「お母さん、ありがとう。ちょっと目元が痛いけど、もう大丈夫。わたし、なんだかすごくすっきりしたよ」
「ずっと一人で抱えて、あんなに頑張ってたんだもの。たまには泣かないと、身体も心もおかしくなっちゃうわ。シズがたくさん泣いて、少しでも元気になれたなら、よかったわ」
落ち着きを取り戻して、スギナからもらった濡れタオルで顔を拭いたシズの表情からは、すっかり憑き物が落ちていた。晴れ晴れとした表情のシズを、母は穏やかな、とても穏やかな笑みを浮かべて、まっすぐに見つめている。
「今日は時間もたくさんあるわ。一緒にお茶を飲んで、もう少し、落ち着いて話をしたいと思ってるの。シズは、お母さんに付き合ってくれるかしら?」
「うん。わたしも、お母さんと話がしたいから」
シズとスギナがほぼ同時にティーカップを取り、注がれたダージリンティーを静かに啜る。注いでからしばらく間を置いたために少し冷めてしまっていたものの、まだほんのりと熱を残しているのを感じる。カップに柔らかく口付けると、豊かな風味がいっぱいに広がっていった。美味しい。シズは満ち足りた表情でカップをソーサーへ戻すと、再びスギナに目を向けた。
「シズ、お味はいかが?」
「美味しいよ、お母さん。わたし、これ大好き」
「うふふ、良かったわ。こうやってシズとお茶をするのは、本当に久しぶりね」
同じくティーカップを元の位置に戻したスギナが、シズに微笑みかける。母につられて、娘も一緒になって笑った。
「お母さんのおかげで、すごく楽になったよ。きっと、一人でずっと考えてたせいで、煮詰まっちゃって、ぐるぐる同じところを回ってたんだと思う。もっと、気楽に考えられればよかったんだけどなあ……このクセ、よくないね」
「そうね、そうとも言えるわね。けれど、一つのことを深く、真剣に考えられるのは、シズのいいところよ。自分が悪いと思ってるところ、直したいと思ってるところは、他の人から見てみると、実は羨ましかったり、欲しかったりするところだったりするのよ」
「えっ? そういう……ものなの?」
「ええ。おっちょこちょいは、行動が早いとも言える。怖がりは、注意深いとも言える。ものは言いようなのよ」
そんな考え方もあるんだ――と、シズは目から鱗が落ちた。今まで一方的に「悪いところだ」「短所だ」「欠点だ」と思い込んでいたことが、見方によっては実は大きな強みだったりする。そう考えると、不思議と自信が湧いてくる気がした。
「せっかくだから、シズが自分で『悪いところ』だと思ってるところがあれば、言ってみてくれないかしら?」
「えっと……やっぱり、何かにつけて、決めるのが遅いな、って思う。ちゃんと周りを見て、それから決めたいって思ってるからだけど……」
「なるほど、なるほど。それはつまり、しっかり情報を集めて、隙を無くしてから決められる、ということね。確かに、シズが何かを決めたあとは、ひっくり返した記憶がないもの。最初によく考えて、それから決める。決めた後は、しっかりそれに取り組む。それって、すごくいいところだと思うわ。もし、他にも気になるところがあれば、どんどん言ってちょうだい」
「あと……相手に強く出られなくて、みんなをぐいぐい引っ張っていくっていうのが、わたし、どうしてもできないよ」
「シズが強く出られないのは、相手の立場や気持ちを考えてしまうから。もしかして、そうじゃないかしら? 相手にも言い分があるのに、聞く耳を持たなかったり、大きな声で怒鳴ったり、或いは叩いたり蹴ったりして抑え込むことなんてできない。そういう風に考えてたりしない?」
「……うん。お母さんの言う通りだよ。言うことを聞いてくれなかったら、どうしてだろう、って思う。何かあったのかな、とか、わたしの言い方がよくなかったのかな、とか……」
「すごいわ、シズ。それって、なかなかできないことよ。相手の気持ちを慮って、自分の行動を変えたり、相手に配慮した言い方ができるのは、しなやかなリーダーの鑑よ」
「しなやかな……リーダー?」
母の口にした「しなやかなリーダー」という言葉に、シズが反応して見せた。その言葉の響きに、何か感じるところがあったようだ。
「ええ。シズはもしかして、リーダーに『誰よりも強いもの、皆を引っ張っていくもの、何にも折れない強靭なもの、何もかも一人で全部決めるもの、それ以外には無い』って、そんなイメージを持ってないかしら?」
「そ、そうじゃないの……!? わたし、ずっと、そうだと思って……」
「そうね。これは、八割くらいは当たってるの。とにかく強くて、みんなを引っ張って、どんな苦境でも折れずに真っ直ぐ立っていて、自分一人ですべてを決断する。そんなリーダーもたくさんいるし、時にはそんなリーダーシップが求められることもある。それは間違いないわ。けれど、さっきの定義には一ヶ所だけ、とても大きな間違いがあるわ」
「間違い……?」
「ええ。一番最後の『それ以外には無い』っていうところ。誰も彼もが、そんな強いリーダーシップを持てるわけじゃない。その形のリーダーシップを発揮するためには、生まれつきのところもあるわ。けれど、それとはまた別の形で、みんなを率いていくリーダーシップもあるのよ」
「あっ、なんだろう……うまくまとまらなくて、ちゃんと言える自信はないけど、でも……なんだかわたし、お母さんが言いたいこと、分かってきた気がするよ」
「さすがね、シズ。せっかくだから、お母さんに言ってみてくれるかしら?」
「うん……あのね、自分一人で抱え込むんじゃなくて、みんなに自分を信頼してもらって、自分もみんなを信頼して、自分も力を尽くして、みんなからも力を貸してもらう……そんな感じなのかな」
「もう、シズったら。頭の回転が早すぎて、お母さんの言いたかったこと、全部言っちゃうんだから。格好が付かないわ。でも、その通り。本当にその通り。みんなが全力を出せるように、自分も全力を出す。みんなが力いっぱい活動できるように、リーダーがそのための環境を作っていく。メンバーの一人一人を意思を持った個々の人間として尊重して、リーダーとして真摯に物事に取り組む。シズには、ぴったりの図だと思うわ」
「そっか、そういう形でも、いいんだ……」
「ええ、そうよ。その通りよ」
穏やかな表情をしたまま、スギナはシズに噛んで言い含めるように繰り返す。
「細い木がどれだけ力んで真っ直ぐ立って見せても、激しい風が吹けば、ぽきんと真っ二つに折れてしまう」
「けれど、風に身を任せるしなやかさを持てば、大きな風を受けても、身体を揺らして綺麗に躱すことができる」
「根っこのところを、一番大切にしたい部分をしっかり持てば、しなやかな木になれるのよ」
スギナの言葉を受けたシズは、こくりこくりと何度もしきりに頷いて見せた。
「さて。ここまでは、シズがさっき言った通り、自分がジムリーダーとして『頼りない』ことが前提になってたわ。もしかして、戦いにも自信が持ててないんじゃないかしら?」
「うん。それは、いつも思ってるよ。戦うこと自体は、楽しくて好きだけど、でもスズの方が強いし、派手だし、見栄えもするし、実力もある。さすがに、それは絶対間違い無いって思ってるよ。わたし、いつも地味だし、時々負けちゃうし……」
「そうね。きっと、シズはそう考えてると思ってたわ。でも、それって本当のことかしら?」
「えっ……? お母さん、どういうこと?」
「曰く――勝利した際の試合運びはどれも危なげないものだ、ペースを崩されても最後まで真摯に戦い抜く、相手の力量が自分を上回ると見れば素直に敗北を認める、敗北から学んだことは次の試合ですぐに活きている、出す指示はいつでもとても的確で正確、それでいてポケモンの意志を尊重して柔軟に対応させる、連れているポケモンからの信頼が非常に厚い、ポケモンに対するきめ細やかな配慮が行き届いている、トレーナーの力量に応じて攻め手を加減できる判断力もある、普段は守勢を維持して手堅く立ち回る、けれど攻めるべき時は一気に攻め立てて倒しきれる、トレーナー同士でチームを組めばパートナーに的確な助言と補佐を行う、実は意外と大胆な行動も取れて相手の意表を突ける。ところでシズ。これ、誰のことだと思う? ちなみに、ツクシのことじゃないわよ」
「えっ? お兄ちゃんじゃないの?」
「違うわ。これね、シズのことなのよ」
「…………」
「あら? どうしたの、シズ。目が点になっちゃってるわよ」
「えっと、お母さん。ジムに『シズ』って名前の子、わたし以外にいたっけ? 最近新しく入った子? それとも、ずっと前にいた先輩の人?」
「うふふ。もう、シズったら、とぼけちゃって。他でもない、あなたのことよ」
「ええっ……えぇえっ!?」
朗らかに笑うスギナの言葉に、シズは度肝を抜かれていた。
「そんな、わたし、そこまで……」
「これ、お母さんやツクシじゃなくて、ジムに詰めてるアドバイザーの人が言ってたのよ。スズの方が派手で目立つけど、シズはそれに負けず劣らずの実力があるって、べた褒めだったわ。嘘だと思うなら、今度聞いてらっしゃい。もっと色々な言葉で、あなたの評価を聞かせてくれるはずよ」
シズは信じられないといった面持ちで、口元に手を当てていた。
確かに――言われてみると、戦っている時は不思議と「弱い自分」が鳴りを潜めて、次に打つべき手は何か、それに考えを集中することができている気がする。それでいて、戦うことはいつも楽しいと思っていた。時折穴埋めで参戦するときは、決まってどこかうきうきした気持ちになったものだった。チルチルやハーベスターと一体になって、眼前の敵に立ち向かっていく高揚感。いつも夢中で気付かなかったけれど、戦い終わった後は、いつでもどこか清々しい気持ちになっていた。
もしかすると、自分は自分で思っているよりも、戦場でうまく振る舞えているのかもしれない。シズにそんな思いが去来した。
「自分の評価って、とても難しいわ。お母さんも精いっぱい頑張ってるつもりだけど、でも、あなたたちの『お母さん』としては、赤点だと思ってるもの」
「そんな……! そんなことないよ。だってお母さん、いつも遅くまで頑張って、わたしたちのこと、いつも心配してくれて……」
「ありがとう、シズ。そう言ってもらえると、お母さんとても励みになるわ。だけど、お母さんはもっとあなたやスズ、ツクシのそばにいてあげたいの。今日のシズみたいに、いっぱいいっぱいになる前に、先に助けてあげられるようになりたい。そう思ってるわ」
ネガティブな面が先に立ちすぎて、自分の評価が低く補正されすぎていたのではないか。母に諭されて、シズはまた新たな気付きを得た。無論、自己評価が高くなりすぎて慢心することは禁物だが、低すぎることもまた自信の喪失につながる。そうした状態が続くと、実際の実力まで落ちかねない。スギナの言わんとするところを、シズは理解した。
「ジムリーダーは、いろいろなことをしなくちゃいけないから、忙しいし、大変よ。あなたもツクシのお手伝いをしてくれてるから、それはきっともう分かっているし、覚悟もしていると思う」
「けれどね、シズ。あなたは一人じゃない。決して、一人じゃないのよ」
「ツクシもお母さんも、それにスズも、みんなであなたを支えていくつもりよ。ジムにいるみんなも、シズのことを応援してくれるに違いないわ」
「スズだって、今は心がささくれ立っているだけ。本心からあなたのことを嫌っているわけじゃないわ」
「長い間、シズの一番近くにいた。だからこそ、今の状況に悩んでると思うの。もちろん、していいことと悪いことはあるから、そこはお母さんもきちんと言うわ」
「忘れないで、シズ。あなたは一人じゃない。それを、心に留めておいてほしいの」
昨晩ルミから届いたメールが、シズの脳裏に蘇る。
(もっと自分たちを頼ってほしい、もっと当てにしてほしい)
そういうことだったのか。自分は一人きりで何もかもしなければいけないと思い込んでいたから、ルミの言葉に戸惑って、真っ直ぐ受け入れることができなかったのか。ようやく、合点がいった。
今なら、すっと受け入れることができそうだと、シズは考えていた。
「シズは、物事をしっかり考えられる、相手の立場に立って行動できる、実力だって十分ある」
「こんなに悩むんだから、責任感だって人一倍ある。お母さんがちょっぴりヒントを出しただけで、自分の考えをきちんとまとめることもできた。これ以上、あなたに何かを望むのは、ぜいたくよ」
「ツクシは、あなたのことをとても信頼しているわ。妹として、そして一人のトレーナーとして」
「きっと無意識のうちにだけど、実はスズも、あなたに頼りきりになっているわ」
「もちろんお母さんも、シズにはいっぱい、いっぱい助けてもらってる。本当にありがとう」
「繰り返しになっちゃうけど、ジムに通ってる子たちも。あなたに会いたくて来てる子も、大勢いるわ」
「シズはね、きっとあなたが思っている以上に、みんなを支えてくれているのよ」
スギナから話を聞くたびに、瞳を輝かせたシズが大きく頷く。ごくゆっくり、たっぷり時間を掛けて、スギナがシズに力強い励ましの言葉を与えていく。
「だからね、シズ。あなたは、自分の思うように、『こうなりたい』『こうしたい』と思うようにしていいのよ」
「『こうあるべきだ』も大切、とても大切よ。けれど、それよりも、あなたの『こうありたい』を大事にしてほしい。お母さんもツクシも、そう思っているわ」
「かっこいいジムリーダーになりたい、楽しいジムにしたい……あなたがそう思ったら、その通りにしていい。あなたは『ジムリーダー』なのだから、あなたの『なりたい』『したい』を、みんなと一緒に叶えればいいのよ。今のあなたのように、何に対しても真面目に、真摯に取り組む姿勢を忘れなければ、きっと道を踏み外すことはない。時間は掛かっても、必ず正道を歩んでいける。お母さんは、シズを信じているわ」
「今のツクシも、もちろん立派なジムリーダーよ。お母さんの誇りだって胸を張って言えるくらい、本当に素敵なジムリーダーだと思う」
「けれど――ツクシは『「シズ」という名前の「ツクシ」』を作りたいだなんて、欠片も思っていないわ。本当に、これっぽっちも」
「シズはシズで、他の誰でもないのだから」
スギナから励ましの言葉をもらったシズが、力強く頷く。
「お母さん、ありがとう。わたし、分かったよ。やっと、分かった」
「わたしはわたしで、他の誰でもない。わたしは他の誰かにはなれないし、他の誰かもわたしの代わりにはなれない」
「お兄ちゃんと同じようにしなくたっていい。みんなの意見を聞いて、悩みながらでも、一緒に前に進んで行ければいい」
「みんなの心の拠りどころになって、明日もまた頑張ろうって思える」
「わたし、そんなジムにしたい。そんなジムの、ジムリーダーになりたい。なれるように、一生懸命になろう、しっかり頑張ろう。わたし、そう思ったよ」
張りのある声でそう答えたシズに、スギナは。
「いい顔よ。とてもいい顔よ、シズ。その『一生懸命』と『頑張る』は、とても素敵な言葉ね。背伸びをして、無理をするんじゃなくて、地面にしっかり足をつけて、目標を達成するために自分のペースで研鑽を重ねていく。すごくいいことよ。少しでも手助けができたなら、お母さんは幸せよ」
「お母さんのおかげだよ。わたし、すごく楽になったから」
これまで以上に朗らかな笑みを浮かべて、シズの決意表明に応えた。
「着実に頑張ることも大事。それと同じだけ、疲れたら休むことも大事よ。今日は家のことをみんなお母さんに任せて、ゆっくり羽を伸ばすといいわ」
「それなら――わたし、お母さんのお手伝いがしたいな。せっかくだから、お母さんともっといろんなことを話したいよ。わがままかも知れないけど……でも、いいよね、お母さん」
「まあ、シズがわがままを言うだなんて。お母さん、困ったわ。これは聞いてあげるしかないわね。もちろん、喜んで」
シズの「わがまま」を笑顔で聞き入れて、スギナはシズとともに家事に取り掛かることにした。
――その日は一日、母と娘の明るい声が絶えることは無かった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。