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#05 シズちゃんの湯浴み

少し熱めにしたシャワーを浴びて、シズが大きく息をついた。ツクシもスズも母ももう既に湯を浴びて、残っていたのはシズだけだった。入浴の順番はよほどのことが無い限りいつも同じで、部活で汗を流したスズが一番に入り、続けてツクシが、次いで母が、そして最後にシズという序列になっていた。時折ツクシと母の順が入れ替わることがあるくらいで、スズが先頭でシズが末尾というのは動かなかった。

石鹸を付けたタオルで躰をごしごし拭い、全身に泡を纏ったところでシャワーを使って洗い流す。躰を洗い終えるとバスタブのカバーを取り除けて隅へ置き、些か湯の減った浴槽に身を浸す。少し深く腰掛けて胸の辺りまで湯に沈めると、シズは惚けた表情で天井を見つめた。湯から上がれば、浴室をタオルで拭って水気を取り、換気扇をタイマーいっぱいまで回さなければならない。これも、シズがいつもしていた仕事だった。

躰が少しずつ温まっていくのを感じながら、シズはあれこれと思いを巡らせ――そして、双子の妹であるシズの顔を強く脳裏に思い浮かべた。手のひらで肩へ軽く掛け湯をして、少し冷たくなりつつあった肩を温める。

スズは知ってのとおり、三兄弟の中で末っ子に当たる。それが理由だったかは定かではないし、やっかんでいるというわけではないのだが、スズはやりたいと思ったことを概ねすべてやらせてもらっていた。今懸命に打ち込んでいる剣道も、シズが小学生の頃に母と兄に対してやりたいと言い出したことが切っ掛けだった。幼馴染の一人に新聞紙を丸めたチャンバラでコテンパンに負けて悔しかったから、強くなりたい。確か、それが大本の理由だった。

かくして、スズは校内でも有数の実力者にまで成長し、チームの主軸として欠かすことのできない存在となっていた。一部では主将にして部長を務める同級生よりも強いとさえ言われているが、結局スズは部長には選ばれなかった。昨秋、つまり二年生の二学期頃、先輩から部長に選ばれなかったことでスズがひどく悔しがり、いつになく立腹していたのをよく覚えている。その日は気を利かせたシズがスズの好物であるエビフライを作り、加えて夜遅くまでシズの部屋へ招いて思う存分愚痴を聞いてやることでどうにか気を鎮めたものだった。なんだかんだでスズにとってシズは頼りになる姉であり、言いたいことを素直にぶつけられる数少ない存在だった。

スズの熱心さは、一心不乱と言っても決して過言ではない。休日でも時間があれば体力作りに励んでいるし、朝はシズに次いで早く起きてきて、さっさと朝練へ行ってしまう。シズは、スズの熱心さに感心するばかりだった。家族でスズの参加する大会へ応援に行くことも多く、その都度スズは好成績を残していた。自分とスズを比べれば、スズの方が輝いているのは誰の目にも明らかだ。シズはその考えを強く持っていた。

自分は。自分はどうか。スズのように、何か打ち込めるものを持っているか。シズが考えの矛先を変える。今までの人生を振り返ってみて、シズはその問いに答えられない事を認めざるを得なかった。人に対して言えるような明白な成果は何一つとして無く、振り返っても振り返っても、いくら振り返っても同じだった。記憶の端々に出てくるのは、ただ学業と家事に追われていた、空疎で意義があるとは言い難い日々だけだった。

何事にも、ことに自分が来年ジムリーダーになるということに自信が持てないのは、このせいかも知れない。何かを成し遂げたとか、一心に努力を重ねてきたとか、そんな誇れる記憶を持ち合わせていないこと。それが、今の自分の自信の無さに繋がっているのではないか。まったくもってその通りだと、シズは認めざるを得なかった。何か一つやり遂げることができていればよかったかも知れない。心構えができていたかも知れない。だが、今からではもう、何をするにも遅すぎる。時間が足りない。

またこの感触だ。自分の過去と進路について思い悩むときに感じる、抜き難い違和感。こんなことを考えていいのか分からず、シズの心は激しくざわついた。それでも敢えて、心中に渦巻く言の葉を無加工のまま表出させると、こんな形が浮かんでくる。

シズは、スズのことが羨ましかった。少しだけ、スズのことが羨ましかった。

中学校に入学する以前は、シズも何か部活に入りたいと考えていた。以前から将棋が好きで、同じく将棋が好きなチエとたまに対局していたこともあって、できれば将棋部へ入りたかった。だが、それに前後してツクシと母の仕事がこれまでにも増して忙しくなり、シズが抜けてしまえば家事の担い手が誰もいなくなるという状況にあった。シズは自分の気持ちを押し殺して、中学ではずっと帰宅部で通し続けた。掃除や洗濯、炊事といった家事の類をほぼすべてシズが担い、合間に勉強するという日々が続いた。決して家族の理解がなかったわけではなく、特に母はシズに事あるごとに感謝の言葉を掛けていたが、多忙さの根本的な解決は叶わず、シズに頼る日々が続いた。

スズはシズとは対照的に部活に精を出していた。激しく体を動かしてから家に帰ってきて一番に寝床へ入るスズを横目で見ながら、シズが一人静かに洗い物をする。そうした光景は日常茶飯事で、シズは抜き難い複雑な感情を抱いていた。スズに手伝ってほしい、そう言いたいわけではない。スズは疲れているのだから、仕方ないじゃないか。台所用洗剤をまぶしたスポンジを繰り、冷たい水で食器を洗いながら、シズは自分にそう言い聞かせた。言い聞かせた心の奥底では、言葉にできない感情がぐるぐると渦を巻いていた。

決して表には出さず、ツクシやスズにも気取られたこともなかったが、シズは、スズのことが羨ましかった。そしていつも同時に、実直なスズをやっかんでいる無為な自分という構図に耐えがたい惨めさと罪悪感が湧いてきて、ひどい自己嫌悪の念がシズに付いて回った。子供の頃から努力し続けたから今のスズがあるのに、今更それを羨むなんて。考えれば考えるほど自縄自縛に陥ると何度分からされてもなお、シズはスズを羨むことを止められずにいた。

そうしてスズと自分のあり方を代わる代わる考えていると、シズはかつての出来事を思い出すに至った。まだ二ヶ月も経っていないはずだ。あの時の光景は、未だ脳裏に強く焼き付いて離れない。

週に一度の燃やすゴミを捨てにいく日のことだった。帰り道の雑貨屋で買い物を済ませ、いつものように一番に帰宅したシズは、制服から部屋着とも外着とも言えないラフな格好にそそくさと着替え、自分の部屋・スズの部屋・ツクシの部屋……と次々に部屋を回ってはゴミの詰まったビニール袋を集め、所定のポリ袋へ放り込んでいく。最後にリビングのゴミを袋へ詰め込むと、自治体指定のゴミのシールを貼り付けて口を結ぶ。重いゴミ袋も何のそのとばかりに両手でぶら下げると、家のドアを押し開けて納屋へ向かう。

納屋から小さな折り畳み式の台車を引きずり出すと、長年使い古したためにガタが来て容易に展開できなくなっているそれを思い切り力を込めて広げ、持ち手の部分を伸ばしてロックを掛ける。額に滲んだ汗を服の袖で拭ってから、台車の物を載せる箇所に補助用のダンボールを敷き、その上にゴミ袋を載せる。もちろんこのままでは簡単に転げ落ちてしまうので、付属のフック付き伸縮ロープを上下にぐるりと巻き付け、フックを台車の上と下に引っ掛けて固定する。これでようやく準備完了だ。

ゴミ袋を載せた台車を引き摺りながら、シズがゴミの集積場を目指す。リサイクルゴミは明後日の金曜日だ、燃えないゴミは来週の月曜日だ。そうだ、帰ったら新聞を捨てる準備もしないと。先月捨てられなかったから、もう一ヶ月半分くらい溜まってる。今渡こそまとめて処分しなきゃ。台車の硬い車輪がコンクリートで固められた地面に擦られてガタガタと音を立て、振動が腕にまで伝わってくるのを感じながら歩き続ける。

普段ならまっすぐ集積場に向かって、足を止めることなど無いシズがその場で不意に立ち止まったのは、道中で思わぬ姿を目にしたからだった。

「あれ、スズじゃない」

「あ、お姉ちゃん」

シズの前を通りがかったのは、今まさに帰宅しようとしているスズだった。時刻はまだ午後五時になろうかといったところで、普段であれば練習に明け暮れている筈だった。今日に限ってこれほどまでに帰宅が早いのはどういうことなのか、シズには見当が付かなかった。

「お帰り、スズ。今日はずいぶん早いけど、部活で何かあったの?」

「逆逆。何もなかったの。顧問が進路関係で用事があって、今日は早めに切り上げることになっただけ」

「なるほど、そういうことだったんだね――」

大した理由では無かったことに安堵したシズが、ふとスズの足元に目を向ける。

そこには――折り畳み式のコンパクトな台車にくくり付けられた、スズが部活で使用している防具一式の詰まった大きな袋があった。

シズは惚けた表情のまま、無意識のうちに自分の右手へ視線を送る。腕を辿って行った先に何があるかは、皆まで言わずとも明らかだった。

自分とスズの距離は、大人が二人間に入れるかどうかという程度しか空いていない。だが、物理的な距離は所詮一つの単位でしかない。他の単位で見れば、諦観せざるを得ないほどの距離が開いている。今この瞬間の、自分とスズの置かれた状況を鑑みてみれば、あまりにも明らかだった。

同じように物を引っ張っているというのに、この差は一体何なのだろう。シズの胸中に、空虚なものが満たされていくという奇妙な感覚が生じた。空白がすべてを押し潰していく、そんなビジョンが浮かんでくるようだった。

しばし言葉を詰まらせていたシズだったが、やがて今自分とスズが置かれている状況というものを認識し、この状況に沿う言葉を言わねばならないと思うに至った。

「そうだ、スズ。まだ、お風呂沸かしてないから」

「わたしが戻るまで、少しだけ待っててね」

努めて冷静な風を装って、シズはスズにそう言った。

天井に貼り付いた水滴をぼうっと眺めながら、シズはここで記憶を辿るのを止めた。手でお湯を掬って顔を洗うと、額に浮かんでいた汗が洗い落とされるのを感じる。もう十分温まった、そろそろ出て後始末をしないと。浴槽から立ち上がると、水の跳ねるバシャンという大きな音が聞こえた。躰から水滴を滴らせながら、シズが再びシャワーの前に立つ。フックからシャワーのヘッドを取り上げると、赤いラベルの付いた蛇口を捻った。

熱い湯を身に受けながら、シズが口元を微かに歪める。

(わたしはきっと、ゴミ袋を引きずってる方がお似合いなんだ)

あの時の対照的に過ぎる光景を思い返し、心の中で自嘲する。あの時ほど、スズのことが羨ましいと感じたことはなかった。どうして自分はこれほどまでに情けないのだろうと、自分自身にとって最も酷で意地悪な質問を幾度も幾度も投げ掛けざるを得なかった。結局まともな答えを返すことはできず、拭いようの無い自己嫌悪と自己軽蔑の念が募るばかり。途方に暮れるとは、まさにこのことだった。

自分にはジムリーダーの器はないはずだ。きっとスズの方が向いているに違いない――精気の抜けた表情でシャワーを浴びる。躰を濡らした湯が肌を滑り降りて、床に無造作に叩きつけられていく。ざあぁあ、というシャワーの無機質な水音が止め処なく大きくなり、テレビの砂嵐ががなりたてるノイズ音のように変わっていくのを感じる。呼吸する度にごく小さく収縮と膨張を繰り返す胸を見つめたまま、シズは顔を起こせずに俯いていた。

(どうして、スズが妹だったんだろう)

どうしようもないことに理由付けをしようとして、また心が袋小路に迷い込む。追い詰められた心は行き場を失って、すぐにその場にくずおれる。人生とは理不尽なものだ。自分の手では如何様にもならないことで、進む道が決まってしまうのだから。

瞼の裏が微かに熱くなった気がした。目を閉じると、上から降り注ぐ熱い湯とは別種の熱を帯びた水滴が零れ落ちた。目を瞑る度に瞳から零れて目元を湿らせ、頬を濡らして落ちていく。

放っておくと、いつまでも止まりそうに無かったから――シズは手桶でシャワーの水を受けて、顔をごしごしと洗い流した。

一度だけでは足りなかったから、二度三度と繰り返した。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。