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#37 シズちゃんの励まし

それから一週間程経った後。夕方になって食パンを切らしていたことを思い出したシズが、歩いて十分ほどのところにある雑貨屋まで食パンを買い求めに行った。顔馴染みの店主に小銭を渡して商品を受け取ると、使い古したエコバッグにそれを入れる。食パンがただ一斤だけ入った大きなエコバッグを提げるという、少々不格好な状態で道を歩いていた折のことだった。

「あれ……? 向こうにいるのは……」

帰り道の途中にある児童公園が目に留まる。より正確さを期すならば、児童公園にいた人影に目を留めたと言うべきだった。ベンチに腰掛けた二つの人影は、シズにとってどちらも顔見知りと言える存在だったのだ。シズが不思議に感じたのは、その二人が互いに顔を突き合わせて話をしているという今の状態にあった。シズの中では、二人の接点を上手く見出せなかったのである。

ともあれ、どちらも顔見知りであることに変わりはない。一言挨拶くらいはして行こう。そう考えたシズが、エコバッグを揺らしながら静かに二人の元へ歩み寄る。

「トモミチ君、それにユイちゃん」

「ん……? シズか?」

「あっ、シズ先輩っ」

シズに呼び掛けられて振り向いたのは、いずれもヒワダジムに所属しているトレーナーである、同級生のトモミチと下級生のユイの二人だった。ベンチのスペースに余裕があることをしっかり確かめて、シズがユイの隣へ腰を落ち着ける。トモミチとシズがユイを挟む形になった。

「お久しぶりです、シズ先輩。最近あまりジムに顔を出せなくて、申し訳ありません」

「そんな、気にしないでいいよ。来られるときに来てくれれば、それで十分だからね――あっ、思い出した」

「何をですか?」

「ユイちゃんは今年から、剣道を始めたんだっけ。もしかして、忙しいのはそれが理由かな?」

「あっ、はい。そうです、そうなんです」

「シズも知っていたのか。ユイが剣道部に入ったということを」

「うん。マイちゃんから教えてもらったんだ。いつも遅くまで練習してるって聞いたよ」

「ああ、その通りだ。熱心に練習に取り組んでくれている。ジムで顔を合わせていた頃から、真面目な性格にぶれは無いな」

「そうなんだね、ユイちゃん。頑張ってるみたいだね。わたしも見習わなきゃ」

屈託の無い笑顔で声を掛けるシズだったが、当のユイはというと、なんとも浮かない顔をして俯くばかりだった。

「私なんて……部長や先輩に比べれば、頑張ってるとか熱心だとかなんて、とても……言えないです」

「ユイ、そんなに自分を卑下するのはよくない。もう少し、自分を認めてやってもいいじゃないか」

「本当に、申し訳ないです。先輩方にご迷惑ばかりお掛けして……」

ユイとトモミチのやり取りを目にしたシズは、ユイは何か心に引っ掛かるものを抱えているのだと即座に見抜いた。

「ユイちゃん、どうしたの? 部活で、何か悩み事でもあるのかな? よかったら話してほしいな」

「そんな……シズ先輩にまでご迷惑をお掛けする訳には……」

「迷惑なんかじゃないよ。ジムに所属するトレーナーの相談に乗るのも、ジムリーダーの大事なお仕事だからね」

相談されることは迷惑じゃない、ジムリーダーとして欠かすことのできない重要な仕事だ。ヒワダジムで妹のマイ共々優しくしてもらっているシズの言葉に気持ちを絆され、ユイが恐る恐る顔を上げる。目が合ったシズは軽く頷き、ユイに事情を話すよう促す。ユイはなお話し辛そうな仕草を見せつつも、ある程度踏ん切りがついたようだった。口をごく小さく開いて、言葉を紡ぎ始める。

「私は今年中学に上がって、それから剣道部に入部しました。今までまったく経験がなくて、本当に初めてだったんです」

「右も左も分からない中で、私の指導をしてくださることになったのが……スズ先輩だったんです」

「シズ先輩なら、スズ先輩の腕がどれくらいのものか、よく知っていると思います」

「ジムでも何回か話をしたことがありましたから、スズ先輩がどんな人かは、私も知ってるつもりでした」

「だから――どんな時でも気を緩ませずに、自分を厳しく律していかなきゃ、そう思ったんです」

シズはここまで聞いた時点で、ユイが深刻な様子を見せている理由に大筋で想像がついた。あくまで想像に過ぎなかったが、しかし外しているとも思いがたい、つまり的中している可能性が高いと見ていた。

原因は、恐らく――。

「基礎の基礎……それこそルールから入って、足の使い方や構え方まで、一つ一つ教えていただきました」

「それには本当に感謝してます。私なんかのために時間を使ってもらって、本当に感謝してます」

「先輩のお気持ちに少しでも応えられるように、私としてできる限りの練習もしています。部活の時だけじゃなくて、家でも同じです」

「でも、なかなか身体が付いていかなくて、上手く覚えられなくて……私が鈍臭くて、飲み込みが遅いせいなんです」

「それで、先輩から、よく言われるんです」

「『いくら練習したって、身についてなきゃ何の意味もない。ちゃんとやりなさい』――本当に、その通りだと思います」

沈んだ表情を見せるユイを見かねたトモミチが、横から話に割り込んだ。

「シズ、こういうことなんだ。スズにユイの指導を手伝ってもらっているんだが、しょっちゅう厳しい調子で詰問してしまってな……ユイが自信を無くしているんだ。それで、少し時間を取って話をしていたところだ」

「うん……わたしね、なんとなくそうじゃないかって思ってたんだ。スズとユイちゃんはジムで顔見知りだったし、その縁で剣道も教えてる、って感じでね」

さして驚くこともなく、シズは今の状況を冷静に受け止めていた。

「ユイは、確かにまだ初心者だ。直すべきところはたくさんあるし、そこは指摘していい。だが、決して手を抜いて練習しているわけではないし、一度理解したことはきちんと実践できることは俺がよく知っている。ユイは熱意を持って、真面目に剣道に向き合っている。そこは絶対に間違いない」

「それに……だ。ユイがスズから指摘されているのは、『振りかぶった竹刀が真っ直ぐ振り下ろせていない』というところなんだが、これは簡単に見えてとても難しいことなんだ。俺自身、正しい型を身に付けるのに、かなりの時間と練習が必要だった。今のユイが完璧で無いのは当然のことだし、今年から始めたということを鑑みれば、むしろ上達は早い方だと言っていいくらいだ。自信を失くす必要なんて無い」

「こう言うと、スズのことを悪し様に言っているようで気が引けるが……だが、ユイの熱意は本物なんだ。どうか、それを分かってやって欲しい」

トモミチが口にする言葉一つ一つにシズは納得し、深く頷く。シズがトモミチの意見に同意していることは明らかだった。

「トモミチ君だから言うけど……スズも、ユイちゃんのことをいじめようとか、そういうつもりは全然無いと思う。あくまで真面目に、熱心にやろうとしてると思うんだ」

「ああ。俺も、まったく同じ意見だ」

「だけどね、スズはちょっとせっかちなところがあって、誰かに何か教える時に、相手に自分と同じレベルを要求しちゃう。ジムでも同じで、教えられたことを自分なりに噛み砕いてゆっくり理解しようとしてる子に、早くしなさいってカミナリを落としちゃったりしてるからね」

「そうだな……シズの言うことには、説得力がある。同じことを俺も感じていたんだ」

「うん。それに、なんとなくなんだけど……ごめんねユイちゃん。すごく勝手なこと言うけど、ユイちゃんとわたしって、雰囲気とか似てなくないかな?」

「私と……シズ先輩が、ですか?」

「うん。わたしとスズと同じように、ユイちゃんにもマイちゃんっていう双子の妹がいる。それでお姉ちゃんのユイちゃんが剣道部に入部した。思い切って言っちゃうと、スズにはわたしとユイちゃんが重なってるんじゃないかな、スズの目には。そのせいで、余計に態度がきつくなっちゃってるのかも知れないね」

「なるほど、そういう見方もあるのか」

「わたしの想像だよ、あくまで想像。だけど、ユイちゃんに掛けてる言葉とか、ユイちゃんへの接し方とかを聞いてると、そんなに外れてもないと思う。わたしも、今スズとちょっと上手くいってないからね」

苦笑いを浮かべるシズを、トモミチとユイは各々の思いを込めて見つめていた。そしてそのどちらも、シズの示した見解に対して、少なからず同意するところがあったようだ。

「すみません。こんなこと、シズ先輩に言っちゃって……私、まるで陰口言っているみたいで……」

「ううん。それは違うよユイちゃん。ユイちゃんが思ってることを、わたしに直接伝えてくれた。全然、陰口なんかじゃないよ。わたしだって、面と向かって言いにくいことはあるしね。だから、気にしないで」

「シズ先輩……」

「多分、この事は、スズには直接言わない方がいいよね。今から余計に拗れちゃったら、もっと大変だし」

「はい……できれば、そうしてくださると嬉しいです」

「大丈夫だよ、約束する。勝手に言ったりしないから、安心して。それと、わたしで良かったらいつでも相談に乗るよ。電話してくれてもいいし、メールを送ってくれてもいい。もちろん、ジムに来てくれてもいいよ。ユイちゃんの気持ちが少しでも軽くなるように、できることは何でもするよ」

「先輩、そこまで……!」

「事情が事情だから、すぐには解決できないと思う。スズも悪いことをしてる訳じゃないから、わたしやトモミチ君が話しても上手く行かないだろうしね。だけど、辛いことや苦しいこと、何か言いたいことがあったら、遠慮せずにわたしにぶつけてくれていいからね。少しでもユイちゃんの力になってあげられればいいな、わたしはそう思ってるよ」

あとわたし、顔だけはスズにそっくりだから、どうしても我慢できなかったら、わたしをスズだと思って怒ったりしてくれてもいいよ――冗談交じりに語りかけるシズの様子を見て、ユイの顔つきはすっかり穏やかなものになっていた。シズがユイの肩へそっと手を置くと、ユイの体を縛っていた緊張が少しずつ解れていった。

「ユイちゃんはジムにいるときも、年少組の子たちのことをよく見てくれてるし、練習もすっごく真面目にしてて、しっかりしてるなぁって思ってたよ。この間もマイちゃんと一緒に、シオリちゃんとカオリちゃんのダブルバトルの相手になってくれてたしね。そうだ、マイちゃんとはうまく行ってる? たぶん、心配しなくていいと思うけど……」

「あっ、はい。そっちは全然大丈夫です。マイにはまだスズ先輩のことは話してませんけど、シズ先輩の話を聞いてると、もうほとんど察してるみたいですね」

「そうだね。この際だから言っちゃうと……ユイちゃんのこと、心配してたよ。お姉ちゃんが酷い目に遭ってたり、辛い思いをしてたりしないかって。だから、マイちゃんにはありのまま話してあげた方が、却って安心するんじゃないかな。一人で抱え込むより、話せる人には話した方がいいって、わたしは思うよ」

「やっぱり、そうですよね。マイはいつも私のことを気に掛けてくれてて、それは、すごく嬉しいです。本当にそう思います。マイに話したら不安になっちゃうんじゃないかって思ってましたけど……考えてみたら、何も言われない方が心配になっちゃう、それもそうかも知れません。私、帰ったらマイにちゃんと話してみます」

「うん! それがいいね。マイちゃんなら、きっと頼れる相談相手になってくれるよ。小さい頃みたいにマイちゃんが前に立って、腕をこう……ばっ、って広げて『お姉ちゃんはわたしが守る!』って言ってくれたりするかもね」

「もう、先輩っ。そんな昔の話しないでください。私だって、一人で頑張れるようになってみせます!」

「そうそう、その意気その意気! 剣道を始めたのだって、それが切っ掛けだったって言ってたしね。剣道そのものはどうかな、熱中できてる?」

「はい。少しずつですけど感覚が掴めてきて、練習してると時間を忘れちゃいます」

「いいね、それはいいよ。自分が『やりたい』って強く思えることは、一番素敵なことだからね。その気持ち、大事にしてほしいな」

「はいっ! ありがとうございます!」

穏やかな口調で語りかけて、ユイの心の鬱屈を晴らして見せたシズの様子を、トモミチは感嘆と驚嘆をもって見つめていた。自分ではうまく解きほぐすことのできなかったユイのわだかまりが、シズの手に掛かればするりするりと解けていく。

「部長、シズ先輩。今日は、本当にありがとうございました!」

「どういたしまして。何かあったら、いつでもわたしに相談してね。ユイちゃんのこと、応援してるよ!」

「はいっ! ありがとうございます!」

シズに話を聞いてもらい、マイにも相談してみると決めたユイは二人に一礼し、晴れ晴れとした表情でその場を後にした。背筋を伸ばして歩いていくユイの背中を、シズは穏やかな表情で見つめていた。隣のトモミチは、ユイを見送りながらも、隣に座るシズのことが気に掛かって仕方なかった。

ユイの背中が完全に見えなくなってから、隣に座るトモミチが口を開いた。

「シズ、ユイを励ましてくれて助かった。恩に着る」

「ううん、そんな、大したことはしてないよ。わたしはただ、ユイちゃんに元気になってほしかっただけだから」

口元に優しい笑みを零しながら言うシズの面持ちに、トモミチはよりいっそう大きく己れの目を見開く。自分が知っていたシズは、果たしてこのような目をしていただろうか? もっと弱々しく、自信の感じられない目をしていたと思っていたのに――トモミチの中に、驚きの感情が満たされていく。

シズの変貌、その理由を知りたくて、トモミチは再びシズに話し掛けた。

「しかし……シズ。こう言っては失礼かも知れないが、いつの間にこれほどの風格を身に付けたんだ……?」

「えっ? 風格って?」

「いや、ユイに対する態度のことだ。ユイの気持ちや言葉を真正面から受け止めて、的確なアドバイスをして見せた。それだけじゃない、冗談を言って場を和ませたり、ユイの妹……マイか。マイの事まで話して見せたり……ずいぶん器用になったもだな、と思ったんだ」

「トモミチ君に褒められると、ちょっとくすぐったいよ。トモミチ君は剣道部の部長さんだから、きっとわたしよりもみんなを上手くまとめられてるはずだよ。わたしなんて、まだまだリーダーとして駆け出しのひよっこだからね」

「ああ、そうだ。さっきも言っていたが、シズ。来年からお前がジムリーダーになるんだったな」

「そうだよ。今はお兄ちゃんのお手伝いをして、お仕事のやり方を引き継いでるところなんだ」

シズは来年からジムリーダーに就任する。それ自体は、トモミチも学校で噂を耳にしていて、既に知るところであった。

「ユイちゃんはジムに来てくれてるトレーナーだから、リーダーとしてサポートしてあげなきゃ」

「それに――トモミチ君も、まだ籍は置いててくれてるよね」

「もし何かあったら、わたしに相談してみてほしいんだ。わたしにできることだったら、何でもしてあげたいから」

「今は忙しくて来られないみたいだけど、またジムに来てくれるの、楽しみにしてるからね」

朗らかな笑み。はきはきとした声。しっかり伸びた背筋。堂々たる態度。眼前のシズから受ける印象は、従前の気弱さを微塵も感じさせない、自律的で確固たる軸を備えたものに見えてならなかった。それでいて、気負っているというところを感じない。何かを無理に背負い込むということでなく、ありのままの自分を保っている。シズの美点である気立ての優しさはそのままに、自分のよく知るあの妹とはまったく違う形で、強さを感じさせる風貌をしていた。

呉下の阿蒙に非ず――トモミチの脳裏に、この言葉が浮かぶ。士たるもの、三日会わざれば刮目して見るべしとは、よく言ったものだ。もっとも、シズは誰が見たところで男子ではなく女子ではあったが。

「シズ、すまない」

「どうしたの? トモミチ君、急に……」

知らず知らずのうちに、トモミチは詫びの言葉を発していた。

「俺は今までお前の事を、気弱で押しが弱いとばかり思い込んでいた。優しいのはいいが、前に出られない部分は改めるべきだと、ずっと考えていた」

「だが……今のお前の様子を見ていると、考えが変わってきた」

「悩める相手の側に寄り添い、力になる。闇雲に自分の意見を押し出し被せていくのではなく、相手の言葉を受け止めて、相手の気持ちを理解して、そして相手に共感する。そんな『リーダー』の形もあるんだな」

「改めるべきは、俺の考え方だったようだ」

素直に反省の言葉を述べるトモミチを見ながら、シズは気負いの無い、リラックスした表情を浮かべる。トモミチが語り終えると、シズは深く頷いて、こう返事をした。

「トモミチ君の気持ち、わたしも分かるよ。だってわたしも、リーダーはそういうものだ、って思い込んでたから」

「シズもそうだったのか?」

「うん。だから、わたしがジムリーダーになって、みんなをまとめて行かなきゃいけないってなった時は、すごく悩んだよ。自分にはできっこない、先頭に立ってみんなをぐいぐい引っ張ってくなんて、絶対無理だよ、って。考え込んで気持ちがいっぱいいっぱいになっちゃって、一人で泣いたりもしたっけ」

「そんなに悩んで、それからさっきの答えに……」

「あっ、ううん。あれはね、わたしが自分一人で考えたんじゃないの。お母さんと話をして、それで教えてもらったことなんだ」

「何か、母親から教えてもらったことがあるのか?」

「そう。強くて、折れなくて、リーダーシップがあって、一人で全部決められる。もちろんそんなリーダーもいるけど、誰でもなれるわけじゃない。でも、リーダーの形はそれだけじゃない。みんなの意見を聞いて、みんなの気持ちを汲んで、みんなが力を発揮しやすい環境を作る、縁の下の力持ちのような形だってある。そう言ってくれたんだ」

「なるほど、そういうことだったのか。それは、確かにその通りだ」

トモミチは、シズの言葉に違和感というものをまるで感じなかった。その通りだとしか思えなかった。頭ごなしに正論を押し付けられているのとは違う、十分に納得できる根拠を持った論を展開されている、そのように感じた。シズに対して持っていたイメージがすっかり塗り替えられ、芯の強い少女としての像が出来上がっていく。

そうして、まっすぐで凛とした姿に生まれ変わったシズを見ていると――今度は翻って自分の方が、気弱で押しの弱い、従前シズに対して抱いていた姿に近いのではないか、そのように思えてならなかった。

「わたし、たくさん失敗すると思う。何度も挫折しそうになると思う。嫌になることだって、絶対あると思う」

「それでも……わたしはわたしなりに全力を尽くして、ジムリーダーとして頑張りたいんだ」

「転んでも、倒れても、立ち上がれば、もう一度前へ進める。<リスタート>ができる」

「みんなを支えて、みんなに支えてもらって、わたしは前へ進んで行きたい。まだまだいろいろ甘いけど……でも、これは、わたしの本気の気持ちだよ」

リスタート。シズの口にした言葉。「再始動」「再び始める」という意味の英単語。この言葉を耳にしたトモミチの胸に、一つの思いが去来した。

ずっと押し隠して、無いものだと思い込んでいた感情。あえて気に掛けずに、埃を被るに任せていた想い。時が無に帰してくれるのをただ待っている、そのつもりだった。

けれど――本音がそうではないことくらい、己れ自身が一番よく理解っていた。

「なるほど、リスタート、か」

瞼を閉じると、あの、気の強い少女の姿が浮かんでくるようだった。

かつて喉の奥へ押し止めた言葉を、胸の奥に仕舞い込んだ感情を、もう一度取り出そう。そして今こそ、きちんと対峙してみよう。それで駄目なら、一つの結果として受け入れて、また新しいスタートを切れるはずだ。

「シズ、ありがとう。俺は、いい言葉をもらったよ」

「どういたしまして。トモミチ君にとって何かの役に立てたなら、わたしはうれしいよ」

屈託無く笑うシズの姿を、トモミチは、爽快な表情で見つめていた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。