それから少し日を跨いで――七月の終わりの、夕暮れ時のことだった。
「あっ……マユコ先生っ」
「あら、シズちゃんじゃない」
駅前にある商店街の入口付近で、シズが前方を歩くマユコ先生を呼び止めていた。マユコ先生はシズの担任で、教科は国語を受け持っている。見た目はまあまあ若々しいが、本人曰く「教師歴は長い」とのことだった。買い物帰りに軽い散歩気分で家路に付いていたシズが偶然マユコを見掛け、後ろから声を掛けたというのが今の構図である。
シズに挨拶されたマユコはくるりと向き直り、駆け寄ってくるシズを待ち構える。教え子の姿を認めたマユコは、掛けていたフレームの無い眼鏡を直す仕草を見せる。これはマユコの癖で、事あるごとに見せるある種の見栄のようなものだった。マユコは軽く会釈をして、シズを出迎えた。
「マユコ先生、こんにちは」
「こんにちは……てか、もうすぐ『こんばんは』の時間だけどね。ま、どっちでもいいわ。こんにちは、シズちゃん」
「先生は、今日も仕事だったんですか?」
「あたぼうよ。チミたち生徒諸君と違って、先生には夏休みもヘチマもないのよ。会議に研修にレポートの作成、教師が夏休み暇だって言ってる社会人がいたら、そりゃもうネックツイストの一つでも決めてやりたいわね。ぐりっと、ぐきっと」
見ての通りと言ってしまえばそれまでだが、マユコの性格は、一言で言うと大変軽いものであった。シズに対する話し方からも、およそ緊張感というものが伝わってこない。シズは困ったように笑いながら、それでもマユコの言葉にきちんと耳を傾けている。
「まーったくシズちゃん達が羨ましいわ。あたしもガキんちょの頃にもっと夏休みをエンジョイしとけば……」
シズが夏休みをフルに楽しんでいるものと考えて羨み、今は昔となったかつての夏期休暇にため息交じりの思いを馳せようとしたマユコだったが、眼前のシズのスタイルをきちんと確認したマユコは、途中でその言葉と思考を引っ込めざるを得なかった。
本日は少し気分を変えて、普段買い物に使っている食品スーパーではなく、駅前にある雑貨店まで赴いたシズは、深く折り目が付いて使い古された感のあるエコバッグを提げて道を歩いていた。どう見ても買い物帰り、それもお小遣いを使って私物を買う買い物ではなく、家計から支出して家族に必要なものを買うタイプの買い物だった。
「あー、ごめんねシズちゃん。今のは無かったことに」
「先生の気持ちも分かります。気にしないでください」
これには、シズも苦笑いを浮かべるほか無かった。
帰り道が途中まで一緒だったシズとマユコは、そのまま連れ立って歩くことになった。駅に併設されたアーケード付きの商店街を抜けて、交差点のある大通りを目指す。商店街を成す道程は思いの外長く、もちろんそれに伴って多くの店が軒を連ねている。
軒を連ねてはいる――が。
「いつも思うんですけど……ここ、人気が無いですよね」
「人気(ひとけ)もないし、人気(にんき)もないわね。これも、人が減ってるからよ」
二軒に一軒はシャッターを下ろしているという状況で、そしてそのシャッターが開くことは恐らく無いと言わざるを得ない有様だった。シャッター街という言葉が一般化して久しいが、その波はここヒワダタウンにも押し寄せてきていた。いや、ジョウト地方の地理を考えれば、むしろかなり早い段階からこうなり始めていたと言った方が正確かも知れない。ヒワダタウンはジョウト地方でもかなりの田舎に分類されてしまうためだ。
「あっ。ここの電器屋さん、潰れちゃってる……」
「ふーむ。貼紙に書いてある日付、もう一ヶ月も前ね。シズちゃん、前にここで何か買ったとか?」
「はい。ずいぶん前ですけど、扇風機を買ったんです。使いやすくて、今でもリビングに置いてるんですけど……」
「なんというか、時間の流れには抗えないものね。悲しいけど、これが現実ってやつなのかしら」
電器店のロゴがプリントされたシャッター、本来は閉店中にも広告を展開するための仕切りの上には、このシャッターが一般に向けて開放されることは二度と無いという旨の貼紙がされている。所々が錆びたシャッターには、両親と二人の子供が笑顔を見せるイラストが描かれていた。彼らもまた、御役御免といったところだろうか。
メガネを直す仕草を見せて、マユコがぽつぽつと呟く。
「まず、人が減る」
「次に、活気がなくなる」
「そうなると、客足が遠のく」
「すると、利益が得られなくなる」
「そこへ行くと、新しいことができなくなる」
「だから、人気がなくなる」
「また、人が減る」
「あとは、この繰り返し」
「商店街に限らない。何かが緩やかに衰退していく時は、いつもこのパターンよ」
「常連さんやお得意さんにばかり目が向いて、新しい人を入れられなくなるのもお決まりね」
事故やトラブルによる急な消滅ではなく、時間経過によってコミュニティが滅びていくときは、多くの場合で同じパターンを辿っていく。人の減少はコミュニティの活力を落とし、新しいことに挑戦させる意欲を失わせる。目新しさの感じられないコミュニティは人を集められず、そしてまた人が姿を消していく。この負のサイクルに嵌ってしまうと、抜け出すのは容易なことではない。
まだ日は高いというのに薄暗さを感じさせる商店街を、マユコはどこか遠い目をして見つめていた。今の廃れた商店街に対して、在りし日の賑やかな商店街を重ね合わせているのかも知れないと、シズは思った。風化しつつある街並みに、新しい風を吹き込む方法はあるのだろうかと、シズが考えていたときのことだった。
「そういえば……シズちゃん、来年からジムリーダーになるのよね」
「あっ、はい。そうです。兄から引き継いで、わたしがヒワダタウンのジムリーダーになることになりました。夏休みの前の、期末懇談会でも話しましたけど……」
「そうそう。あたしも懇談会の時に知ったからね」
マユコがシズに水を向けて、シズがジムリーダーに就任する件を俎上にあげた。恐らくこの事は訊ねられるに違いない、シズはそう予想していて、そして実際に当たった恰好だった。兄の後を継ぐということを付け加えて、シズがマユコからの質問に応じる。
「ジムリーダーってさ、あれでしょ。一度任命されると、よっぽどのことが無い限り断れない。そうよね?」
「はい。後を継ぐ人を決めるのにも、いろいろルールがあって、それで、わたしになったんです」
「ルールがなきゃ、ドッジボールも裁判もできやしない。決まりは決まり、それはまあいいわ。だけど、ねえ……」
歯切れの悪い口調で、マユコがしばらく言葉を濁していたが。
「他の子はまだまだ高校で学生生活をエンジョイするけど、シズちゃんは一足、いや二足お先に社会人デビューってことよね。アイドルとかアスリートの領域だわ」
「なんか、テレビにもたまに出たりするらしくって。まだ、全然実感湧かないですけど……」
「他のポケモントレーナーたちのアイコンになるって意味じゃ、トレーナー相手にお金儲けしてる会社がお得意様の新聞屋さんやテレビ屋さんは、まあほっとかないでしょうね。シズちゃんみたいな新しい世代の子なら、なおさらよ」
ジムリーダーは、ポケモントレーナーたちにとって特別な存在。シズもそれは深く理解していた。挑戦してきた者の実力を見定めるだけでなく、司ることになるポケモンのタイプ――シズであれば、言うまでもなくむしタイプになる――の専門家、言わばスペシャリストとして、関連する事象に対してコメントを添えることもある。その影響力は計り知れない。故にシズは重責を感じていたし、自分にはジムリーダーとしての適性が無いと悩んでいるわけだ。
「しっかし中学出たばっかりとか、ツクシ君なんかだと小学校上がったばかりとかで……ねえ」
「これがしっかり者のシズちゃんだからまだいいけど、いろいろと『いびつ』だわ。やっぱり」
マユコは今の社会を俯瞰して、「いびつ」だと評して見せた。シズは義務教育の期間が終わってすぐ、ツクシに至っては中学校へ上がる前に「ジムリーダー」として祭り上げられ、社会人として振る舞うことを求められる。学校教育の現場にいるマユコにしてみれば、歪んでいると感じられてもおかしなことではなかった。
「こう言っちゃなんだけど、やっぱり『シンボル』が欲しいのかも知れないわね。マサラタウン出身のあのトレーナーといい、今のトキワシティのジムリーダーといい、ツクシ君といい……シズちゃんといい」
「頑張ればあなたも彼ら彼女らのようになれるんだよ。誰にでもチャンスはあるんだよ。そんなメッセージを発しておきたい、そんな風に見せておきたい。そういうことなのよね、きっと」
「――これだからあたし、『ポケモン』が嫌いなのよ」
醒めた口調で発された「『ポケモン』が嫌い」というマユコの言葉に、シズは背中に冷たい水を流し込まれたような感触を覚えて、敏感な反応を見せた。
マユコが「ポケモン」、コンテキストを鑑みれば「社会システムとしてのポケモン」を嫌う理由は、リョウタのそれと相通ずるものであった。さらに先日の夜、スズが激昂して吐き捨てたあの言葉に至っては、完全な一致を見せていると言っても過言ではないほどに、マユコの言葉と意を同じくしていた。
『「夢」も「希望」も「可能性」も、ただのまやかしでしかない。嘘を見抜けないバカを誘い込んで食い物にするための、いい匂いのするエサでしかない』
口には出さないだけで、同じようにして「ポケモン」を嫌悪している人間は多くいるはずだ。声を押し殺しているだけで、ネガティブな感情を抱いている人間が少ないとは到底思えない。今後はジムリーダーとして、そうした人から投げ掛けられる視線とも向き合っていかなければならない。分かっていたつもりだったが、マユコと対峙してみて、それがあくまでも「つもり」に過ぎないことを思い知らされた。
しばし逡巡していたシズが、俯かせていた顔を、物陰から奥を覗き込むかのようにおずおずと、恐る恐る上げていく。すると待ち構えていたかのように目を向けていたマユコが、すぐに視線を交錯させてきた。
「だから先生、来年ジムリーダーになるシズちゃんもきらーい」
「先生……」
「……なーんて、冗談よ。もう、シズちゃんったらすぐ深刻な顔しちゃって」
「もう……脅かさないでください。わたし、本当だと思って……」
「ま、そういうところがシズちゃんの面白い、じゃなかった、素敵な所なんだけどね」
「面白いって、どういうことですか」
「気にしない気にしない。気にしたら負けよ」
面白い、即ちおもちゃにされていると知ったシズは少々不満げだったものの、マユコが本質的に自分を嫌っているわけではないと知り、密かに胸を撫で下ろした。少なくともあと半年、マユコは担任としてシズに接するわけである。本心から嫌われていようものならひとたまりもなかった。
「それでシズちゃん、今はどんなことしてるの? ツクシ君から引き継ぎ受けたりとか?」
「はい。事務作業とか、立ち振る舞いとか、心構えとか、いろいろ手解きを受けてるところなんです」
「ほぉー。立ち振る舞いねえ。あれでしょ、ツクシ君直伝・イケメントレーナーの落とし方、とかでしょ? 違う?」
「違いますっ。そんなこと教えてもらってません!」
「第七話。ミツハニーの館を前にしたツクシ君とシズちゃん。『ここには女装に必要な何かがある。僕には分かるんだ』と啖呵を切ったツクシ君は、訝るシズちゃんを残して『行くぜ!』と中へ突撃する――とかでしょ?」
「お兄ちゃんは男の子です! 女装なんかしたりしません! それにミツハニーの館って、駅前にあるこの間できたばっかりのスイーツショップじゃないですかっ」
「あはは、ジョークジョーク。人生にはジョークが不可欠なのよ。しかしまあ、ツクシ君もいい妹さんを持ったものねえ」
もう全然話についていけないよ、と振り回されてばかりのシズがぶちぶち零しつつも、マユコが口にしたある言葉を受けて、再び沈んだ表情を見せた。
「でも……わたしは、本当に『いい妹』なのかは分かりません」
「わたしには――兄みたいな立派なジムリーダーには、なれないと思うんです」
シズが幾度となく口にしている、「自分はジムリーダーとして適性が無い」という言葉。顔を背け、視線を地べたへ這い蹲らせながら、シズは絞り出すような声でマユコに言った。シズの言葉を受けたマユコは、じっとシズに目を向けたまま視線を外さない。
「シズちゃんにはジムリーダーは無理、そう言いたいの?」
「はい。だって……ジムリーダーは、いろんな人の模範にならなきゃいけないですし。兄はいろんな人から『見習いたい』『こうありたい』って言われていて、みんなのお手本みたいな存在なんです。わたしには、そんな風になれるって思えないんです」
「お手本ねえ」
「それに、リーダーシップを発揮できなきゃいけません。みんなをぐいぐい引っ張って、ジムを一つにまとめていかなきゃいけない。兄は、いつもみんなを上手くまとめています。それに比べて、わたしは誰かを引っ張るのに慣れてなくて、すぱっと物事を決めるのも苦手なんです」
「リーダーシップ、ね」
「何より、自分に自信が持てないんです。わたし、兄や妹と違って、今まで何も成し遂げたことがないですから……」
「今までにやり遂げたことが無い……なるほどね」
シズが言葉を詰まらせながら、「いかに自分がジムリーダーとして適性が無いか」を訥々とマユコに話した。
「ふぅん。そういうことねえ」
受け手たるマユコは表情一つ変えず、右手で眼鏡を直しながら、抑揚の無い口調でシズにこう応じた。
「どうも、根本的なところが抜けてるわね」
「根本的なところ……ですか?」
「そう。一番大事な根っこの部分。そこに触れずに、周辺だけあれこれ弄くってる。金庫の周りだけ見て『お金が無い、宝石も無い、株券も無い、無い無い無い、何も無い』って言ってるみたいなものよ。少なくとも、あたしにはそう見えたわね」
場を包む空気が明らかに変わった――シズはマユコの姿を見て、否が応にもそう自覚せざるを得なかった。今隣にいるマユコは、先程までのマユコにはなかった「冷たさ」と「烈しさ」を身に纏っている。シズは無意識のうちにマユコの変化を察し、思わず身構えた。
「シズちゃん。あなた、ジムリーダーになりたいの? それともツクシ君になりたいの?」
「えっ……? それ、どういう……」
「あなたの言葉から導き出したものよ。シズちゃんの話に出てくるのは、いつもお兄さんのツクシ君。自分はお兄ちゃんのようにはなれない、お兄ちゃんのような能力はない、お兄ちゃんには及ばない。お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん。まるでツクシ君になりたがってるみたい」
マユコがシズに突きつけた言葉は、「シズはツクシになりたいのか」というものだった。シズはマユコからストレートな言葉を投げ付けられて初めて、いかに自分が兄を引き合いに出すことが多かったかを強烈に自覚させられた。
「『シズちゃん』のあなたがどれだけ足掻いたところで、『ツクシ君』になれるわけがないでしょ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃とは、この事だろうか。マユコの発言にシズはすっかり言葉を失って、ただマユコから視線を外さずに見つめ続けることしかできなかった。
腕組みをしたマユコが、教え子の瞳の奥にある真意を引きずり出そうと、シズの目を真っ直ぐに見据える。
「シズちゃん、質問よ。大事な質問。本音を聞かせて」
「なん、でしょう……」
「シズちゃんは――ジムリーダーになるのは『嫌』?」
質問がある、本音を聞かせてほしいと前置きしてから、マユコはシズに対して質問をぶつけた。「ジムリーダーになるのは『嫌』」か。シンプルながら一筋縄では行かない質問だった。
「なれる・なれないの話じゃないわ。なりたい? それともなりたくない?」
「わたしが……どう思ってるか、ですか……」
「そう。あたしはそれが知りたいの」
目線を地面へ投げ掛けたシズが、混乱する考えを懸命に整理していく。
「わたしは……」
かなりの長考を経てから、シズが口を開いた。
「……なりたくないわけじゃないです。ジムリーダーになるのが嫌とか、そういうのとは……少し、違います」
「シズちゃんはジムリーダーになることが嫌なわけじゃない、それが答え?」
「はい。ジムリーダーとして仕事をすること、それ自体は嫌じゃないです。兄のそばでずっと手伝ってきて、いつか、自分でもやってみたいと思っていました」
「なるほど。そういうことなのね」
シズは、決してジムリーダーになりたくないわけではなかった。ジムリーダーという職務が嫌ということではなく、自分自身に務まるのかが不安だった。不安な気持ちが先行して大きくなりすぎて、シズはジムリーダーになるということそのものにネガティヴな感情を抱いていたことに気付かされた。
「なら、シズちゃん」
マユコがシズに鋭い視線を向ける。シズはマユコの眼光に射竦められたように、華奢な身を強張らせる。マユコは一瞬間を置いてから、おもむろにその口火を切った。
「シズちゃんの言う『模範的な存在』って何?」
「シズちゃんの言う『リーダーシップ』って何?」
「シズちゃんの言う『功績』って何?」
畳み掛けるような問いの連打を浴びせた。模範的な存在とは何か、リーダーシップとは何か、功績とは何か。シズが曖昧模糊とした捉えどころのないイメージとして持っていたそれらを、マユコは容赦なく具体的な「何か」として答えることを要求したのだ。シズは頭がグルグルして、何も考えをまとめることのできない状態に陥ってしまった。具体的な言葉にしようと試みても、自らの意思とは関係なく曖昧で抽象的なイメージの言葉へ置き換えられてしまい、マユコにうまく返すことができなかった。
「模範的って言ったってね、ツクシ君のやり方じゃ、格闘道場じゃ軟弱ってレッテルを張られて終わり」
「リーダーシップがある? 軍隊じゃ個々人の意見を吸い上げてる暇はないでしょ?」
「スズちゃんが地区大会に優勝したからって、上には上がいくらでもいるのよ。スズちゃん如き秒殺されて手も足も出ない、なんて相手もごろごろいるでしょうね」
マユコが冷然と言い放った言葉に、シズは顔を蒼褪めさせていた。自分の持っていた「軸」が、横殴りにされて叩き壊されていく。マユコが用いた言葉が特段苛烈で辛辣だったわけではない。持っていた軸が想像を絶するほどの脆弱さであったから、いとも容易く破壊されてしまっただけのことなのだ。
話しながら歩き続けていた二人だったが、マユコが不意に立ち止まる。シズがそれにつられて立ち止まると、横手にはすでに廃墟と化した小さな店舗があった。佇まいから推測する限り、それはかつて喫茶店として、この商店街に軒を連ねていたように思えた。
「いつだって時間は待ってはくれない。人の気持ちを置き去りにして、勝手に遠くへ行ってしまう」
「時間は残酷よ。待って欲しいと願っても待ってくれない。昔の時間は、もう戻ってこないの」
「ヒワダタウンで時渡りの神様があがめられるのは、時間の尊さを、時間の掛替えの無さを、何より残酷さを知っているからかもね」
今は亡き喫茶店を瞳に映し出しながら、マユコがシズに語りかける。
「あたしもね、もう少し遅かったら手遅れになるところだった。いや――実際、半分手遅れだったかもしれない」
「だから、時間のある今のうちに、たくさん考えなさい。手遅れにならないうちに、手遅れにならないように」
「それで、近いうちに答えを聞かせて」
「シズちゃんが、シズちゃん自身が、どんなジムリーダーになりたいかをね」
マユコが踵を返し、立ち去ろうとする。
「宿題にしておくわ。シズちゃんが出した答えを聞かせてもらうの、楽しみにしてるから」
未だ衝撃冷めやらぬまま、足早に去っていくマユコの背中を、シズはすがるような目でじっと見つめつづけていた。
彼女の気持ちを知ってか知らずか――マユコは決して振り向くことなく、そのままその場からその姿を消した。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。