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#20 シズちゃんの社会認識

少し前にいつも使う食品スーパーで安売りしていて、何気なく手に取った「冷や汁」。手にした時は特に買うつもりなどなかったのに、パッケージに書かれていた雑炊のような見た目(シズは雑炊が大好物だった)と、味噌ベースの味(シズは味噌味をとても好んだ)というキャッチにに食欲を刺激されて、せっかくだからとカゴに放り込んでいた。昼飯時を迎えたシズは、自分以外に家で昼食を取る家族がいないことを思い返し、パッケージ裏のレシピに従って冷や汁を作った。手軽に作れて洗い物も少ない。理想的だった。焼いた鯵を解し、いつも食べている発芽玄米・薄めに切ったきゅうりと共に冷や汁へ入れると、それだけで完成だ。鯵と味噌の味わい、そしてきゅうりの食感が絡み合い、シズは一口で「これは自分向けの食べ物だ」と確信した。

誰も居ない静かな食堂で一人昼食を取る。換気扇を回し、扇風機の風量を「中」にして強めの風を起こしているが、それでも湿気の多さと蒸し暑さは拭えない。手元に置いた手拭いでこまめに汗を拭き取り、なるべく清潔にしておくことを欠かさない。夏という季節そのものは、むしポケモンたちも活発に活動することもあって好きな季節だったが、朝から晩までじめじめとした空気が纏わり付くこの感覚だけは、どうにも苦手だった。

先の通り、この場にいるのはシズのみで、兄のツクシは姿を見せていない。今日はジムに所属しているトレーナーを引き連れて、コガネシティにある自然公園まで遠足に出掛けていたのだ。目的は一つ、コガネの自然公園で催される虫取り大会(実際のところ、ツクシもこの企画に深く携わっているのだが)に参加しに行くためだ。こうしたジム外活動の多さも、ジムリーダーとしてのツクシの特徴と言えた。むしポケモンはジムにいるんじゃない。森に、公園に、道端にいるんだ――事あるごとに飛び出す、ツクシの口癖だった。

そのツクシが今朝、仕事へ向かおうとする母親のスギナと何やら話をしているところを、シズは家事の合間に目撃していた。

(お兄ちゃん、昨日のことをお母さんに伝えてくれてたみたいだけど……)

それは、昨晩起きたスズとツクシの衝突に他ならない。スズが今の状況に絶大な不満を抱いていること、対するツクシは自分本意の主張をやめないスズを厳しく諭したこと、そしてシズが両者の間に挟まれて苦しい状況に置かれてしまっていること。夕餉の席で明らさまになった兄弟間の問題を、ツクシは整理してスギナに伝えていたようだ。スギナも何が起きているかは理解していて、何がしか手を打たないといけないとは思っているように見えた。

スズが最後に捨て台詞を言い放って自室に引きこもってから、シズもツクシもスギナも、一度としてスズと話ができていない状態だ。一晩明けた今日の朝も、いつものように朝食の準備をするシズの横を通り過ぎて、何も言わずに家を出て行った。まったくの無言で、だ。背中を見ただけで、スズが未だに怒りを滾らせているのは明白だった。ツクシに突っぱねられたために余計に意固地になってしまい、いよいよ一筋縄では行かない状況になった。シズはそう認識していた。

以前から他人を叱責したり、感情を露にしたりすることは決して少なくなく、シズと比べれば明らかに気性は荒いと言えたスズだったが、さすがに昨日のように猛烈に激怒した姿はこれまで見たことがなかった。怒り心頭に発して、ツクシと言い争いになるほどの感情の昂ぶりは、言うまでもなくスズの置かれている立場に起因するものである。端的に言うと、シズがジムリーダーの座に就き、自分にはお鉢が回ってこないことに怒りを抱いているのだ。

あの様子では、恐らくジムリーダー選任の経緯や兄・姉に対する感情といった兄弟間の問題のみならず、それとは別個に部活でもスズにとって気に入らない出来事が起きたのだろう。それに加えてさりげなく混ぜ込まれていたが、シズとリョウタとの間に存在する三角関係についても言及していた。ジムリーダーの件、部活の件、そしてリョウタの件。今のスズは上手くいかないことだらけで、相当なストレスに見舞われているに違いない。

スズの気持ちを踏まえて、シズはスズの気持ちをなんとか汲み取ろうと努めた。もちろん、すべて受け入れられるわけではない。激昂したスズから無数の強い非難を浴びせられて、シズも内心では理不尽さと怒りを感じていたのは事実だ。自分にだって言い分くらいある、スズだけが損をしてるわけじゃない。昨晩もそう思っていたし、今も気持ちは変わらない。だから、スズの言葉を全部呑むことはできない。だが、自分がスズの立場に置かれればどうしただろう? どこかのタイミングであのように暴発していた可能性はとても高い。昨日の自分とスズがそっくりそのまま入れ替わった光景が、いずれ展開されることになるだろう。

自分がジムリーダーになるというルールは最早変えようがない。だからせめて、スズの言い分を聞くことくらいは、誠実な気持ちでしてやらなければならない。そうしてやらなければ、スズが可哀想だ――心にわだかまりを残しつつも、シズはそれを抑え込む道を選んだ。

(スズだって……怒りたくて怒ってるんじゃないんだから)

怒りたくて怒る人間などいない。「怒らざるを得ない」から、人は怒るのだ。繰り返し繰り返し、シズは自分にそう言い聞かせる。今は辛抱しなければならない。今は我慢しなければならない。気持ちを抑え込まなければ。

自分は、もうすぐジムリーダーという重責を担うことになるのだから。

それにしても、スズはどうしてジムリーダーになりたがるのだろうか。妹がジムリーダーの地位に固執する理由を、姉のシズは自分なりに考えてみる。さして難しい思索ではなかった。単純に、スズには「ヒワダジムをこんなジムにしたい」という目標があるのだろう。彼女の様子を観察するに、それは恐らく、かつてリョウタやノリユキが口にしていた「強いトレーナーを育てる」ことに主眼が置かれていると見てほぼ間違いない。考え方として、スズは「自分にできたなら他人にもできる」というところがあった。ヒワダジムでもリーダーに次ぐ実力を持つ自分がイニシアチブを取って指導すれば、トレーナーたちの実力を大きく引き上げることができるはずだ――スズはそんな思いを抱いているのではなかろうか。昨日のスズの訴えの中でも、ほとんどこれと同じことを言っていたのだから、まず外していないだろう。

スズの考え方そのものは、方向性こそ違えど否定することはしない。ジムの中には完全な実力主義を採用して、トレーナーたちに切磋琢磨させているところも少なくないと聞く。ヒワダジムでもしばしば戦いは行われていて、そこで序列付けがされることもある。スズが抱いている構想は、それ自体は決して悪いものではない。むしろ正攻法、王道、正統的とさえ言えるだろう。

しかしながら――ジム全体を俯瞰してみて、シズには決して拭い去ることのできない大きな懸念があった。今現在ジムに所属しているトレーナーたちの構成である。ジムに所属しているトレーナーの最年長格が、ジムリーダーの妹であるシズとスズ・ごくたまに顔を出す程度のクミとルミ・そして今や完全な幽霊部員と化しているトモミチ、以上五名というところで、おおよそ何が問題か察しは付くだろう。ジムリーダーと同じで、構成メンバーがあまりに若すぎるのである。所属するトレーナーのほとんどが幼稚園児もしくは小学校の低学年組で、五年生六年生といった高学年組は、ハッタリでも何でもなく片手で数えられるほどしかいない。

近年は長期に渡って低迷する景気を受けて、そもそもジムに所属するトレーナーの絶対数が少なくなったことも無視できない要因の一つだった。ジムに通わせるのではなく、トレーナーとして適齢期を迎えるとそのまま外へ旅に出させる親が後を絶たないのだ。トレーナーになってしまえば、ポケモンセンターを始めとする各種の公共施設を利用して生活できるために、家計への負担は格段に軽くなる。同じ世代で、子供が中学・高校(いずれも公立と仮定)と進学した場合と、トレーナーとして旅に出た場合とを比較し、子供に掛かるあらゆるお金の総額を計算すると、実に数千万近くに及ぶ巨額の差が出るという試算もあるのだ。家計の圧迫を減らすには、子供に旅をさせるのが手っ取り早いということになる。食べる口が減れば、食べられる量が増える。ごく単純なことだ。

だが、そうして後先考えず旅に出た結果、あのノリユキのような悲惨な末路を迎えたトレーナーは一体どれほどいるのだろうか? どれだけの家族や家庭が、底知れぬ悔恨に包まれたことだろうか? 文字通り計り知れない。兄のツクシは時折新聞を読んでため息をついていることがあったが、その時横からそっと様子を伺ってみると、大抵社会面のごく小さな囲み記事に目が向いている。そこにはほとんどの場合、元トレーナーの起こした事件や事故、酷いときには自殺や一家心中などの出来事が記されていた。加えて、学校の課題で新聞を一週間ほど毎日読んだシズは、そうした記事は扱いこそ小さいものの、載らない日はほとんど無いことにも気づかされた。

それだけ、ありふれた出来事だということだ。

華々しい活躍をするトレーナーの裏で、落ちぶれて底辺を彷徨い続けるトレーナーは夥しい数に上っている。あるいはかつて目覚ましい成果を挙げた者でも、後発組に追い抜かれて往時の勢いを失い、今や行方知れずとなった者も大勢いる。もちろん、成功しなかったトレーナーの中にも、失敗や敗北から多くを学んで人生の教訓とし、別の生き方を見つけることができた者も数多くいる。別の分野で成功者と呼ばれるようになった人間も少なくない。しかしながらそうしたケースというのは、初めから「物事を受け入れる能力」が高く、ネガティブなイベントからも教訓を得て立ち上がれる素養を持った者がほとんどだ。不幸にしてそうした素養を持たずにトレーナーとしてデビューした人間には、往々にして悲惨な末路が待ち受けている。いや、末路に辿り着けたならまだ良いかも知れない。ありもしない、掴めもしない「可能性」を延々と追い求めて、言わば半死半生の状態で無為な人生を積み重ねてしまう者も、何ら珍しい存在ではない。

トレーナーたちの多くは、一つの大きなピラミッドの頂上を目指して競争に明け暮れている。最終的にピラミッドの頂点に立てるのは一人しかいないことは態々言うまでもない。終わりのない椅子取りゲームという言葉が相応しい光景であろう。一度頂点に立とうとも、気を抜けば忽ち転げ落ちてしまう。優秀な者だけが生き残り、生き残った優秀な者の達の中で、さらにより優秀な者だけが生き残るという仕組みだ。

視線が上を向いていて、順調に階段を上れているうちは良いかも知れない。上昇志向が強いモチベーションとなることもあろう。だが、一度足を踏み外して転げ落ちてしまえば、再び這い上がるためには膨大な労力を要する。その過程で自らの限界を悟り、絶望に暮れる者もいないとは思えない。

例えば――そう、ノリユキのように。

ツクシがジムのスローガンとして「楽しく・正しく・頼もしく」という三点をブレさせることなく掲げ続けているのは、現代社会に於けるポケモンやトレーナーに対して相当大きな危惧を抱いているからに他ならないと、シズは察していた。せめてヒワダジムに所属するトレーナーには、他者を蹴落とす競争だけではない別の生き方、即ち自主独立や他者との協働といった考え方を身につけて欲しい。ツクシはそう願っていると考えて間違いなかった。

スズの構想している方針を額面通り受け入れれば、これまでの方針と真っ向から対立することになる。まだ幼い子供の多い今の人員構成を踏まえても、丸呑みにすることは難しいだろう。仮に実行したところで、とてもうまく行くとは思えない。とはいえ、制度や方針を一切変えてはならないという硬直的な考え方は、組織の寿命を著しく縮めることになるのは言うまでもない。どこかのタイミングで、また変革は必要となるだろう。その際、スズの案を取り入れていくことも、大いに考え得ることだ。

(これからどんなジムにするのか、そんなことも考えていかなきゃいけない……)

ヒワダジムの変革。シズにはそれだけの大業を果たせる自信などまったくなかった。兄から受け継いだものを、可能な限り劣化させずに継続させる。それを成していくことすら不安だというのに、将来のことなど考える余裕はどこにもなかった。自分は兄のようにはいかない、兄ほどの能力は自分にはない。しかし兄から受け継いだものを壊してはいけない、兄のように立派に振る舞わなければならない。そして将来は、兄の守ってきたこのジムをより長く存続させていくための方向性を、自分の力で見出さねばならない……。

そしていつもと同じように、シズは大きく息をついた。あれこれ深く考えすぎて、また思考が行き詰まってしまった。悪い癖だと自覚していても止めようがない。一旦箸を置くと、コップに注いだ麦茶を二口ほど飲む。再び箸を取ると、小鉢に盛った白菜の浅漬けを口へ運んだ。シャキシャキとした白菜にほんのり効いた塩味が、口いっぱいに広がっていく。これも、シズの好きな食べ物の一つだった。母親のスギナから教えてもらって自分で漬けられるようになり、しばしば作って箸休めとして食卓に並べている。

ジムリーダーのことを離れて、少し別のことを考えてみよう。そう思い立ったシズが思考を巡らせたのは、しかし再び妹のスズのことだった。

より実態に即した言い方をするなら、スズと、リョウタのことだ。

昨日スズがシズとツクシに向けて吐露した思いの中に、「自分は彼女にもなれない」というものが混ざっていたことを、シズは決して聞き逃していなかった。シズとスズが共に思いを寄せている相手など一人しかいない。それがリョウタだ。これまでは推測だったことが、感情を爆発させたスズが自ら暴露したことにより、明らかな事実となって浮かび上がってきた。

では、スズは何故リョウタのことを好きになったのか。これまでその理由を掴みかねていたが、昨日リョウタと会ってから自室で過去を振り返ったことで、シズの脳裏に一つ重要な場面が蘇って来ていた。

あれは……そう。サダコが、自分やスズと絶交したすぐ後くらいのことだった。何をするわけでもなく、スズと共に近くの公園へ出掛けて、二人でベンチに腰掛けていた筈だ。

「はあ……」

「スズ……大丈夫? 気分、悪くない?」

「……うん。具合が悪いわけじゃないの。今は、何もする気がしないだけだから……」

「そっか……そうだよね、あんなことが、あったから……」

あの時のスズは、ひどく落ち込んでいた。

なんだかんだで、スズはサダコと仲が良かった。つい最近まで一緒に遊んだり、買い物に出掛けたりするような間柄だったのだ。思春期の入り口を迎えて、二人とも自分が「女の子」であることを意識し始めたこともあって、互いに折り入った相談を持ち掛けたりするようなこともあったようだ。それが、あの一件でサダコから絶縁宣言をされてしまい、一切口をきいてくれなくなってなってしまったのである。勝気なスズと言えど、サダコと絶交してしまったことは相当堪えたようだ。心配したシズが声を掛けても、気のない返事しかしない有様だった。

「スズは悪くないよ。悪いことなんてないからね」

「それに――お兄ちゃんも、サダコちゃんも悪くない。わたしは、そう思うよ」

落ち込んだスズを慮り、シズがそっと肩に手を回す。普段ならさっと跳ね除けてしまいそうな姉の繊手を、今のスズは何も言わずにありのまま受け入れた。そうして、今にも泣き出しそうな、悲しみに溢れた眼差しをシズに向ける。シズはそんな目をしたスズが居た堪れなくなり、両腕を使ってスズを抱き締めた。普段前向きで強気な面を前面に押し出し、明るい姿しか見せていないスズが、ここまで元気を失くしてしまうとは。同じくサダコに縁を切られたシズも沈んだ気持ちになっていたが、それ以上にスズが不憫でならなかった。抱かれたスズは姉が自分に気持ちを向けてくれていることを感じて、シズにぐっと身を預けると、胸に深く顔を沈み込ませた。

「スズ。わたし、何もしてあげられなくて、ごめんね」

「お姉ちゃん……」

スズがこんなにも悲しんでいるのに、少しも勇気付けてやれない自分が歯がゆくて、シズはスズにそう言葉を掛けた。スズは弱々しく、しかし確かに首を横に振ると、シズの腕をごくごく弱い力でぐっと掴んだ。

この仕草は――スズがまだ小さい頃、母親が仕事に出てしまって家に居ないと泣いていた折に、哀れに思ったシズがスズを抱きしめてあげた時と同じだった。シズにぴったりとくっついて、腕をぐっと掴んで離さない。

そこに、間違いなく、姉がいるということを、確かめるかのように。

「シズ……それに、スズ」

「リョウタ、君……」

意気消沈した二人の前に姿を現したのは、リョウタだった。

リョウタも先日ジムから籍を抜いたばかりで、シズやスズとの関係も微妙なものになり掛けていた。サダコとは異なり、二人やツクシと正面切って縁を切ったわけではなかったが、ノリユキの後を追うようにポケモンに関わることをやめたリョウタに、シズもスズもこれからどう接すればいいのか分かりかねていた。それが、リョウタの方から自分たちに声を掛けてきたのだ。正直なところ、シズは驚くと共に、少なからずほっとしたという感情を抱いていた。

「スズの隣、座ってもいいか」

「うん……いいよ。座って」

スズの隣にリョウタが着く。目を伏せていたスズが、わずかに顔を上げてリョウタの目を見つめる。平時の対抗心や刺々しさはすっかり鳴りを潜めて、不安と悲哀に満ちた弱々しい瞳が、リョウタの姿を捉える。

「リョウタ……」

「ノリユキとサダコのこと、だよな……いつも明るいお前が、こんなに元気を失くすなんて」

小さく頷く。

「あたし、どうすればよかったんだろう。どうしてれば、ノリユキもサダコも、あたしもお姉ちゃんもお兄ちゃんも、それにリョウタも、みんな揃ってこんなに悲しい思いをせずに済んだんだろう……」

「そうか……スズ、お前も同じことを考えてるんだな」

「リョウタも……?」

「ノリユキがヒワダに帰って来てから、ずっと考えてるんだ。あいつが出ていこうとしたときに、俺が力づくで止めりゃよかったとか、ポケモン以外に何か打ち込めるものを見つけて一緒にやってりゃよかったとか……そんな、どうしようもないことばっかり考えてるんだ」

「そっか……リョウタ、ノリユキと一番仲良かったから……もっと、辛いよね」

「辛いのは、きっとお互いさまさ」

スズもリョウタも、普段相手に見せる強い態度や攻撃的な感情は、欠片も表れていなかった。同じ悲しみを共有して、深い傷を負った心を曝け出し合っている。いつもの二人とは、何もかもが違っていた。

「だけど……今こうやっていくら考えたって、どうにもならない。時渡りの神様でもない限り、過去には帰れないんだ」

「そう……そう、だよね。もう、どうしようもない、取り返しがつかない、だから……こんなに、苦しいのかな」

「俺は、そうだと思う。昔からやり直せたらどんなにいいだろうって、何回も何回も、キリがないくらい考えちまう」

「ああ、やっぱり、あたしやお姉ちゃんだけじゃなかったんだ。リョウタも、そんな風に考えてたんだ」

「辛いときは、俺だって考え事くらいするさ。考えてねえと、気持ちがおかしくなりそうでさ……」

「あたし、ノリユキのことでサダコから絶交されて、こんなにも辛いなんて思ってなかった。もう何年も一緒に遊んでて、側にいるのが普通だった時間が長かったから……だから、サダコがもうこれからずっと口をきいてくれないんだって思うと、辛くて、苦しくて……」

躰を震わせてぽろぽろと大粒の涙を零すスズの肩に、リョウタは何も言わずにそっと手を置いた。その優しさが余計に身に沁みたのか、スズは声を上げて泣き始めた。

シズは、二人の様子を何も言わずにつぶさに見守っていた。スズがリョウタの優しさに絆されて、心に受けた傷を少しでも癒していけるなら、それが一番いいと考えていた。これは、傷の舐め合いと言えば、そうかも知れない。弱者の馴れ合いと言えば、返す言葉がない。だが――開いた傷口を塞がなければ、再び立って歩き出すことなど叶わないのだ。今はこうして、苦しい胸のうちを明かして、積もった思いを吐き出すことが何より大事だった。

――そうだ。確かにそんな光景があった。思えばあの時からだろうか? スズが、どことなくリョウタを意識するようになったのは。

サダコに絶交されて受けた傷が癒え、スズが再び元気を取り戻すと、これまでと同じようにリョウタとぶつかり合うようになった。当時はいつものスズに戻ったものだと考えていたが、恐らくその認識は間違っている。表層的には同じでも、内面は大きく変貌していたのではないか。

変わってしまったものは、もう元には戻らない。それこそ、先日リョウタが言ったように。

シズは思考をさらに深める。ここからは推測だ。スズと双子の姉妹であるという自分の立場を鑑みて、スズの考え方をできる限りトレースしてみることにした。リョウタから慰めの言葉を掛けられたとき、スズはそれをどのような心境で受け止めていただろうか。普段ケンカばかりしているリョウタが、実は押し付けない優しさを兼ね備えていた。その一面を目撃して、スズはリョウタに一気に惹かれた可能性がある。

普段のリョウタが、姉であるシズに対して優しく接していることはスズもよく知るところだ。それと同じことで、スズは自分に向けられた態度が姉に対するものと同じだと考えていたのではないか。もっと踏み込んだ言い方をすると、つまるところシズと自分は対等で、もしかすると自分にもチャンスがあるかも知れないと思っていたのでは――そういうことになる。

スズはそんな風に考えていたものだから、リョウタがシズのことを想っていると知って、尚更大きなショックを受けたのだろう。これはすべて想像と推測であり、特にリョウタの心境に掛かるところでは些かの自惚れが混じっていることは否定できないが、完全に外しているとも、また思いがたいところがあった。

根本の原因は恐らく、過去のリョウタの行動にある。さりとて、あの時リョウタが優しくしなければよかったとは到底思えないし、そもそもそんな考えを抱くことなど有り得ない。あの時点でも、スズはリョウタにとって間違いなく大切な友人であったのだから。落ち込んだ友人を温かく励まして元気を取り戻させたことを、一体誰が咎められようか。

未来は過去を裁けないし、過去は未来に諮れないのだ。

(でも、一体どうすれば……)

とはいえ、人間関係が複雑化した現状は、現実のものとして受け止めねばなるまい。それもまた事実だった。

ぐちゃぐちゃに絡まって、解く手立てのない玉結びのようになった自分とスズとリョウタの関係を、これからどうしていくべきか――シズは再び、頭を抱えることとなった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。