ネネと再会してから、一週間くらい経った日だった。不意に電話のベルが鳴ったのは、お父さんもお母さんも仕事に出かけて、あたしが家で独り留守番をしてる最中のことで。
「幸子ちゃん……急に電話してごめんね」
「凜さん。どうかしたんですか」
電話を掛けてきたのは、凜さんだった。
少しかしこまった口調で、これから何か話そうとしているような雰囲気が感じ取れた。もっと分かりやすく言うなら、聞いてて緊張してくるような感じとでもいうか。あたしは思わず身構えて、受話器を持つ手に強く力を込めてしまう。
「折り入って、幸子ちゃんに話したいことがあって」
「ネネのこと……ですか」
「そう。幸子ちゃんは、ねねちゃんの一番の友達だから」
あたしが、ネネの一番の友達。夏休み前にあんなことをしでかしたことを思えば、自分でそんなことを考えることなんておこがましくてできなかったし、ましてや凜さんから言われれば、胸が潰されてしまいそうなくらいに苦しくなった。それでもあたしの胸の内を明かすことはできない。それは凜さんの信頼とか期待とか、そういうのを裏切ることに他ならないから。
「できれば、幸子ちゃんと会って話がしたいのだけれども……できそうかしら」
「ならあたしが……凜さんの家へ行きましょうか」
「そうしてもらえると、とても助かるわ。ネネは出かけてて、夜まで戻らないから」
「分かりました。これからすぐに行きます」
さすがにもうこれ以上、ネネや凜さんに迷惑を掛けるわけにはいかない。凜さんがネネのことであたしに言いたいこととか相談したいことがあるなら、あたしはそれを全部受け止めなきゃいけない。
上手く行きかけてたのをぶっ壊したのは、あたしなんだから。
ネネと凜さんの部屋は、街の中心地から少し離れた「リバーサイドかすがや」っていう大きな団地の「F棟」にある。ずいぶん久しぶりに上がったけれど、予想していた通りよく片付けられていて、掃除もきっちり行き届いていた。少なくとも、あたしの家よりもずっと清潔で綺麗だ。お母さんが忙しくて、月に一度くらいしか掃除ができないせいだけど。
キッチンにあるテーブルに、凜さんと向かい合って座る。小さく砕いた氷を浮かべたレモンティーで満たされた大きなグラスを軽く傾けて、ぐいっと一口、喉の奥へ流し込む。
「支局長が異動することになって、その関係で実験が中断しててね。今はちょうど、お仕事がお休みなの」
「ねねちゃんは、玉虫に展覧会を見に行ってるわ。ポケモンの化石を展示してるらしくてね。夕方まで帰ってこないって、そう言ってたわ」
凜さんはあたしの様子を見ながら、本題を切り出す機会を窺っているみたいだった。あたしが一息ついたところで、凜さんが身を乗り出す。
「幸子ちゃんは、学校でいつもねねちゃんと一緒にいてくれて、すごく感謝しているわ」
「私もできるだけねねちゃんの側にいて、ねねちゃんのことを分かってあげたい。もちろん、そう思ってるのだけれども」
「けれど……時々ねねちゃんが何を考えてるのか、分からなくなることがあって」
「その度におろおろしてしまって、自分の無力さを感じるばかりで」
「ただ、何を考えてるのかは分からないけれど、ねねちゃんがそんな風になってしまった理由……それは、ある程度だけれど、私にも分かっているの」
「きっかけの一つは、私がねねちゃんと暮らし始める直前の、あの出来事じゃないかな、って……」
そう言えば、あたしはネネと凜さんがどういう経緯で知り合った――端的に言えば、凜さんがネネの家へやってきた経緯をほとんど知らなかった。あたしが訊ねなかったっていうのもあるけど、そもそもネネ本人がその話を一切しないっていうのが大きかったように思う。ネネは凜さんの話こそしょっちゅうするけど、凜さんが家に来た直後の頃のことはまるで話していた記憶が無い。
これから聞かされる話は、まったく知らないことだらけになるってことだ。
「幸子ちゃんはもう知ってくれてると思うけど、もう一度改めて」
「ねねちゃんのお母さんは、私の妹。だから――ねねちゃんは、私の姪ってことになる」
「ここに来るまでは静都の浅黄市に収容されていたんだけれど、紫苑市で妹が暮らしてるって聞いて、浅黄市から移送してもらったの」
「その頃はまだ、私の妹がこの家にいたわ。それで、独りでねねちゃんを育ててた。確か、ねねちゃんは三年生だったわ」
「私が紫苑市に来た時には、既に父親の姿は無かったの。どんな方だったのかも分からないわ」
凜さんの口から出た「収容」という言葉。前に、ネネがこんなことを言っていた記憶がある。
(凜さんはねー、『やぶれたせかい』ってところにずーっと閉じ込められてて、それで、やっと出てこれたんだって)
(ずーっと同じところにいて、おつけものみたいになってたから、ナマモノとは区別しようね、ちゃんとした入れものに入れておこうねってなって、管理局に『しゅうよう』されてるんだって)
一見普通の人に見える凜さんは、なんだかよく分からない場所に何年も閉じ込められていて、その間歳も取らず身体も悪くせずにいたっていう得体の知れない経験の持ち主だった。長い間監禁されてた中で身体のつくりが変わって、ちょっとやそっとじゃ傷一つ付かないスーパーマン……いや、スーパーウーマンって言った方がいいのかな、女の人だし。まあとにかく、普通の人とは違う存在になったわけだ。ネネの「お漬物」って例えが、合ってるのかはともかくやたらと印象に残ってる。
そうして今も凜さんは管理局に「収容」されていて、それは何も変わってない。だから厳密に言うと、ネネの家にいるのは入院中の一時外泊みたいなものだ。主が管理局で、従が自宅。実態はともかく、形式上はこれが正しいらしい。この話は凜さん本人から聞いたから、疑う余地の無い事実だ。
「紫苑市に来て、妹と面会したわけだけど……妹にも、妹の言い分があって」
「私のことは死んだんだと思ってた、今更帰って来られても困る、そんな風に言って、ひどく怒っていたわ」
「そうは言っても、妹が怒るのは無理のないことだったの。妹としてた約束を守れなかったわけだから」
「旅立つ前に、私は母と妹と約束をしたの。『私の旅が終わったら、今度は妹が旅に出る』って」
「私がいない間は妹が家のことをして、私が家へ戻ってきたら妹が外へ出て行く。そういう形でね」
「母は体が弱くて、どちらかが残って家の手伝いをしなきゃいけなかったから」
「妹も旅に出たいと言っていたけど、私はお姉ちゃんだったから、先に行っていいよって言われて」
「けれど事故に巻き込まれて、約束どおり家へ帰れなかった。だから妹がずっと家事をしていて、旅に出る機会を奪ってしまった」
「『なんで帰ってこなかった』『自分はずっと家に縛られてたのに』『どうして約束を破ったんだ』……口喧嘩というより、一方的に言われて、でも、何も言い返せなかった」
「本当のこと、だったから」
凛さんの話は、頭の中で想像していたものとだいたい一致していた。ネネのお母さんが凛さんの妹に当たるってことも、凛さんとネネのお母さんの仲がしっくり来ていなかったってことも、聞いてたわけじゃなかったけど、なんとなく「そうじゃないかな」とは思っていた。
前に凛さんとネネの関係はややこしいって言った記憶があるけど、その通り、かなりややこしい。そもそもあの見た目でネネの伯母さんだって時点で、あっこれなんかある、って思うのが常識だろう。あたしもそう感じたわけだし。
「それから少しして、妹が『荷物をまとめて家を出て行く』と言ってきたの」
「『今度は私の番だから』……そう言って、紫苑を出て行ったわ」
「ねねちゃんにはどう言ったのか、それは聞けなかった。ねねちゃんも話さないし、聞き出せることじゃない」
「妹はポケモントレーナーとして旅立ってったきり、私たちの前に姿を見せてない」
「本当に、それっきりなの。どこかで見たって話も聞いたことがなくて」
「今はもう、どこにいるのかも分からないわ。嫌な話だけれど……生きているのかどうかも」
ネネの家に母親の姿が無かったのは、家を出てポケモントレーナーとして旅立ってしまったから。むろん、ネネを家に残したままで、だ。ネネは母親に放置されて、独りで家に残されたってことだ。その時のネネがどんな心境だったかどうか、あたしにはちょっと想像が付かない。簡単には「ネネはこんな風に思ったんじゃないか」なんて言えないだろう。
何せネネは母親から、はっきりと自分の意志で「捨てられた」わけなんだから。
「私は案件管理局の紫苑第二支局に収容されて、自由に外へ出られない状況が続いた」
「ねねちゃんの家には、ねねちゃんの他に誰もいない。それは知っていたけれど、きっと誰かがなんとかしてくれてる、そう思ってたの」
「実際の年齢はともかく、まだ十四歳の子供だったから、物事を深く考えられなかった」
「それに、なんていうか……まさか妹が、本当にねねちゃんを置いて出て行くとは思わなかったから」
「今にして思えば、どれだけ甘い考えをしてたんだって、自分でも情けなくなっちゃうくらいで」
「管理局で交差試験を受けていた最中に電話が掛かってきたのは、妹が家を出て三週間ほど経った頃だったわ」
凜さんが辛そうに顔を俯けさせる。ああ、これはよくない話を聞かされる――そうに違いないと、あたしは確信を持った。
「電話を掛けてきたのは、ねねちゃんの家のお隣に住んでる人だった。今はもう出て行かれてしまったけれど、その頃はお隣同士で、ねねちゃんのことも可愛がってくれてたみたいで」
「『もう一週間ほどねねちゃんの姿を見ていないが、大丈夫か』……そう言われて、何か胸騒ぎがして、局員の方と一緒に団地まで行ったの」
「家には鍵が掛かって無くて、そのまますぐ入れる状態になってた」
「入った瞬間にひどい臭いがして、中がゴミだらけになってるのを見たの。テレビとかで時々流れてるよね、『ゴミ屋敷』って言って。あれより少しはマシだったけれど、とても近い状態だったわ」
「奥の寝室……今も私とねねちゃんが寝るのに使ってる部屋に、ねねちゃんはいたの」
「――髪はぼさぼさで、がりがりに痩せて、飢え死にしそうになりながら」
ネグレクト、という言葉が脳裏をよぎる。当時のネネは小学三年生だ。独りでまともに生活していくなんて、ご都合主義のお話でもなきゃ無理な年齢だ。お金も食べるものも無くて、どうしようもなくただ孤独に横たわっている姿を想像して、あまりの痛々しさに顔を顰めるしか無かった。
今更ながら、小三の夏休み、ネネとまったく連絡が付かない時期があった頃を思い出す。何度か電話したけど繋がらなくて、結局それっきりだった気がする。その頃には電気や水道も止められてて、ライフラインが断ち切られた状態だったってことだろう。登校してきたのも九月の中頃になってからで、その間ネネが何をしてたのかは教えてくれなかった。言えるわけがない、こんな悲惨な話を。
「その時のネネちゃんは、まるで死んでいたみたいだった」
「ぼさぼさの髪に骨と皮だけの姿は、とても生きてるようには見えなくて」
「何日も身体を洗ってなくって饐えた臭いがして、それがまるで、死んだ人の臭いみたいで」
「それでも、あの、いつも見せてるような目をしていたの」
「顔つきは本当に少しも変わらなくて、今と同じ顔をして、ただじっとこっちを見ていたの」
「私は、それを『ねねちゃんに責められてる』って、そういう風に受け取っちゃって」
「それで一年くらい距離感が掴めなくて、あの、ポテチの万引き事件が起きるまで、微妙な関係が続いてて」
「ねねちゃんはただ純粋に、私の方を見てただけなのにね」
死に瀕しても、ネネの顔は変わらなかった。今のネネのことを考えれば簡単に想像が付く。あの何を考えているのか読み取れない表情がおいそれと変わるはずがない。あたしだってそれは理解できた。
「局員の人と一緒に病院まで連れてって、なんとか一命は取り留めたけれど」
「ねねちゃんはあの辺りから、『死ぬこと』を強く意識し始めたんじゃないか……そう思うの」
ネネが自分の死を意識している、それはあたしも知ってることだった。ちょっと前、ニャースを埋葬したときにもやり取りをして、ネネが生と死について深く深く思いを巡らせていることを実感させられたばかりだったし。それ以前から、ネネは折に触れて「死ぬこと」についてぼそりと何か言うことが多かった。
お墓作りをすること自体が、死と向き合っていると言うこともできると思うわけで。
「ねねちゃんが『死ぬこと』を考えるようになった、大本のきっかけになったんじゃないかって思うことを、ねねちゃんが時々話してて……」
「……すいません、凜さん。それ、かなり前に『詩音ちゃん』が飛び降り自殺したっていう、そういう感じの話じゃないですか」
「あ――ええ、その通りよ。幸子ちゃん、ねねちゃんから聞いたりしたの?」
「えっと、はい。何度か。あんまり外でこの話しないようにって言ってたんですけど、でも、結構聞いてます」
「事が事だから、箝口令が敷かれてるのね。事情はなんとなく分かるわ。子供が自殺したなんて、本当はおおっぴらに話すべき事じゃないって、私も思うから」
けれど、ここなら私と幸子ちゃんしかいないし、しても大丈夫よね。そう言う凜さんに、あたしは恐る恐る頷いた。
紫苑市にあったポケモンタワーから小学五年生の女の子が飛び降り自殺をした――こんな事件が起きたのは、今からもう八年ほど前になる。あたしやネネが小学校へ入学する直前だったかに起きて、みんなの間でもかなり話題になってた記憶がある。以前ケイが話していた事件のことだ。
ポケモンの霊を慰めるはずの場所で、まだ幼い子供が自らの命を絶ったという構図があまりにショッキングで、学校の先生をはじめとする大人の人たちは、口々にこう言って回っていた。
「外で詩音ちゃんの話をしてはいけない」
もう少し言い方は柔らかかったけど、意味は概ねこんなところだ。詩音ちゃんという女の子の存在をここ紫苑市から抹消したいって気持ちの現れだと思う。自殺したことを知らなかった同級生の子たちには「詩音ちゃんは遠くへ引っ越した」なんて言って騙していたというから、まあ相当タチが悪い。
こんな有様だから詩音ちゃんの家族は紫苑市にいられなくなって、事件が起きて一ヶ月も経たないうちにどこかへ引っ越したらしい。肝心の詩音ちゃんは未だ紫苑市に埋まっていて、残された家族が引っ越したっていうんだから、出来の悪いジョークみたいだ。
「その詩音ちゃんとねねちゃんが、どうもいっしょに遊んでいたみたいで……詩音ちゃんから、妹みたいに可愛がってもらってたらしいの」
「あたしも聞いたことあります。詩音ちゃんが生きてた頃のこと、たまに話してくれましたから」
「ええ。ただ……詩音ちゃんは少し変わった子だったみたいで」
「変わった子、ですか。あたし、詩音ちゃんのことはほとんど知らなかったです」
「私もねねちゃんから聞いただけだけども、詩音ちゃんはポケモンの死体を見つけては、ポケモンタワーまで持っていくようなことをしていたらしいわ。その様子を、ねねちゃんも間近で見ていたそうなの」
脇の下に、じわり、と冷たい汗が流れるのを感じた。
今のネネに通じる……というか、ほとんどそのものじゃないか。ポケモンタワーへ持っていって葬ってもらうか、自分でお墓を作って葬るかの違いでしかない。あたしと出会う前のネネがそんなことをしていたなんて話は初耳だ。ネネのお墓作りの源流は、明らかに自殺した詩音ちゃんにあるとしか思えない。
「ねねちゃんの話だと、詩音ちゃんは昔目の前でポケモンが殺されるところを見たらしくて」
「それから『死ぬこと』に強い興味を持ち始めた……そんな感じがするの」
「学校ではほとんど友達がいなくて、自分を慕うねねちゃんといつも遊んでいたらしいわ」
「話を聞いただけだけど、二人で一緒に大きなガラガラの死体を埋めているところを見た人がいるとかで」
「ねねちゃんが詩音ちゃんに教えてもらって、熱心に穴を掘っていたらしいわ」
「きっとそうやって詩音ちゃんからいろいろなことを教えてもらって、その過程で、ねねちゃんも『死ぬこと』に興味を持ったんだと思っているの」
「その詩音ちゃんが、ねねちゃんが小学校へ上がる直前に自殺した。それも、よく行っていただろうポケモンタワーで」
「ねねちゃんにどれだけのショックを与えたのか、私には……想像もつかないわ」
レモンティーの注がれたグラスから、カラン――と氷が融ける音が響いた。
大きなため息をつく凛さんを見ていると、言い知れぬ不安感がふつふつと沸き起こってくる。あたしが感じているものに似た不安を、凛さんもまた感じているのだろうと思った。
ネネに以前「どうしてネネはお墓を作るのか」と訊ねたことがある。ネネは「ポケモンをきちんと埋めてあげれば、自分もちゃんと葬ってもらえる」と答えた。ネネのことだから、これは嘘でも何でもない本音の言葉だろう。けれどその源流はあたしが思っている以上に深くて、もっとドロドロした暗澹たるものなんじゃないかという気がしてならない。
「ごめんなさいね、幸子ちゃん。なんだか、取りとめもない話になっちゃって」
「あ、いえ……それは、気にしてません」
「ねねちゃんのこと、私の中でちゃんと整理しなきゃって思ったから。だから、ねねちゃんと仲のいい幸子ちゃんに手伝ってもらおうって思って」
凛さんがこんな話をする大本の理由を作ったのはあたしだ。他の誰でもない。ネネが城ヶ崎さんのニャスパーを殺したっていう濡れ衣をあたしが着せたから、凛さんがこんなに悩むハメになった。それを自覚してるから、あたしが凛さんのすることに文句をつけたりする資格なんて無かったわけだ。
元々ネネは誰かが死ぬこととか、誰かを葬ることに、普通の子とは比べ物にならないくらいの興味や関心を持っていた。それは凛さんも認識していたことだ。そこへ来て「クラスメートのポケモンを殺して埋めた」なんてことを言われれば、ネネがついに一線を越えてしまったのだと思っても何もおかしなことじゃない。むしろ自然な反応だって思う。
「それと……もしかしたら、私がねねちゃんのストレスになってるのかも知れない。そう考えちゃうようなことがあって」
「凛さんがネネのストレスになってる……? ど、どういうことですか? だってネネ、いつも凛さん凛さんって言ってますし、凛さんと一緒にいられて嬉しいって……」
凛さんは少し顔を俯けさせて、躊躇いがちに口を開く。
「前にねねちゃんが万引きをしようとしたのは、さっきも言った通りよ」
「それから私はねねちゃんに『欲しいものを手に入れるには、お金がいる』ってことを教えたの」
「ねねちゃんは元々素直だから、きちんと理解してくれたみたいだった」
「けれど……なんと言うか」
「それだけじゃ、ねねちゃんには足りなかったみたいで」
息を飲むあたしに、凛さんが続けた。
「万引きの件から一年くらい経った、五年生の夏休み前ね。この頃のこと、ねねちゃんから何か聞いたりしてない?」
「いや、特に……五年の時のネネ、榛名っていう子のところに遊びに行ってること多くて、学校以外ではあんまり……」
「なるほどね。ちょっと辛い話だけれど、幸子ちゃんにはしてもいいと思うから、きちんと話すね」
レモンティーの入ったグラスを握り締めて、懸命に気を落ち着かせている様子が、凛さんの感情が高ぶっているのをはっきり示していた。
「ねねちゃんから聞いた話と、同級生の子の話で少し差があるけれども」
「夏休みに入る少し前、ねねちゃんが男子の子からふざけ半分で『体を触らせてほしい』って言われて」
「きっと、それがどういう意味なのか、まだ分からなかったと思うんだけども」
「ねねちゃんはその子に『おこづかいくれるならいい』って言って、受け入れたらしくて」
「二百円をもらって、男の子にいたずらをさせたの」
あまりのわけの分からなさ――いや、理解できないってわけじゃない。むしろよく分かる。男子がはした金を渡して、ネネに裏の意味での「悪戯」をしたってことだ、それ自体は分かる。そうじゃなくて、ネネがそんなことをさせてたっていうのがこの上なくショックで、ショック過ぎてわけが分からなくなった、って言うべきだ。
ネネがお金を欲しがってるのはよく知ってる。新聞配達だってお金が欲しくて続けてるはずだ。だからって、いくらお金が欲しいからって、ネネとその男子のしたことは冗談なんかじゃ済まされない。
「男子の子は、ねねちゃんがぼんやりしてるから、好きなようにできるんじゃないかって思ったらしいの」
「それで、同級生に体を触られて、ねねちゃんはなんとも思ってなかったみたいで」
「むしろ『自分の体には価値がある、これでお金をもらっていい』って、そんな風に考えて」
待って、待って、待って。それってあれじゃん、よくテレビの警察二十四時とかでやってるあれじゃん。新聞とかでたまに載ってて、捕まったりしてるやつじゃん。
――『売春』ってやつ、じゃん。
「そういうことに興味がある男子の間で、噂があっという間に広まっていったらしくて」
「『小銭を渡せばエッチなことをさせてくれる、頭の足りない女子がいる』……そんな風に言われてたらしいの」
「ねねちゃんは……ねねちゃんは男子に言われるまま、言われた通りのことをしてたらしいの」
「初めのうちはただ体を触らせるぐらいだったのが、どんどんエスカレートしていって」
「服を脱いで裸になったり、抱き付かれたり、お花を摘むところを見せたり……」
「こんなことを、本当は幸子ちゃんに言うべきじゃないのかも知れないけれども」
「早熟な子は、ねねちゃんに『手』を使わせて……分かるでしょう、ああいうことをしていたの」
ここまでえげつない話を聞かされるとは、想像もしていなかった。えげつないっていうありきたりな言葉を使って衝撃を和らげないと、聞いてるこっちの気分が悪くなってきそうな内容だった。
ネネは売春じみた、いや売春そのものって言っていいようなことをしていて、それでお金を……しかも二百円だか三百円だかの小銭を稼いでいた。普段見ているネネとイメージが違いすぎて、はっきり言って夢でも見てるのかと思った。話そのものは夢のカケラも無い「金と欲」オンリーの生臭さの極致って感じなのに、あまりにも現実感が無さ過ぎる。
けど、凛さんが言うからには、紛れもない事実なのだと受け入れざるを得ないわけで。
「ねねちゃんが手を汚したまま家へ帰ってきたのを見て、何が起きたかを知ったの」
「ショックだったけど、とにかくすぐに止めさせたわ。学校の先生や男子の子たちとも相談して、二度とこんなことしない、させないって約束させたの」
「最初はただショックで、何がなんだか分からなかったけれど、ねねちゃんから話を聞いてみたら……こう言われて」
「『凛さんにメロン買ってあげたかった』――って」
「少し前、私が『メロンとか食べたいけど、ちょっと高いね』って言ったの。本当に、世間話のつもりで」
「でも……ねねちゃんはそれを真剣に受け止めて、私のためにお金を作ってメロンを買おうとした」
「ねねちゃんはお金を欲しがってて、しかもそれが自分のためじゃなくて私のためだって気づいて、居た堪れなくて」
「私がねねちゃんに手を汚させてしまったんだって、そう思って……とても、辛かった」
管理局での仕事を増やして、ネネにもちゃんとした仕事――新聞配達のバイトを探してきた。そうしてお金をもらえるようにしてあげたら、ネネの売春行為は収まった。凛さんはそう付け加えた。
あたしはネネのことを知ってると思ってた。そう思い込んでた。けれど凛さんから聞かされた話は、あたしの知らない話ばかりだった。聞いた記憶もないし、想像することすらできない、えげつない話ばかりだった。
知ってるんじゃない。知ってるつもりだっただけだ。
「ねねちゃんは……詩音ちゃんに死なれて、お母さんに捨てられて、大事な人にいなくなられる経験を繰り返した」
「私もいなくなるんじゃないか。そう考えて、表には出さないけれどすごく敏感になってるんじゃないかって」
「だからお金を稼いで、役に立ってると思われたい。そんな気がしてならないの」
「私はただ、ねねちゃんが側にいてくれるだけでいい、無理なんかしなくていい……そう思ってるのに」
ネネと凛さんの関係は、あたしが思ってるよりもずっと、ずっとずっと重かった。ネネは凛さんの気持ちを敏感に察して極端な行動に出る、凛さんはネネとの距離を懸命に詰めようとしてる。
そんな二人の関係も、あたしは台無しにしてしまった。
「そんなこともあって、ねねちゃんにいろいろ教えて、やっと安定してきた……そう思ってたのに」
「まさか、同級生の子のポケモンを殺してしまうなんて、そんなことをするとは、考えてもみなかった」
「きっと……私がまた、自分の知らないところで、ねねちゃんにストレスを掛けてしまっていたのね」
「私がねねちゃんを楽にさせてあげなきゃ、またこんなことが起きる。ねねちゃんにも辛い思いをさせつづけてしまうわ」
自分が助かりたい一心でネネに全部罪を被せて、何もかも台無しにしてしまった。
「幸子ちゃん」
「ねねちゃんは反応が遅くて、子供っぽく見えて、きっと、いろいろと手を焼かせてしまうでしょうけれど」
「それでも……これからもねねちゃんと仲良くしてあげてくれたら、私は嬉しいな」
何も知らない凛さんの言葉が、あたしに重くのしかかる。
この重さを生み出した原因は――他の誰でもない、あたしだってことも含めて。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。