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#26 おきみやげ

青天の霹靂。今のシチュエーションを一言で言い表すなら、この言葉が一番ピッタリだろう。

「幸子ちゃん。今……少し、時間あるかな」

「じ、城ヶ崎、さん……」

当てもなくふらふら歩いていたら、真正面からいきなり城ヶ崎さんに出くわした。もちろんあたしは戸惑う……というか、頭が真っ白になる。城ヶ崎さんのニャスパーを盗んだのもあたしで、殺したのもあたしだから。けど城ヶ崎さんはそんなことを知っている素振りも見せず、穏やかな目をこちらに投げ掛けてくる。一体これから何の話が始まるのかと、あたしは気が気じゃなかった。

(まさか、あたしがニャスパー盗んだことに気付いた……? いや、でも……知ってる人なんていないはず)

(なんだろう、城ヶ崎さん、あたしに何話すつもりなんだろう)

近くの公園へ行こう。そう言われて、あたしは内心躊躇いつつ、けれど断れるだけの理由も持ち合わせていなかったから、やむを得ず城ヶ崎さんとともに公園まで移動する。都合良く日陰になっているベンチを見つけて、城ヶ崎さん、あたしの順番に腰掛ける。時間取らせちゃってごめんね。城ヶ崎さんの言葉に、あたしはただ曖昧に頷くことしかできない。

今の状況で修羅場になっていないのは、ほとんど奇跡としか言いようが無い。

「この間は教室で倒れたりして、迷惑掛けちゃってごめんね」

「いやそんな、迷惑なんて……あれは、しょうがないよ」

「もう十日くらい経ったけど、まだ、気持ちの整理が付かなくて。隣にニャスパーがいないんだって思うと、すごく寂しくなるよ」

額に浮かんだ冷たい汗を、気取られぬようにそっとハンカチで拭う。普段はただただうざったいだけのうだるような夏の暑さが、この時だけは心底ありがたかった。

「ニャスパーのこと、幸子ちゃんも可愛がってくれてたよね」

無言で頷く。言葉は発さない。発せない。

「みんな可愛がってくれて、大切にしてくれてたのに……」

「あの日わたしが連れて帰るのを忘れなかったら、あんなことにはならなかったんじゃないかって、そう思って」

「わたしのせいで、ニャスパーを死なせてしまった。そう思うと……胸が痛くて、苦しくて」

あたしはニャスパーを死なせてしまってから、胸が痛いとか苦しいとか、そういう思いを何度かしてきた。些細なことで思い出して、胸が物理的にずきずき痛む、息をするのも苦しくなる。自業自得とは言え、あたしだってこんなに苦しんでるんだから、もういいじゃんとか、ちらっと考えたこともある。

例え一瞬でもそんな風に考えたことを、死にたくなるレベルで後悔した。

「ニャスパーのこと、少し話してもいいかな」

「九歳の頃に母が事故で死んでしまって寂しがってたときに、父が家に連れてきてくれたの」

「カロスへ出張に行った時に、街の隅で独り震えていたんだって、そう話してくれたわ」

「家を空けがちな父が、私が寂しがらないようにって言って」

「どんな時も一緒で、大切な家族だったわ」

「父と母がいない寂しさを、ニャスパーが癒やしていてくれたの」

やめてくれ、やめてくれ。

もうこれ以上、あたしに「死にたい」と思わせないでくれ。今にも走り出して、手近なマンションの屋上から飛び降り自殺でもやらかしてしまいそうだ。

城ヶ崎さんはお母さんを早くに亡くしていて、案件管理局で働いているっていうお父さんも家を空けてばかりだっていう。その寂しさを埋めていたのが、他ならぬあのニャスパーだったってわけだ。あたしはお父さんとお母さんが出かけると「一人になれた」なんて言って喜んでるけど、城ヶ崎さんは一人ぼっちが普通で、他の家族は家にいないことがほとんどだった。お母さんもお父さんも家にいるあたしとは、置かれている環境が違いすぎる。

ニャスパーの存在が城ヶ崎さんにとってどれだけ大きかったか、今更になって、本当に今更になって、あたしは身を切られるような思いと共に味わわされている。ただのかわいいペットだとか、そんな風にしか思っていなかったことを、こんなにも悔やんだことはない。

本当に死にたい。死んでこの世から消えてしまいたい。

「できれば一度、仲村渠さんから話を聞いてみたかった」

「どうしてニャスパーを殺して、埋めてしまうなんて事をしたのか、知りたかった」

「仲村渠さんも、ニャスパーを可愛がってくれていたはずだから」

「けれど、そうするだけの勇気を持てない……仲村渠さんを前にしたら、きっと落ち着いてなんかいられない」

「そんな弱い自分を、歯がゆく思うよ」

弱いのは城ヶ崎さんじゃない。このあたしだ、国府田幸子だ。全部、あたしの心の弱さが招いた結果なんだ。

何もかも分かっているのに、グズグズといつまでも言い出せずにいること自体が、あたしが弱くてちっぽけでどうしようもないゴミでクズってことの証拠なんだ。

「もしかしたら、だけれど」

「わたしがいつもニャスパーを連れて歩いていたから、目障りだって、自慢してるって、そう思ったりしたのかな」

「だとすると、仲村渠さんには……悪いことをしちゃったのかも知れないわ」

全身の毛穴から冷たい汗が噴き出して、冗談みたいな寒気が走る。城ヶ崎さんは何もかも分かってる――ニャスパーを連れてたことを嫉妬してたってこと――のに、向けるべき矛先だけが間違っている。ネネがニャスパーを手に掛けた、そう考えているからに他ならない。

この状況を望んだのは、かつてのあたし。この状況に絶望しているのは、今のあたし。あたしがあたしを苦しめて、あたしがあたしを憎んでいる。自分のしたことの報いを受けて、泥沼に嵌ってバカみたいにじたばたしている。笑い話みたいな、滑稽極まりない光景だ。

(欲しいものが手に入ったら、ちょっとでも「救われる」って思ってた)

(ああ……「すくわれた」よ、確かに。確かに「すくわれた」)

(足下を「掬われて」、底なし沼にはまり込んだってわけだ)

今にもブラックアウトしそうな視界の中で、あたしはふと誰かの声を聞いた気がして。

(『そうか、そうか。つまりきみはそんなやつなんだな。』)

あの言葉が――国語の教科書に載っていた話の、大切なものを盗まれた挙句壊されてしまった男の子の言葉が、盗んだ主人公を軽蔑し嘲るような言葉が、あたしの頭の中に響き渡った。

(そうだ、そうだ。あたしは『そんなやつ』だ)

(『そんなやつ』なんだ)

目の前にいる城ヶ崎さんから、あの男の子がしたように正論で詰問されれば、あたしはまだ救われたかも知れない。少しは楽になれたかもしれない。けれど城ヶ崎さんは穏やかな態度を崩さずに、ただ自省の言葉を口にするばかりだ。

本当のことを誰にも言えない。誰にも言い出せない。

あたしって――本当に、どうしようもない。

「それと、これも言わなきゃ。夏休みの間に引っ越すことも」

「えっ……? 城ヶ崎さん、引っ越しちゃうわけ……!?」

「うん。父の仕事の都合でね、深奥の澪市へ移ることになったの」

「深奥って……あの、北の方にある……」

「そうよ。父がそこの支局長に就任することになって。わたしは、行っても残ってもいいって言われたんだけれども」

「けど、引っ越すってことは……」

「うん。父もいなくなったら、本当に一人ぼっちになっちゃう。ヘルパーさんが家事を手伝ってくれてるけど、それでも、ずっと家にいるわけじゃないから」

「そ、そっか……お母さん、いないから……」

「それに、ここにいると、ニャスパーのことを思い出しちゃいそうで……気持ちを整理したかったから」

「い……いつ頃、いつ頃紫苑を出てっちゃうの?」

「来週にはもう家を引き払う予定だよ。荷物もまとめ始めてるの」

「えっ、えっ、じゃあさじゃあさ、紫苑にはもう、戻ってきたりしない……?」

「たぶん、だけど……深奥での勤務は長くなりそうだって、父が言っていたから」

困惑するばかりのあたしを知ってか知らずか、城ヶ崎さんはさらに続けて。

「幸子ちゃん――今まで、ありがとう」

あたしの目を真っ直ぐ見て、「ありがとう」と、そうお礼を言ってきた。

「いつもニャスパーのこと可愛いって言ってくれて、嬉しかったよ。ニャスパーも喜んでたから」

「話せる機会は多くなかったけど……でも、ここで友達になってくれて、ありがとう」

「わたしが深奥へ行っても、また手紙とかメールとかで連絡くれたら、うれしいな」

カタカタと奥歯が震える音で、あたしは我に返った。

城ヶ崎さんは、あたしのことを友達だと思っていた、思ってくれてたわけだ。ちゃんとした友達だって、れっきとした友達だって。

あたしのしたことはどうだ、振り返ってみろ。あれが欲しいこれが欲しいと羨んでばかりで、あたしのことバカにしてるって勝手に思い込んで、挙げ句の果てに大事なポケモンを盗んで死なせてしまった。城ヶ崎さんの気持ちを完璧に踏みにじって、完全に裏切ったってことじゃないか。言い訳なんてできっこない、これがあたしの本心だからだ!

死ね、死ね、死ね――死ね死ね死ね死ね、死ねよあたし! 本当に最悪なやつだ! 城ヶ崎さんはあんたみたいなやつを友達だって思ってくれてたんだぞ! 人を羨むことしかしない惨めで卑屈なお前を友達だって思って、わざわざこうやって引っ越すことを教えたりしてくれてるんだぞ! 分かってなかったのはお前だけだ! 死んでしまえ、このゴミクズが!

「ごめんね、時間取らせちゃって。わたし、そろそろ行くよ」

「さようなら、幸子ちゃん」

公園から去って行く城ヶ崎さんの背中。どんどん遠ざかっていくそれを、あたしは死んだ魚のような目をして見つめていた。

もう、城ヶ崎さんに本当のことを話して、謝ることさえできない。今までだってそのチャンスはいくらでもあったのに、あたしは最後まで勇気を持てずに、ついにここまで来てしまった。

城ヶ崎さんはネネをニャスパーを殺した犯人だと思ったまま、そしてネネは城ヶ崎さんにニャスパーを殺した犯人だと思われたままになる。城ヶ崎さんが紫苑に戻ってくることはないだろうし、ネネが紫苑を離れて深奥まで行く機会があるとも思えない。これから先二人が顔を合わせることは、間違いなく無いだろう。

(あー、あー……あー)

(なんかこう、今すぐ頭の上から、ちょっと大きな隕石が、ひゅーって落ちてきて)

(あっ――とかどうとか思ってる間に、あっさり死ねないかなあ)

見上げた空はどこまでも快晴で、何かが降ってくる気配なんてこれっぽっちもなくて。

死にたいなんて願いは、どうやっても、叶いそうになかった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。