(――別人みたいになって帰ってくる、か……)
ヒワダタウンから旅立つ直前、ノリユキが皆に投げ掛けた言葉。これまでとは別人のような成長を遂げてヒワダタウンへ帰ってくる、これまでのノリユキとは一線を画すような存在になって戻ってくる。口にした本人は、もちろんそんなニュアンスを込めてそう言ったに違いなかった。そしてあの場に居合わせた誰もが、その意味でノリユキの言葉を解釈したはずだった。
確かに、ノリユキは別人のようになって帰ってきた。これまでのノリユキとは違う存在になって、ヒワダタウンへ戻ってきた。帰還した彼の姿を最初に見たときは、とてもノリユキとは思えなかった。
ノリユキは文字通り、別人になって舞い戻ってきた。
本人も想像しなかったであろう、変わり果てた姿で、故郷へ帰ってきた。
ヒワダタウンからノリユキが旅立って、もうすぐ一年が経とうとしていた折のことだった。春と冬の間の、まだ肌寒さの残る日だったように思う。いつものようにジムでツクシの手伝いをしていたシズは、事務室の電話が鳴ったのを耳にした。ジムに所属するトレーナーたちにポケモンバトルのレクチャーをしていたツクシに代わって、シズが素早く代理で応答に出る。
「はい、ヒワダジムです」
「ああ……この声は、シズちゃんか? 私だ、チョウジタウンのヤナギだ」
「えっ、ヤナギさん……!?」
受話器の向こう側にいたのは、ここヒワダタウンから遠く離れたチョウジタウンのジムリーダー・ヤナギだった。思わぬ人物からの電話を受けて、シズが思わず息を呑む。
シズはヤナギのことをよく知っていた。というのも――昨年の夏休みに彼がヒワダタウンを訪れ、シズたちの家に三日ほど滞在していたことがあった。その間のヤナギの世話役を、他ならぬシズ自身が受け持ったからだ。
事前にツクシから見せてもらった写真では、いかにも強面で頑固そうな老人という印象を全身から放っていて、シズはどんな人物だろうと緊張しながら来訪の日を待った。
(ガンテツさんに雰囲気似てるけど、どんな人なんだろ……)
当日。ヒワダ駅の改札で考え事をしながらヤナギを待っていたシズの前に、写真で見たとおりの……いや、姿形は同じだが、実物は纏っているオーラがまるで違っていた。考えていた以上に威厳のある顔の老人が現れた。この老紳士こそ、チョウジタウンのジムリーダーであるヤナギその人に違いない。シズは身を固くしながら、声を振り絞って挨拶をする。
「こっ……こんにちはっ。おに……じゃなかった、兄のツクシに代わって、お、お出迎えに来ましたっ」
「……おお、この顔は。君がツクシ君の妹さんか?」
「は、はいっ。え、遠路はるばるお越しくださりまして、どうも……ありがとう、ございますっ」
ガチガチに緊張して噛みまくり、ところどころ言い回しを間違えながらも、事前に予習したお出迎えの言葉は一応言うことができた。言い終えたシズが勢いをつけて深々と頭を下げる。その様子を、ヤナギはじっと見つめている。
「うむ。ツクシ君は可愛い妹さんが出迎えに来てくれると言っていたが、言葉通りだったな。確か――間違っていたらすまないが、君はお姉さんの方の、シズちゃんだったか」
「は、はいっ。わたしが、シズです。姉の方です」
「それはよかった。間違っていなくてホッとしたよ。それで、妹さんがスズちゃんだったな。忘れないようにせねば。それはそうとシズちゃん、そんなに緊張しなくて構わないから、気持ちを楽にするといい。肩が凝ってしまうよ」
「あ……ありがとうございます。すみません、わたし、こんな緊張しちゃって……」
「はっはっはっ。まあ、こんな顔つきの爺さんが相手だからな。シズちゃんの気持ちは分かる。それに、緊張することは何も悪いことではない。それだけ真面目に、真心を込めて私を迎えてくれようとしたということだからな。ありがとう」
皺の刻まれたヤナギの顔が、朗らかに綻ぶのが見えた。待っている間も含めてずっと緊張しっぱなしだったシズが、ようやく肩の力を抜くことができた。
「では早速だが、ヒワダタウンのジムまで、案内を頼めるか?」
「分かりました、これからすぐ案内します。あっ……よろしければ、カバンも持ちます」
「おや、構わないのか? それなりに荷物が入っておるが……無理はしてはならんぞ」
「大丈夫です。いつも買い物袋を提げて歩いてますから、持っていけます」
「家の手伝いをしてくれているのか……これは実に感心なことだ。ツクシ君もお母さんも、君にはずいぶん助けられていることだろう。では、よろしくお願いするとしよう」
シズはヤナギからカバンを預かって、彼をジムまで案内した。
ヒワダタウンにヤナギが滞在した三日間、シズはほぼ付きっきりで彼の付き人を務めた。朝には起きて一緒にラジオ体操をしたり、お昼にはシズの茹でた素麺を一緒に食べたり、ウバメの森の祠まで並んで散歩したりと、付き人として縦横無尽に大活躍……というより、実際のところはおじいちゃんと一緒に遊ぶ孫娘のような感じだったが、ともかくヤナギが不自由しないよういろいろ手と尽くした。そんなシズの心遣い一つ一つに、ヤナギは感心し、また嬉しく思ったようだった。
「ヤナギさん。凝ってるの、この辺りですか?」
「ああ……そう、そこだ。今、シズちゃんが手を置いてくれているところだ。そのまま、叩いてくれ」
「分かりました。痛かったりしたら、遠慮しないで言ってくださいね」
「ありがとう、シズちゃん。とても上手だ。何から何まで、お世話になり通しだな」
「とんでもないです、わたしもヤナギさんと一緒にいられて、嬉しいです。その……おじいちゃんができたみたいで」
「おじいちゃん、か……ふふふ。私ももう、そう呼ばれる顔つきになったということかな? これはそろそろ、老いぼれ顔を隠す能面でも拵える必要がありそうだな」
「あっ……! ご、ごめんなさい! そういう意味じゃなくて、えっと……」
「はっはっはっ。面目ない、意地悪な老人の冗談だ。シズちゃんのような真面目な子を相手にすると、つい悪戯心が顔を出してきてしまってな」
「あぁ……もう、ヤナギさんったら、ビックリしたじゃないですか。わたし、悪いこと言っちゃった、って思って……」
「それには及ばんよ。門弟達も皆、私を爺と呼んでいるからな。シズちゃんの気持ちはごく自然なことだ。それに私の方こそ、孫娘ができたような心地だよ。優しく気配りのできる、利発な孫娘がな」
一緒に過ごす中で、シズはヤナギとずいぶん深く心を通わせることができた。シズの祖父は父方・母方共に物心つく前に亡くなってしまっていたので、シズにしてみればヤナギはまさしく「おじいちゃん」のように感じられたのだ。その彼女の気持ちを、ヤナギも理解していた。
「私のような老木にできることは少ない。あるとすれば、君たち姉妹やツクシ君のような若い力が伸び伸びと力強く芽吹くことができるように、少しでも土壌を豊かにすることくらいだ」
「厳しい冬の後には、穏やかな春が待っている……人生もまた、これと同じようなものだ。シズちゃんよ。君からは、山桜のような優しい温かさを感じる。雪解けの後に美しい花を咲かせられるように、今を懸命に生きてほしい」
ヤナギの、他者への優しさの中に垣間見える常に自己を律する生き方に、シズはどこか惹かれるものがあった。こんな風に一本芯の通った立派な大人になりたいと、子供ながらに感じたものだった。
――と、こうした背景もあって、シズはヤナギのことをよく知っていたのである。ただ、それを踏まえても、平日の真っ昼間に突然電話を掛けてくるのはさすがに只事とは思えなかった。
「久しぶりだな、シズちゃん。そこにツクシ君はいるか?」
「あっ、はい。ただ……今、フィールドの方でみんなにバトルのレクチャーをしていて、呼んでこないといけないんです。わたし、すぐに呼んできます」
「そうか……。申し訳ないが、すぐにツクシ君を呼んできてくれ。彼に、急いで伝えねばならんことがあってな……」
「あの……すみません。何か、あったんでしょうか……?」
「うむ。これは……シズちゃんにも伝えておくべきか。実は――」
「――ツクシ君の弟子の一人が、チョウジの北にある『怒りの湖』に身を投げたのだ」
――ヤナギから電話があった次の日のことだった。昨日の午後から引き続いて臨時休館となったヒワダジムの掃除をしていたシズとスズが、裏口のドアが開く音を聞きつけた。
「あっ……スズ。お兄ちゃん、帰ってきたみたい」
「ホントに? すぐ行かなきゃ! お姉ちゃん、来て来て」
ヒワダタウンからコガネシティへ移動し、コガネシティ発の快速電車に搭乗してチョウジタウンへ急行したツクシが帰ってきたのは、翌日の夕方になってからだった。
「お兄ちゃん……」
「お兄ちゃん!」
「やあ、シズ、スズ……ただいま」
シズとスズが共に急いでジムの裏口へ向かう。そこには、普段まず目にすることがないような、憔悴しきったツクシの姿があった。
「ごめんね、遅くなって……ジムを掃除してくれたみたいだね。ありがとう」
「どうしたの……? 疲れてるみたいだけど、大丈夫……?」
「ねえ、チョウジタウンで何があったの? 一体誰が湖に飛び込んだっていうのよ」
「……ごめん、二人とも。あとで何もかもちゃんと話すよ。だから、少しだけ寝かせてくれないかな……」
虚ろな目をしたツクシの様子にただならぬものを感じ取ったのか、シズは無言のまま小さく頷いた。布団を干していたことを思い出し、準備をせねばと思考を巡らせる。
「お兄ちゃん。お布団取り込んで、部屋に敷いてくるね。待ってて、すぐ用意するから……」
手短に言い残すと、すぐさま家へ走っていく。スズも姉と同じく兄の異様な雰囲気に気付き、些か声のトーンを落として訊ねた。
「もしかして……ヤナギさんの言ってたお兄ちゃんの弟子って、まさか……」
「……そう。多分、スズの考えてる通りだと思うよ。僕もまだ気持ちの整理ができてないけど……でも、僕はこの目で確かに見たんだ」
荷物をすとんと床へ下ろして、ツクシが呟く。
「病院にいたのは、間違いなく――ノリユキ君だった」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。