「お母さん、お休みなさい」
「お休み、シズ。今日もお疲れ様。ゆっくり眠ってちょうだいね」
「うん、ありがとう」
また幾日かが経った後のこと。シズはリビングで寛いでいたスギナにおやすみの挨拶をすると、真っ直ぐ自室へ向かう。これと言ってすることも無いし、朝になれば早起きして家族の朝食を作るという大事な仕事がある。眠気もあるし、ぐっすり眠って明日に備えよう。シズはそんなことを考えつつ部屋に入って、左手の電灯のスイッチをパチンと押し込んだ。
そんなシズの目に飛び込んで来たのは、部屋の中央にある寝床で小さくうずくまって震えているチルチルの姿だった。
「あれ……?! チルチル、どうしたの?!」
シズは眠気がいっぺんに吹き飛び、すぐさまチルチルの元に駆け寄る。体の具合が悪いのだろうか、それとも何か別のことだろうか……今は考えるよりも先に、チルチルの容態を見てやらねば。シズは逸る心を何とか落ち着かせて、チルチルのすぐ近くに屈み込んだ。
「チルチル、大丈夫? どこか、具合の悪いところがあるの?」
声を掛けられたチルチルが恐る恐る顔を上げる。そうしてシズと目が合うと、ワッといきなりシズにしがみついてきた。きゃっ、とシズが小さく声を上げるも、シズは飛び込んできたチルチルをどうにか受け止めてやる。直感的に、チルチルは体の具合が悪いわけではなさそうだと判断した。もしチルチルが体調不良なら、こんなに俊敏に動くことなど到底できないだろう。元々それほど体力に秀でているわけではないレディアンのチルチルなら、尚更だ。
四本すべての手でがっちり捕らえて離さないチルチルを、シズは背中をぽんぽん軽く叩いてあやしてやった。背中へ回した腕を絡めてぐっと力を込めると、チルチルをぎゅうっと抱き締める。これが功を奏したのだろう、チルチルは少しばかりではあるが落ち着きを取り戻した。ゆっくりシズから手を離すと、シズの身体から離れてその場に座り込んだ。見ると、チルチルの青い瞳には涙が溜まっているではないか。
チルチルは、一人で泣いていたのだ。
「泣いてたんだね、チルチル。かわいそうに……何か、怖い夢でも見たの?」
シズに優しい声で尋ねられたチルチルは、側に置いてあったお気に入りのホワイトボードとマジックを手に取ると、震える手で何かを描き始めた。まだ感情の浮き沈みが止まないのか、平時に比して酷く筆致に落ち着きが無い。シズは怯えるチルチルの頭を撫でてやったり、背中を擦ってやったりして元気づけてやりながら、チルチルが絵を完成させるのを待った。
そして数分後。チルチルはマジックを置き、使い古されたホワイトボードをシズに向ける。その絵を見た途端、シズの表情に濃い陰が差した。
「これは……」
「群れで、チルチルが一人だけ取り残されて、みんなどこかへ行っちゃう……」
「飛んでいく群れの中には、わたしやスズ、それに、お兄ちゃんやお母さんの姿もある……」
一足先にシズの部屋で眠っていたチルチルは、自分を残して群れの仲間とシズ達が揃ってどこかへ行ってしまうという、とても悲しい悪夢を見てしまった。目を覚ましてからも夢が続いているような気がして、一人で恐怖に震えていたのだ。シズの顔を見た途端彼女に抱きついたのは、一番安心できるシズが側に来たことによって、ようやく先程の出来事が夢であると認識できたと同時に、緊張の糸がぷっつりと切れてしまったからに他ならなかった。
チルチルはレディバの頃、一緒にいた群れの仲間たちとはぐれてしまった。その時の恐ろしさや悲しさが脳裏に焼き付いてしまっていて、時折こうしてよみがえって来てしまう。それだけでなく、今一緒にいるシズやスズもどこかへ行ってしまうのではないかと、深層心理で恐れているのだ。チルチルががたがたの線画でどうにか描き上げた絵には、彼の抱えている恐怖や心の傷がありありと浮かんでいた。
「怖い夢を見たんだね、二度と見たくない、思い出したくもないような……」
「チルチルが一人だけ置いてけぼりにされて、他のみんながどこかへ行っちゃう夢……」
「怖かったね、辛かったね。でも、もう大丈夫。わたしは、ここにいるよ」
「あなたのとなり、手を伸ばせば簡単に届くところ、ささやく声まで聞こえる距離。本当に、すぐ近く」
落ち着いた、やわらかな声で、シズがチルチルに呼び掛ける。
「うん、うん。大丈夫、大丈夫。わたしはここにいる、だから、大丈夫」
チルチルはその一つ一つに頷いて、少しずつ心の平静を取り戻していく。シズがタオルで涙を吹いてやると、チルチルは再びシズに抱きついた。
「そうだ、チルチル。怖い夢を見た後だから、一人だと眠れないかもしれないよね」
「よかったら、わたしがいっしょに寝るよ。下にお布団敷いて、チルチルのすぐ側で寝てあげる。どうかな?」
怖がっているチルチルのために、チルチルの寝床のすぐ隣で寝ようと提案するシズ。無論、これを無碍に断るチルチルではなかった。飛び上がるほど喜んで、是非そうしてほしいと全身で表現してきた。シズはすぐさまベッドから布団を下ろすと、部屋の床に敷き直して、チルチルのすぐ隣に横臥した。
「ほら、これですぐ近く。目を開ければ、目と鼻の先にわたしがいるよ。だから、安心してね」
すっかり安心したチルチルが、暫しシズの姿を眺めてから、ゆっくり瞼を下ろした。シズはそれからもチルチルの様子を見守っていたが、やがてチルチルが規則正しい寝息を立て始めると、ほっと小さく息をついた。
(よかった、チルチルが安心してくれたみたいで)
気持ちよさそうに眠るチルチルの頬を、シズがそっと撫でてやる。チルチルの顔が微かに綻び、笑みを浮かべる形になった。
(チルチルは――わたしのこと、信じてくれてるんだ)
(側にいると安心できる、そんな風に思ってくれてるんだ)
自分の姿を見て安堵した表情を浮かべたチルチル。その姿を思い返して、シズの心に熱いものが込み上げてきた。誰かに頼りにされる、誰かに信頼してもらえる。それが、これほどまでに快いとは。
(わたしがいなくなったら、チルチルはきっと悲しむと思う)
(だから、わたしはチルチルの側にいてあげたい)
わたしなんて、いなきゃよかった――少し前までそう思っていたのが、まるで嘘のような心持ちだった。自分がいなくなってしまえば、チルチルはきっと悲しむだろう。チルチルの悲しむ姿は考えたくない。チルチルが自分を必要としているならば、彼の側にいてやりたい。
こうやって少し落ち着いて考えれば、チルチルという存在があったのに、それさえも分からなくなっていたなんて。よほど視野が狭まっていたに違いないと、シズは考えた。
大丈夫。わたしは、すぐ近くにいるからね。
すやすや眠るチルチルの耳元で優しく呟いて、シズは部屋の明かりを消した。
*
一日明けて、翌日のこと。
「……よし。ここで合ってるね」
紙袋を携えたシズが、ヒワダの北東部にある住宅街へ赴いていた。ずらりと立ち並ぶ住宅のうちの一軒、その門扉で呼び鈴を鳴らし、家主が出てくるのを待つ。件の家は、少し前にもシズが出向いた場所だった。
門扉に据え付けられたインターホン越しに、声が聞こえてきた。
「はーい。どなたかしら?」
「すみません。ヒワダジムのシズです」
「あら、シズちゃん。もしかして、サツキのことかしら?」
シズが尋ねたのは、ジムトレーナーの一人・サツキの家だった。応対した母親はシズの声を聞くとすぐに状況を察し、玄関の扉を開けて外へ顔を出した。シズに中へ入るよう薦めると、シズは恭しく一礼し、サツキの母親に続けて中へ進入する。
「あの、サツキちゃんの様子は……」
「いつもは元気にしているわ。ただ、ジムに行く時間になるとぐずっちゃって、どうしても行こうとしてくれないの」
「やっぱり、そうですか……今は、どうしてますか?」
「そうね。確か、お庭でミルクと遊んであげてるわ。リビングまで呼んできましょうか?」
「いえ。わたしが、直接サツキちゃんに会いに行きます」
落ち着いた足取りで廊下から和室を抜けて、シズが庭へ繋がる窓の前に立つ。窓越しに外を覗き込むと、そこにはクルミルのミルクと遊ぶサツキの姿があった。様子を窺う限りはかつての元気を取り戻しているようにも見えたが、実際のところはどうなのか、シズには判断が付かなかった。
大きく息を吸い、呼吸をしっかり整える。準備を済ませたシズが静かに窓を開け放ち、サツキのいる庭へ足を踏み入れた。
「こんにちは、サツキちゃん」
「あ……」
声を掛けられたサツキが顔を上げる。直後、シズとサツキの目が合った。やわらかく微笑むシズに比べて、サツキの表情は固い。恐る恐る表情を窺い、眼前のシズが何をしようとしているのか見定めているようだった。サツキはあの一件以来ずっと休んでしまっていて、お互いに顔を合わせるのは久しぶりのことだった。
身を固くするサツキに、シズがそっと語り掛ける。
「元気そうだね。ミルクちゃんも元気にしてる?」
「……(こくり)」
「よかったあ、安心したよ。サツキちゃんとミルクちゃんが元気なら、何も心配いらないね」
シズがすっと膝を曲げて屈み込むと、サツキにくっついていたミルクを撫でてやった。ミルクはくすぐったそうに目を細め、やわやわと身をよじっている。心地良さげなミルクの様子を見て、全身を緊張させていたサツキも、少しずつではあるが緊張を解き始めていた。
「あんなことがあったから、来られなくても仕方ないよね。リーダーには伝えてあるし、心配しないでね」
「……うん」
「そうだ。サツキちゃんに渡したいものがあるんだよ。ほら、見て見て」
携えた紙袋へ手を差し入れると、シズが中からビニール袋に包まれた何かを取り出す。
シズの手にしていたものを見た途端、サツキの目の色が大きく変わった。
「お姉ちゃん、それ……!」
「約束どおり、ぴっかぴかにしてきたからね。家で糸を全部取ってから、クリーニングに出して仕上げたんだ。ちょっと時間が掛かっちゃったけど、綺麗になってるはずだよ」
手にしていたのは、以前キャタピーの糸が絡みついて無惨なことになってしまった、サツキのお気に入りの服だった。ビニール袋を裂いて中身を取り出し、目をまん丸くしているサツキに手渡してやる。サツキはシズから受け取った服をまじまじと見つめると、確かにそれがすっかり綺麗になっていることを認めた。
服をぎゅっと胸に抱き締めると、サツキがすぅっ……と大きく息を吸い込んだ。そして……。
「ママーっ! お姉ちゃんの服、かえってきたよーっ! きれいになったよーっ!」
今までの暗い調子からは打って変わって、割れんばかりの大声を張り上げた。声からも仕草からも、抑えきれない喜びがなみなみと溢れている。家の中にまで余裕で響き渡るサツキの声にもちろん母親も反応し、やや慌て気味に裏庭へ飛び出してくる姿が見えた。
サツキがいっぺんに元気を取り戻したのを見て、シズは心から安堵していた――のだが。
(お姉ちゃんの服……?)
今しがたサツキが張り上げた声にあった「お姉ちゃんの服」というのが、少しだけ疑問だった。もしかして姉のお下がりか、それとも姉からもらった服なのか。シズには今ひとつ判断が付かなかった。
「まあまあどうしたのサツキ。そんなに大きな声出して……あら? その服は……!」
「あのねっ、お姉ちゃんが、お姉ちゃんの服、きれいにしてくれたの! ぴかぴかの、ぴっかぴかだよ!」
「本当だわ……まるで新品みたい。こんなに丁寧に洗ってくれたのね。シズちゃん、ありがとう」
「ご迷惑をお掛けして、すみませんでした。サツキちゃんに喜んでもらえて、わたし、すごく嬉しいです」
「お世辞じゃなくて、着て行った時より綺麗になってるわ。なんだか申し訳なくなっちゃう」
困ったように、しかしどことなく嬉しそうに、サツキの母親が頬に手を当てる。シズが約定通り服をきちんと洗い、しかもそれに一切の手抜かりがなかったことに、心から感心しているようだった。
「あの、少し気になったんですが……この服、サツキちゃんのお姉さんが、サツキちゃんにプレゼントしてあげたものとかなんですか?」
「そうなのよ。今年の三月にヒワダへ帰ってきて、サツキに買ってあげたものなの」
サツキの母親が、サツキお気に入りの服とサツキの姉について、シズに話をし始めた。
「今もトレーナーをしていて、普段はカントーのハナダシティの辺りにいるの」
「小さい頃から、ほら、あのキノコを背負った……そうそう、思い出したわ。パラスと、あとパラセクトが大好きで、連れてるポケモンもその二種類ばかりなのよ」
「サツキのこともよく可愛がってくれるんだけど、年に何回かしか家に帰ってこないから、サツキが寂しがっちゃって。たまに帰ってくるたびに、お姉ちゃんお姉ちゃんってくっついて離れなくなっちゃうの。それが嬉しいみたいで、帰ってくるとつきっきりで相手をしてくれるわ」
「今年はお金が少し貯まったから、サツキにプレゼントをあげるって言って渡してくれたのが、あの服なの」
だから「お姉ちゃんの服」って、サツキは呼んでるのよ。母親はそこまで言うと、一旦話を止めた。
シズは得心した。なるほど、だから「お姉ちゃんの服」だったのか。ただお気に入りの服というだけではなくて、慕っているお姉ちゃんからもらった大切な服だから、汚れてしまった時にあんなに泣いたのか。
「そうだったんですね。服を綺麗にできて、本当によかったです。サツキちゃんの、特別に大事な服ですから」
喜びに沸くサツキを見つめながら、シズがサツキの母親に向けて言った。
シズは完全に元気を取り戻したサツキとしばらく遊んでやった後、ごく穏やかな調子でサツキに声を掛けた。
「ねえ、サツキちゃん」
「なに?」
「今日や明日じゃなくてもいい、もう少し休んでからでもいいよ。だから――また、ジムに来てくれないかな?」
あれから休んでしまっていた、ヒワダジムのレクリエーションとトレーニング。できることなら、サツキには戻ってきてもらいたい。シズはそう願っていた。
しかし、サツキの反応は芳しくない。
「いきたい、けど……でも……」
「ケンジ君のこと、だよね?」
「……ケンカしちゃったから、もうあそべない。サツキのこと、キライになったとおもう」
あの日大喧嘩をしてしまった少年・ケンジ。彼のことを考えると、気まずくてジムに顔を出すことができない。サツキはシズにそう漏らした。サツキの心情を慮れば、その言い分は尤もと言えた。
二人はそれまでいつも一緒に遊ぶほど仲良しで、ジムにも待ち合わせて二人で通っていた。ケンカが起きた根本原因も、そもそもサツキがケンジと組んでトレーニングをしていたからに他ならない。以前までとても仲睦まじかっただけに、一度関係が壊れてしまうと修復するのは容易ではない。サツキはそう考えているようだった。
シズはサツキの言葉を受け入れて、口を挟まずにすべて聞き終えてから、改めてサツキに問い掛けた。
「サツキちゃんは、今でもケンジ君のこと、嫌い?」
「……ううん。ケンジくん、わざとじゃないって、わかったから……」
「うん、うん。お気に入りの服が汚されちゃって、それで、気持ちがわーってなっちゃったんだよね。サツキちゃんは悪くないよ、大切な服を汚されたら、悲しくなったり怒ったりしても、仕方ないよ」
どちらが悪いわけでもない。不幸な事故から、二人はケンカをしてしまったのだ。
「サツキちゃん。ケンジ君と、仲直りしたい?」
「なかなおり、したいけど……でも、ケンジくん、おこってるから……」
「わたし、ケンジ君にも話をしてみるよ。もしかしたら、ケンジ君も仲直りしたいって思ってるかもしれないからね」
シズはそれだけ言うと、サツキに無理にジムへ来るようには決して言わなかった。自分の意志で来たいと思わなければ、他人に言われて嫌々来ているのでは、意味がない――シズは、そのように考えていた。物事を成すのは、本人が意志を持つのが大前提だからだ。
サツキと十分話ができたシズは、サツキと母親に丁重に挨拶して、サツキの家を後にした。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。