言うことは全部素直に聞く、今までクラスでも大きな問題を起こしたことなんてなかった。授業中に突然立ち歩いて喚き出したりする子なんかに比べれば、ずっとずっと模範的だ。そんなネネが生徒指導室へ呼ばれて、中島先生と一対一で真剣に話をしている。言うまでもなく、朝の一件のせいで。
(さすがに、何話してるのかまでは分かんないか……)
扉に付いてる小窓から、気配を悟られないようチラチラと中の様子を伺う。ネネと中島先生の話はまだ続いている。中島先生は真剣な顔つきをしているけれど、怒っている様子は見受けられない。たぶん、ネネが変に反抗したりせずに、素直に話をしているからだと思う。しきりに頷きながら、中島先生がメモを取っていた。
あたしにネネに合わせる顔がないのは百も承知だ。かと言って、あのまま放っておくこともできない。だからとにかくネネに会おう、そう思って一階まで下りてきたわけだけど、この様子だとネネはしばらく生徒指導室から出てこられなさそうだ。いくらネネの友達とは言え、生徒指導室へ突入できるような関係ってわけじゃない。
教室へ戻ろうか、そう思って後ろへ振り向くと、玄関から見慣れた人影が歩いてくるのが見えて。
「――凛さん」
多分、河野先生か中島先生に呼び出されたんだと思う。ネネがクラスメートのポケモンを殺して埋めた可能性がある、事情を伺いたいから、至急学校まで来てもらいたい――そんな風に言われて、管理局から学校まで急いで来た。大方、そんなところだろう。
あたしがその場に立ったままでいると、凛さんもこっちに気がついて、すぐ近くまで歩いてきてから立ち止まった。
「幸子ちゃん。もしかして、生徒指導室まで来てくれて……」
「あっ……はい。ちょっと、ネネの様子が気になって」
「やっぱり……すいません。ねねちゃんのこと、心配させちゃって……」
凛さんが深々と頭を下げるのを目にして、あたしはなんだか物凄く申し訳ない気持ちになって、同じくらい深く頭を下げた。
こうやって、凛さんにも迷惑を掛けてしまったわけだ、あたしは。
あたしっていう、どうしようもないクズは。
「中島先生から、何があったかは聞いたわ」
「ねねちゃんが……クラスメートが大切にしてたニャスパーを殺して、埋めたんだ、って……」
「なんて言えばいいのか、今はまだ、整理が……付かなくて」
中島先生からネネが城ヶ崎さんのニャスパーを殺したなんて話を聞かされて、凛さんは少なからずショックを受けているみたいだった。そりゃそうだ。ネネはそんなことをする子じゃないって、近くにいる凛さんが一番よく知ってるだろうから。
あたしなんかより、よっぽどネネのことを分かってるはずだ。
「私が、もっときちんとねねちゃんを見てあげていたら、こんなことにはならなかったかもって、そう思って」
あたしは何も言えないまま、何も言い出せないまま、ただ自分を責める凛さんの話を、一言一句漏らさず聞き届けることしかできなかった。辛くても、ここからは逃げちゃいけないと思った。あたしのしたことの積み重ねて、凛さんがひどく苦しんでしまってるのだから。
そうだ。全部あたしがやったことだ。ニャスパーを盗んだことも、ニャスパーを死なせたことも、ネネが誤解されるようなことを言ったことも、すべて。
「相手の子に、酷いことをしてしまって……私はなんて言って、その子に謝ったらいいのか」
「私もかつてトレーナーをしていました。ですから、ポケモンを大切にする人の気持ちは分かっています。分かってるだけじゃない。本当に、共感するっていうか」
「だから……大事にしていたニャスパーを惨たらしく殺されたと知ったら、どんな思いをするか、想像しただけで辛くって」
「今はもうただ、頭を下げさせてもらう。それしかないって」
凛さんが大きなため息を吐き出してから、少し佇まいを直して、もう一度あたしの目を見つめる。
「家へ帰って、ねねちゃんとよく話をするわ。実験は少しお休みをもらって、ねねちゃんとしっかり向き合わなきゃ」
「ねねちゃんが何を思って、こんなことをしてしまったのか……」
「同級生の子が大切にしているポケモンを殺して埋める、そんなことをしてしまう前に、何か私がしてあげられることはなかったのか……私も、きちんと考えなきゃいけないから」
たぶんネネは凛さんにも、きっとありのままのことを伝えるだろう。それが凛さんにどう響くか、それから凛さんがどう思うかは、あたしには分からない。けど、本当はこんなことにならなきゃ一番よかったのは、誰にとっても同じだ。あたしがしたことのせいで、みんなに迷惑が掛かった。
あたしだって、ここまで大事にするつもりなんてなかった。いろんなものの取り返しがつかなくなっていって、手のひらからどんどん零れていく。止めようとしたって、止められるもんじゃない。
もう、どうしようもないんだ。
授業を受けたのか受けてないのかよく分からないまま時間だけが過ぎていって、お昼前にはおしまいになった。あとは海の日を一日挟んで、明後日は終業式になる。待ちに待った夏休みが目前に迫っているはずなのに、気分は少しも盛り上がらなくて、ただ気が滅入るばかりで。
立ち上がって帰ろうとしたら、ゆみが机に顔を伏せて、声を殺して泣いているのが見えた。
「ゆみさー、もう自分を責めるのやめなよ。そんなことしてもどうしようもないって」
「ニャスパー助けられなかったのは悲しいけど、ゆみのせいじゃないよ」
「だって……! 自分があの時捕まえられてたら、助けられてたのにっ……!」
「ちゃんみおー……これダメだよ。ゆみ、自分のせいだって思い込んでる。ゆみ何も悪くないのに」
「けどさけどさー、ゆみ塾行く途中に走ってるニャスパーを見逃してさー、そしたら夜になって知代から『仲村渠さんがニャスパー殺して埋めた』ってメッセ入って、写真まで送られたんだよね、そりゃそう思っちゃってもしょうがないよ」
辻井さんと笹木さんの話を聞いて、あたしは大体の事情を察した。ゆみはニャスパーが走って逃げてるところ目撃してて、捕まえようと思えば捕まえられたけど、しなかった。そうしたら後になってニャスパーが死んだって聞かされて、自分が捕まえてればって言ってるわけだ。
(だから……だからゆみ、今朝あんな感じだったんだ)
言うまでもなく、これもまたあたしのせいだ。あたしのせいで、何も悪くないゆみに、大きなトラウマを作ってしまった。
あたしって、なんでこんなにクズなんだろう。自分で自分が嫌になって、もう嫌で嫌で仕方がない。
中身なんてほとんど無いはずなのに、カバンがやけに重たく感じられて、気を抜くと地面へずるずると引きずってしまいそうだった。気を取り直してどうにか持ち上げてから、教室を出て行こうとした。
後ろからポンと肩を軽く叩かれたのは、扉の二歩前くらいのところで。
「よう、サチコ」
「あ……ケイ」
「もう帰るんだろ。途中まで一緒に来てくれよ」
「ん、いいよ。あたしでよかったら」
あたしはケイと二人肩を並べて、一緒に学校を出た。
校門を出てから十歩くらいのところだった。ケイがいつになく沈んだ声で、ぼそりと呟きを漏らした。
「あのさ、ねね子のことなんだけどさ」
「ねね子はトロいだけど、けど、誰かを傷付けたり殺したりなんか絶対しない、根はマジメで優しいやつだって」
「カラカラとかもちゃんと可愛がって優しくしてたからさ、だから、純朴なやつだって」
「ウチ……割と本気で、そう思ってたんだけどな」
そう思っていた。過去と現在に違いがあるから、過去形の言葉が出てきたに違いない。過去形の言葉は、今はもう、そうは思えなくなっていることの裏返し。
「本当に、城ヶ崎のニャスパーを殺して、埋めただなんてさ。まだ信じられなくって」
「ニャスパーってさ、いっつも城ヶ崎が連れて来てた、あのニャスパーだろ。あいつを、ネネが殺したっていうんだよな」
「そんなことするやつじゃないって、ウチはそう思ってたのに」
ケイの口ぶりとか話し方とか、そういうのが全部痛々しくて、あたしは隣で聞いていて息が詰まりそうだった。実際に息を詰まらせてたかも知れない。胸が締め付けられるような感じっていうのを身をもって味わう。それでも、ケイが感じている辛さには、遠く及ばない。
あたしはまた、何も言えなかった。朝の事件でケイが傷付いてるのは当たり前のことだ。ケイはネネのことを信頼してた。こうやって「ねね子」って呼んで、本人の前では年下とか妹みたいに扱ってたけど、ネネのことを友達だって思ってたのは間違いなかったし、なんだかんだでネネの気持ちを尊重してた。ケイはあたしなんかより、ずっとネネのことをちゃんと考えていたから。
クズみたいなあたしと違って、ちゃんとネネのことを思ってた――から。
「ウチさ、思ったんだけどさ」
もう少し進んだところで、ケイが再び口を開いて。
「サチコは知ってるだろうけどさ、ウチってポケモン嫌いで、トレーナーも嫌いでさ、それは、今も変わんないんだけど」
「こうやってさ、ホントに身近なポケモンが死んだり、トレーナーが倒れたりしたの見たら、なんかもう、どう考えればいいのか分かんなくなった」
「今も嫌い、嫌いなんだけどさ、けど、だからって殺したり死なせたりしたら、そりゃ貴史を死なせたヤツと同じだって」
「嫌いなら嫌いなりに、ウチはお前が嫌いだから近づかねーし、お前からウチにも近づいてくんなよって言って距離置いて、関わんないようにすりゃいいだけでさ」
「殺したりすんのは何か違う、そうじゃないって……ウチも何言いたいのかまとまってねーけど、けど、そう思った」
「城ヶ崎はニャスパーのこと大事にしてて、ニャスパーも懐いてたじゃん。いっつも可愛いって言ってさ、家族みたいっていうか、家族そのものだったじゃん」
「それって……ウチが隆史と遊んでたりしてたのと、なんか違うのかって。なんか違うのかって思って」
ケイは何が言いたいのかまとまってないって言う。けどあたしは、ケイがネネと城ヶ崎さんの件をどう思ってるのか、痛いほどよく分かった。ケイの言いたいことは、ちゃんと言えてるよって言いたかった。
弟をポケモンバトルの事故で亡くした、だからポケモンもトレーナーも嫌いだ、それはよく分かる。だけど今日起きたのは、何の罪もないポケモンが死んで、もう二度とトレーナーの元へは帰ってこないって事件だ。城ヶ崎さんがニャスパーをどれだけ大切にしてたかは、ケイだってよく知ってる。関わり合いにならなくても、城ヶ崎さんがニャスパーに愛情を注いでいることははっきり分かっていた。
亡くしたのが弟かポケモンかってだけで、ケイと城ヶ崎さんは似た心境にあった――そういうことだと思う。だからケイは悩んでるんだ。
「ウチ……今までのままでいいのか、分かんなくなった」
ケイの言葉が、あたしの心にグサリと刺さる。
自分をどうにかしなきゃいけないのは、ケイよりあたしの方だってのに。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。