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#03 シズちゃんの進路

夜。

しん、と静まり返った自室で、シズはメモ帳に書き付けた細々とした事柄を幾度も読み返していた。メモ帳に記されているのは、ツクシから聞かされたジムリーダーの仕事に関する覚書だった。実際の仕事が始まるのは来年からだが、引き継ぎは余裕がある内にしておいた方がいいと、ツクシが時間をもうけてシズに一対一でレクチャーしていた。

ツクシの引き継ぎ作業は、実際のポケモンバトルに関わることから、裏方の事務的な内容まで、ジムリーダーになるにあたって必要な情報をすべて網羅することを目的としていた。シズはツクシの話す内容を逐一メモ帳に取って、一人になったこの時間を使い、聞いた内容の復習を必ず行っていた。

「挑戦者の地方におけるバッジの所持数を確認し、使用するポケモンのセットを決定すること」

「戦いにおいては、挑戦者のポケモンを必要以上に傷つけることは厳に慎むこと」

こうした、バトルに際しての基本的な手続きや規約もあった。

「戦いでフィールドが損壊した場合、修繕が完了するまで休館としても構わないが、修繕は速やかに実施すること」

「挑戦者への賞金支払い、戦いで負傷したポケモンの治療費、フィールドの修繕費等は、もれなく所定の請求書へ記載し、毎月二十五日までにポケモンリーグ運営委員会へ申請すること」

運営に当たって必ず覚えておく必要のある事務的な内容もあった。

「誠意を持ち、ジムリーダーとしての職責を真摯に果たすこと」

「ジムリーダーとして、常に自己の研鑽を怠らないこと」

それに加えて、より観念的な内容、言うなれば「『ジムリーダー』という職務に求められる心構え」の話も多かった。

先刻メモ帳に取った内容を何度も読み返して、シズは一つ一つの文言の持つ意味の把握に努めていた。ツクシは一つ一つ丁寧に、噛んで言い含めるようにシズに話をしていた。シズは自分に教鞭をふるうツクシの話している事は、ジムリーダーとして一つも漏らさず理解せねばならないと感じていた。

幾度か上から下までメモ帳をなぞって、軽い疲労感を覚えたシズが、机の隅にある時計に目をやる。時刻は十一時を少し回ったところ。夜も更けてきたことだし、そろそろ布団へ入ろう。メモ帳を閉じて机の引き出しの中へしまうと、シズが椅子を後ろへ引いて立ち上がった。立ち上がったと同時に、シズは机のブックスタンドに収納された一冊の本に目を留める。意識せぬまま本に手を伸ばし、両手を添えて書籍を見つめる。

表紙には「イチハラヒワダ高等学校」と、赤いバックに白抜きの文字で記されていた。

シズはこれといって学習塾などには通っていなかったが、成績は比較的優秀で安定していたことに加え、家計への負担を抑えるべく、地元にある公立の進学校への入学を希望していた。この地域では公立高校を受験するに当たり、学力的にほぼ同レベル帯に属する私立高校を「滑り止め」として併願することが常套手段となっており、シズもその例に則って出願を決めていた。スケジュール的に先に私立高校の受験が始まるため、シズはそれに対応するための勉強を早くも始めていたのだ。

この間買ったばかりの所謂赤本には、既に何枚もの付箋が貼付されていた。シズはこの間の休日を使って、朝と昼に一気に二年分の過去問を解いたことを思い出していた。押さえるべきポイント、引っ掛かってしまった問題、後で調べる必要のある箇所。その一つ一つに、シズは付箋を張り付けていた。

さらに使い込まれるものと思っていた過去問テキストを、シズはまじまじと見つめる。まだひっくり返る可能性が完全になくなったわけではない。だが恐らく、このテキストが無用の長物と化すのはもはや時間の問題だろう。過去問を解いて対策を立てる必要性は、今まさに失われつつある。この先に待っているのは、今までとはまったく違う道。そして、周囲の皆とまったく違う道でもあった。

赤本を机の上に置き、引き出しの中へしまい込んだメモ帳を取り出し、ページを開く。

「誠意を持ち、ジムリーダーとしての職責を真摯に果たすこと」

「ジムリーダーとして、常に自己の研鑽を怠らないこと」

開いたページに躍る「ジムリーダー」という文言に、シズが軽い眩暈に襲われる。

(わたし、ジムリーダーになるんだ)

現実味が感じられなかった「ジムリーダーになる」というイベントが、急激に強いリアリティを帯びてきて、シズは胸が押し潰されそうな感覚を覚えた。堪らずメモ帳を閉じて、そのまま引き出しの奥へ押し込むと、部屋の明かりを消してそそくさとベッドへ潜り込んだ。

(みんなとは違うところへ行く、みんなとは同じ場所へは行けない……)

教室で机を並べて一緒に勉強しているクミやルミ、チエといった同級生たちの顔が、次々に浮かんでは消えて行った。彼女たちとは、自分は明らかに違う道へ進もうとしている。他に同じ道へ進む者はいない。自分一人で道を歩いて、障害にぶつかれば自分で対処しなければならない。分かっている、分かっている。誰もがいつかはそうなるんだ、大人になればみんな同じなんだ、自分はみんなより少し早かっただけなんだ。そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、不安は大きく、御しがたいものへ成長していく。

真面目で目立たない地味な女子。そのポジションを守るのに汲々としていたのが、遠い昔の過去の出来事のようにさえ感じる。「みんな」というコミュニティから出て行くことへの戸惑い、「みんな」というクラスタに属さなくなることへの怖れ。これまでとは別の領域へ踏み出していくことに、シズは抑えがたい恐怖を感じていた。

(どうしよう、わたし、これからどうなるんだろう)

心の中に生じた不安を消せないまま、シズは薄手の布団を顔まで被って、ただただ身を小さくすることしかできなかった。

 

 

中学校への通学路となっている山あいの小径。強い日差しの照りつけるその道を、二つの人影が歩いていく。

「今年はどうなるのかな、時渡りの神様にお参りするの。リョウタ君は、誰が行くと思う?」

「多分、スミ職人のおっさんの子供じゃないか? 今年ちょうど十歳になるって聞いたし」

歩いていたのはシズと、彼女の幼馴染のリョウタだった。半袖の白いカッターシャツから覗く二の腕はよく日に焼けていて、活動的なタイプであることを窺わせていた。背丈はシズより少し高く、シズがリョウタと話すときは、自然と少し顔を上げる形になる。

活動的で快活。リョウタの性格を枝葉を省いて言い表すと、それが適切だった。そして実際、瑣末な部分を省かなくともさほど違いはなかった。家でジッとしているよりも外を駆け回っている方が好きな性質であり、田舎の、即ち野山の多いヒワダに生まれたことは幸運だったと言えた。かつてリョウタは、シズ・スズと共にヒワダジムに在籍していた事があった。その時分は折に触れて「将来はツクシのようなジムリーダーになって見せる」と公言して憚らなかった。これは、リョウタがツクシを尊敬している確固たる証左でもあった。

一言で言って腕白な気質の持ち主だったリョウタだが、見た目から類推される以上に気配りのできる性格でもあった。大人しいシズにはいつも優しく接して、行動のペースを彼女に合わせてやることも多々あった。一方で似た性格で勝るとも劣らない負けん気の強さを持つスズには遠慮なしにぶつかっていって、取っ組み合いのケンカにまで発展する事も少なからずあった。

シズとリョウタはもうすぐ十年来になる付き合いで、お互い勝手知ったる仲と言えた。相手の家へ行き来することも日常茶飯事であり、シズにとっては気心の知れた友人の一人だった。毎日、というわけではないが、こうして朝に鉢合わせて一緒に登校する事もしばしばあった。学校へ到着するまでの決して短くない時間の間に、シズとリョウタは互いの興味あることや悩み事を話すのが常だった。

ただ。シズは少し前から、リョウタと二人きりでいるとき、いつもと何か勝手が違うという感覚を抱くようになっていた。話そうとしてもうまく言葉が出てこなかったり、無意識のうちにリョウタが肯定的に受け入れてくれそうな答えを探していたり、違和感は様々な形で表出したが、シズはそれらの大本の原因を知ることができずにいた。

シズが内心で考えを捏ね繰り回していると、リョウタが横から声を掛けてきた。

「シズ。この間、俺に話してくれたことなんだけどさ」

「その、お前がジムリーダーになるって話」

ツクシから「ジムリーダーになってほしい」と言われた翌日、シズが誰よりも先にそのことを打ち明けたのが、他ならぬリョウタだった。シズから話を聞いた直後のリョウタは面食らった表情を見せてかなり驚いていたが、少し時間を置いた今なら落ち着いて話ができると踏んで、シズに話を持ち掛けたのだった。微かに表情を曇らせたシズが、頼りなさげにこくりと小さく頷く。

前もって打ち明けていたのだから、リョウタがジムリーダー就任についての話を切り出してくることは予め想像できていた。想像できてはいたが、面と向かって話をするとなるとやはり気後れしてしまう。他人にこの重大事を話せるように、幾度も心の整理を試みてきたが、あれこれと雑多な考えや想いが散らかるばかりで、片付く気配は一向になかった。

「……うん。前にも言った通りだよ。来年の四月から、わたしがヒワダジムのジムリーダーになるの」

「いきなり……だよな。俺もだけどさ、シズはもっとそう思ってんじゃないかって」

「やっぱり、まだうまく飲み込めてないよ。これからどうしよう、これからどうなるんだろうって、もうそればっかり考えちゃってて」

小難しい表情をしているのはシズだけではなかった。隣を歩くリョウタもまた、一言では言い表せない想いを抱えていることが如実に分かる顔つきをしていた。気心の知れた友人がジムリーダーという要職に就く、ただ単純にそれを祝福する……というわけには行かないようだった。

ややあって、今度はシズが口を開いた。

「リョウタ君は……高校、どこ行くんだっけ?」

「ヒワ工……って、これで分かるっけ」

「分かるよ。ヒワダ工業高校だよね。ここからそんなに遠くないから、通うのは大丈夫そうだね」

「そこは心配してねえけど、まず高校に入れるようにしないとな……」

リョウタは来年中学を卒業すると同時に、地元の私立高校であるヒワダ工業高校へ進学するつもりだった。既に志望校を固めていたのか、リョウタの答えは淀みなかった。

「そっか。リョウタ君も、進学するんだ」

今一度確かめるかのようにシズが呟く。リョウタは僅かにシズに顔を寄せて、彼女の面持ちを視認しようとする。シズは隣のリョウタの動きを知ってか知らずか、曖昧な表情を保ったまま崩さなかった。

今度はシズが、リョウタにちらりと目を向ける。すぐさまそれを察して、リョウタが顔を心持ち俯けさせる。やがてシズが元の位置へ視線を戻すと、少し間を置いて再びリョウタがシズの顔色を窺う。幼馴染の視線を感じて、シズは傍目からは分からない程度ではあるものの、顔を紅潮させ、頬が熱くなるのを感じた。

どうしてこんな気持ちになるのかな。シズが今抱いている想いを、飾らずに言葉にするとこうなった。シズにとってリョウタは、気の置けない信頼できる友人で、気遣いができる優しい幼馴染。今まではその認識が正しいと思っていたし、今も間違っているわけではないとも思っている。けれど、それらの関係では生じ得ないような、率直に言って得体の知れない感情が心中に湧き起こってるのを、シズはつぶさに感じていた。

(ちょっと前まで、こんな気持ち、なかったのに)

自分とリョウタの間に、これまで無かった新しい感情が生じている。それは自分がリョウタに対して一方的に抱いているものかも知れなかったし、リョウタも自分に対して似た思いを抱いているかも知れない。絶えず生じる抜き難いぎこちなさを、シズは心の中で上手く処理する術を持たなかった。

シズは心にまったく整理が付けられずにただ違和感を引きずり続けて、結局そのまま学校へ辿り着いた。

 

 

今日は兄とスズが好きなスパゲッティ・ミートソースを作ろう。付け合わせは、レタスとオニオンスライスに鰹節をまぶして和風ドレッシングを和えたサラダにしよう。帰り道で大雑把に献立を立ててから、家の冷蔵庫と戸棚を見て足りないものをチェックし、ミートソースとタマネギ、それから明日飲む分の牛乳が無いことを確認する。忘れないようにさっとメモに書き付けて財布へ入れると、シズは幾分くたびれたママチャリを駆って近所の食品スーパーへ向かった。

空に輝く橙色の夕日を背にして、少々傾斜のある坂を自転車に乗ったまま一息で登りきる。シズは、この坂道を登りきった時に感じる解放感が好きだった。頂点を越えると緩い下りになっていて、しばらくの間流すように悠々と走れるのも気持ちが良かった。自転車に乗ったまま踏破するのは意外と難しく、苦しく感じるときは降りてしまおうかと考えることも少なからずあった。けれどそう感じたときも、シズは坂道を登り終えた後の爽快さを思い出して自分を叱咤した。

今日も坂道を止まらずに駆け抜けることができた。額にうっすら滲んだ汗をハンカチで拭うと、シズは複雑な事をしばし脇に置いて、小さな満足感に身を浸した。人影の無い車道を自転車で悠々と走りながら、一路食品スーパーを目指す。前に見えるT字路を左に曲がって、あと五分ほど走れば辿り着く――そのT字路に差し掛かった辺りで、シズは不意に自転車を止めた。

(ヒワダ工業高校って、ここだっけ)

ヒワダ工業高校は、住宅街から一般道へつながる境目の道沿いに存在していた。買い物へ行く際は毎時のように前を通り掛かっていて、それこそ気にも留めていなかった。だが、今日の朝にあったリョウタとのやり取りを思い出して、特に何をどうするというわけではなかったが、シズは高校の前で自転車を止めた。一旦降りて自転車を押す形にすると、ネットの張られた背の高いフェンス越しにそっと中を覗き込んだ。

文字通り網の目を掻い潜って、シズの瞳が映し出したのは、練習に励む野球部の姿だった。

そういえば。シズがふと数日前の記憶を辿る。いつも夕飯の支度をしながら観ている夕方のニュース。子供のポケモン所持を規制する法案を巡る特集が流れたあと、夏の全国高校野球の出場校が発表されていたことを思い出した。各地域の予選を勝ち抜いた代表校が出揃って、今年も大いに盛り上がりそうだとアナウンサーが締めくくる。もうそんな季節になったのかと、シズは取り留めもないことを考えながら、テレビの画面を眺めていた記憶がある。

列挙された代表校の中に、ヒワダ工業高校の名前は無かった。

ヒワダには、全国的に有名な高校野球の強豪校があった。既に十何年と連続で代表校の座を勝ち取っていて、他校は毎年のように予選で消えていくさだめにあった。それはあえて言うまでもなく、ヒワダ工業高校もまた同じことだ。少なくともシズが思い返せる記憶の中に、ヒワダ工業高校のナインがコガネ球場の土を踏んだ場面は存在しなかった。

既に代表校が発表されたということは、少なくとも今年は、彼らが晴れの舞台に立つことはない。中には当然三年生の部員もいることだろうから、来年に雪辱を果たすということも叶わないメンバーがいるということでもある。いかに練習を積み、努力を重ねようとも、結果を出せなければそこまでだった。それは、他ならぬ野球部の部員たち自身が、一番身に沁みて知っていることだろう。

街路樹の影から、シズが野球部の部員たちを見つめる。彼らはごく真面目に走り込みを続けている。全員で走るペースを合わせて、誰一人として怠惰な様子は見せていない。既に日は暮れつつあったが、彼らにとってはまだまだ日は高いと言えたのだろう。練習を終えようとする気配は見られなかった。走る、走る、走り続ける。走った先に、何か得がたいものが待っているかのように。

(野球部の人たちは、みんなちゃんと前を向いて、自分の足で走ってるのに)

胸がシクシクと痛む思いがして、シズは胸元に手を当てた。彼らが何に向かって走っているのかを思うと、自分には到底届かない尊いもののように思えた。愚直に練習を重ねる彼らが、しかし檜舞台には立てないのかと思うと、現実の厳しさというものをまざまざと見せ付けられた気がした。

彼らは懸命な努力を重ねている。けれど、こう言っては残酷に聞こえるかもしれないが、その努力は望んだ形では報われないだろう。思い描いた形で結実することは、恐らく有り得無いだろう。

『結局、うまくいくかどうかは、「環境」でほとんど決まっちまうんだ』

『努力だけじゃ、物事はひっくり返せないんだ』

『俺みたいな凡人がトレーナーになったって、どうしようもねえんだ』

かつて自分に向かって言われた言葉が、今再び耳元でぶつけられたかのような生々しさを伴って蘇ってきた。シズもその言葉の意味を理解していたはずだった。分かっていたから、自分も現実的な道を選んで、現実的な生き方をしようと心に決めたはずだった。それが突然、何の苦労もなく、責任ある地位に立とうとしている。多くの人間が願っても叶えられない願望を、唐突に出てきた自分がそのまま受け止めようとしている。

前触れなくわあっと沸いてきた感情をどう処理すればいいのか分からなくなって、やにわにシズは止めていた自転車にまたがり、逃げるようにその場を後にする。

シズが走り去った後も、野球部の部員たちは何ら変わること無く、黙々と練習を続けた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。