沈んだ気持ちのまま、シズが壁伝いによろよろと立ち上がる。時刻はもうすぐ五時を指そうとしていた。お昼に家へ戻ってきてから、結局何もせぬまま部屋で泣き続けてしまった。朝に食べたものはすべて戻してしまい、お腹は空っぽになっていたが、何も食べる気はまったくしなかった。ただ、全力疾走して帰宅してから今の今までずっと泣いていたために、喉はカラカラに乾いていた。
そろそろ仕込みを始めないと、家族が帰ってくるまでに夕飯の準備が終わらない。自分に課せられた仕事を思い返し、シズは疲れた体に鞭打って部屋を出て、廊下を歩き始めた。今日は暑いからさっぱりした素麺をゆでよう、それも具材を散らした冷やし中華風の素麺を作ろうと予め考えていたので、献立を一から考える手間は省けそうだった。母もツクシも大好きな一品で、調理担当のシズにしても作るのが簡単なお手軽メニューだった。
(がんばらなきゃ)
いくら気落ちしていても、夜はやってくるし夕飯の時間もやってくる。言うまでもなく、お腹を空かせた家族も帰ってくる。これといって仕事も部活もしていない身なのだから、せめて炊事くらいはきちんとせねばなるまい。大ぶりのガラスコップに満たした冷たい麦茶を一息で飲み干すと、いつも使っているベージュのポケット付きエプロンを首に引っ掛け、後ろ手で紐をきゅっと結ぶ。手間取ること無く背中で手際よく綺麗な蝶結びを作ると、シズは乾燥麺を保管しているボックスを開けた。
塩と化学調味料を入れてかき混ぜた卵をオムライスに乗せるときの要領で薄く焼き上げると、大皿にあけて一旦冷ます。ある程度熱が引いたところでプラスチックのまな板へ写し、縦に短冊切りにしていく。所謂錦糸卵である。胡瓜も同じ大きさに切ると、先週生協で頼んでおいた十本入りのカニカマのパックを冷蔵庫から取り出し、四本一気に袋からあけてこれも縦に割いていく。カニカマを片付けて今度は戸棚にあった乾燥わかめを取ると、さっと水で戻していつでも使える状態にした。卵焼き・胡瓜・カニカマ・わかめ。具材の準備はこれで整った。素麺を茹でるのはすぐにできるので、これはスズが帰ってきた頃くらいでいいだろう。具材を緑のものとそれ以外に分けて別々のざるへ入れると、冷蔵庫に入れて冷やしておく。
他に何か無いかと思案し、シズが一つの食材を思い出す。この間特売で買った鶏レバーがあった。あれを煮込もう。冷蔵庫から鶏レバーの入ったパックを探し出すと、すぐに準備して鍋で煮込み始める。シズは食べ物の好みが少々大人びている、と言うと些かお洒落に過ぎるか。食べ物の好みが渋く、ちょうどツクシからジムリーダーになってほしいというあの依頼を受けた夜に頂いた赤魚の煮付けや、今まさに鍋で煮詰められている鶏レバーなどは大好物だった。
思っていたよりもずっと早いタイミングで、玄関のドアが開いた際に鳴る鈴の音を耳にしたのは、シズがちょうどコンロを回して火を止めた直後のことだった。
「……はぁ」
「スズ、おかえり。早かったね」
シズが玄関まで出迎えに行くと、気怠げにカバンを下げた制服姿のスズが突っ立っていた。シズが声を掛けるものの、スズはこれといった反応を示さない。鬱陶しそうに大きく息をつくと、粗雑に靴を脱ぎ捨てて家へ上がった。
「今日は晩ご飯、素麺だよ。お兄ちゃんとお母さんまだ帰って来なさそうだから、先に――」
「いらない」
「……えっ?」
「いらない、って言ってんの。一回で聞いてよ」
既に夕飯の支度ができている。スズにそう伝えようとしたら、スズは途中で遮って「いらない」と突き放してきた。戸惑うシズには目もくれず、スズは再び「いらない」と吐き捨て、シズの横を通り抜けて自室へつながる階段に入ってしまった。残されたシズはただただ呆気に取られるばかりで、去っていく妹の背中を追うしかなかった。
「あたしがいなくなったら、トモミチだってお姉ちゃんだって、どっちも困るくせに」
スズがぼやいた言葉の中にあったトモミチという名前に、シズは不意に懐かしさを覚えた。現在もジムに所属しているトレーナーの一人であると同時に、スズがよく張り合っていた相手の一人でもある少年だ。かつてヒワダジムのメンバー内で、新聞紙を丸めて作った「刀」を使ったチャンバラ遊びが流行った時期があった。その時にスズを幾度となくコテンパンにやっつけたのが、他ならぬトモミチだった。負けず嫌いなスズは悔しくて夜も眠れず、どうしても勝ちたいがためにトモミチが習っていたという剣道を自分も始めた経緯があった。そう、スズが剣道を始めたのは、それが理由だった。
このチャンバラ遊びには一応シズも加わっていたのだが、人を叩くのがあまり好きではないシズはやられっぱなしもいいところで、加減を知らぬメンバー達に泣かされることもしょっちゅうだった。悲しいかな「お姉ちゃんはだらしない」という名目でもって、妹のスズに容赦なく切り伏せられたことも一度や二度ではなかった。無防備にべしべし叩かれ泣かされるばかりのシズに、見かねたリョウタが新聞紙で「兜」を折ってシズに被せてやり、「シズは兜を装備してて無敵だから攻撃しないように」とメンバーに周知してどうにか事なきを得た。なお、クミとルミもついでに折ってくれとせがんでいたが、この二人は「ダブル攻撃」の安直極まりない名前を付けた二人同時攻撃を得意としていて普通にチャンバラできたので、リョウタはハナから無視を決め込んでいたという。
そのトモミチは今、スズの所属している剣道部で部長を務めている。さすがに実力は高く、周囲からの信頼も厚い……しかしながら、スズだけは違った。自分の方が一枚上手だと信じて疑わず、引き継ぎの時期が来れば自分が部長になれるものと考えていた節があった。それだけに、幼い頃に泣かされたトモミチが部長になった時の荒れようは相当なもので、以前にも記した通りシズがあれこれ手を尽くして慰めてやらなければならないほどだった。シズはスズが単純に驕っているわけでは断じて無く、日々地道な努力を重ねていることをよく知っていたから、通り一遍のアドバイスや戒め・慰めの言葉は一言も口にせず、スズの言いたいように言わせてやった。
(スズ、トモミチ君と何かあったのかな……それに、わたし何かまずいこと言っちゃったかな……?)
不機嫌そのものの妹の姿を受けて、シズは戸惑いを隠せない。トモミチと何かあったことは察しが付いたが、自分に関してもスズの不満は向けられているようだった。気に障るようなことをしたり言ったりしただろうかと行動を一つ一つ顧みるが、どうしても思い当たる節が無く、首を傾げるしかなかった。
シズにしてみれば、もちろんスズがいきなり居なくなれば困ることはたくさんあった。たくさんあったが、スズが今ここで自分に向かってあれほどつっけんどんな物言いをする理由が掴めなかった。自分の行動や言動に何がしかの原因があるはずだが、シズは直接の原因を探り当てることができなかった。
もやもやした気持ちを抱いたまま、洗濯物を干しっぱなしだったことを思いだし、シズはとりあえず玄関を後にした。
事が起きたのは、夕餉の席でのことだ。
「あれ? 今日はスズだけ別メニューなの?」
「いいじゃない、別に。お兄ちゃんが気にすることじゃないでしょ」
「おいしいよ、素麺。冷たくてさっぱりしてるし、いらないの?」
「いらない」
中途入社した社員の歓迎会があるので、先にご飯を食べておくようにと母が勤め先から連絡をよこしてきた。既に準備を済ませていたシズはツクシの帰宅を待って素麺を茹でて、具材を鮮やかに盛り付けた上で食卓に上げた。ただし、二人分だ。シズとツクシの食べる分だけで、スズの分は作らなかった。スズは帰宅してからというものずっと「素麺は食べない」と頑なな態度を見せ続けていて、シズは彼女の意思を尊重せざるを得なかったのである。
スズはスズで食べるもの自体は用意していたようで、コンビニで買ってきたと思しきツナサラダとから揚げを食卓に乗せていた。斜め前の席に着いたツクシが不思議がるのも無理のない話だった。普段スズはツクシと同じくらいかそれ以上によく食べるので、あれっぽっちでは絶対に足りないだろうとまた別の心配するシズをよそに、スズは一人でぼそぼそ買ってきたものを食べていた。
「スズ、食べたいものがあったら言ってよ。明日の献立、スズの好きなものにするから」
「別に無いし。勝手にお姉ちゃんの好きなもの作ればいいじゃん。どうせお姉ちゃんが何から何までやるんだから」
「ちょっと、スズ……」
「あたしのことなんかどうだっていいんでしょ。だからこんな日にこうやって素麺茹でたりしてさ、当て付けにも程があるって話よ」
「今日は随分と、虫の居所が悪いみたいだね」
麦茶で喉を潤したツクシが、どういうわけか気の立っているスズを見ながら苦笑した。困り果てた様子のシズに助け舟を出した格好だ。
「お兄ちゃん。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「いいよ。僕の答えられることなら、なんでも答えるよ」
「ジムリーダーの話だけど、こないだ友達と話してて聞いたの。カントーのハナダシティってとこにあるジムって、四姉妹の末っ子がジムリーダーやってるんでしょ?」
「カスミさんのことだね、そうだよ。お姉さんが三人いるんだ。名前は確か……」
「じゃあさ、あたしだってジムリーダーになってもおかしくないんじゃないの? お兄ちゃんの言ってたルール、あれってホントの話なの? カスミって人のお姉さんって、別にお兄ちゃんみたいにポケモンリーグで仕事してるわけじゃない、ただのトレーナーだって話だけど」
スズがツクシに「訊きたいことがある」と言って切り出したのは、自分と似た境遇にある別の人間がジムリーダーをしていることについて、だった。カントーはハナダシティにて、自分と同じ立場である「末の妹」にあたる人物がジムリーダーをしているとの噂を聞きつけたスズが、自分がジムリーダーになれないのはどういうことかとツクシに詰め寄った。ツクシはうんうんと幾度か頷いて、スズが話し終えたことをしっかり確認してから答えを返す。
「まずね、スズ。ハナダシティのジムリーダーは、少し複雑な事情を経て今の形に落ち着いてるんだ」
「複雑って、どういうこと?」
「そうだね……スズの言う通り、今はカスミさんがジムリーダーの地位に就いてる。だけど彼女の前任者は、彼女のお姉さんでも、彼女のご両親でもないんだ」
「あっ、確か……ポケモンリーグに在籍してる、カンナさん、だっけ?」
「よく知ってたね、シズ。先代のハナダジムリーダーは、今はポケモンリーグで理事をしているカンナさんだったんだよ」
「お兄ちゃんの言い方だと、そのカンナって人は今のジムリーダーの家族とかじゃないみたいね。じゃあ、どうして?」
「まあまあ、順を追って説明するよ。少し時間をくれないかな?」
前のめりになるスズを宥め、ツクシがハナダジムリーダーの交代に掛かる経緯について話し始めた。
「カンナさんはハナダジムでジムリーダーを務めてたんだけど、その実力の高さが評価されて、ポケモンリーグの四天王として招聘されたんだ。ちょうど、今の僕と同じような感じでね」
「ポケモンリーグからの要請をカンナさんは受諾したんだけど、ジムリーダーの退任に伴って後継者を決める必要が出てきた。ところがカンナさんには血縁関係のあるポケモントレーナーが一人もいなくて、通常のルールでは後任が選べないことが分かったんだ」
「関係者で話し合って、特例の措置を取ることになった。カンナさんの後任を、公募で選ぶことになったんだ。ジムリーダーになりたい人は手を上げてください、ってね」
「そこで選ばれたのが――知っての通り、カスミさんというわけさ。カスミさんは元々カンナさんに憧れてて、いつか同じ職業に就きたい、つまりはジムリーダーになりたいってずっと思ってたらしいんだ。お姉さんたちの後押しもあって、見事カスミさんがジムリーダーの座を射止めた。そういうことなんだ」
カンナさんが実戦で使役するポケモンに水属性を持ったポケモンが多いのは、元々ハナダシティのジムリーダーだった名残なんだ。ツクシはそう付け加えて、話を一旦締め括った。
「じゃあ……あくまで、例外ってことなのね」
「そうだね。こういうことは、他には例がないんだ。カントーやジョウト以外の地域だと、普通にこのルールで選ばれるところもあるみたいだけどね」
カスミの件が超法規的措置の一つだと知ったスズが、大きく肩を落とす。全身から失望した様子がありありと見て取れた。無理もない、スズとしてはカスミの一件に一縷の望みを託していたのだから。
「……結局、お姉ちゃんがジムリーダーになるってのは覆せないんだ」
「スズ……」
シズはなんと言葉を掛ければよいのか分からなかった。これほどまでに落ち込んだスズは見たことがなかった。
「あたしより先に生まれてきたから、あたしより二時間年上だから、お姉ちゃんはジムリーダーに選ばれた。本当にそれだけ?」
「そうだよ、スズ。理由は、本当にそれだけだ。今のルールに従って選ぶと、そうならざるを得ないんだ」
「信じらんない。たったそれだけのつまらない理由で、あたしはジムリーダーになれないの? 全然、理由になんかなってないじゃない」
「スズがつまらないと思っても、理由にならないと思っても、それだけじゃ物事は覆せないよ」
顔を俯かせたスズが、ツクシとシズに向けて、言葉を紡ぎ始めた。応じるツクシは噛んで言い含めるように、スズの言葉に応答している。
「お姉ちゃんよりあたしの方がバトルだって強いし、努力だってたくさんしてる。だって、あたし勝ちたいんだもん。負けたくないんだもん」
「シズだって、スズの知らないところで努力してるよ。シズが何もしてないわけじゃない」
「だって! この間だって、挑戦してきたトレーナーをあたしがみんなやっつけたじゃない。あたしの方がお姉ちゃんより強い、絶対強い。間違いない!」
「ジムリーダーのやる事は、挑戦者を負かして得意になることじゃない。勝った負けたは、結果でしかないんだ」
「結果が伴わなきゃ、過程がいくら綺麗でも意味なんか無い。実力のないポケモントレーナーに、未来なんて無い! あたしには分かってる、あたしには嫌ってくらい分かってるのよ!」
スズの語気が強いものに変わっていく。対するツクシは動じず、スズとしっかり目線を合わせて、言うべきことを淡々と言っている。
「なのに、あたしはジムリーダーになれない、お姉ちゃんがジムリーダーになる。それはルールだから、規約だから」
「一体、何がルールなのよ」
「あたしに何か足りないの? それとも何か欠けてるからなの? 何が悪いのか分かんない。あたしにどっか欠陥でもあるって言いたいの?」
スズの言葉を受けて、ツクシが首を横に振る。
「違う。それは違うよ、スズ。スズに何か問題があるとか、スズが悪いとか、そんな問題じゃない」
「嘘よ! 嘘に決まってるってば! どうせきっと、ポケモンリーグの運営に『誰かの妹はダメ』みたいな、訳の分からない偏見があるのよ! もしそうじゃないなら、あたしにそうじゃないって証拠を出せばいいわ!」
「そんなことはないよ。誓っていい。スズがどうこうじゃなくて、これは、決まり事なんだ。それに、それを言うならシズだって僕の妹だ。スズだけが妹ってわけじゃない」
「どうしてあたしのことを見てくれないの? どうしてあたしのことを無視して、お姉ちゃんばっかりちやほやするわけ?」
「スズのことだって見てる。無視なんかしちゃいないよ。僕に双子で同い年の妹がいて、どっちもポケモントレーナーだっていうことは、運営委員会もちゃんと分かってるよ」
「じゃあ、知っててお姉ちゃんを選んだっていうの? バカみたい。ホントにバカみたい。的外れなことばっかり言って煙に巻こうとしたって無駄よ! あたしがジムリーダーになる資格なんかないって、ろくに知りもせずに勝手に決めつけて!」
「それは違う、スズ。スズに素質がないとか、そんな話じゃない。断じて違う」
「努力して強くなればジムリーダーになれる、そう思って今まで努力してたあたしがバカみたいじゃないのよ! なんで今まで言ってくれなかったのよ!」
「スズのしてきたことが間違ってた、そんなことじゃないんだ。お願いだから、自分を否定しないでほしい」
「嘘ばっかり嘘ばっかり、みんな嘘ばっかり! あたしばっかりこんな目に遭わされて、黙ってられるわけなんかないじゃない! なんで、あたしばっかり……」
顔を押さえながら、スズが大きなため息をついた。
「お姉ちゃんとあたしがどう違うっていうの? お兄ちゃんから見てお姉ちゃんの方が愛想が良かったから? お姉ちゃんの方が女の子らしかったから? お姉ちゃんの方がジムのトレーナーから受けが良かったから? あたしが教えたことをできなかったトレーナーが『スズお姉ちゃんはちゃんと教えてくれない』ってお兄ちゃんにでも泣きついたの? それとも何? 前に来たヤナギってジムリーダーの覚えがよかったから? お姉ちゃんが面倒見たから? あの人年取ってるから意見しやすいんでしょ? 意見通りやすいんでしょ? いったい、あたしとお姉ちゃんの何がどうどれだけ違うって言うの?」
「スズ、落ち着いて。僕は、そんな話は少しもしてないし、そんなことでジムリーダーは決まったりしない。それに、そんな言い方はみんなに失礼だ」
「じゃあどうして? どうしてどうしてどうして! あたしは本物のトレーナーじゃない、まがい物のトレーナーだって言いたいわけ!? 絶対おかしい! あたしの方が努力してるのに、なんでそれを認めてくれないの!? どうしてあたしじゃなくてお姉ちゃんなのよ!」
「スズ……」
「お姉ちゃんだっていつまでも黙りこくってないで、一言くらい何か言ったらどうなのよ! そうやっていつもいつもいい子ぶって、お母さんやお兄ちゃんにちやほやされていい気になってる! あたしの欲しいものみんな持ってって独り占めして、あたしの気持ちなんてちっとも分かってないくせに! お姉ちゃんがいるから、お姉ちゃんなんかがいるから、あたしには順番が回ってこないのよ!」
「それは……」
「今だってそうよ! お兄ちゃんと一緒になってあたしをバカにして! 神妙な顔つきしたって、心の中でにやにや笑ってることなんて分かりきってるんだから! 池に落ちた犬をよってたかって叩くのはきっと楽しいわよね! そうよ、あたしは負け犬! 主将にも彼女にもジムリーダーにもなれない、どうしようもない負け犬よ!」
「…………」
「正論で相手をやり込めることほど気持ちいいことなんてないのよ! 一度味わったらやめられないから、こうやってあたしをバカにする! そうでしょ! そうなんでしょ! いつだって『正しい』のはお兄ちゃんとお姉ちゃん。あたしは全部間違ってて、お兄ちゃんとお姉ちゃんが全部『正しい』! それでいいんでしょ! そう言いたきゃそう言えばいいのに! 都合が悪くなったらだんまり決め込んでほとぼりが冷めるのを待つなんて、ふざけてんじゃないわよ!!」
スズから睨み付けられるように敵意に満ちた視線を向けられたシズは、しかしながら何を口にしたところで拒絶し打ち返してやらんとしているスズに、何の言葉も返すことができずにいた。スズの言わんとするところを、シズは痛いほど自覚していたからだ。確かに、自分がいなければスズがジムリーダーになっていたことだろう。
それが、ルールだからだ。
「もうやめるんだ、スズ。分からないことを言って、シズを困らせるんじゃない。スズの見てないところで、シズだって悩んでるし、苦しんでるんだ」
「そんなの関係ない。あたしは今の状況が納得できない! それがお姉ちゃんがいるせいなのは、分かりきってる!」
「何度も言ってるじゃないか。これは、シズが悪いんじゃない。もちろんスズだって悪いわけじゃない。これは誰かが悪いとか誰かのせいだとか、そんな話じゃないんだ」
「関係ないって言ってるでしょ! あたしだったらジムをもっと良くできる、みんなを引っ張ってもっと強くすることだってできる! あたしにはそれができる自信があるのに、最初から舞台の上に立てないんじゃ何の意味もないじゃない! ふざけないでよ!」
シズは、大声で喚き続けるスズがもう手を付けられないほど怒っていることを悟っていた。怒りに身を任せているという言葉がここまで適切な場面は思い浮かばなかった。自分が妹だから、姉がジムリーダーになるというルールだから。承服しがたい理不尽なルールを押し付けられて抑圧された感情が、滅茶苦茶に昂ぶっているのがありありと見て取れた。
「スズ」
「よってたかって、あたしの邪魔ばっかりして! お姉ちゃんのせいで、あたしが――」
「いい加減にするんだ! スズ!」
「……っ……!?」
「自分の感情ばかり押し付けて周りを困らせるのは、無責任な人間のやる事だ! 弁えろ!」
シズとスズがツクシに目を向けたのは、まったく同時だった。声を荒げていたスズが一瞬にして沈黙するほど、ツクシの声は鋭かった。言葉を詰まらせたスズの顔をキッと強く見据えて、ツクシがスズに淡々と語りかける。
「……スズ。本当にスズだけが理不尽な立場にいるのか、本当にスズの言ってることが全部正しいのか、もう一回きちんと考え直した方がいい」
「お兄、ちゃん……」
「僕にだって、スズの気持ちが少しも分からないわけじゃない。だけど、今のスズは明らかにものを知らなさすぎる」
「ものを知らなさすぎる、って……」
「はっきり言う。僕は、今のスズは甘えてるとしか思えない。誰に甘えてるのか、今のまま甘えてていいのかは――スズが、自分でよく考えるんだ」
普段からは想像できないほど厳しい口調で、ツクシがスズを強く突き放した。よもや兄からここまできつい言葉を浴びせられるとは、スズも想像していなかったのだろう。言うべき言葉を失って、顔を蒼褪めさせていた。隣にいるシズもスズと同じか、或いはそれ以上に憔悴していて、ツクシが感情を露にすることがどれほど珍しいかを如実に表していた。
やがて、これ以上自分の主張を続けることはできないと判断したのか、スズが椅子を引いてすっと立ち上がる。だがその瞳は、拭い切れない悔しさとやるせなさで満たされていて、ツクシの言葉を受けて反省したり自己を顧みたりといった姿勢は欠片も見出せなかった。憮然とした面持ちのまま、ツクシとシズに背を向ける。
「……リョウタの言った通りだった。サダコが言ってた通りだった。ポケモンなんて、最初の環境で全部決まっちゃうんだ。そんなものなんだ」
「『夢』も『希望』も『可能性』も、ただのまやかしでしかない。嘘を見抜けないバカを誘い込んで食い物にするための、いい匂いのするエサでしかない」
「だったら……もっと環境が変わっちゃえばいい。ドロドロのぐちゃぐちゃになっちゃえばいい」
「いっそ、みんなが反対してるあの法律が通って、子供はポケモンなんか持てなくなればいい。旅になんか出られなくなればいい」
「努力したって報われないなら――もう、何もかも全部、壊れちゃえばいいのに」
「ジムリーダーなんてもの、この世から消えて無くなっちゃえばいいのよ!!」
叫ぶような強い口調で捨て台詞を吐くと、スズは走ってリビングを後にした。
「スズ!」
「待って、シズ。今は話しかけない方がいい」
「だけど……」
「シズが人の気持ちをしっかり汲んで、優しい言葉を掛けてあげられるのはよく分かってるし、これからも大事にしてほしい。だけど今のスズに必要なのは、聞き心地のいい言葉じゃなくて、一人でじっくり考える時間なんだ」
スズを呼び止めようとしたシズを制して、ツクシが首を横に振る。今は話し掛けない方がいいというメッセージだった。階段を駆け上がって二階へ消えていくスズと、右手を差し出して自分を止めたツクシを交互に見つめて、シズは不安に満ちた顔つきをして見せていた。
「大丈夫。スズだって、本当に何も分かってないわけじゃない。頭ではきっと分かってる。ただ、受け入れるのが辛いんだ。シズと同じように、スズも悩んでる。それだけ頭に置いておいてあげれば、十分だよ。スズが考えて考えて考え抜いて、それでも答えを見出せずに行き詰まった時、その時に手を差し伸べてあげればいい」
「…………」
「今の苦しみを乗り越えた時、スズにも得られるものがある。それはきっと、これからのスズのためになる。僕はそう信じてるよ。だからシズ、今はスズをそっとしておいてやってほしいんだ」
こう言われては、シズには手の出しようが無かった。ツクシに促されるまま、シズが席へ戻る。
兄の言葉を信じるしかあるまいと、シズは迷える心に懸命に言い聞かせた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。