(変わり始めたのは――きっと、あの時からだった)
かつての美しい思い出に浸っていたシズが、記憶を一気に早送りし、リョウタとノリユキの二人の関係に変化が生じた頃にまで時間を進めた。
知り合ってからこの方、いついかなる時も互角だったノリユキとリョウタの二人に初めて差が生じたのは、六年生への進級を間近に控えた、春のことだった。
「ノリユキのやつ、もう試験に合格したの?」
「そうだってよ。親に頼み込んで、受けさせてもらったらしいんだ」
ノリユキがリョウタに先駆けて、ここヒワダタウンから旅立つためのチケット――より正確に言うと、ポケモントレーナーの普通免許をついに手に入れたという話が、仲間たちの間を瞬く間に駆け巡った。
シズやスズ、リョウタのような子供が持てるのは、言わば制限付きの免許だ。他人とポケモンの交換ができない、同時に連れ歩ける数最大では三体まで、ジムへの挑戦は不可、使役することが許されないポケモンが多数定められている――斯様な厳しい制約が設けられていた。シズやスズがツクシからポケモンを直接もらい受けるのではなく卵をもらって自分で孵したり(卵の譲渡や交換は例外的に許可されている)、頭数の欲しいスズがシズとチームを組みたがったりしたのは、これらの制約があったためだ。
この制限を解除するためには、小学五年生から受けられる筆記試験にパスしなければならない。ノリユキはこれを受験して、見事合格したというわけだ。普通免許を所持していれば、先の制限がすべて取り払われるだけでなく、ヒワダを出て他の地域へ行くことができる。さらにポケモンセンターなどの施設を優待利用できる権利も付く。これはノリユキのみならず、リョウタにとっても欲しくてならない代物だった。
「リョウタ君は、まだ受けちゃダメだって言われてるんだっけ……」
「……そうだよ。親が小学校だけは卒業しろって言って、受けさせてくれねえんだ。受けるためのお金も足りないって言って、何回言ってもダメでさ」
しかし対するリョウタは、両親の意向と家計の都合のために、小学校の卒業までは普通免許の受験が許されないという立場に立たされていた。経済力のない子供のリョウタには親の意見に逆らえる力もなく、思いを燻らせながらあと一年程を過ごさざるを得なかった。
確か「先を越された」と悔しそうにしていたっけ――シズはリョウタと二人で話をした時のことを思い出す。リョウタはこれまでノリユキと切磋琢磨してきて、二人は傍目から見ても本人からしてもほぼ同等の実力があると思われていたが、ここで大きな差がついてしまったと感じていたようだっった。
「俺だって、ノリユキと同じように外に出てみてえよ」
普段は見せないような悔しさを湛えた面持ちで、リョウタが呟いていたことを、シズはしっかり覚えていた。
そして。ノリユキが試験に受かってから一月も経たぬ内に、ヒワダから出立する彼の姿があった。
「ノリユキ君、気をつけて行ってきてね」
「立派になるまで帰ってくるんじゃないわよ。負けて帰ってきたら、あたしが追い返してやるんだから」
「任せとけって! オレはヒワダどころか、世界で一番強いトレーナーになるって決めたんだからな!」
電車の到着を待つ駅のプラットフォームで、シズとスズが旅立つノリユキを見送る。送られる側のノリユキは自信満々の面持ちを見せていて、不安は微塵も感じられない。
「シズ。お前のパンツ、紺ばっかで見飽きたからよ、帰ってくるまでにもうちょっと可愛いのにしとけよ」
「ええっ、だって……わたし、体操着じゃないとなんだか動きにくいし……それに、もうスカート履かないって決めたんだもん」
「まったく、最後の最後までこんな調子なのね。ま、度胸があるってことにしといてあげるわ」
「スズはあれだな、俺が帰ってくるまでに、トモミチから一本取れるくらいは強くなっててくれよ」
「あんたに言われなくたってそうするつもりよ。負けるつもりなんてこれっぽっちも無いんだから」
「ふふふっ。賑やかでいいね。旅立ちはどうしても湿っぽくなりがちだけど、ノリユキ君には関係ないみたいだね」
見送りに来ていたのはシズとスズだけではない。これまでジムでノリユキの面倒を見ていたツクシも、彼の門出を見守ってやっていた。
「リーダー! 俺はもっと強くなってここへ戻ってくるから、その時また勝負してください!」
「望むところさ。僕は君を次のジムリーダーを担えるトレーナーの一人だと思ってるからね。一回り大きくなって戦えるのが、今から楽しみだよ。頑張ってきてね」
「期待しててください! 俺、絶対勝ちますから!」
ツクシはジムに在籍するトレーナーに一切の分け隔てなくやさしく接していたが、その中で特に熱意のある二人のトレーナーには格別に目を掛けてやっていた。ノリユキもその一人であり、ツクシの期待が言葉として現れた形になっていた。
そして、残るもう一人が――。
「行っちまうんだな、ノリユキ」
ノリユキの好敵手だった、リョウタだった。
「ああ、行ってくるぜ! 別人みたいになって帰ってくるから、楽しみにしてろよ!」
「……分かったよ」
待ちに待った旅立ちを前にして気が昂ぶっていることがありありと見て取れるノリユキとは対照的に、リョウタの声は深く沈んでいた。
「あーあ。リョウタったら、ノリユキに先越されちゃったわね。男のくせに嫉妬しちゃって、『悔しい』って顔にクッキリ書いてあるわ」
「なっ、スズ……!」
「スズ、やめなよ」
「ま、悔しい気持ちをバネにして、せいぜい頑張んなさい。今じたばたしたってどうにもならないでしょ?」
「うるせえ、お前が言うな。黙ってろよっ」
「もう、スズったら……」
リョウタの気持ちは、あの時のスズが見事に言い当てていた。親友の旅立ちを素直に祝えない、どうしても生じる「先を越された」という感情。そうした複雑な心の有り様が、リョウタに声のトーンを落とさせていたのだ。
後数分もすれば、ノリユキが乗り込む予定の電車が来る。今か今かとそれを待ち侘びるノリユキに――
「……ノリユキ」
「ん……?」
――思いも寄らぬ人物が、声を掛けた。
「えっ……?」
「ちょ、これ……どういうこと?」
「お前、どうして……?」
少なくとも、ノリユキの周囲にいた仲間たちにとっては、それは想像だにしない人物だった。
「……珍しいからって、そんな目で見るんじゃねえよ。見せもんじゃねえぞ」
そこに立っていたのは、手編みの麦わら帽子を被り、セルリアンブルーを基調としたキャミソールタイプのワンピースを身に着けた、ショートカットの少女だった。言うまでもなく、シズでもなくスズでもない。残るクミとルミはどちらも髪を伸ばしていて、髪型は明らかに違う。そして、今日は見送りにいけないという連絡を既にもらっていた。
「……よう、サダコ。お前も来てくれたんだな」
ノリユキを見送りにきた少女。名前を、サダコと言った。
ただ――普段、彼女はその名前では呼ばれていない。
「サダ……オ……?」
「あんた、どうしてそんな恰好……」
「けっ、悪かったな。ワンピが似合わなくてよ」
仲間たちからは、男子のような名前の「サダオ」と呼ばれるのが通例だった。
サダオは、本名を、サダコと言った。
サダコは歴とした女子で、そこに間違いはない。サダコは女の子である。ただ、並の男子以上に勝気で腕白な性格と、男子顔負けの粗野な口調とが相まって、ジムの仲間たち、こと男子組からは、ふざけ半分で「サダオ」と呼ばれていた。普通ならここで怒って言い返しそうなものだが、男勝りなサダコは却ってそれを気に入り、むしろ自分のことを「サダオ」と呼ぶよう皆に言い付けるほどだった。装いもまさしく「少年」そのもので、仲間たちもほとんど意識せずに男子として接していた。
そんなサダコが――決して派手とは言えないが、清楚さを感じさせるワンピースを身に着けてきて、恥じらいながらノリユキの前に立っている。スズやリョウタは明らかに困惑していた。どうしてここにサダオが――いや、サダコが現れ、普段まず着ることのないような女の子の服を身にまとっているのか。見当も付かないと言いたげな様子だった。
「お見送り、来てくれたんだね。ありがとう。わたしもうれしいよ」
「勘違いすんなよ。よ、予定が開いたから、暇つぶしに、来てやっただけだ」
「ただの暇つぶしで、あんたがそんな服着てくるわけないでしょ、サ・ダ・コ・ちゃん」
「うるせえ、これ見よがしに女の名前で呼ぶんじゃねえよ」
顔を真っ赤にしたサダコが、麦わら帽子で懸命に顔を隠す。彼女の仕草を、ノリユキはじっと見つめていた。
「俺も、来てくれて嬉しいぜ、サダコ」
「ノリユキ……」
「それ、自分で選んだのか?」
「……ああ。これでも、選ぶの大変だったんだ」
「そうだったんだな。似合ってるぜ、その服。お前にピッタリだ」
ノリユキを前にしたサダコは瞳を潤ませて、すっかりしおらしくなっていた。その様子を見逃すスズではなく、すかさず横槍を入れに掛かった。
「ふーん、なーんか前々から一緒にいることが多いと思ってたけど、これでやっと納得したわ。やっぱりそういう仲だったのね」
「ばっ、ばか……! あたしとノリユキが、いっ、一体、どういう仲だって……!」
「あれは確か、去年の秋の遠足だったかしら。どっかのクラスの男子と女子が、二人で一緒に道を外れたせいでみんなと逸れて、大騒ぎになったのって」
「お、おいスズ、やめろっ、やめろって!」
「そうそう、二人が帰ってきたのは、次の日の朝になってからだったよね。みんなすごく心配して、お兄ちゃんも探すのを手伝ってたっけ」
「あの時のことだね、シズ。僕も覚えてるよ。チルチルやミドリにも捜索を手伝ってもらったしね」
「うん。それで、サダコちゃんが足にケガしちゃってたけど、二人とも無事で見つかって、よかったあ、って安心したのを覚えてるよ」
「し、シズっ! いちいち余計なこと言うんじゃねえよっ!」
「あの時は単純にノリユキとあんたが道に迷ったと思ってたけど、なんかそれだけじゃ無さそうね。まさか、駆け落ちでもする気だったとかじゃないの?」
「違えよ! そんなんじゃねえ! もうお前は黙ってろ!」
次々に突っ込みを入れられ大わらわのサダコを、ノリユキは優しい笑みを浮かべて見つめている。しばしサダコの姿を瞳に映し出した後、おもむろに声を掛けた。
「サダコ」
「な……なんだよ!」
「――約束、必ず守るからな」
落ち着きのなかったサダコが一転、ノリユキを見つめたまま、ピタリと静止した。
「帰ってきたら、お前を迎えに行くから、それまで待っててくれ」
「ノリユキ……」
「続きは、その時だ」
ノリユキの言葉を受けた、サダコは――。
「……分かった。あたし、待ってる。ここで、ノリユキのこと、待ってるから」
小さく小さく頷いて、絞り出すような声で、肯定の意を返した。
そして、それから暫くもしないうちに、コガネ方面行き八両編成の急行電車が、ヒワダ駅のプラットフォームへ滑り込んでくるのが見えた。
「おっ、もうすぐ電車が来るな。こっから外の世界へ繋がってるってわけか」
彼の言葉通り、ノリユキが乗っていく電車はこれだ。今一度リュックを背負い直して、ノリユキがリョウタを見やる。
「リョウタ。俺は先に行ってるぜ。お前も早く俺に追いついてこいよ!」
口元を結んだまま、リョウタは何も言えずに佇む。そんなリョウタの様子を知ってか知らずか、ノリユキはすぐ近くの開いた電車のドアの前に立つ。
「サダコ、待っててくれよ。俺は必ず、ここに帰ってくるかな!」
両方の目に微かに涙を滲ませながら、サダコが大きく頷いた。サダコの姿をしっかり見届けたノリユキが、彼女にくるりと背を向ける。
「じゃあな皆、行ってくるぜ!」
最後に一言そう言い残して、ノリユキは電車へ飛び乗った。
シズとスズ、ツクシ、そして――リョウタとサダコに見送られながら、ノリユキを乗せた電車は扉を閉めて、コガネ方面へ向けて走り出した。
リョウタとサダコは、どんどん遠ざかっていく電車を、その姿が完全に視界から消えてしまうまで、ずっと、ずっとずっと、見つめ続けていた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。