トップページ 本棚 メモ帳 告知板 道具箱 サイトの表示設定 リンク集 Twitter

#23 シズちゃんの心は折れて

翌朝。浮かない表情をしたシズが、テーブルの上で頬杖を付いていた。

シズの文字通り目と鼻の先には、桜色のチェック柄で彩られた巾着袋が置かれている。中にはシズが手作りしたお弁当が入っている。シズが食べる分なら、わざわざこんな詰め方をせずともよかった。ツクシが食べる分なら、もっと大きなお弁当箱が必要だった。母が食べる分なら、勤め先の社食を使った方が安上がりだったので、お弁当自体必要無かった。必然的に、このお弁当が誰に向けて作られたが決まってくる。

本来このお弁当を持っていくべきスズは、つい今しがた朝練のために家を出て行った。殊更強調して言うまでもなかったが、お弁当箱を持たずにだ。巾着袋に入れられたお弁当箱を眺めながら、シズが深く嘆息する。ほんの少し前、出発する直前のスズと自分の間で交わされたやりとりを振り返る。

シズの用意した朝食には目もくれず、コーンフレークに牛乳をかけたものを無言で食べ終えたスズは、必要な準備を終えるや否やすぐに家を出て行こうとした。スズが普段持っていく筈のお弁当をテーブルの上に置いたまま行こうとしていることに気が付いて、シズがお弁当箱を持ってスズの背中を追った。

「待ってよスズ。これ、忘れ物だよ」

「忘れてなんかない」

「それ……どういう意味?」

「分かってるってことよ」

呼び掛ける姉を無視し、背中を向けて靴を履きながらスズが応じた。お弁当箱を持たずに席を立ったのは、分かっていてしたことだと言いたげな様子だった。

「自分の食べるものくらい、自分で決められるわよ。それくらい、あたしに決めさせてよ」

「流されるだけのお姉ちゃんと違って、あたしは自分で考えて、自分で選んで生きていけるんだから」

お弁当を持っていかないのは自分の選択の結果。姉の作った出来合いの弁当は食べたくない。食べるものくらい自由に選ばせてくれ。スズは背中のシズにそう言い放つと、そのままドアを押し開けて外へ出て行ってしまった。後に残されたのは、お弁当箱を持ったままの、エプロン姿のシズだけだった。

しばし玄関に立ち尽くしていたシズだったが、やがてそこに居ても何の意味もないことを悟り、諦めてリビングへ戻る。お弁当箱を一端食卓の上へ置くと、もうすぐ起きてくるスギナとツクシの分の朝食を淡々と準備し始めた。

しかしながら、シズのショックは大変に大きかった。

「ねえシズ、これ……スズのお弁当? それで、家にはもういないってことは……」

「スズったら、強情なんだから。熱中すると周りが見えなくなるのと、ちょっとやそっとじゃ折れない頑固なところは、あの人によく似たみたいね」

間もなく揃って起床してきた二人は、テーブルの上に残されたスズのお弁当を見て、瞬時に状況を察したようだった。ツクシは苦笑いを浮かべ、スギナは腰に手を当てて大きなため息を吐く。シズは何も言えず、ただ俯くのが精一杯だった。表情には絶望の色がありありと浮かんでいる。

「シズ、そんなに気に病まないで。スズには私からもちゃんと言っておくから。確かにスズにも言い分はあるでしょうけど、さすがにこれはやりすぎよ」

「これがプラスに働くと、一つのことを高めていくことに繋がるんだけどね。ちょうど、剣道の練習を続けるみたいに。でもちょっと、やり口がきついね」

スギナとツクシに励まされながらも、シズは沈みきった気持ちを立ち直らせることができなかった。スズからありったけの拒絶の意志を突きつけられて、シズの心はどん底にまで落ち込んだ状態だった。

それでも最低限の気力を振り絞り、兄と母の分の朝食を作り終える。シズは一切合切何も食べる気がせず、二人が食事をする光景を見ながら、ちびちびと麦茶を飲むばかりだった。今はきっと何を食べても砂の味しかしないし、泥を噛んでいるような感触しか味わえないに違いない。あまりに気落ちの度合いが激しいために、このままでは普通に食事をしている二人に悪いとばかりに、シズが不意に席を立った。

「シズ、どうしたの?」

「お母さん、お兄ちゃん……ごめんね、わたしがいたら、きっと、食べづらいと思うから……」

「そんな……」

「心配しないで、大丈夫。きっと、すぐ、元にもどるから……ちょっとだけ、部屋で、休んでくるよ」

それだけ言うのが精一杯で、シズは軽くよろめきながら、二階にある自室へ引き下がっていった。ツクシもスギナも、取り立てて言うまでもなく心配そうな顔つきをしている。さりとてシズを呼び止めることもできず、互いに顔を見合わせ合うのが関の山だった。

シズは自分の部屋へ入って扉を閉めてしまうと、そのままベッドへ倒れこんだ。服にシワが寄るのも、髪にクセが付くのも一顧だにせず、死体のようにただ寝床に横たわる。彼女の心情は、本当に死体のようであった。何に対しても意味を見出せず、その中でも特に、自分の存在価値に意味を見出せない。なぜ自分はここにいるのか、自分はこの立場にあるのか、自分はこれから何を成すべきなのか。分かることなど一つもなかった。

リピート状態に入ったプレイヤーのように、一定の間隔でもって、今しがたスズから投げ付けられた台詞が再生される。

『流されるだけのお姉ちゃんと違って、あたしは自分で考えて、自分で選んで生きていけるんだから』

本当にその通りだ。その通り過ぎて、ぐうの音も出ない。自分の人生の無為なことと言ったら、乾いた笑いが漏れるほどだ。母のように子供を育んでいるわけでもない、兄のように社会で重要な役割を担っているわけでもない、妹のように自らの意志で物事を成しているわけでもない。ただ、流されるままに、やるべきこと、やらないといけないことをやっているだけ。わたしには自分の意志など無い。本当に情けない。

自分が今ここにいて、何の意味があるというのだろう?

三児の母たるスギナ、ヒワダジムリーダーたるツクシ、剣道部の副部長たるスズ。そうした「社会に於ける位置付け」を特定するための言葉を、わたしは何一つ持っていない。それは、わたしが今までに何一つとして成し遂げることができなかったからに他ならない。流されるまま言われるがままされるがまま、淡々と無為に生きてきた結果が、今のわたしという、唾棄すべき存在なのだ。

「わたしなんて、いなきゃよかった」

自分で口に出してみて、自分がいない状況を想像してみる。はっきり言って、自分が存在していなくとも、さして影響など無いだろう。自分が所属している家族を含めたあらゆる共同体は、自分がいなくても回っていける。学校でも、ジムでも、そして家庭でも。自分が本当に必要なシチュエーションなど存在しないのだ。そう考えると、茫漠たる思いが猛烈な勢いで広がっていく。

マユコの問いにも答えられなかった。ルミの気持ちにも応えられなかった。本当にどうしようもない。ずっと抑えてきたものが噴き出してきて、もう止めようがなかった。

自分は誰にも必要とされていない。いてもいなくても、変わりはしない。

「わたしなんて……いなきゃ、よかった……っ」

二度目の呟きには、嗚咽が混じっていた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。