「どういうことだよ! これって、どういうことなんだよ!」
がらんとして人気のないヒワダジムに、耳を劈くような大きな声が木霊した。それはもう、ほとんど絶叫と言っても差し支えのないものだった。その場に居合わせたのは、ジムリーダーであるツクシ。そして、彼に加えて。
「……ごめん、サダコちゃん。僕の、責任だ」
「謝ったって……謝ったってどうしようもねえだろ! あんたが謝ったって、もうノリユキは帰ってこねえんだ!!」
肩口まで髪を伸ばした少女・サダコの姿があった。物陰に隠れたシズとスズが、沈痛な面持ちで、サダコとツクシのやりとりを見つめている。
サダコはリョウタに続けてノリユキと面会し、そこで変わり果てたノリユキの姿を直接見る形になってしまった。一切の反応を示さず、生きているのか死んでいるのかさえ判然としないノリユキは、しかし姿かたちは過去の面影をほぼそのまま留めていて、かつてと変わらぬ容貌を見せていた。
「あいつは……あいつは……あたしのことが分からなくなってたんだ!」
「何もかも、何もかも何もかも何もかも、何もかも分からなくなってたんだ!」
屈み込んだツクシの肩を乱暴に掴み、サダコが狂ったようにツクシの体を揺らし始める。
「『ノリユキ、覚えてないのか。あたしだぞ、サダコだぞ』」
「『どんな形でもいい、あんたが帰って来てくれただけで、あたしは嬉しい』」
「『目標に届かなくたっていいだろ、あたしと一緒に、ヒワダで静かにやっていけばいいじゃねえか』」
「『今ならまだ一年しか違わねえ、学校だって、一周遅れで付いてきてくれりゃいいんだ』」
「『勉強ならあたしが教えてやる、くだらねえことをほざく奴がいたら、あたしがぶん殴ってやる』」
「『ただ、あんたの側にいさせてくれればいいんだ。あんたはあたしを認めてくれた、大事な人なんだ』」
「『なあ、見てくれよ。女の子としてあんたの隣にいてもいいように、髪だって伸ばした。服だってちゃんと着るようになった』」
「『ケンカの回数だって、前に比べりゃビックリするくらい減ったんだぞ。どんなに辛くたって、あんたが帰ってきたときにキズだらけじゃカッコつかねえから、ずっと我慢してたんだ』」
「『お願いだ、ノリユキ。なんとか言ってみてくれ、あたしは、あんたの声が聞きたいんだ』」
「『あんたの声が聞きたくて、一年間ずっと待ってたんだ!』」
「……あたしがノリユキにここまで言って、ノリユキは……ノリユキはあたしになんて言ったと思う――?」
血走った目を見開くと、サダコはこう言い放った。
「『君は誰? 強そうだな、俺とは大違いだ』――ノリユキは今にも死にそうな声で、あたしにこう言った!」
「もういっぺん言うぞ! 『君は誰? 強そうだな、俺とは大違いだ』! あたしはずっとずっと聞きたかったノリユキの声で、そんな言葉を言われたんだ!」
「ちくしょう! あんたにあたしの気持ちが分かるか! あんたに、あたしの気持ちが分かるのか!」
サダコの懸命の呼び掛けに対してノリユキが返したのは――「君は誰?」という、死者の声による、灰色の返事だった。
ノリユキの心を完膚なきまでに叩き潰した底無しの深い絶望と、かつて契りを交わした相手さえも忘却の彼方へ消えてしまったという事実を、サダコは眼前に容赦なく突きつけられた。サダコはショックのあまりその場に倒れ、連絡を受けた兄の手で自宅に連れ戻されて行った。
ノリユキは帰ってきたが、帰ってこなかった。二日に渡って声が涸れるまで泣き続けて、ようやく自分が置かれた状況を認識したサダコは、憤怒と慟哭と懊悩と絶望が綯い交ぜになった筆舌に尽くしがたい感情を、ジムリーダーであるツクシにありったけの力でぶちまけ、叩きつけていた。
「ノリユキが『死んだ』のは――あんたたちのせいだ」
「あんたは、ノリユキを『殺した』、その仕組みの一部なんだ」
「ポケモンに夢を見てるやつらをいいように食い物にして、あんたたちは、のうのうと生きてるんだ」
「あんたが本当にすべきだったのは、ノリユキに都合のいい夢を見せることじゃない」
「現実を、どうしようもないこのくそったれの現実を、ノリユキにちゃんと教えることだったんだ」
「そうしてれば、そうしてれば、そうしてれば、ノリユキは、今も変わらずに、ノリユキのままでいられたんだ」
「ノリユキは、あんたに殺されたんだ!!」
サダコが涸れた声で幾度と無く絶叫するさまを、シズは泣きながら見つめることしかできなかった。抜け殻と化したノリユキを目の当たりにしたサダコの気持ちも、サダコから無抵抗のまま容赦の無い糾弾を受け続ける兄ツクシの気持ちも、察するには余り有る。だからシズには、泣きながら、二人の姿を見守ることしかできなかった。
傍らにいたスズも目を赤くして泣いていたが、肩を震わせ、ぐっと身構えたかと思うと、ついに堪らなくなったのか、二人の元目掛けて走って行った。
「もう……やめなさいよ! お兄ちゃんから手を離して!」
「てめえっ……! スズっ! 離せよ、この野郎!」
「サダコがそんな風にお兄ちゃんに八つ当たりしたって、どうにもならないでしょ!」
「スズ……」
「うるせえ! あんたに、あんたにあたしの気持ちが分かってたまるか! ジムリーダーの妹に、あたしの気持ちなんて分かりゃしねえんだよ!」
「お兄ちゃんだって、こんなことになるなんて思ってなかった……! ノリユキの夢を大切にしたかった、やりたいようにやらせてあげた、それがこんなことになるなんて、思ってなかったのよ!」
「黙れ! 黙ってろ! もう、こうするしかねえんだ! あたしにはもう、こうするしかねえんだよ!!」
「スズ、これは、僕の責任なんだ。僕が、ノリユキ君を送り出した。旅に出ていいって、僕が彼に言った。だから、僕はサダコちゃんの気持ちを、全部受け止める責任があるんだ」
「だからって、だからってお兄ちゃんがノリユキをあんな風にしたわけじゃないのに! お兄ちゃんが悪いわけじゃないのに!」
互いに乱暴につかみ合うスズとサダコの目には、共に涙がいっぱいに浮かんでいた。
「ちくしょう……ちくしょう……! ちくしょう!!」
激しくうねる感情の奔流を吐き出し尽くし、あらゆる言葉を使い果たしたサダコが、泣きながらツクシに背を向けてジムから立ち去る。
「サダコ、ちゃん……」
ジムを飛び出してきたばかりのサダコに、シズがおずおずと声を掛けた。サダコは右手に立っていたシズに、真っ赤に泣き腫らした虚ろな目を向ける。
「シズ……」
「あの……ノリユキ君の、こと……」
「……同罪だ」
「……えっ?」
迷いながらサダコに声を掛けようとしたシズを、サダコは憎悪の色に満ちた瞳でもって、強く強く睨みつけた。
「あんたも、同罪だっつってんだよ!」
突き刺すような声が、シズに襲い掛かった。
「あんただって、あいつと同じ穴の狢だ! 言い逃れしようなんて、考えてんじゃねえよ!」
シズはサダコを見つめたまま、一切の身動きが取れなくなった。頭が何をしようとしても、体がそれを受け付けてくれない。氷漬けにされたような心持ちのまま、シズが呆然とサダコを見つめ続ける。
「ガラスは割れたんだ。粉々になって、全部砕け散ったんだ!」
「一緒に過ごした時間も、隣に並んでた記憶も、全部ひっくるめてぶっ壊れたんだ!」
「割れたガラスは粉々になってなあ、もう一度一枚になんか、ならねえんだよ! なれねえんだよ!」
ガラス。その言葉の意味するところを、シズは瞬時に理解していた。
かつて共に過ごした楽しい時間。かつて共に有った穏やかな記憶。そうした過去の積み重ねすべてが、粉砕された。
「もう……」
カラカラに涸れた声で、サダコが絞り出した言葉は――
「もう、二度と話し掛けるな」
「もう二度と、あたしに構うな!」
――絶交を意味していた。
*
過去の光景をひとしきり思い出して、シズはようやく、今自分が置かれている、対峙すべき現実に回帰した。ずいぶんと長い間回想していた気がする。あの頃の思い出は、丁寧に挙げていけばキリがない。朝から揃ってジムに集まって、日が暮れるまで延々と遊び続ける。スズにはいつも尻を叩かれ、ノリユキからくだらない悪戯をされ、サダコやトモミチからはしょっちゅう説教をされ、クミとルミは隙あらば入れ替わってクイズを仕掛けてきて、リョウタだけはいつも自分の味方をしてくれる。それでも楽しかった。今日と同じ明日が待ち遠しくて仕方なかった。それは、幸せな日が続いていた証拠だった。
高い所から落とされたガラスが砕け散るように、すべては終わってしまった。廃人と化したノリユキの帰還は、一枚だと思っていた幼馴染たちを粉々に粉砕して、バラバラにした。
(サダコちゃん……)
サダコがジムリーダー就任の決まったシズに対して憎悪の視線を向ける理由。シズにはそれが痛いほど、それもキリキリと胸が締め付けられるような甚だしい痛みでもって、はっきりと理解できていた。言葉にせずとも分かる、明確な理由があった。
あの日サダコがツクシにぶつけた言葉が、際限なく幾度も幾度もリピートされる。ノリユキはあんたに殺されたんだ。ノリユキはあんたに殺されたんだ。これの意味が分からぬほどシズは愚鈍ではない。サダコの言っていたことは、結局のところ、リョウタが嗚咽交じりに零したあの言葉と、寸分違わぬ一致を見せている。
(ノリユキは――『ポケモン』に『殺された』んだ)
社会システムとしてのポケモン。ノリユキはそれに「殺された」。ジムリーダーはそのシステムを担う重要な機能だ。中枢と言っても何ら過言ではない。なるほど、ノリユキを「殺した」のは兄のツクシだと言われても、何ら反論できない。
そうしてシズは自覚する。そのツクシの後を継ぐのは、他ならぬ自分自身なのだ――と。
「……どうすればいい?」
誰もいない部屋で、シズが一人問いを投げ掛ける。
リョウタ、スズ、ツクシ、サダコ、ノリユキ……身近な人間の顔が次々に浮かんでは消えて、シズの心は千々に乱れた。答えが出せない自分の不甲斐なさを歯がゆく思い、きゅっと唇を噛み締める。
「わたし、どうすればいいの?」
その問いには、自分で答えを出さなければならない。自分で答えを見つけなければならない。自分で答えに辿り着かなければならない。分かっている。そんなことは百も二百も承知だ。頭ではとうに理解できている。その先へ踏み出せないから、こうして部屋の隅で涙に暮れているのだ。
力なく顔を俯けさせたシズは、今一度、声を殺して泣き始めた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。