その日、一体何が起きたのか。
チョウジタウンの北にある大きな湖、名を「怒りの湖」という。春先になっても尚気が遠くなるほどの低い水温を保つために、人の遊泳は通年で固く禁じられている。湖自体の美しさもさることながら、さかなポケモンのコイキングの一大生息スポットとあって、釣り人からの人気が特に高い。釣り上げたコイキングの大きさを記録してくれる施設もあり、毎年春の解禁を心待ちにする者が少なくない。
観光スポットとして名高いその怒りの湖で、入水自殺を図ったポケモントレーナーがいた。ヒワダタウンの出身で、一年程前に同所より出発、ジョウト各地を転々とした後、ここチョウジタウンに辿り着いた。整備が漏れて壊れていた柵を乗り越え、着衣のまま水中に身を投げた。偶然その姿を目撃した釣り人に救助され、奇跡的に一命は取り留めたものの、湖の冷たさに低体温症を起こし、あと少し発見が遅れていれば間違いなく凍死するような状態だったという。
そのトレーナーの名前を、ノリユキといった。
彼が入水を試みた地点には、本人の荷物がすべて残されていた。身元の確認がスムーズに行えた理由はこれだった。多くの荷物はそのままの状態だったが、二つだけそうではないものが混じっていた。
上下にねじり壊されたモンスターボールと、中央から縦に引き裂かれたトレーナーの登録証。この二つだけが、ノリユキの多いとは言えない荷物の中で、意図的に破壊されていた。
チョウジタウンの病院で一通りの治療を受けた後、一週間ほどで退院し、ノリユキは故郷のヒワダタウンへ戻ってきた。しかしシズやスズ、リョウタの前に姿を現すことはなく、自分の家へ引き篭もる状態が続いた。
「あいつに、一体何があったってんだ……自分から死のうとしたって、どういうことだよ!」
誰よりもノリユキの身を案じていたのは、親友たるリョウタだった。ノリユキが帰郷したという話を聞きつけるなり居ても立ってもいられず、リョウタはノリユキの家へ走った。
――その、翌日のことだった。
ウバメの森を、リョウタとシズが並んで歩いている。シズは、隣のリョウタが普段見せないような深刻な顔つきをしていることを、彼に呼ばれて家を出たときからずっと気に掛けていた。俯いたままのリョウタの顔色を伺いながら、シズがおずおずと声を掛ける。
「リョウタ君。昨日……ノリユキ君に会ってきたんだって?」
「……ああ、会ってきた。あいつの家へ行って、あいつと直接話をしてきた」
「どうだったの? ノリユキ君……」
シズが訊ねる。問い掛けられたリョウタは目を見開いて地面を見つめながら、ぐっと唾を飲み込んだ。
「……分からなくなってた」
「えっ?」
「ノリユキは、俺のことが分からなくなってたんだ」
「リョウタ君のことが、分からなくなってた……?」
「そうだ。俺が声を掛けても、呼び掛けても、肩を揺らしても、何も言わねえんだ。何も言わねえんだ!」
「何も、言わない……」
「そうだ。何も答えねえし、何も返さねえ! あいつは……あいつは、何も分からなくなってたんだ……!」
リョウタが見たノリユキは、まるでノリユキのカタチをした人形のようだった。どれだけ声を掛けても返事はなく、揺さぶったり手を取ったりしても何の反応も見せない。姿形だけは旅立ったときの面影を濃く残していたから、尚更歯がゆさと居たたまれなさだけが募った。
ノリユキは、ほとんど廃人となって――故郷のヒワダタウンに帰還した。
「あいつの親から、何でノリユキがこうなっちまったかを聞かせてもらった」
「旅の途中でノリユキが書いてた日記とか、あいつが呟いてたことをまとめて……親が答えを見付けたんだ」
「こんなになっちまった理由を……ノリユキが変わっちまった原因を、突き止めたんだ」
「ノリユキは――『ポケモン』に『殺された』んだ」
「『ポケモン』が、あいつを『死なせた』んだ」
ポケモンに、殺された。ポケモンが、死なせた。リョウタが喉の奥から絞り出すような声で紡いだこの言葉の意味を、シズはどう解釈すればよいのか分からなかった。ただ、ノリユキの身に起きたことが只事では済まないことだったということだけは、リョウタの様子からはっきりと見て取ることができた。
「ヒワダを出た後、最初のうちは順調だったらしい」
「他のトレーナーと仲良くなったり、バトルで勝ったりして、旅を楽しんでたみたいだった」
目を閉じたリョウタが、淡々と呟く。
「けど――何度か戦ってるうちに、どうしても勝てない相手がいることに気付いた」
「あるレベルまでは、努力次第でどうにかなる。だけどある一線を越えると、まるで見えない壁があるように、手も足も出なくなる」
「どんなに努力しても、全然歯が立たない。どうにもならない。何かが根本的に違う――あいつが、日記にそう書いてたんだ」
ノリユキが旅の道中で直面した「壁」。戦っても戦っても一向に勝てない日が続く中で、ノリユキはその「壁」の正体は何かと手探りを続けた。
「負けて、負けて、負け続けて、身も心もボロボロになって、ノリユキはやっと気付いた」
「越えられない『壁』。それが一体何なのか、あいつは気付いたんだ」
「いや――『気付いちまった』、そう言った方がいいかも知れない」
気付いてしまったものの正体。気付かずにいれば良かった、知らなければ良かった、「壁」の正体。それは――。
「ノリユキを負かせるようなトレーナーには――初めから、勝てる『環境』が与えられてたんだ」
「ノリユキが手も足も出ないような連中は、最初から全然違う『環境』に住んでたんだ」
――「環境」。リョウタの発したこのたった一言に、膨大な意味が込められていることを、シズは瞬時に読み取った。
「ポケモンに詳しい、権威のある人から直接いろいろなことを教えられたりとか」
「俺たちが持っていないような、珍しいポケモンを最初のパートナーとして与えられたりする」
「ポケモンセンターにあるパソコンだって、俺たちはいろんな制限があるけど、そいつらは違う。自由に使えるんだ」
「そういう連中は、決まって『ポケモン図鑑』って機械を渡されるんだ」
「出会ったポケモンの特徴を記録して、いつでも見られるようになる電子手帳みたいな道具なんだ」
「俺やノリユキなんかじゃ、触ることもできない幻みたいな機械だ」
上位に位置するトレーナーたちには、それに相応しい「環境」が与えられていた。彼らが一流のポケモントレーナーとなり、世界を股に掛けて活躍することができるようになるための足掛かりとして、様々な措置が取られていた。初めから抜きん出た存在になることを望まれていて、住んでいた「環境」がまるっきり違っていた。
強力なポケモンを自在に操るポケモントレーナーは、絶大なカリスマ性を持つようになる。人々を惹きつける力を持つ存在を利用したい者は数知れない。政府や企業がその好例だ。優れた実力を持つトレーナーは、企業の広告塔として専属契約を結んだり、政府機関に属することである種の抑止力や国威発揚のシンボルとして扱われ、特別な待遇を受けることもある。一線級のトレーナーは皆の憧れる「ヒーロー」であり、それ自体が大きな力を齎す存在といえた。
そんな綺羅星のような「ヒーロー」は、しかし初めから完璧な存在というわけではない。十分な経験を積み、勝利することの心地よさを、皆を率いていくためのカリスマ性を身につけていかなければならない。低い場所から高い場所へ、少しずつ登って行くことが求められる。上り詰めた先にこそ、栄光は輝く。そのためには、彼らが成り上がれるようにするための舞台を整えなければならない。
法律では十歳を迎えれば、トレーナーの普通免許を得るための資格を受けることができるようになる。普通免許さえあれば、地元を出て旅立つことができる。だが冷静に考えてみれば、十歳の少年少女など、まだ年端も行かぬ「子供」だ。そんな子供が、親元を離れて一人で旅をすることが奨励されている。これと言った後ろ盾もなく、特別な訓練も受けていない子供に、大人ですら持て余すような裁量権を与える。歪さを感じさせる仕組みだと考える向きは、決して少なくなかった。
「どうして、俺達みたいなずぶの素人が旅に出るように奨められてるのか」
特別なバックグラウンドを持たない、それこそノリユキやリョウタのような少年少女が旅に出ることを後押しされるのは何故か。無論、その中にいる高い実力の持ち主が頭角を現せるようにという配慮も有ろう。しかし、そんな人間はごく一握りに過ぎない。何の後ろ盾も持たぬ彼らは、特別な環境で育てられた優れたトレーナーたちを前にして、為す術なく敗北を余儀なくされる。多くの一般的なトレーナーは、何ら存在感を示すことができずに消えていくさだめにある。
「ノリユキは、理解しちまったんだ」
そんな数多の星屑の如き「名も無きトレーナー」たちが、この世界に存在している理由は、ただ一つ。
「俺たちは――『負けるための存在』に過ぎないってことに」
高い場所へ登るためには――「踏み台」が必要だということだ。
将来的に多くの利益を齎してくれるであろう優れたトレーナーをつなぎとめておくには、彼らが自らの存在感を発揮できる場が必要になる。彼らの殆どは勝利に拘る。敗北を宿命付けられている「名も無きトレーナー」たちは、彼らにとって有用な道具となる。
ある種のゲームに関して、参加者が資金を注ぎ込むほどにゲーム内で優位な立場に立てる要素を持っていることはよく知られている。投資額の高いプレイヤーにゲームに対してさらに投資を継続してもらうためには、勝ち続けさせること、ゲーム内で上位に立たせ続けることにより、自己顕示欲を満たさせるのが効果的な手法の一つとして定着している。勝つためには敗者が必要となる。そのうってつけの存在が、投資額の少ないプレイヤーに当たる。要は上位プレイヤーの「勝ちたい」「認められたい」「人の上に立ちたい」という飢餓感を満たすための格好の養分として、投資額の少ないプレイヤーが食い物にされるという構図。
それと、同じことだ。
ノリユキは気付いてしまった。自分が所詮、より優れたトレーナーたちを育むための駒に過ぎないことに。自分には、名前など無かったことに。生来負けず嫌いで、勝利するためには努力を惜しまない性質だった。努力さえすれば壁は乗り越えられると、信じて疑ってこない人生だった。ことポケモンにかけては、誰であれ勝利するチャンスが与えられているものだと信じ込んでいた。
「あいつのノートに、こんなことが書かれてたんだ。別のトレーナーに言われた言葉らしい」
そんなことはない。
「『お前は、トレーナーとしての個体値が低いんだ』」
「『お前のようなトレーナーに使われるポケモンが哀れだ』」
上位に立てる人間は、初めから決まっているのだ。
信じてきたものすべてを否定され、ことごとくを覆されたノリユキが選んだのは、この理不尽な世界からの別離だった。
「ノリユキは、相棒のクロスを逃して、そいつの入ってたモンスターボールを壊した」
「自分がポケモントレーナーだってことを否定したいから、所詮ポケモントレーナーの『まがい物』に過ぎないって分かったから、登録証を真っ二つに引き千切った」
「それからあいつは、『怒りの湖』に飛び込んだんだ」
ノリユキが自殺のための場所として選んだのは、チョウジタウンの北にある「怒りの湖」だった。
今の社会に対する「怒り」、自分のような望みのないトレーナーが数えきれないほど存在することに対する「怒り」、今日もまた「優れた者」たちに消費されるだけのトレーナーが生み出されていくことへの「怒り」、自分の力では社会の構造を変えることなどできないという「怒り」。
幾千もの「怒り」。止め処ない「怒り」。溢れ出る「怒り」。「怒り」「怒り」「怒り」――数え切れないほどの「怒り」を抱いたまま、ノリユキは冷たい湖底に身を沈めようとした。名も無きトレーナーの一人として、「怒りの湖」に入水することにより、その思いをぶちまけようとしたのだ。
自らが「怒り」と共にあることを、「怒りの湖」に身を預けることで、死しても「怒り」は消えぬということを、ノリユキは訴えたかったのかも知れなかった。
「あいつの親が……俺にこう言ったんだ」
「あいつは、ノリユキは、ずっと同じ事を呟いてるって」
ノリユキは、わずかに残された思考で、何を考えていたか。
「『自分は、「壁」を越えられなかった』」
「『自分には、「名前」が無かったんだ』」
それは――絶望だった。
*
ヒワダへ戻ってきたノリユキは、あの日からずっと変わらずに、自宅で療養を続けている。いや、療養というのは綺麗に過ぎる言葉だ。何に対しても殆ど反応を返さない中で、ただ回復を祈る両親によって生かされ続けている。本人に既に生きる意志は無いにも関わらず延命されていると言った方が、遥かに適切だった。
ヌケニンというポケモンがいる。ツチニンがテッカニンへ進化する際にできる、抜け殻の如き特異な性質を持つポケモンだ。ヌケニンは生まれつきただ何もせずに佇むばかりで、ほとんどの刺激に対して一切の反応を示さない。殻から生まれ出たテッカニンに魂を持っていかれたかのように、その様態からはおよそ生きる意志というものが感じられない。失った魂を欲しているのだろうか、抜け殻の亀裂から中を覗き込むと命を奪われるという言い伝えがあるという。
ノリユキは、ヌケニンになって帰ってきた。アイデンティティとなる部分を完膚なきまでに遺失して、ノリユキの形をした別の生き物が帰ってきた。親友のリョウタは、それを間近に、直接目にしてしまった。
(……リョウタ君の言う通りだよ)
(変わっちゃったものは、もう元には戻らないんだ)
自分の部屋の隅で、生気の抜けた表情をしたシズが俯いている。リョウタの言葉の意味するところを、今一度深く噛み締め、咀嚼し、そして胃の腑へ飲み込んだ。後に残ったのは、消しようの無い虚脱感と倦怠感だけだった。
リョウタは、ノリユキと再会して一週間ほどで、ヒワダジムから籍を抜いた。
「こいつは……ツクシ兄に預ける」
「俺はもう、ポケモンには関わらないつもりなんだ」
相棒だったカイロスは、兄のツクシに預けられた。何も言わずにジムから出ていくリョウタを、同じく何も言わずに見送るツクシという構図を、シズは今尚鮮明に記憶に止めていた。兄は小さくなっていくリョウタの後ろ姿を見ながら、何を考えていたのか。残された兄の気持ちを思うと、シズは居た堪れない気持ちにならざるを得なかった。
多分、リョウタは本心ではジムリーダーになりたかったはずだった。相棒のカイロスを預ける間際まで、リョウタは心の奥底ではそう考えていたはずだ。ツクシにカイロスを預けた際の、リョウタの痛切な表情がありありと蘇ってくる。兄との無言のやりとりは、言葉に言い表せないほどの葛藤の果てに生じたものに違いなかった。ツクシのような、他のトレーナーの模範となるジムリーダーになるのは、リョウタにとって大事な夢である筈だった。
リョウタは胸の内に夢を秘めていた。しかし、何もかもが変貌し尽くしたノリユキの帰還は、彼に冷酷で厳しい現実を突きつける結果となったことだろう。根拠を持たぬ夢、叶う見込みの無い夢は、捨てざるを得なかった。そんなものを持っていたところで、未来に待ち受けるのは身の破滅だけ。自分より先に未来を視た結果が、「怒りの湖」へ身を投げたノリユキだと考えても、おかしな点は一つもなかった。
何より――この社会に於ける「ポケモン」が、その実「ノリユキの抜け殻」を生み出すための装置として使われていることを知ってしまったリョウタは、「ポケモン」そのものに対しても情熱を失い、冷めきった感情しか抱けなくなったに違いない。華々しい活躍をするトレーナーたちの裏で、何十倍、何百倍、何千倍もの抜け殻が生み出されていると思うと、以前のように「ポケモン」を見ることができなくなった。
彼の両親はリョウタがポケモントレーナーになることに反対し、リョウタがそれに反抗するという構図が繰り広げられていたが、ノリユキの一件があって暫くもしないうちにそれはがらりと様相を変えた。リョウタが自ら両親に対し、真面目に勉強して中学へ行く、将来は社会に出て普通の企業で働く、ヒワダジムも籍を抜く、ポケモンとは縁を切ると申し出たのだった。あまりに急激な変化に却って両親が心配し、ツクシも交えてリョウタの意志を再確認していたのを覚えている。それからというものリョウタはすっかり反抗を止め、角が取れてしまったようだった。
断金の交わり。鉄をも引き裂く強固な友誼という意味の故事成語だ。リョウタとノリユキの関係は、以前トモミチによってそう例えられたことがある。
だが――それとはまた異なる、別の「『だんきん』の交わり」という言葉が存在している。
断琴の交わり。かつて琴の名手と称えられた男が、その琴の音に無謬の理解を示す唯一人の朋友を亡くした後、琴の弦を自らの手で断ち切り、以後生涯に渡って終ぞ琴を奏でることはなかったという逸話から生じた故事成語である。
リョウタとノリユキ。断金の交わりと呼び称された二人は、ノリユキが社会的な死を迎えたことで、断琴の交わりへと形を変えた。リョウタはノリユキに同道するかのように、自らポケモンに関わることを止めたのだ。
そうしてリョウタが諦めた「ジムリーダー」という夢。その地位に、幼馴染であるシズが就任しようとしていることに、彼はどのような感情を抱いていることだろうか。
シズがツクシの後を継いでジムリーダーになるということには、いくつもの意味がある。単純にシズがジムリーダーとして新たなスタートを切るということ、リョウタのような市井の人とは異なる次元にシズが位置付けられるということ、自分が諦めた夢をシズが思わぬ形で実現したということ。
何より、ノリユキと自分の夢を絶った「環境」という言葉を、まさしくそのまま体現するような流れで、シズが責任と権威のある地位に就こうとしていること。
ノリユキを変えた「社会システムとしてのポケモン」、その機構を機能させるための重要な一員に、シズが加わろうとしている。リョウタにとっては心底忌むべき存在である、「社会システムとしてのポケモン」を象徴する地位に立とうとしている。それが赤の他人などではなく、幼馴染の、ひいては男女の仲へ発展しそうになっている少女が、壇上に上がろうとしているのだ。
リョウタがどれほどの葛藤に苛まれているかは、シズにも容易に理解できた。なぜならシズ自身も、リョウタが胸に置いているのと同じ葛藤を、止むことなく延々と繰り返していたからだ。
(……それに、それだけじゃない)
あの日――壊れてしまったのは、リョウタの夢だけではなかった。
(もう一つ、どうしても忘れられない、忘れちゃいけないことがあった)
粉々に砕け散ってしまったものは、それだけでは済まなかったのだ。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。