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#12 シズちゃんの涙

「ここは……やっぱり、涼しくていいね。クーラーの効いた部屋より、こっちの方が気持ちいいよ」

「日が差さないから、ちょっと薄暗いけどな」

明くる日。高く昇った日を背にして、夏の装いをしたシズとリョウタが並んで歩いていく。向かう先は、ヒワダタウンの西に位置する「ウバメの森」。この日差しの強い日中にあっても、日の差さない場所のできる鬱蒼とした森だった。深部にはヒワダタウンの守り神として敬われている「時渡りの神様」を祀った祠があり、一帯を管理する寺社によって手入れが行われている。

シズとリョウタの二人は、何がしか明確な目的があってこの森へ足を運んだわけではない。シズもリョウタも、こうして話す時間を作りたいという思いがあったことが一番大きかった。幼馴染であるから、ハッキリした目的が無い時間を一緒に過ごしていても特に違和感を覚えることはなかったし、そもそもこうしたことは今回が初めてというわけではもちろん無かった。

二人には時間が必要だった。誰にも邪魔されることなく、二人で話をすることのできる時間が必要だった。そういう意味で、足を運んだウバメの森は最適な場所と言えた。普段はあまり人が入り込むことがなく、落ち着いて話のできる場所だった。シズとリョウタの間で話すべきことはたくさんあった。そしてその何れもが、おいそれとは結論の出ない複雑なものと言えた。

どちらが、いつ、何を、どのように話すべきか――

「なあ、シズ」

互いに腹の探り合いを続けた中で先に口火を切ったのは、リョウタの方だった。

「最近、スズはどうしてるんだ?」

「今日も練習だよ。八月の中頃に地区大会があるから、その最後の追い込みを掛けてるみたい。毎日朝早く出て行って、帰ってくるのはいつも七時を回ってから。それですぐに寝ちゃうから、話をする時間も無いよ」

「そうか……いや、そうじゃねえかとは思ってたけどさ。あいつ、一旦やると決めたら絶対妥協しねえから」

ジーンズのポケットに手を突っ込みながら、リョウタが小さく呟く。

「俺、あいつと話をしなきゃいけないって思ってるんだけどな」

ぴくり、とシズの躰が小さく震える。リョウタの発した言葉の意図を察したシズが、ゆっくりと目を向ける。

「それって……やっぱり」

「いつまでも引っ張ってたら、あいつが苦しむだけだ。そうだろ?」

リョウタの言葉に、シズは答えを返すことができない。痛切な表情をして、ただ口元を歪ませるばかりだった。

「だから、俺がちゃんと言わなきゃいけないんだ」

「スズの気持ちには――応えられない、って」

ほんの一瞬、シズはリョウタの言葉が自分に向けられたかのような錯覚を覚えた。すぐにそれは打ち消されたが、直後に湧いてきた感情は、とても残酷なものだった。

スズは、この言葉を現実のものとして聞くことになる。錯覚で済んだ自分とは違い、スズは現実のものとして、リョウタからの拒絶の言葉を受け入れなければならない。そしてリョウタもまた現実のものとして、スズにこの言葉を伝えなければならない。

そこに自分が介在していないことが、余計に残酷に思えてならなかった。

「……ごめん、リョウタ君」

シズは意識せぬまま、リョウタに謝罪の言葉を述べていた。シズの痛ましげな表情を目にしたリョウタが、俯き加減で彼女に言葉を返す。

「シズが謝ることじゃないだろ。誰かが悪いって、そういう話じゃないんだ」

「……そう、だよね。リョウタ君の、言う通りだよ……」

先の謝罪に何の意味もないことは、口にした当の本人が最もよく理解していた。誰かが謝れば済む、そういう類の話ではないことは百も承知だった。シズが謝罪したところで、誰かが傷つくのを止めることはできない。シズ自身、自分が「謝る」ということ自体が、スズを傷つけることにつながると十分分かっていた。

だから尚更、スズに対してこの話を切り出せずにいた。

森の小路を進む二人に、暫しの沈黙が訪れる。風が吹いて木の葉が揺れる。シズとリョウタが足を踏みしめる度に、ざりっ、ざりっ、と乾いた土の音がする。ウバメの森にはヒワダに多く見られるヤドンもいない。ここは彼らの住処ではないようだった。

ウバメの森を抜けた先には、コガネシティへ続く国道がある。国道への入り口を森の終点とするなら、二人が森の二合目ほどにまで入り込んだ時のことだった。

「リョウタ君。この間の、続きだけど」

不意にシズが沈黙を破った。シズの発した言葉を耳にしたリョウタが、すぐさま隣を歩く幼馴染の顔に目を向ける。

「この間の続き……あれか、シズがジムリーダーになるっていう話か」

リョウタの問いに頷くシズ。以前、答えを待っている途中にスズに割り込まれた――シズがジムリーダーになることについて、リョウタはどう思っているかという話だった。シズがこの話を蒸し返したのは、どうしてもリョウタから意見を聞きたいからに他ならなかった。

ふう、とごく小さく、リョウタの口からため息が漏れる。難しい表情をして、しきりに口元に手を当てているのが見える。話すことを躊躇しているのは明らかだった。リョウタがこんな仕草をする理由など、シズは百も承知だった。リョウタにとって話辛いことを訊いている、そんな自覚は嫌というほどあった。

リョウタは幾度となく逡巡を重ねたのち、ようやく口を開いた。

「シズ。俺がヒワダジムを抜けた理由、シズは知ってるよな」

「ノリユキ君のこと……だよね?」

「そうだ。あいつの、ノリユキのことがあったから、俺は……」

ぐっと目を閉じるリョウタの姿を、シズは見逃さなかった。

見逃すわけには行かなかった。

「あいつはまだ、自分の家にいる。あれから、少しも変わっちゃいない」

「母親と婆さんに面倒見てもらって、今でもどうにか生きてる」

「けど、あれを本当に『生きてる』なんて言えるのかは……俺には分からない」

ノリユキの話をするリョウタの顔に、急速に濃い影が差すのが見えた。やりきれない。顔つきからそんな思いが伝わってくる。彼の隣にいるシズは、それを誰よりも近い場所から受け止める形となった。

「知ってるだろ、俺……あいつの、ノリユキの『親友』だったから」

「今でも時々、あいつの家へ顔を見に行ってるんだ」

確かにそうだった、とシズが記憶を辿る。かつてリョウタとノリユキは共に競い合う好敵手で、シズとスズとはまた違う形で深く長い付き合いがあったのだと。一見古ぼけているかのように見えたその記憶は、高々四年か五年ほど前のものに過ぎなかった。

記憶そのものが古びていたのではない。もう思い出すまいと鍵を掛けて、意図的に意識の埒外へ放逐していたから、まるで古びているかのように見えただけだった。

「だけど」

「あいつは、俺のことが分からない」

「分からないんだ」

絞り出すような声で、リョウタが言葉を発する。涙を零さずに咽び泣いているかのような声だった。息を呑むシズの鼓動が、知らず知らずのうちに高鳴っていく。目を大きく見開き、隣で感情を露にする幼馴染の少年の姿を瞬き一つせず捉え続けていた。

「チョウジで見つかったあの日から、あいつの時計は壊れて止まったままだ」

「ここにいる時渡りの神様だって、あいつの時計をもう一度動かすなんてことはできやしない」

「もう、俺たちと同じ時間を生きることはできないんだ」

「信じてたものを根こそぎ全部ぶっ壊されて、何も信じられなくなったんだ」

リョウタとノリユキは親友同士だった。それは、物心ついてからずっと側にいるシズもよく知っていることだった。互いに同じ時間を過ごしたからこそ、ノリユキが遠い過去に取り残されてしまったことを、リョウタは底無しに悔やんでいるのだ――感情的な言葉を並べるリョウタに、シズはそんな思いを見出した。

そして、その言葉が自分に対してもまた向けられていることを理解しないほど、シズは鈍感でも単純でもなかった。

「ノリユキは大好きだった『ポケモン』に、何もかも奪われちまったんだ」

「将来の夢も、これからへの希望も、あったかも知れない可能性も、みんな全部だ」

「そんなあいつの姿を見て……俺は分かった。分かったんだ」

リョウタがシズを見据える。

「『ポケモン』は、夢を食い物にする下らない仕組みなんだ――ってな」

目線を外さぬまま、続けざまにこう言い放った。

「上に行ける奴なんて――『最初から決まってる』んだ」

リョウタの視線の先にいるシズは、自分を据わった目付きで見つめるリョウタの瞳に、昔目にした彼の姿が重なるのを視た。

『結局、うまくいくかどうかは、「環境」でほとんど決まっちまうんだ』

『努力だけじゃ、物事はひっくり返せないんだ』

『俺みたいな凡人がトレーナーになったって、どうしようもねえんだ』

リョウタが涙を堪えながら絞り出した言葉が、シズの脳裏に鮮明に蘇る。今この瞬間、冷めた目付きで鋭さを感じさせる言葉を並べるリョウタの姿は、在りし日の面影を色濃く残していた。過去を想起させるに充分な近似性を、リョウタは未だ保ち続けていた。

今も変わらぬ感情を抱いているということに、他ならなかった。

リョウタの話を受けて、シズは今一度考える。自分がジムリーダーになることに、リョウタは如何なる感情を抱いているか。リョウタはどのような思いを抱えて、自分がジムリーダーの地位に就こうとしている現状を見ているのか。

かつてリョウタが一流のポケモントレーナーを、ひいてはジムリーダーを目指していたことを、シズは片時も忘れたことはなかった。ツクシの元でトレーナーとして経験を積み重ねて、着実にその道を歩んでいた時期があった。将来はツクシのようなジムリーダーになりたい、幾度となくそう口にしていたのも覚えている。

あの日が訪れるまでは、それは揺らぐことのない信念のはずだった。

木々の林立する森を並んで歩くシズとリョウタが、共に言葉を詰まらせる。次に何を言えばいいのか、どんな言葉を弄せば救いを齎せるのか、そればかり考えていた。そして間もなく、そんな便利で都合のよい言葉など在りはしないと気付き、より深い沈黙へ沈むしかないと自覚するのだった。

自分がジムリーダーになること。リョウタとの対話の中で今一度その意味を再考したシズは、感じたことのないほどの大きな重圧に押し潰されそうになった。躰がギシギシと軋みを上げて、今にもへし折れてしまいそうだった。リョウタの心境に思いを巡らせれば巡らせるほど、プレッシャーが加速度的に強くなって行くのを感じた。

肩を小さく震わせたシズが、消え入りそうなか細い声で、リョウタに向けて言葉を発した。

「……ごめん」

シズの口から零れたのは。

「ごめん……リョウタ君」

謝罪の言葉だった。

「――――」

一瞬の沈黙の後――空気が揺れる。

「――なんで」

リョウタの目の色が俄に変わったのは、その言葉を発した直後だった。

「なんで、謝るんだ」

シズがハッと顔を上げた先には、固く拳を握り、沈痛な面持ちをした幼馴染の姿があった。

「いったい、何に謝ってるんだ」

「何に、謝ってるんだ」

シズは答えられない。リョウタの問い掛けに。

「お前は――」

「お前はどうして謝るんだ! なんで俺に謝るんだ!」

シズは応えられない。リョウタの心の叫びに。

言うべき言葉をすべて失ったシズは、感情を高ぶらせ声を荒らげるリョウタの前に、只々無力で無為だった。

怯えたような目をするシズに、リョウタは声の限り叫ぶ。

「謝ったって――」

 

「謝ったってどうにもならねえだろ! 変わっちまったもんは、もう元には戻らねえんだ!」

 

辺りが静寂に包まれる。シズとリョウタ、二人の周囲のみが、あたかも時が止まったかのような様態を呈していた。

シズはリョウタに対して何も言うことができなかった。すべての言葉が意味を失い、ただ空気を震わせる音の塊にしかならない。無意識下でシズはそう認識していた。リョウタの発した慟哭の前に、シズは用いるべき適切な言葉を見つけ出すことができなかった。

声を上げたリョウタの側も、脱力した表情を見せていた。シズを見つめる目は虚ろで、その瞳には少なからぬ悔恨の念が込められていた。この度し難い怒りをぶつける真の相手は、シズではない。断じてシズではない。理性がそう理解していても、抑えの効かぬ感情のうねりがそれを悉く押し流して、眼前にいた幼馴染の少女に直接叩きつける形となってしまった。

共に言葉を失い、沈黙の中にいたシズとリョウタだったが、

「……わたし、先に、帰るね」

その均衡を破ったのは、シズだった。

「そうだよね……やっぱり、そうだよね」

「シズ……」

顔面蒼白のまま言葉を吐くシズの顔を見たリョウタが、首を横に振る仕草を見せる。

「違うっ、お前は――!」

「さよならっ」

違う。そう言い掛けたリョウタが伸ばした手を振り払い、シズが元来た道を走って引き返す。逃げるように、という言葉がもっとも適切に思われる姿で、シズはウバメの森を駆け抜けていく。リョウタはその場に固まったまま、どんどん遠ざかり小さくなっていくシズの姿を見つめることしかできなかった。

無我夢中で走って、走って、走り続け、走り抜け、シズがウバメの森を抜け出す。リョウタと別れてから一度も立ち止まることなく、シズは出口まで走り抜けた。

「はぁ、はぁ……はぁっ……」

呼吸のペースを著しく乱し、肩で大きく息をするシズは、額にびっしょりと玉のような汗を浮かべていた。身に着けているワンピースの背中も汗で張り付き、生地からうっすらと肌が浮かび上がっていた。躰を小さく震わせ、時折よろめきながら、シズはふらふらと歩いていく。

やっとの思いで自分の家へ辿り着くと、覚束ない手つきで家の鍵を開け、ドアを開けて中へ入る。玄関で倒れ込むように両手を付くと、未だ整わぬ呼吸のまま十秒ほど体を起こすことができなかった。それでも無理やり体を立たせると、履いていた靴を脱ぎ捨て、壁を頼りにしながら這う這うの体で歩いていく。

「はぁあ……あっ、はっ……」

胃がぐちゃぐちゃに掻き回されたように熱い。視界が明滅して、一歩先さえも判然としない。リョウタの言葉が鳴り止むこと無くリフレインし続け、けたたましい残響音を立てて全身を駆け巡っている。フローリングの床に、冷たい脂汗がポタポタと零れ落ちていく。頬を伝って口に入り込んだ汗が塩辛かった。

帰宅したばかりのシズの躰に異変が起きたのは、その直後だった。

「うっ……ぐ……!」

不意にシズが口を押さえる。熱を帯びた不快な感触が、食道目掛けて一気に込み上げてきた。形容しがたい酸っぱい味があっという間に口一杯に広がったかと思うと、胃が不気味に蠢いて、ありったけの拒絶の反応を示す。

直感的に、シズはこれから何が起きようとしているのかを察した。これはかつて経験したことがある。熱を出して学校を休んだ折に、同じ事を一日中繰り返したことがあった。あの時ほど辛く惨めだと思ったことはない。延々と寝床とトイレを行き来し、自分の躰が壊れてしまったのかと錯覚したほどだった。

「んううっ、ぐぅうっ」

右手を力づくで口に押さえ付けたまま、もがくように壁を伝っていき、シズが左手で乱暴にトイレの扉を開け放つ。室内の電灯を点けることも忘れて、狂ったように便座を上げると、シズは膝を折って屈み込み、両手で便器の縁を掴んだ。右手という押さえを失った口を、最後の気力を振り絞って便器の中へ向ける。

――そして。

「うっ……ぅえぇえっ! げぇえっ!」

シズは、胃の中のものを盛大にぶちまけた。

「けほっ……げほっ……うえぇ……っ」

短時間で肉体と精神の双方に極大のストレスを受け、シズの胃は完全に機能異常を来していた。精神の混乱が身体の混乱へそのまま直結し、シズは嘔吐という痛ましい状況に至るまで追い込まれてしまった。口から夥しい量の汚物を零しながら、シズは何度となく咳き込み吐き続けた。

喉が焼け付くように熱かった。逆流した胃酸に焼かれて、炎症を起こしたかと思うほどだった。明滅する視界の中で、シズは無意識のうちに吐瀉物に目をやっていた。朝口にした玄米やほうれん草が、噛み砕かれたままの形で未消化物として吐き出されている。ベージュともクリームとも取れる汚物溜まりを目の当たりにして、シズの吐き気はより一層激しさを増した。

「んっ、んぐ……ぐえぇえっ!」

再び、シズが大量の嘔吐に見舞われる。びちゃびちゃと水音を立てて、吐き出された汚物が水面へ落とされていく。陶器の便器一面にシズが戻したものがこびり付いて、凄惨な光景が広がる。そのおぞましさは、今この瞬間誰よりも苦しんでいるシズ自身が、もっとも近い距離で嫌というほど鮮明に見せつけられていた。

「うえぇっ……! けほっ! ぅえっ……! かはっ……!」

最初の数度で何もかもすべて吐き出してしまって、胃の中は完全に空になっていたにも関わらず、シズは嘔吐き続けた。躰が過敏な反応を示して、ありもしない異物を排出しようとしている。それは頭の一方的な指令で、本質的にシズの躰を慮った反応とは到底言えなかった。便器にしがみついたまま、繰り返し繰り返し、シズが絞り出すような声を上げる。他人には到底見せられない、悲惨な姿としか言えなかった。

「はっ……はぁぁあ……はあぁーっ……」

散々嘔吐の真似事を繰り返し、ようやく吐き気が収まったシズが、便器から手を離す。全身から脱力して、トイレで膝を折ったまま動けない状態が暫し続いた。荒い呼吸を鎮める手立ても体力もなく、今はただ躰が求めるに任せるしかなかった。視界がグルグルと渦を巻き、今いるトイレの室内が明るいのか暗いのかさえ判断できなくなっていた。きぃん、という強い耳鳴りがして、全身にぞくぞくと強い寒気が走った。額からは止め処なく脂汗が滴る。唇は完全に青紫色に染まっていた。

そのまま、五分近くに渡ってまったく立ち上がれなかったシズだったが、残された理性は「いつまでもこんなことをしていてはいけない」としきりに訴えかけてきていた。まったく震えの止まらない手で、バルブを引いて水を流す。水洗の音を聞きながら、隣の洗面所で口元を洗った。それが済むと、文字通り這うようにして二階にある自室へ向かう。シズはもう心身共に限界に達していた。階段を一つ登る度に体が軋んで、意識が徐々に遠くなっていくのを感じずにはいられなかった。

体力はとうに尽きて、それでも気力だけで自分の部屋に戻る。中へ入ってドアを閉めると、カタカタ震えて言うことを聞かない手で内側からロックを掛ける。一人きりの空間を作り出すと、シズはカーペットの敷かれた床にがっくりと膝を突いた。

ウバメの森からここに至るまで、ずっと堪えていたもの。それが――ようやく自分の安心できる場所へ戻ってこられた。一人きりになれた。やっと感情を露にできる状態になったのだ。そのように頭で理解した途端、立ちどころに溢れ出した。

「……っく……うぅっ……!」

声を殺して、シズは泣いた。

目頭を両手で被って、止め処なく溢れてくる悲しさや苦しさといった負の感情を、涙という形で流し続けた。家には誰もいない。この時間に帰ってくることもない。一人だけだから、安心して泣くことができる。誰にも迷惑を掛けずに、自分の気持ちに整理を付けることができる。

いつもそうやって、抑えがたい感情を処理してきた。

シズの泣き声はしばしの間止まず、部屋の中で木霊し続けた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。