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#22 シズちゃんのメール

その夜。

扇風機のタイマーをセットし、寝床に入ったシズだったが、そのまま寝付ける気は少しもしなかった。今日は夏にしては珍しく涼しい夜で、寝苦しさは感じずに済みそうだったのだが、あいにくそういう問題では無かった。シズはぱっちり開いた目を閉じるのも億劫で、そのまま暗い天井をぼうっと瞳に映し出し続けていた。

しばらくの間そうして寝るのか寝ないのか判然としない状態が続いていたが、さすがに本人も堪らないと思ったのだろう、身体を起こし、紐を引いて部屋の明かりを付ける。どうしても寝付けそうに無かったのだ。ベッドから降りると、学習机の上にある充電器にセットされた携帯電話を手に取る。

パチン、と音を立てて携帯電話が展開される。左側上段にあるメールのキーを押下すると、ディスプレイが直ちにメールボックスの画面に切り替わる。2キーを押して受信トレイへ移動すると、そこには一時間ほどの間にやり取りされた多数のメールがずらりと並んでいる。下キーを押しっぱなしにして一連のメールのかたまりの一番下までカーソルを移動させると、確定キーを押し込んでメールを表示させた。

『おひさー。最近毎日暑いねー。ジムリーダーの引き継ぎ、うまくいってる? 無理しないでね。あたしもお姉ちゃんも一応ジムトレーナーだし、何かあったら手伝わせてほしいな』

やりとりが始まった大本のメールの差出人は、友人のルミだった。終業式を終えてから一度も会っていなかったから、確かに久しぶりな感があった。メールを受信した直後は、ルミの調子が変わっていないようでホッとしたのを覚えている。

ルミからの自分を気遣うメールに対して、シズはこんな応答をした。

『ルミちゃん、ありがとう。今のところは大丈夫そう。お兄ちゃんもちゃんと教えてくれてるし、質問したら丁寧に教えてくれるよ。ルミちゃんの気持ちはすごくうれしいけど、これから受験もあるし、迷惑は掛けられないよ』

来年ジムリーダーに就任することが決まっているシズとは違い、ルミとクミにはこれから高校受験という大きなイベントが待ち構えている。夏休みはそれに向けてエンジンを掛けていく時期で、ジムのことで時間を取らせてしまっては、ルミにとってもクミにとっても迷惑に違いない。シズは瞬時にそこまで考えて、ルミに向けて「気持ちはうれしいが、迷惑は掛けられない」と答えた。

しかし、それから間もなく返ってきたルミのレスポンスは、シズにとって少々意外なものだった。

『ちがうよシズ。迷惑なんかじゃないって。手伝わせてもらえればあたしたちだってうれしいし、きっとシズだってもっと楽になるよ。シズはいつも一人で頑張ってて、頑張りすぎてるくらいから、もっと当てにして、頼ってくれていいんだよ』

これに驚いたのはシズの方だった。ルミとルミがたまにジムへ顔を出した折には、いつも年少・年中組の面倒を見てもらっていて、それだけでも十分ありがたかったのだが、クミもルミも「自分たちをもっと当てにしてほしい」と言っている。シズにしてみれば、意外と言うほかなかった。

戸惑いを隠し切れないながらも、携帯のキーを頻りに叩いて、シズが返事をする。

『わたし、そんなに頑張ってなんかないよ。してることなんて、家の事とお兄ちゃんの手伝いくらいで、大変な事は何もしてないと思ってるよ。これからはもっと頑張らなきゃって思ってるくらいだし』

していることなど大したことはない。家事とジムのサポート、それに中学生としての本分である勉強くらいのもので、自分が何かを「頑張っている」という意識などほとんど持った記憶がなかった。さすがに、疲れているときに掃除や洗濯をしているような折はそう思わないでもなかったが、普段考えに上ることなど皆無と言ってもほぼ過言ではなかった。

そしてルミからの返信。段々と間隔が短くなってきていて、端末の向こうでルミが熱くなっている様が見て取れるかのようだった。

『これお姉ちゃんも言ってるけど、どう考えてもシズがシズん家の中で一番大変だよ。家事とかってスズに手伝ったりしてもらってるわけじゃないんでしょ? スズ剣道やってるし、そんな時間ないと思うけどさ』

シズはますます困惑する。自分が家の中で一番大変、というルミのメッセージを目にして「そんなはずはない」とに首を横に振った。理由は明らかだ。兄のツクシはジムリーダーとして朝から夕方までずっと忙しく働いているし、母のスギナは地元の工務店でリフォーム部門の部門長としてばりばり働いている。スズは――確かにメールに書かれている通り、家事を手伝ったりすることはあまり無いが、部活動でいくつも成果を残している。日頃努力している何よりの証左だろう。

兄と母と妹に比すれば、自分など本当に大したことはない。シズは自分のありのままの思いをメールに乗せた。

『スズは、ルミちゃんも知ってると思うけど、剣道ですごく頑張ってて、大会で勝ったりもしてる。立派だと思う。わたしはそういうことが一つもないし、ずっと続けてるようなことも無いから、やっぱり大したことなんてないって思ってるよ』

目に見える成果なんて一つもない。スズの方がずっと立派だ、頑張っている。メールにそう書いて、ルミのアドレスへ向けて飛ばす。

驚くべきことに、メールを送って三十秒と経たないうちに、ルミからの跳ね返しが飛んできた。

『シズ、それは違うよ』

さらにそれから三十秒と少しして、追加のメールが送られてきた。

『シズはもっと自分に自信を持っていいよ、自信満々でいいくらい。あたしもお姉ちゃんも、シズみたいにきっちり家事したりできないよ。ていうか同い年でシズみたいにきっちりやれる人なんて他に知らないし、ホントにすごいと思う』

自分に自信を持っていい――夕方のマユコとの会話が思い出されて、シズは大きなショックを受けた。自信を持っていいと言われて、しかし本当にそうなのだろうかと、弱い気持ちが首を擡げてくる。自分は頼まれたこと、成すべき事をしているだけで、褒められるようなことはしていない。それなのに自信を持っていいと言われて、シズは混乱しそうになった。

纏まらない感情をどうにか取り繕って、シズは些か時間を掛けてリプライの文面を作成した。

『確かに、言われたこととか頼まれたこととかは、ちゃんとしてきたかなって思う。だけどこれからは、自分で全部決めていかないといけないから、それが不安で、自分にはできないって思ってる』

書けば書くほどに不安が募り、ルミからの返事が気になっている自分がいる。夕方のマユコの時とはまた異なる形で、まったく異なる形で、自分の持っていた軸が揺さぶられているのを自覚する。自分をどこに持てばよいのか分からない。自分の何を信じればいいのか、それが、どんどん不明瞭になっていく。

携帯電話が、ぶーん、という振動音を立てる。反射的に、シズはメールのキーを叩いた。

『不安だよね、本当そうだと思う。だからそういうときのために、あたしとかお姉ちゃんとか、あとリーダーとかスズとかがいるんだよ。一人で全部抱えていっぱいいっぱいにならないように、いろんな人に話せばいいと思う』

指先がカタカタと震えている。ルミに、なんと返事をすればよいのか分からない。まるで自分の心をすべて見透かされているようだ。兄に、妹に、母に、そして友に気取られまいと押し隠している心を、ルミは完全に視界に捉えている。何重にも高い防塁を築き上げて、決して見せまいとしている感情を、ルミは言葉の一転突破でいとも容易く貫こうとしている。

ルミが隣にいるのではないかという錯覚を覚えたまま、幾分長くなったメールをサーバへ送り届ける。

『そうだと思う。ルミちゃんの言う通りだと思う。だけど、リーダーは、全部自分で決めなきゃいけない。自分で全部決めて、決めたことの責任を一人で全部取らなきゃいけないって思ってる。お兄ちゃんもずっとそうしてたから、絶対そうだと思ってる。だから、相談して、決めてもらうのを手伝ってもらっていいのか、分からない』

感情が静かに昂るのを抑えられず、シズが携帯電話を握り締めたまま俯き、大きなため息をつく。微かに振動したかと思うと、シズはすかさず画面を開いた。

『シズの言ってることは、半分位は合ってると思う。最後に責任を取るのは、確かにリーダーで間違ってない。だけど、物事を決める過程には、いろんな人がいて、いろんな意見があって、いろんな話し合いがあって、それでいいと思う』

そして間を置かず、次のメールが届く。

『ごめんね、シズ。あたし、なんかちょっとアツくなっちゃった。シズが間違ってるってことじゃなくて、そういうことじゃ全然なくて、ただ、シズはもっと周りの人を頼りにしていいんだよ、一人で全部頑張ってたらいつか折れちゃうよ、って言いたくて。シズを見てると、いつも目いっぱい頑張っちゃうみたいだからさ。今日はもう遅くなっちゃったし、そろそろ寝るね。おやすみ』

――ここまでが、ルミとのやり取りの始終となる。

何度も何度も、何度もやり取りを読み返しながら、シズは纏まらない考えを、纏まらないまま雑然と浮かべていた。

「誰かに頼る、か……」

ルミがメールの中で再三に渡って記した「頼ってほしい」「あてにしてほしい」という言葉。それは、頭では分かっているつもりだった。分からないことがあれば訊く、してほしいことがあれば依頼する、ただそれだけのことだ。だが、そうして誰かに力を借りるとき、どこか負い目を感じていたことを思い返す。自分が不甲斐ないから、他の人に迷惑を掛けてしまう。その意識が強く立ってしまって、できることなら全部自分でしてしまおうと考えている。そうすれば他人を巻き込むことなく、自分一人の努力ですべてが片付く。それが他人にとっても最良の選択肢だ――そう信じて疑ってこなかった。特に、母から家事を託された、小学校の二年生頃からは、ずっと。

もしかすると、それは間違っているのではないか? 間違っていたのではないか?

仮に間違っていたとして、何をどうすればいいのか分からない。何から変えていけばいいのか、何を変えてはいけないのか、何一つ分からない。どうすればよいというのだろう。

もやもやとした感情のうねりを抱えたまま、シズは諦めたように携帯電話を充電器へ戻し、のそのそと床に着く。電気を消して、薄手の掛け布団を被っても、シズの懊悩は止むことなく続いた。

彼女の意識がようやく闇に溶けたのは、それから半時ほど経過してからだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。