「シズ、入っていい?」
そのままベッドの上で文字通り死んだように転がっていたシズは、ドア越しに聞こえてきた母の声を聞いて、思わず顔を上げた。時刻は既に八時を回っている。普段ならとっくに会社へ出掛けている時刻なのに、どうして? シズは疑問を拭い去れないながらも、躰を起こして、部屋のドアを開けて母を出迎えた。
「お母さん……どうして? もう、会社に行かなきゃ……」
「今日はお休みを取ったのよ。ちょっとね、シズと話がしたかったから」
「わたしと、話をしたかった……?」
シズは困惑した。たったそれだけの理由で、母は会社を休んだというのか。それはつまり、自分が母に会社を休ませてしまったことと同義ではないのか。口元に手を当てて不安な表情を見せるシズに、母スギナの柔らかい手が伸びてきた。
「下にね、お茶とお菓子を用意してあるの。シズの好きなダージリンティーと、フルーツの入ったケーキよ。お母さんと一緒に来てくれないかしら?」
恐る恐る、シズが頷く。シズが肯定の意を見せたことで、スギナはにっこり微笑んで、シズの手を引いて部屋から連れ出した。階段を一段一段降りて、リビングにつながるドアを開けてもらう。テーブルにはスギナの言った通り、二人分のティーセットとお菓子が用意されているのが見えた。シズはどうすればいいのか分からずその場に立ち竦んでいたが、母がシズがいつも使っている椅子をそっと引いて座るように促したのを見て、静かに椅子に腰掛けた。
シズの隣に、春の陽気のような穏やかな表情をしたスギナが座っている。陶器のティーポットからカップに熱いダージリンティーを注ぐと、シズの前へ差し出す。自分の分も注ぐと、そのまま手前へ配した。すべての準備が整った状態で、スギナは今一度シズの顔を覗き込んだ。シズは身体を横に向けて、スギナと真っ直ぐに対峙する形になった。
シズは居た堪れない気持ちになった。自分が元気を失くしてしまったせいで、母にここまで心配を掛けてしまった。本当は仕事に出て働かなければいけないのに、もっとしなければならないことなど山ほどあるのに、自分のために無為な時間を使わせてしまっている。迷惑を掛けてしまっているのだ。
「あのね、お母さん。朝のことだけど……」
その心苦しさが先走り、シズは無意識のうちに口を開いていた。
「朝ね、わたしが、スズの気持ちも考えないで、お弁当を持って行ってほしいって、そんな、無神経な事を、したから」
「わたしのせいでね、スズを、怒らせちゃって、スズが悪いんじゃなくて、わたしのせいで」
「それで、『自分の食べたいものくらい自分で決められる、流されてばっかりのお姉ちゃんとは違う』って言われて」
「そうだ、わたし、何もできてない、言われたことしかできてない、何の取り柄もない子だから」
「その通りだよ、スズの言う通りだよって思って、それで、自分が勝手に落ち込んでただけ、それだけだよ」
「わたし、スズみたいに、一等賞を取ったりとか、毎日練習したりとか、そういうこと、一つもできてないから」
「本当にそれだけだから、だから、気にしないで。わたしのことより、大事なこと、もっとたくさんあるはずだから」
「だから、大丈夫だよ、大丈夫。わたし、頑張るから、大丈夫」
「お母さん、お仕事忙しいのに、心配掛けさせちゃって、わたし、何やってるのかな……」
「こんな、会社まで、休ませちゃって、本当に、どうしようもないよ」
「来年の四月から、わたし、ジムリーダーになるのに、こんなのじゃ、ダメだよね。全然、だめだよね」
「お兄ちゃんみたいに、しっかりした、頼りになる、ジムリーダーに、ならなきゃいけないのに」
「ごめんね、お母さん、心配掛けて、ごめんね」
「わたしなんかがいて、迷惑ばっかり掛けて、ダメなお姉ちゃんで、ごめんね」
「お母さん、ごめんね。わたし、こんなので、ごめんね」
瞼に涙を溜めて、声を詰まらせたシズが一通り話し終えるまで、スギナは何も言葉を挟まず、一切言葉を遮らず、ただただ、じっと耳を傾けていた。シズが完全に言葉を口にし終えたのを確認して、それからもう一息間を入れてから、シズにそっと語りかけた。
「シズ」
母の声は、絹のように透き通っていて、ざわつくシズの心を包むかのように響いた。
そして。
「あなたは――」
「もっと、肩の力を抜いていいのよ」
「もっと、がんばらずに生きていいのよ」
「もっと、自分のことを褒めてあげていいのよ」
「もっと、みんなに甘えていいのよ」
シズは目を見開いて、母の姿を視界にはっきりと捉えた。
静かに、ゆっくりと、母の手が伸びてきたかと思うと――母の手は、シズの頭をそっと撫ぜた。
「百点満点じゃなくたっていい」
「全部が全部、完璧じゃなくたっていい」
「つまづいて転んだっていい」
「道に迷って、立ち止まったっていい」
「あれこれ悩んだっていい」
「疲れたらゆっくり休んだっていい」
「そう――いいのよ、シズ」
惚けた表情で、シズがスギナを見つめ続ける。スギナは繰り返し、シズの頭を撫でる。優しく撫でる。幾度と無く、幾度と無く。幼い頃、まだ幼稚園に通っていた頃、母によくしてもらったのと同じ。まったく同じ。かつての記憶が、シズの脳裏にありありとよみがえってくる。懐かしい。とても懐かしい。遠い昔に忘れたと思っていた感触なのに、今はただ、底知れない懐かしさを感じるばかりだった。
「シズ、ありがとう。本当に、ありがとう。シズには、いくつ『ありがとう』を言っても足りないわ」
「お母さんは鈍感だから、とても、全部は見られてないと思うけど」
「それでもね、お母さんが分かってる分だけでも、シズに、お礼を言うわね」
母に目を向けたまま、シズが瞬きをする。
「朝ご飯の食パン、いつも切らさないようにしてくれて、ありがとう。シズのおかげで、食べたいと思ったときにパンが食べられるわ。もちろん、シズの炊いてくれるご飯も、すごくおいしい。みんなの健康のために、発芽玄米にしようって言ってくれたのも、そう、シズだったわね。家族みんなのことを気遣ってくれたのね」
「お風呂場の掃除も、すごく丁寧にしてくれて、ありがとう。シズが綺麗にしてくれたお風呂に入ると、一日の疲れもみんな吹き飛んじゃう気持ちよ。だからお母さん、毎日お風呂に入るのが楽しみなの」
「郵便受けに入ってる手紙とかハガキとか、シズが毎日きちんと取ってきてくれるのよね。本当にありがとう。お母さん、忘れっぽくて、お仕事から帰ってきた時もしょっちゅう確認しないまま家へ入っちゃうから、すごく助かってるの」
「ご飯を食べた後のお皿やお茶椀、いつもピカピカになるまで洗ってくれて、ありがとう。お母さんのお茶椀なんて、もう六年も前に買ったものなのに、まだ、昨日買ったばかりの新品みたいだわ。シズが綺麗にしてくれるからよ」
「シズと、スズと、ツクシと、お母さん。四人も家族がいて、毎日ご飯を用意するのって、とても大変よね。お母さんが休みの日にやってみると、どれだけ大変か、よく分かるわ。くたくたになっちゃう。それを、シズはずっと続けてくれてる。お母さん、シズには頭が上がらないわ。ありがとうね、シズ」
「少し前にね、この家で、職場のお友達と一緒にお茶会をしたの。その時に、お友達から『スギナさんのお宅、いつも綺麗ね』って言われて。羨ましそうにしてたわ。お母さん、自分が掃除したわけじゃないのに、すごく得意な気持ちになったの。これももちろん、シズのおかげよ」
「とびきり感謝してるのが、お休みの日に、肩を叩いたり揉んだりしてくれること。お母さん、本当にうれしくて。それに、私だけじゃなくて、ツクシやスズにも、同じようにしてくれてることも知ってるわ。シズは、本当に優しい子ね。すごく素敵よ。お母さんには過ぎた娘だわ」
「それに、ツクシがいつも言ってるわ。シズがジムの子供たちをしっかり見てくれてるおかげで、みんなのびのび活動できてる、とっても明るくて、すごく楽しい雰囲気ができてる、って」
「分からないことがあれば、丁寧に教えてくれる。できないことがあれば、一緒に練習したり考えたりしてくれる。悲しかったり苦しかったりしたら、話をたっぷり聞いてくれる。気持ちが落ち込んでたら、そっとそばに寄り添ってくれる。いけないことをしたら、きちんと叱ってくれる。みんなのことを、同じだけ気に掛けてくれてるのね」
「家で親に甘えられなくて寂しい思いをしていても、学校で苛められたり仲間外れにされたりして辛い思いをしていても、ヒワダジムに来て、あなたに会って話をするだけで元気になれる、明日もまた頑張ろうって思える。そんな子が、本当にたくさんいるの」
「それにね、シズ。お母さんが今まで言ってきたことも、すごくうれしいわ。だけど――もっと、うれしいことがあるの」
スギナはシズの頬に手を当てると、囁くような、語り掛けるような口調で、娘に向けて言葉を紡いだ。
「朝起きたら、『おはよう』って言ってくれる」
「お母さんがお仕事へ行くときは、『行ってらっしゃい、気をつけてね』って言ってくれる」
「お仕事から帰ってきたら、『お帰り、お母さん』って言ってくれる」
「そうやって、お母さんに元気な声を掛けてくれるたびに、お母さんは思うの」
「『ああ、ここに、シズがいるのね』って」
「シズがここにいる。そう思うと、お母さんはすごく強くなれるの」
「シズ。あなたが元気で、無事でいてくれるだけで、お母さんは幸せよ」
シズの、右の瞳から、怯えを宿していた瞳から、真っ赤になった瞳から――一筋の涙が零れ落ちる。
「お母さんは、ツクシも、スズも、シズも、みんな、同じだけ大切よ。誰が一番可愛いとか、誰が一番大切とか、誰が一番素敵だとか、そんな風に考えちゃいけない。そう思ってるの」
「みんな、お母さんのところへ来てくれた、お母さんの子になることを選んでくれた、掛け替えの無い、一人の人間だから」
「シズやツクシはスズの代わりにはなれないし、シズもスズもツクシの代わりにはなれない。お母さんだって、三人の代わりをすることなんて、とても無理よ。もちろん、スズやツクシ、それにお母さんがシズの代わりになろうとしても同じ。やろうとしたって、絶対できっこないわ」
「シズはシズで、スズはスズで、ツクシはツクシ。お互いに代えられない、代えようのない、一人の人間だもの」
「あなたは、誰かの代わりにならなくていいし、あなたの代わりを、別の誰かがすることはできない。そう。したくても、できないのよ」
「だからね、シズ」
止め処なく溢れてくるシズの涙を、スギナは丁寧に丁寧に、一つ一つ、指先で拭っていく。
「シズは、ツクシのようになろうとしなくてもいい」
「スズのようになろうとしなくてもいい」
「お母さんのようになろうとしなくてもいい」
「私たち以外の、他の誰かにも、なろうしなくてもいい」
「あなたは、あなたのままでいいのよ」
「シズは、シズのまま、ただ、シズのままでいいのよ」
「あなたは、シズは――」
「『シズ』は――この世界で、たった一人。あなただけ、あなたしか、いないのだから」
「それから……大事なことを、言い忘れてたわ」
満開の向日葵の如き、一点の曇りもない笑顔を向けて、スギナが大きく腕を開く。
「辛かったら――泣いても、いいのよ」
双眸から絶え間なく落涙していたシズがスギナの胸に飛び込んだのは、その言葉を聞き終えた直後のことだった。
「お、かあ、さん……っ!」
「ああ……よく来てくれたわ、シズ」
胸に顔を埋めた娘を、母が背中に腕を回して抱き締める。
「ありがとう、シズ。シズがお母さんのところへ来てくれて、お母さん、とってもうれしいわ」
「シズが、最後にこうやってお母さんの胸の中で泣いてくれたのは、もう、八年も前になるのね。あの時からずっと、お母さんは、シズに思う存分泣かせてあげられなかった」
「泣いてもいいのよ、ただ、それだけ、あなたに言ってあげられればよかったのに。ほんの少し時間を作って、あなたの気持ちを受け止めてあげられればよかったのに。あれもしなきゃ、これもしなきゃ、忙しい、忙しい。そう言っている間に、シズは――こんなにも、大きくなってたのね」
「むかしは、腕の中でしっかり抱き締められるほど、小さな子供だったのに。一人で歩くのもおぼつかない、見ていてはらはらしちゃう子供だったのに。今はもう、立派な女の子ね」
「今のあなたは、いろんなものを、大人でも抱えきれないほどたくさんのものを、一人きりで全部抱えて、それでも『大丈夫だよ』『頑張るよ』って言って、お母さんやみんなに、不安な気持ちを見せないようにしようとしてくれてる。一生懸命背伸びをして、精いっぱい無理をして、まだ子供でいたい、その気持ちを押し隠して、必死に、大人になろうとしてる」
「お母さんが、もっともっと早く、シズの持っている荷物を一緒に持ってあげればよかった。こんなになるまで、自分がいなくてもいいだなんて思っちゃうまで、シズに手を差し伸べてあげられなかった。本当に、どんくさいお母さんね」
「だから……シズ。今からでも、遅くないかしら? シズは、持ってるものを、お母さんに分けてくれるかしら?」
涙をぽろぽろ零して泣きじゃくりながら、シズが胸の中で首を縦に振った。
「あのね、あのね……わたし、ずっと、自分は、どうしようもない、取り柄の無い、ダメな子だって思ってて」
「お兄ちゃんみたいな、立派なジムリーダーには、どうやっても、なれないって」
「スズみたいに、一等賞をとったりとかも、自分には、絶対できっこないって」
「それなのに、それなのに、お兄ちゃんの代わりに、ジムリーダーにならなきゃいけなくなって」
「学校のクラスでも、噂になって、みんなから言われて、どうしようって思って」
「ジムリーダーなんて、わたしにはできっこない、お兄ちゃんみたいにはできない、きっと、みんなをがっかりさせちゃう」
「だけど、やらなきゃいけない、上手くやらなきゃいけない、そう思えば思うほど、どんどんダメになっていく気がして」
「前に、ジムにいた、サダコちゃんとか、リョウタ君のこととかを、ずっと、ずっと考えちゃって」
「あの二人が、ジムをやめた理由を、わたし、知ってたから、ノリユキ君のことがあったからって、知ってたから」
「リョウタ君は、ジムリーダーになりたかったのに、なれなくて、それなのに、わたしがジムリーダーになって」
「どうすればいいんだろ、これから、どんな顔して会えばいいんだろうって、ぜんぜん、考えられなくて」
「いくら考えても全然だめで、こんなんじゃ、絶対ジムリーダーなんか務まらない、もう、自分がいやになって」
「きっと、スズの方が向いてる、スズの方が、みんなをうまくまとめて、強いジムリーダーになれる、そう思って」
「そう思っても、ジムリーダーになるのは、わたしで、スズじゃなくて、わたしで」
「スズが、ジムリーダーになれないって怒ったとき、わたし、本当は、代わってほしかった」
「交代すれば、きっとうまくいく、スズもそれで喜ぶ、そう考えて、でも、そんなことできなくて」
「毎日ちょっとずつ、スズが口をきいてくれなくなっていって、少しのことですごく怒られて、わたし、つらかった」
「すごく、つらかった」
「わたしも、いっそのこと、スズのことなんか嫌いだって思えたら、もっと楽になれたかもしれないのに、それが、できなくて」
「スズの気持ちを考えたら、どうしても、すごく辛くなって、だから、わたしが我慢しなきゃって思って、こらえてた」
「だけど、今日の朝は、ダメだった。ぽきん、って、心の中で、何かが折れる音が聞こえて」
「ああ、わたしって本当にどうしようもないんだって、流されてばっかりなんだって」
「わたしなんて、いても、いなくても、どっちでも、すこしも、何も、変わらない、一緒なんだって」
「お母さんに、会社休ませちゃって、本当にダメな、頼りない、ここにいてもしょうがない子だって、そう思って」
「そんな、わたしに、お母さんは……お母、さんは……」
泣き崩れたシズの背中をぽんぽんと優しく打つ。シズが途切れ途切れの言葉をつぶやき、切々と心情を吐露するごとに、大きく頷き、幾度と無く頷き、シズの言葉をまるごと受け入れてやる。
「ありがとう、シズ。たくさん、一人で胸にしまいこんでたのね」
「おかあさんっ、わたしっ、わたし……っ!」
「さあ、遠慮しないで。シズがお話をたくさん聞かせてくれればくれるほど、お母さんはうれしいわ」
それから暫く、シズの泣く声が止むことはなかった。
娘の涙を、声を、言葉を――母は、一つも漏らすことなく、すべて受け止めてやった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。