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#38 シズちゃんの夕餉

また幾日かが経過した、土曜日の夜のことだった。

「みんなで揃ってご飯が食べられるのは、久しぶりだね」

「いつも仕事があったり出掛けてたりして、バラバラに食べることが多いからね」

「そうね。本当はいつもこうして、四人一緒に顔を合わせられるのが、一番いいのだけれど」

この日はおよそ三週間ぶりに、夕餉の席に家族一同が勢揃いした。スギナはここ最近平日休みの休日出勤が続いており、平日は平日でシズ以外のどちらかが欠けていることがほとんどという状態だった。シズの口にした通り、全員が食卓を囲むのは久しぶりのことだったのである。

家族全員が一つの空間にいる、それは即ち――。

「今日はね、スズの好きなスパニッシュオムレツを作ってみたの。どう? 美味しい?」

「……うん」

スズもまた、この場に居合わせているということに外ならない。

母のスギナと兄のツクシは至って平静で、スズがいたところでさして気に掛けている節は無い。一方、シズはどことなくそわそわした気持ちを抑えられなかった。

スズがシズを殴った一件以来、未だにスズはシズとまともに話ができていなかったのである。

さすがのスズも、あれは「してはいけないこと」だったと痛感しているようだった。シズは、スズに殴られたこと自体は痛かったし辛い出来事でもあったが、別段気に病んでいることもなく、ましてや必要以上にスズを咎め立てるつもりなど更々無かった。妹が肩身の狭い思いをしている様子を目の当たりにして却って胸が痛み、「もう気にしていない」と水に流そうかとも思ったが、さりとてツクシからは「あの件のことは、スズが自分から話すまでそっとしておいてほしい」と言われていたために、声を掛けるのはどうにも憚られた。

スズはシズの隣に座っていて、時折姉の様子を伺いながら、主にサラダをちょくちょく取り分けて食べている。かつて見られた刺々しさは見る影もなく、誰が見ても居辛そうにしているのは明らかだった。スギナは折を見てスズに話し掛け、スズはそれに上の空で応える。そのようなやり取りが幾度か繰り返されていた。

「今日も買い物に行ってくれて助かったわ、シズ。いつも本当にありがとう」

「ううん、大したことじゃないよ。今日はせっかくのお休みだから、お母さんにはゆっくりしてもらわなきゃ」

「僕もシズにお礼を言わなきゃいけないね。みんなの月謝の計算してくれたよね、どうもありがとう」

「もう少ししたらわたしがすることになるから、今日はいい練習になったよ」

シズが穏やかな表情を浮かべて応える。母や兄を積極的にサポートし、忙しくなりがちな二人の負担を少しでも減らしたいという思いからの行動だった。家事でも事務でも、シズはてきぱきと働いて確かな存在感を発揮していた。スギナやツクシから褒められたシズが、満更でもないといった面持ちを見せる。

しかしながら、シズたちの様子を複雑な表情で見ている視線があった。

「今日は練習お休みだったみたいね。ゆっくり羽は伸ばせたかしら?」

「……まあ、ね。何もすること無かったし」

スギナから声を掛けられたスズが、絞り気味の声量で答えた。明らかに言い辛そうにしている。

「そうそう。スズは、夏休みが終わったら塾に通うって言ってたけど、どこにするかは、もう決めたかしら?」

いつもの穏やかで丸みのある声色と口調を伴って、スギナがスズに訊ねる。何ら他意は無く、単純にスズの心境を伺っているだけの言葉だったが、今のスズにはそれすらも心苦しさを感じさせるものだったようだ。表情を曇らせつつ、ゆっくりと首を左右に振る。まだどの塾に通うか決めかねているというのが、スズの回答だった。

「分かったわ。まだ期間はあるから、その間に考えておいてね。スズの通いたい塾を選べばいいわ。高校も同じ。スズが行きたいと思えるところを、志望校にすればいいのよ。お母さんはいつでもスズの味方だから、安心して」

別段咎め立てたり急かしたりすることもなく、スギナはスズの意志に任せた。通う塾も選んでいい、志望校も選んでいい。邪魔立てはしない、どんな選択をしても応援する。子供を一人前の人間として扱い、アドバイスこそすれ決して自分の意見を押し付けることはしない。子供の自主性を尊重するスギナにとっては、ごく当たり前の態度だった。

にも関わらず、スズの表情は晴れない。不満と不安が入り混じった顔つきをして、母の表情をじっと伺っている。何か言いたげな、あるいは言って欲しげな素振りと言ってよい動きだった。

何も言わずにただ顔ばかり動かしていたスズだったが、それでは自分の気持ちは正しく伝わらないと思ったのだろうか。箸をカチャンと皿の上に置くと、スギナの目を見ながら、このような問い掛けの言葉を発した。

「ねえ、お母さん。あたし何かすることないの?」

「すること? 例えば?」

「掃除とか、洗濯とか、買い物とか……そういう、家の手伝いみたいなこと」

スズはスギナに「何か手伝うことはないか」と訊ねた。話の流れからするとやや突飛な質問にも思えたが、スギナはまるで動じることなく、スズに倣うように皿に箸を置いて考え始めた。

「お手伝いをしてくれるのね。じゃあ――せっかくだから、スズは自分の部屋のお片付けをしてくれると助かるわ」

「いや、そういうのじゃないの。もっとこう、なんて言えばいいのか分かんないけど、それとは違うの」

茶目っ気を込めたスギナの「自分の部屋を片付けてほしい」という発言に、些か不満げに首を振って応じる。スズの意図したところは、そういった意味合いでは無かったようだった。シズとツクシは、目の前で展開される母と妹のやりとりを、何も言葉を挟まずにただ見守っていた。

「あたし、いっつもこんな風だし。大体こんな感じだし」

自分の言いたいことが伝わらなかったと感じたスズは、ますます曇りの度合いを増した顔で、テーブルの下に向けてぼそぼそと呟いた。呟いた内容からは、スズの考えていることをつぶさに読み取ることまでは難しい。ただ――家庭内での自分のポジション、或いは扱いについて、何某か思うところがあるのは確かなようだ。

「あたしだって、やろうと思えばできるんだから」

加えて、恐らくその思いは、隣に座る姉に対して特に強く向けられていると考えるべきだった。

そうしたスズの感情や思いを知ってか知らずか、スギナの作ったスパニッシュオムレツと、シズの作った鶏レバーの煮込みを行儀よく食べていたツクシが、不意に食事をする手を止めた。

「この間も言ったけど、明日は僕とシズで、キキョウジムのハヤトさんのところに挨拶に行ってくるよ」

口にしたのは、以前シズとも話していたキキョウ旅行の件だった。このことは折を見てスギナにも告げており、そこを経由してスズにも既に情報は伝わっていたようだ。家族の誰も、特段驚いた表情はしていなかった。

「そうそう、キキョウヘ行くのは明日だったわね。何時頃に出発するつもり?」

「朝の九時前には出ようと思ってるよ。そのくらいに家を出て駅に行けば、ちょうどキキョウ方面行きの電車が滑り込んでくるところだからね。シズもそれでいいかな?」

「うん、大丈夫だよ。今日中に準備はしておくからね」

「よし、それなら安心かな。あと……母さんは、明日研修だったっけ?」

「そうなのよ。会社の研修で、ちょっとコガネの方まで行くことになったの。朝から晩まで、みっちり勉強よ。張り切って行ってくるわ」

「なるほど、分かったよ。そうなると――」

ツクシがふっと顔をあげると、その先には。

「家にいるのは、スズだけってことになるね」

いささか表情を強張らせたスズが、ツクシの目をじっと見つめていた。

実のところ、ジムでの暴行沙汰の一件以来話ができていないのは、シズだけに留まらなかった。アドバイザーから日報メールで報告を受けたツクシとも、まともに会話が成立していなかった。ツクシはいつも通りの態度を見せているのだが、実に巧みにスズをかわして、自分からは敢えて話し掛けないようにしていた。シズと交わした言葉通り、ツクシはスズに「自分で考えさせて」いた。

そうして暫し自分との会話を絶っていた兄が、久方ぶりに自分に水を向けてきた。スズは遠巻きに見ても分かるほどに緊張して、身を固くしていた。妹の心情を知ってか知らずか、ツクシはあくまでいつも通りの余裕を感じさせる面持ちを見せて、ゆっくり言葉を紡いだ。

「明日は、僕もシズも、母さんも出掛けちゃうんだ。それで、スズにお願いしたいことが一つある」

「掃除とか、洗濯とか、炊事とか……そういう、普段シズや母さんがやってる家のことを、スズにしてもらいたいんだ」

「ちょうど、タイミングもよかったみたいだしね」

ツクシが依頼したのは、シズとスギナがそれぞれ出掛けてしまうために、スズに家事の担い手になってほしい、というものだった。先ほどのスズのぼやきをしっかり拾っていたようで、「タイミングもよかったみたいだ」と付け加えることも忘れなかった。

兄から家事を任せれたスズはというと、まだ緊張が解けない様子を見せつつも、敢えて胸を張ってこう応じて見せた。

「つまり、あたしが家のことをすればいいんでしょ? そんなの簡単よ、あたしが全部やったげるわ」

「これは頼りになるね。それじゃあスズ、全部任せちゃうよ。よろしく頼むね」

「いいわ。お兄ちゃんとお姉ちゃんが帰ってきたら、きっとビックリするんだから。あたしだって、やればできるのよ」

一見すると、平時通りの自信に満ちた発言をしているように見える。胸を張って、声の調子を上げて、恐れるものなど名にもないと言わんばかりの様子を見せているようにさえ映る。

しかし――それは所詮張りぼてに過ぎないことを、母はしっかり見抜いていた。

「スズ、あなた一人で大丈夫? もし不安だったら、おばあちゃんに来てもらってもいいのよ」

「大丈夫よ、心配しないで。お姉ちゃんみたいにやればいいだけなんだから、どうにでもなるわ」

「そう……研修中は携帯電話の電源を切るから、何かあってもお母さんは出られないけど、本当に大丈夫?」

「大丈夫だって! もう、そんなに言わなくてもいいじゃない!」

スズが内心不安を抱えているのは、スギナから見れば明らかだった。祖母に来てもらおうかと助け船を出すが、「その必要はない」と突っぱねられる。なおも懸念を隠せず念押しすると、「そんなに言わなくてもいいじゃないか」と反発される。スギナとしては打てる手は打ちそのすべてを拒絶されたわけで、もうこれ以上はスズに任せる外なかった。

虚勢を張る妹の隣で、母に輪をかけて不安気な表情を見せていたシズが、妹に何か言おうと手を伸ばす――が。

「シズ」

「……あっ」

ツクシに優しく呼び掛けられ、言外に「スズに任せよう」という意志を感じさせる瞳でもって見つめられた。

「シズは明日ハヤトさんに挨拶をするから、その準備をしておいてね。何度か会ってるから、そんなに堅苦しくならなくていいよ」

「……うん。分かったよ、お兄ちゃん」

兄に静かに制されたシズは心配する気持ちを隠し切れないながらも、兄と同じく、ここはスズにすべてを委ねる決心をした。

こうして、少なからぬ波乱を抱えたまま――夕餉の席は、そのまま終わりを迎えるのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。