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#07 シズちゃんのポジション

放課後の帰り道を、通学用のバッグを背負ったシズが一人歩いていく。今日は買い置きの食材で献立が賄えそうだと分かっていたので、買い物へ行く必要は無かった。真っ直ぐ帰宅して、細々とした家事をしなければ。シズの頭の中では、既にするべきこととその順序が決められつつあった。

掌にあった携帯電話に親指を掛ける。パチン、と音がして、携帯電話が上下に開いた。チエのスマートフォンを見た後だと、この一連の動作やコンパクトミラーのような今の携帯電話の形状が古くさく思えてしまう。少し前まではそんな気持ちは生じなかったのに、感覚的にそう感じてしまうのだ。「なんとなく」「感覚的に」というのは、裏付けが無いにも関わらず動かし辛い感情であるから、常に理詰めであることを求められる現代社会では厄介な代物と言えた。

「ルミちゃん、こんなに気にしなくてもいいのに」

広げられた携帯電話のディスプレイには、ルミから送られてきたメールの文面が表示されていた。「今日はごめんね。また、一緒に買い物行ったりして遊んでくれるかな」。メールにはそう書かれている。今日の午前中に起きた、サダコと彼女の率いるグループがシズに対して繰り広げた行動に際して、ルミが動けずシズを見守ることしかできなかったあの件だ。シズ自身は「仕方のないことだ」と諦めつつ受け容れていたが、ルミの方はかなり気に掛けているようだった。

これは、クラスに於けるルミのポジションも絡んでいる。ルミは仕切り役でこそないものの、比較的活発で交友関係の広いタイプだった。サダコのようなリーダー格を最上位、逆にシズのような種々のグループと距離を置いている層を最下位とすると、ルミはおよそ「中層の上位」に当たるレイヤーに居た。クラス内でそこそこ目立ち人間関係も広いものの、最上位層とは明らかに別の扱いを受ける、そういう位置づけだ。

シズにはチエもいたし、リョウタもいつも支えてくれた。何より、シズは真面目で面倒見の良い性格だったから、グループを問わず「ほどほどに良い」関係を保っているクラスメートは少なからず居た。男子からも女子からもほぼ同じように評価されているという点では、一概にシズを最下層と決めつけて掛かるのは実態を見誤らせるかも知れない。

ただ――ここ数日で、それまでの考え方が通じなくなってきていたのも確かだ。

(やっぱり、ジムリーダーになるなんて、そうそうあることじゃないから)

シズがジムリーダーになるという情報は、短い間にほぼクラス全体へ広まった。それ自体は、シズに近しい人間であれば既に知っていたことだし、遅かれ早かれ、話が広まってしまうことは予想できた。情報を受け取る各人で解釈が違うことも、あらかじめ分かっていたことだ。

クラスでも目立たないマジメちゃんが、来年にはジムリーダーに就任して、この町の顔になるんだって――同級生たちの様子を見ていると、概ねそんな感想を抱かれているような気がした。シズはそれを否定するつもりは毛頭無い。何せ自分自身も同じ感想を抱いていたのだから、否定する理由が無かった。

自分に向けられる視線が明らかに変わった気がする。それまでの無個性な置物を見るような目から、あたかも転校生を見るような目に変わったように思うのだ。シズは転校そのものを経験したことは無かったが、自分のクラスに転校生を迎えた経験はあった。あの、珍獣を遠巻きに観察するかのような視線の雨と同じ、得体の知れない圧迫感を、今のシズも痛いほど感じていた。クラスにおけるポジションがドラスティックに変化したこと、それを些か過剰なまでに分からせてくれていた。

クラスでのポジションが変わったことで、これまでとは違う立ち回り方が求められることを意識せざるを得なくなったと共に、今のシズにはどうしても拭いきれない、抜き難いネガティヴな感情があった。疎外感である。自分ではみんなと変わらない、普通の子供であり、普通の女子であり、普通の中学生であると考えていても、周りがそうは見てくれない。別種の生き物が教室に入り込んでいるという雰囲気がありありと漂っていた。

自分を取り巻く「みんな」とは違い、シズは普通科の高校へ進学することはないというのも大きかった。小学校を卒業してトレーナーにならず中学へ進学した者は、そのおよそ八割が普通科の高校を受験し進学するという統計が出ている。以前クミとルミが話していたように、ほとんど中学校から地続き、義務教育の範疇だと考える生徒が大半を占めていた。それだけに、普通科の高校へは進学しないというシズの進路は、「みんな」から見れば完全に常識外の選択に映っていた。

本人もそれは分かっていた。「みんな」という「集団」から離れて、「ヒワダタウンのジムリーダー」という「個人」として活動していくということ、それがどれほど大きく違っているかくらい、少し考えればすぐに理解できるものだった。

集団を離れて個人になるというのは、シズにとって未だかつて経験したことのない出来事だった。言うまでもなく、大きな不安を抱かざるを得ない。ずっと属していた「みんな」から離れ、すべてを自分が解決していかなければならないという状況に、耐えることができるのだろうか。もはや不安を通り越して、恐怖にさえ思えた。

(これから、どうすればいいんだろう……)

あと半年、一体どんな顔をして過ごせば良いのだろう。今までずっとメインストリームを外れてきたためか、却って必要以上に目につくこともなく、比較的安穏とした学校生活を送ってきたが、これからはそうは行くまい。クラスメートから投げ掛けられる視線に耐えられるかどうか、シズは気が気ではなかった。

クラスメートの中でも特に気になるのが、女子グループのリーダー格であるサダコだ。今日の教室に於けるサダコの様子を見ていると、とても心穏やかにはいられなかった。その視線はシズを竦ませるには十分に過ぎる刺々しさで、敵対的な感情を持っていることに疑いの余地はなかった。それがただのシズの思い込みではないことは、あの快活なルミがシズの元へ向かうのを躊躇したことからも明らかだった。

シズには分かっていた。サダコが自分を目の敵にする理由は何なのか、あれほどまでに強い目を向けてくるのかということの理由が何か、ということをだ。それは、シズがジムリーダーになると分かったからに他ならない。サダコがその情報を仕入れるまで、即ち昨日までは、サダコはシズに対して文字通り目もくれなかった。シズなど最初からいないような扱いを受けていて、もちろん会話をすることなどもなかった。彼女の態度があのようになったのは、シズのジムリーダー就任がトリガとなっていることに間違いは無かった。

(……仕方ない、仕方ないよ)

諦念が満ちていく。シズにはサダコの気持ちを変える術など無かったし、サダコがシズに敵愾心を抱くことを止めることなどできるはずもなかった。サダコにはサダコなりの考えがあり、それが今の行動に結びついている。サダコが自発的に変わろうとしない限り、サダコの心情や信条を改めることはできないだろう。

サダコには、サダコの言い分があるからだ。

(夏休みの間に、みんな忘れてくれないかな)

もうすぐ始まる夏休みという長大な時間が、自分のジムリーダー就任というイベントを忘れさせてくれることを望む――今のシズには、そんな消極的な願望しか抱けなかった。

 

 

一学期の登校日も、今日が最終日となる。夏休みを目前に控えた学校は、すっかり弛緩したムードに包まれていた。終業式が済めば自由が待っていると思えば、それも致し方ないだろう。この学校で期末試験後に授業が設定されていたのは、学習指導要綱の都合で二学期に指導すべき項目がやや過多気味となっており、本来二学期に実施する授業を少しでも早く先取りしようと教員が工夫を凝らした結果なのだが、生徒らに正しく内容が伝わっているかは甚だ疑問だった。

朝の休み時間中、シズは自席にやってきたリョウタと話をしていた。シズとリョウタは同じクラスに属していて、スズは隣のクラスに籍を置いている。教室で二人が話すのはよく見られる光景で、周囲も二人が幼馴染だと知っていたので取り立てて騒ぐようなことも無かった。

「シズ。夏休みになったら、またウバメの森へ遊びに行きたいな」

「そうだね。チルチルの仲間も増やしてあげたいし……それに、もう長い間時渡りの神様のお参りもしてないからね」

シズの口にした「チルチル」というのは、彼女の一番の相棒であるレディアンのニックネームだ。特に深い由来があるわけではなく、名前をつけた当時読んだ児童文学に登場する主人公の少年の名前をそのまま拝借したものだ。そこから分かる通り、シズのレディアンは♂だった。冷静沈着な性格の持ち主であると同時に、四本の腕を使ったパンチ攻撃を得意とする意外な武闘派でもあった。

「リョウタ君は夏休みの間、塾へ行ったりするのかな」

「平日はほとんど講習で埋まってるな。大体昼から夕方までずっと講義。今からもううんざりするって」

「大変だね。体壊さないように、気を付けてね」

夏期講習が詰まっていると嘆くリョウタを、シズが申し訳なさげな表情をして気遣う。リョウタはシズの顔を見て、そして小さく頷いて応じた。

特段変わった話をしていたわけでもなく、シズもリョウタもごくごく普通の日常会話を交わしていただけだったが――しかし、自分たちの間にこれまでとはどこか違った空気が流れていることを、二人共に感じ取っていた。目には見えない空気が微妙な緊張感をもたらしているのは、二人が互いの顔を窺おうとして、相手と視線が交錯した途端目を背けてしまうという行動を繰り返していることからも明白だった。

(これって、やっぱり……)

シズのリョウタに対する気持ちと、リョウタのシズに対する感情。少し前まで名前を付けられずにいたそれを、シズはごく最近になってようやく理解し始めた。自分がリョウタのことをどう思っているか、それをある程度形にできるところまで、シズは理解を深めていた。そしてそれは、リョウタも成り行きこそ違えど、同じ結果に辿り着いているようだった。

少しばかり気恥ずかしそうな表情を見せた後、シズを前にしたリョウタがごまかすように小さく咳払いをして、おもむろに別の話題を口にした。

「あれから、ツクシ兄とどんな話してるんだ」

「相変わらず、ジムリーダーの心得とかだよ。毎晩一時間くらい時間を取って、いろいろ教えてくれるよ」

「毎日一時間もやってんのか。なんか、思ってたより大変そうだな」

「うん、もう本当に……今はまだ付いてくだけで精一杯で、全然まとめられてないよ。お兄ちゃんから教えてもらったことをちゃんと整理しなきゃって思ってるんだけど、家のこともしなきゃいけないし、うまく行かない感じ」

シズが思いの外長い時間をツクシからの引き継ぎに割いていると知って、リョウタは軽く目を見開いた。シズはツクシから教わった内容の理解を深めたいとは思っているが、家事に追われて時間を作れずにいる状態が続いていた。誰よりもシズ自身が歯がゆい思いをしていたわけだ。

「なんか、俺にも手伝ってやれることがありゃいいんだけどな。そういうわけにも行かないか……無理するなよ、シズ」

「大丈夫だよ。リョウタ君がそう言ってくれるだけでも、うれしいよ」

自分を気遣ってくれるリョウタに、やや俯き加減ながらも口元に笑みを浮かべてシズが応じる。リョウタはシズの表情を見やると、シズの表情に抜き難い「曖昧さ」が残っていることを察して、僅かに目を逸らした。シズはごく小さくため息をついて、伸ばしていた腕を曲げて折り畳む。

「ねえ、リョウタ君」

ぽつり、とシズが言葉を零したのは、この時だった。呼び掛けられたリョウタがシズに目を向けると、シズは視線を机に投げ掛けたまま、抑揚の無い、か細い声で、こう呟いた。

「わたしがジムリーダーになること、どう思う?」

その瞬間、リョウタが隣で目を見開いたのを、シズは見逃さなかった。正面のシズをまじまじと見つめたまま、リョウタは身じろぎ一つせずにいる。シズはリョウタの如実な反応を見て、自分の問い掛けはリョウタにとって少なからず複雑な感情を思い起こさせたのだと悟った。

自分の質問を受けたリョウタから目を見張るような視線を向けられたシズが、気まずさを帯びた表情を浮かべるまでは、然程時間を要さなかった。

「やっぱり、わたしなんかが……」

「違う、そういうことじゃない」

シズが俯いたまま言い掛けた言葉を遮るようにして、リョウタが「違う」と口にした。シズは顔を上げて、心細そうな表情を見せる。リョウタはシズから視線を外すと、ほとんど間を置かずにこう続けた。

「俺の問題は俺の問題で、シズがどうこうってわけじゃない」

「それに……シズだって単純に、ジムリーダーになれてうれしい、って気持ちじゃないだろ。それと同じなんだ」

机の上に手を付いて、リョウタが絞り出すような口調で言った。幼馴染の様子を見たシズは、その痛切さに胸を痛めざるを得なかった。そのまま押し黙って、シズが思考を重ねる。

リョウタの立場に立って、シズが今一度考える。シズがジムリーダーに就任するということは、どのような意味を持っているのか。外形的な意味を取れば、幼馴染の一人が中学校の卒業と同時に責任ある役職に付くという形になる。単にそれだけであれば、スムーズに受け入れることもできたかも知れない。しかし、それは一面的な見方に過ぎない。物事には、物事を見る者の数だけ見方が存在している。

シズは考える。自分がジムリーダーになろうとしているのは、ジムリーダーの親族だったからだ。仮に自分がジムリーダーと血縁関係になければ、縁もゆかりもない職業のままだっただろう。だから、自分にジムリーダーとしての素質や器量があったから、というわけではない。そうした能力的な部分を差し置いて、血のつながりのある兄妹だから、という理由でジムリーダーになろうとしているのは、リョウタにとってどう映っているだろうか。

共に顔を俯かせたままだったシズとリョウタの間に、不意に割り込んでくる影があった。

「お姉ちゃんたち、何話してるの? 夏休みのデートの相談?」

薮から棒な発言とはまさにこのことで、驚いたシズとリョウタは揃って顔を上げた。二人の目線の先には、悪戯っぽい表情をしたスズの姿があった。

「もう……スズ、びっくりするじゃない。どうしたの? 何かあったの?」

「別に。休み時間ヒマだったから、お姉ちゃんたちのところに遊びに来たってだけ」

「ったく……来るなりいきなり『デートの相談?』はねえだろ。そんなんじゃねえよ」

不意に割り込んできたスズが突然投げ掛けてきた言葉に、リョウタがばつが悪そうな表情をして言い返す。対するスズはふん、と小さく鼻で笑って、リョウタに挑発的な、あるいは挑戦的とも言える視線を向けた。

「リョウタのくせに、お姉ちゃんに鼻の下伸ばして、バッカみたい」

「お前、言いたい放題言いやがって。どういうつもりだよ」

「あたしの勝手でしょ。あんたなんかちっとも怖くないんだから」

言い合いを始めるスズとリョウタを、シズが二人の間に立って見つめる。スズが憎まれ口を叩けば、リョウタがそれに応戦してぶっきらぼうに言葉を返す。

「お姉ちゃんとリョウタじゃ、全然釣り合いが取れてないってことよ」

「釣り合いとかなんとか、どういうことだよ」

「バカ。そういうあったま悪い言葉が、何も考えてない証拠だって言ってんの!」

スズはリョウタを相手にしても一歩も引かず、ふんぞり返ってきつい言葉を浴びせる。リョウタもリョウタで、シズが相手の時には見られないような強い調子でもってスズに反撃する。ああだこうだ、ああでもないこうでもない、これだから女はこれだから男は。延々と言い争いを続けて、止む気配を一向に見せなかった。

そんな二人の様子を、シズは少し距離を置いて見守っていた。時折ちらりとスズの方を見ては、スズがその瞬間その瞬間でどのような表情をしているかをつぶさに確認する。シズはスズの言葉や身振り手振りの端々から、どんな感情をもってリョウタとの遣り合いを繰り広げているかを大筋で推し量ることができた。シズはスズの双子の姉だ、性格こそ異なれど、赤の他人に対してよりも思考の把握はやりやすかった。

シズはスズの気持ちを察して――さらに、悩みを深めた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。